銃撃――補記


暴力団の跳梁を許すな: 大石英司の代替空港


テロと呼ぶべき代物か?: 大石英司の代替空港


――大石先生、格好いいです。貴方は言論人だ。


銃撃 - 地を這う難破船


↑においてヘタレの私が原則論/一般論としてしか記し得なかった事項を具体的かつ詳細に展開している。圧倒的なアクセスを誇るブログにおいて。実際、まじでこ・わ・い方面なので。


http://www.asahi.com/paper/editorial20070420.html#syasetu1


掲示の遅れと遅れた経緯と事情については措いて、一読、朝日もこうした件についてまともなことを言うようになったな、とは思った。紋切型の原則論であれ。朝日的なるものも移り変わっているのであろう。


議論の余地あるテロの定義については、私の認識としては上記の自エントリにおいて記した通り。

社会システムの運用に対する暴力による横紙破り


をテロと名指しているし、それは「認めるべきでない。」とする立場。有無なく。


尊敬する養老孟司が9.11の直後に「ヒトラー暗殺計画は悪いテロか」と挑発的に記していたけれども、その問いに答えるなら、暗殺によってしか変革しようのない政治体制を創らないためにも、ナチスが常套としたような「社会システムの運用に対する暴力による横紙破り」をテロと名指して断固許容するべきでないし、ために社会システムとその運用に対して「市民社会」の個々の構成員が責任を持ちかつ負わなければならない、となる。


ヒトラーを権力の座に据えないためにこそ、社会システムの運用に同意しその適正のためにコミットし、大前提としてかような営為のプラットフォーム自体を保守すること。これは突き詰めると。


http://www.miyadai.com/index.php?itemid=491


において示されているような、近年の宮台真司が頻繁に言及する公安思想をめぐる議論へと行き着くのだけれども、それは措く。事は行政介入暴力である。


暴力団の跳梁を許すな : 大石英司の代替空港 - 昨日の風はどんなのだっけ?

(前略)思想犯のテロよりも暴力団による事件の方が悪質というぐらいの気持ちで、この事件は捉えるべきだと思います。


同意。全面的に同感です。


2007-04-20

要するに犯人の動機がどうあれ、公職者の暗殺は「テロ」と同じ効果を持ちうる、だからテロに対するのと同様の心構えが必要だ、ということです。

今回の事件の場合、現時点でも行政に関わる(犯人個人と市の間の)トラブルが原因と疑われているので、プレッシャーはより現実味を帯びることでしょう。市の職員が「下手な対応をすれば市長の命に関わるかもしれない」などと思い、理不尽な要求を受けても多少のことは目をつぶってしまう、などということになりかねません。
これって結果的には「テロ」と一緒なのでは? 公職者が暴力を背景とした権力を体験する、そして公共の利害に関わる選択を歪められる、という意味で。


拠って立つ政治的な立場は相違するけれども、この件についてrnaさんの見解と私のそれとはほぼ同じであると思う。そして。


狙われたのは「行政官」としての長崎市長 - 玄倉川の岸辺

なぜマスコミが「暴力団」と「行政介入暴力」の脅威から目をそむけ、「民主主義」「言論の自由」「平和運動」のことばかり書き立てるのか。あてずっぽうに想像してみた。

行政介入暴力を問題視しないのは左翼思想のためだろう。
「権力」を悪としてそれに対抗する「市民」を善とする単純な左翼思想(情緒的アナーキズム)からすれば、横暴な「権力」に対抗するため「市民」が威嚇したり物理的な暴力を行使するのは正義である。「市民運動家」が役所に怒鳴り込んだり行政執行を物理的に妨害する権利を守るため、エセ同和の暴力団員が似たようなことをするのを見逃しているのだ。


「なぜマスコミが「暴力団」と「行政介入暴力」の脅威から目をそむけ、「民主主義」「言論の自由」「平和運動」のことばかり書き立てるのか。」――私の見解から記すなら、事が行政介入暴力である以上、要請さるべき対応というのは、粛々と法治の執行を適正化、すなわち厳格化するよりほかにない。


