三叉路


アンテナ機能とRSSリーダーを使い始めました、って今頃かい!という話ではありますが、そして個人ブログをメインに100以上の巡回先を登録したところ、「左派」のブログが数多く並ぶことになったので、我ながら少し驚いた。


橋本治いわく。自分が常に長く長く書くのは、そうすると反論され難くなる、否と考える側も面倒に思ってやる気をなくす――実際のところ、端的に見解を述べてよいのなら、「関係ないじゃん」とか「おまえばか?」とか斬って捨てるかのごとく一言にて終了するし、本心なのだけれども、伝わらない人にはてんで伝わらず不親切極まりない、それは本心ではあろうとも本意ではない。


さて説明しよう、とすると延々と長くなる。なぜかというなら、前提事項から問い直して再規定しているからだ。而して自らの評論は徹底して個人的なものとなり、わかり難くなる。――15年以上以前に橋本氏が述べた言の大意。


むろん私は印篭を拝借して言い訳しているのです。ただ、既存の言説のコードに安易に準拠しない――メタコード、言い換えるなら言って甲斐あることを言おう、とは志向して書いている。というか、そうでなければ書かない。ことに地雷な話題については。


言語というのはメタシステムである。いわゆる「批評」の批評性とは言語のメタ性についての意識/認識を前提したうえにて示され得る。言葉は意味し指し示してしまう。使用者の意図にかかわることなく。かかるメタ性に対する意識こそが言葉のみを媒体として他に何かを伝えんとする際の閾値を決定する。


一般論と厳に但し書きしておく。Webという魚拓を取られたなら本人の意思の及ぶところでなくなる公共空間において、差別意識の表出としていわゆる「差別語」を使用する人間は、注意以前に、言葉のメタ性に対する意識と認識が足りない。


差別意識」と「差別語」は相違する。意図と言葉は相違する。内なるものと記されたものは常に相克する。両者を安直に接続するレディメイドのコードとて存在する。むろん。そんなコードはクソだ。そんなもんは知的怠惰の産物としての通念でしかない。


言葉とは言葉に即する限り常にコードを破壊する契機を内包している。コードと観念の抑圧の下に眠る蓋然を言葉に即して「露呈」させること。谷崎潤一郎の文学とは端的にそれである。小林秀雄の批評もまた、内なるものと記されるもののコンフリクトを摘出する作業であり営為であった。それをして批評性という。


言葉とはメタシステムであり、批評とは言葉のメタシステムに対する意識/認識を常に前提して為されるメタ記述である。ゆえに、それは既存のコードの抑圧性に対する転倒と反転を企図して行使されるメタ機能でなければならない。


およそ「批評」なる無力な営為にコミットする者はすべからく(わざと使っている為念)、差別意識の表出として「差別語」を使用する人間に対して、人道性や倫理性を措いて、その知的な怠惰と体制順応的な反動性について突っ込まねばならない。朝鮮人が嫌いだからチョンと言うって、そのまんまではないか。


谷崎や小林秀雄には落ちる(日本語圏においては大半の著述家はそうだ)が、呉智英がかつて企図していたのもまた、その転倒と反転であった。「進歩的」なマスメディアにおいて、コードの専制的な抑圧が機能していた時代である。


時に意識や意図や心理や理念や観念や感情を超越して、一義にロゴスに対して真面目であること、前者と後者の乖離とコンフリクトに常に意識的でありつつ記すこと。言葉を媒体とする「批評家」の職業倫理としての綱領である。むろん、媒体を「言葉」に限ることなき「批評」全体の綱領でもある。


