銃撃


http://www.asahi.com/national/update/0417/TKY200704170342.html


http://www.asahi.com/national/update/0418/SEB200704180001.html


http://www.asahi.com/national/update/0418/SEB200704170031.html



知ったのは夜更け。また、か。そう思った。背後から撃ったか、とも。なら――助からないな、と。



朝日社説 長崎市長銃撃―このテロを許さない - finalventの日記


finalventさんは、きっちりと抑えるべきことを抑えてくれる。

 例えば、銃撃の背景が、裏金に対する怒りであっても、「この卑劣なテロを断じて許すことはできない」。むしろ、許しうるいかなる理由もないとすべきだろう。
 朝日の心性にはどこかにテロに対する甘さがあるように思える。


現在の段階におかれるまったくの正論。つまり、背景が何であろうと選挙期間中に自治体首長を銃撃したというこれは「卑劣なテロ」である。間違いなく。「許しうるいかなる理由もない」。テロである以上、綺麗なテロなど、ない。私はそう断じる。


以前に書いたことでもあるが。テロとは言論テロに限るものではまったくない。そして、テロとは、何よりも、その機能効果において許すべからざる行為である。


背景についてはわからない。ただ、暴力が発する沈黙のメッセージに対して、そして沈黙のメッセージに耳を傾け暗に意を汲んでしまう、弱い人間存在のために、人は声を上げる。


人は暴力に弱い。自らと自らの愛する存在を脅かす暴力に対して弱い。「暴力のプロ」は、そのことを知り尽くしている。知り尽くしたうえにて任意の目的のために暴力とその匂いをイリーガルにリーガルに行使する。


テロが許すべからざる卑劣なものとされるのは、一義にそのゆえである。自らと自らの愛する存在を陰に陽に脅かす暴力に脆い人間存在のために、法は行使されなければならず、その執行機関は公的な仕事を果たす。掟のもとに無法であることの危険を、法治社会にコミットする構成員は知る。


人が暴力に弱いことを知り尽くしている私的暴力の掌握者は、利害に基づくものであれ理念信念に基づくものであれ、任意の目的達成のためにそのことを最大に利用し暴力の機能効果を駆使する。むろん、実際に暴力を行使する要はない。暴力の影を合法的にちらつかせればよい。沈黙のメッセージは発される。


「べき」論法を用いる。「市民社会」の意思的構成員は、かかる卑劣な行為を許すべきではない。社会システムの運用に対する暴力による横紙破りを、認めるべきでない。『風流夢譚』『政治少年死す』が今なお刊行されないことと、私的暴力の掌握者が展開するビジネスとは、同構造にある。


ビジネスより思想信条の方が崇高であるのかは知らないが、私的暴力の影が機能し効果することによって、その恣意的な行使によって維持運営されるそれは、公的に認めることのできるものではない。


政治とはどこまで近代化されようと政という部分を残す。ゆえに、どこまでいけども人称とその集合によって構成される。原理的にそれは暴力に対してあまりに脆く弱い。人称とはシステムではなく、生身の人は肉体的にも心理的にも、暴力に弱い。


人の生命を奪ってしまえば人称によって構成されるシステムは変容を余儀なくされる。かつ、システムを運営する構成員に暗なる影響を与える。近代的な政治システムは、その蓋然を許容しない。暴力による政治システムに対する横紙破りは、法治的なる市民社会のレゾンデートルを賭けて阻止すべきである。人と人称に拠る政治は容易に暴力によって脅かされる。


以前にも記したこと。私は原則として、私的暴力の蓋然に対する個々人の私的に払うべきコストを能う限り低下させる社会の設計に、同意する。法治なきとき、私的暴力の掌握者がいかに振舞うか。むろん、公的暴力の運用に意思的に与する以上、その運用の如何についてコミットすることもまた責務である。


社会とは「堅気」のために在る。踏み込むなら――「堅気」のために恣意的に在る。戦前を引き合いに出して、政治家は殺されるのが常とするべきではない。政治家が、ひいては野宿者が、殺されることが常である社会をなんとかしなければならない。書生論としても。


ルーサー・キングが殺される世であってはならない。警察の世話に幾度もなったことのある、私的暴力の危険を知る、今なお社会的には「堅気」とは言い難い者として、ひいてはヴォルテール主義者として、明記しておく。