言うまでもなくそれは、警察機構とそれと連携する司法の活動と権限の結果的な拡大を意味する。それはちと、として言及が抑制されてしまうということです。むろん、それはそれでひとつの見解であり態度であり見識であるとは思いますが、そうした見解と態度と見識については明示するべきとも思う。不作為の結果としての的外れな言論に拠って示すのではなくて。


つまり――言挙げるにも精神論でなく制度論にならざるを得ないということです。事が行政介入暴力である以上は。意識の啓蒙と涵養では済まない。 警察機構に対する原則的な警戒の正当については、現行からも付記しておきますが。


で、その意味で、遅れて示された上記社説を目にして、朝日も変わったな、とは思った。

警察は暴力団の取り締まりを根本的に改める必要がある。暴力団に対し、あらゆる法律と罪名を適用し、犯罪行為を一切許さないという決意を示すべきだ。暴力団を追いつめるうえで法律が不十分だというのなら、改正すればいい。

 

 不当な要求をはねつけるため、ほとんどの自治体が条例や要綱をつくり、警察との連携を強めている。暴力団の脅しに対しては、暴力団対策法に基づいて中止命令を出すことができる。警察はもっと積極的に中止命令を活用すべきだ。


 

税務当局の役割も大きい。脱税をしていないか厳しく調べて、税金を取り立てるべきだ。それが資金面で締め上げることにつながる。

 暴力団を追いつめるには、国民一人ひとりの決意が要る。だが、そのためには、警察が脅された人たちを守り抜くことが何よりも欠かせない。


――といった主張を朝日がいささか遅れながらも明確に社説として提示するとは、と。で、finalventさんも指摘していたけれども、こうした内容と主張を朝日の購読層が受け入れるようになったのだな、という変な感慨が。


たとえば。私の示した上記については、かつて前市長の本島等氏が銃撃されたときにもほぼ同様のことを呉智英夫子は挑発的に記している。しかるに、朝日のこうした社説が出る時世においては、呉さんの確信犯的な挑発は空振る、と。世相ですねぇ。


サルの正義 (双葉文庫)

サルの正義 (双葉文庫)


↑所収。


上記記事の結部において宮台氏が言っているのだけれども。

宮台◇ とはいえ、彼らの良心だけを頼るようでは近代社会とは言えません。社会が上手く回ることを制度の中で担保しなければいけません。「制度が出鱈目でも人がちゃんとしていればいい」では、人がちゃんとしていなかった場合、メチャクチャになるからです。


私も同意。個人に負荷の掛かる現行のシステムをこそ動かさなければならない。行政官たる個々の公務員やあるいは個々の政治家の見返りなき気概と気骨を前提する発想自体に弊がある。


精神論より制度論。法治の執行の厳格化について市民社会の構成員たる個々が支持するに越したことはない。組織化された私的暴力とは公的な暴力装置によってしか掣肘することのかなわない。暴力の正統性を審査し把持するのは、公的暴力の運用にコミットする市民社会の権限にして責務である。


良き優秀な個人が関わり指導することを前提して回される社会システム自体に陥穽があり、たとえば小泉純一郎という傑出した個性による無法無天を許しもする――良くも悪くも。選良の選良性やカリスマのカリスマ性を前提して回るシステム自体を拒否し、我が身可愛き弱く狡い凡庸な小人が関わってなお適正に運行する社会システムの設計を志向する。それが法治ということであり、近代社会のポテンシャルとリソースということ。


暴力団員による不当な行為の防止等に関する法律 - Wikipedia


説明にもある通り、事実上、現行には対応し難くなっており、導入の弊なきとは言い難いのだけれども、かつての暴対法の施行と運用自体を批判する立場では、私はない。


――ということで、あくまでリテラルには、上記の朝日社説に、原則同意、と。