引用を拝見したのだけれども。

人を説得する十二原則 カーネギー

1、議論に勝つ唯一の方法として議論を避ける。
2、相手の意見に敬意を払い、誤りを指摘しない。
3、自分の誤りをただちにこころよく認める。
4、おだやかに話す。

5、相手が即座に’イエス’と答える問題を選ぶ。
6、相手にしゃべらせる。
7、相手に思いつかせる。
8、人の身になる。

9、相手の考えや希望に対して同情を持つ。
10、人の美しい心情に呼びかける。
11、演出を考える。
12、対抗意識を刺激する。


まったくその通りと思うのですよ。少なくとも「説得」を意図するのであるなら、当然。了解しない人間は、言葉のメタ性について意識のない人間。


論理は真であるけれども、論理は真としたとき人間存在は真ではない。そうでないなら論理的に真なる言語のメタ機能など存在するはずがない。小林秀雄江藤淳吉本隆明大塚英志の仕事は意味不明の妄言の集積ということになる。「日本語」の所為にするのは禁止。


言葉とはリテラルにしてクリアなものではない。言葉は必然的に抽象するが、抽象を行使する人間存在とは常に具体であり不可知の出来事である。課題は、論理ひいては「理性」と人間存在のコンフリクトをいかに緩和ないし緩衝し、両者の真を折衷するか、現行における暫定的な折衷地点を那辺に見出し設けるか。


かかる問題意識、そして、線引きをめぐる相互的な検討と対話自体の維持運営。それが、私達の倫理性をめぐる模索の実質であり、あるいは歴史意識と名指されるものだ。


「説得」を意図するのであるなら、というのは「おまえばか?」と斬って捨てるのでなければ、ということ。斬って捨てるなら、時に「考え方は人それぞれなのだから、あたしの言っていることが気に入らない人は最初から読まなければよい」というきっこ氏のスタンスと同様になる。


チラシの裏を私は肯定するが、されどチラシの裏、とも時折思う。「きっこの日記」とて影響力なければ誰を中傷していようと人殺しと罵っていようと皆スルーする。本人の言う通り、コメ欄もTB機能も置くことのない単なるWeb日記であるし、考え方は人それぞれであるから。そして、かかるきっこ氏の言に対して、法的な枠組を措いて「人それぞれで済むかヴォケ」とするなら、それは人間存在によって構成される世界についての対話と倫理性を志向している、ということである。


私はアンテナにも早速加えたくらいの「きっこの日記」の(多く日常や趣味について記したフツーの日記部分の)愛読者ではあるが、さすがにちと、と時折思うのは、あの口調とメンタリティが「社会問題」「政治的問題」を扱うときに、本当にやばいことを知っているためである。


言うまでもなくかの人(私も「きっこ」実在説である。だから個人として「氏」を付ける)は、言葉のメタシステムについて意識がない。だから「○○みたいなヤツ、死刑にしてほしい」とか、当人が「悪人」とする存在に対して素で書いている。そうした類の言論に対して、実行せずとも意識において突っ込みを入れ得る立場にあるのは、言葉のメタ性を知る者である。むろん、まず第一に、どうみても私的制裁です本当に(ry、であるわけだが。


エリーティズム的なことを言っているわけではない。「○○は死刑にしてくれればいいのに」とか「あたしたち「平和」を願う少数派」といった個人の発言に対して、おいおい、と思うならそれは意識において突っ込んでいるのであり、突っ込める意識を涵養し形成しているということである。その突っ込みとは、意識と言行が直結し得るとするメタなき発想自体に対する批判と批判精神である。


個人において、ひいては人間存在に対して、意識と言行が直結し一致し得るとする認識。それは恐怖政治の前提であり「自己批判」「踏み絵」を用意する発想である。正直、「あたしたち「平和」を願う少数派」などと素でリテラルに言明するおまえらみたいな似非庶民のプチブルが戦争を起こすんだよ、と懐疑主義者は考える。「言明」ありきに留まることなく他に対して任意の問題をめぐる「言明」を要請し時に強要する人間を、私は信用しないことにしている。むろん、一般論。為念。


言うまでもなく、私はきっこ氏を「左翼」と考えたことがない。どう見たって、一貫して、仮構された「大衆意識」に準拠して国家主義的な内容を提示している。そーゆースタンスが、一番やばい。「大衆」を仮構して称揚したうえ自らを列に加え一切を自らの利益に準じて権力的に運用する。似非毛沢東主義者と、私は呼んでいる。で、たぶん、実際に書いている本人、いまだにその自覚ないのね。


はてなブックマーク - 世界で孤立するニポン: きっこのブログ


つい先日も、上記の元日記に目を通して死にかけた。ま、この程度で死亡していたらあの日記は読めない。自らの意識/認識が全世界であるらしく、しかも、意識/認識がおそろしくリテラルかつナチュラルにキーボードに降りている。あまつさえ、めげないんだこれが。あれほど決め撃ちして誤射しまくりのうえ叩かれ訴訟手前まで逝っていたら、私ならこれまで30回はブログを閉鎖している。


私は、イズムとしてのファシズムというのは、意識認識と言行が一致する、等号にて結ばれ得ると考える人々によって形成されると考えている。地獄への道は善意によって敷き詰められているということである。それは右翼左翼を限定しない。


小林よしのりが何よりも嫌ったのは、彼が「運動の論理」と呼んだそれである。「運動の論理」に馴染むには、彼はあまりにも腕一本のマッチョな個であり、かつ自らが実力ある強者であるという自負を持ち合わせていた。そして、かかる「論理」とは、かつて吉本隆明が批判したものでもあった。


意識認識と言行は言うまでもなく不一致である。それはかつて吉本氏が説いたことだ。ゆえに、きっこ氏が「大衆」であろうはずがない。問題は、露骨なエリーティズムにあるのでもないし大衆の愚民っぷりにあるのでもない。大衆を僭称する政治主義者によって、時に現実に大衆が概念的に簒奪される点にある。概念的に簒奪されるということは、余剰が捨象され現実に棄却/遺棄される、その蓋然ということ。それをファシズムと言う。


意識認識と言行の不一致を前提するのが懐疑主義者である。戦後保守の言論とはかかる懐疑の言挙げにあった。はっきりと言うなら、都民投票者の過半が石原に投票したからかかる都民投票者の過半は石原を選択したわけではない、というスタンスからその言論は示される。そんなもん意味ないじゃん。その通り。石原氏自身もそう考えているだろう。


しかるに、意味ないとする認識がファシズムである。民主主義マンセーという意識においてファシズムが胚胎するというのは、そういうこと。付記すると、いずれ機会あったら詳述するが、小泉純一郎という人はこの点においてはおそろしいほどにリテラルであった。政治的行動主義を、私は必ずしも採らない。不行動の懐疑主義が動員に対する抵抗になり得ると、私は考える。


都民投票者の過半が石原氏に投票したからかかる都民投票者の過半は石原氏を選択したわけではない、かく考えることなくしては、ことこの現状において知的な議論など示せようはずもない。私はそう考えている。


そして。現実の改変/改良を必ずしも前提しない保守において、かような懐疑的思考とは常在であり、蓄積とてある。それをして敗北主義と言うが、敗北を抱きしめるところから始まる言論もまた知的営為もあるし、その価値を私は認めているのだね。衆寡敵せずと終生言い続けた人を、私は知っているから。


個人において人間存在において意識認識と言行が一致するとする発想、それはメタ機能の不在である。ベタを現実に敷衍するということ。私に言わせれば、時に有害でもある。ベタに対してメタ意識の不在を指摘すること、指摘し続けること。


かつて保守言論が果たした機能を、今なお反復する懐疑主義の継続にしか、時にリアリズムとは無縁な知的な営為の後退戦線は存在しないのではないか。私が何を言っているか。「生き生き」したベタな右とベタな保守が現実に跋扈してぶいぶい言わせ始めているから困っているのだよ。「愛国心」を言挙げないと気が済まないどころか、国内において他に言明を強要する連中が。


吉本隆明の地点に戻るしかないのではないかと、私個人は思ってもいる。かつて呉智英も指摘したことだが、吉本氏はいわばメタ左翼であり、そのメタ意識において当時の左翼のベタを撃ち、そのことに拠って、いわば無敵を誇った。呉氏いわく、そのことに「のみ」拠って。


ベタであるとは、個人と人間存在における意識認識と言行の不一致を前提しないこと、タテマエとホンネの二重性とその必要を意識しない言論のことである。前提したうえにて捨象する正しきベタを肯定すると、私は付記しておくけれども。


吉本氏は人間存在における、言行と一致することのない意識認識の側に立った。70年に至って政治的な行動主義に対して背を向けた。言い換えるなら常に「人間」に立ち、その「原型」を追求した。結果的に、吉本氏は「人間」にのみ立ち過ぎて、先鋭なメタ意識を忘れてゆきもした。メタ意識とは、個人と人間存在における、意識認識と言行との必然的な乖離とコンフリクトの境界的地点に立ち、立ち続けること。


吉本氏は結果的に「人間」における「意識認識」をアプリオリに前提し言挙げるようになった。しかるに――その正鵠を一概には否定し得ない。吉本氏は人間存在の人工性を原理において「原型」の側から追求したが、最終的に、見出された「原型」に拠ったゆえ、その人工性を、本人は克服したつもりで、一部あるいは大部を否認したと私は思う。であるから、吉本氏は「生活者」としてただ生きることを前提としたし、その点においては吉本氏は今なおボケてはいない。


人間がてめえのために仮構した不毛な人工性のために自らが死ぬなどもってのほかと彼はしたのだ。それはあるいは否認であり、あるいはあまりに非西欧的な思想である。であるから彼は、その独創的な思想を敷衍することをやめて、自らというひとりに還った。


「不毛な人工性」を彼なりにメタ化し尽くして棄却して、「人間」に還らんとした、当然、彼が還れるはずもないのだが。言うまでもなく、この場合の「人間」とは西欧的な意味におけるそれではない。それが、吉本氏言うところの「生活者」であり「大衆」であった。吉本隆明はその言挙げをして、やがて言挙げをやめた。


「不毛な人工性」に西欧に発した一切をひっくるめて含めたこと、かつ、西欧の一切をその歴史的な抑圧性と拘束性を前提することなく日本という場所にて個人的な位相において「解決」してしまったこと、その点に吉本隆明のオリジナリティがあり、あるいはフーコーとの徹底した不疎通の因がある。――吉本氏は、結果的に「ホンネ」の側に立ちすぎたし、「ホンネ」における人間存在について、西欧的な視座からはありえないスタンスを示した。


左翼のタテマエ主義と右翼のホンネ主義の拮抗が90年代以降崩れて右翼のホンネ主義が政治やマスメディアにおいておおっぴらに大手を振って跋扈することになった――大意であると断るが、浅田彰が90年代後半に『批評空間』誌上において言ったことである。同誌がその対抗的な試行でもあったことは、言うまでもない。


しかるに2007年の現在については、言うまでもない。たとえば――2005年のものではあるが。


http://book.asahi.com/bestseller/TKY200509290136.html

ベストセラーがベストセラーたり得ているのは、内容ではなく、社会の基層に蔓延(まんえん)した“感情”をすくいあげていることが、大抵の場合その理由だからである。

作者をはじめ、この本を支持している若い読者層は自分の感情を素直に表明することを是として教育を受けてきた世代である。その彼らに、なぜ、嫌いなものを嫌いと言ってはいけないと強制するのか、本の内容の否定の前に真摯(しんし)に回答する義務が、われわれ大人世代、そして知識人諸氏にはまず、求められるのではあるまいか。多くのベストセラーがそうであるように、この本も、この本を嫌う人々がまず、試されているのだと言っていいだろう。


むろん唐沢俊一は完全な確信犯として「右翼のホンネ主義」の若年世代における台頭と横行を戦後の左翼的な教育の帰結としての「理性の狡知」のごとく言挙げているのであるが、左翼的教育の帰結については措いても、この問題提起、まったくその通りと私は思う。


私は韓国人が嫌いであるから、韓国人を嫌いと公言して何が悪いのか。私は「在日」が嫌いであるから、日本国籍を持たない朝鮮人は祖国へ帰れと言って何の問題があるのか。私は「支那人」が嫌いであり、なおかつ「支那」呼称の歴史的な正当性は信頼すべき幾人もの論者によって提示されているから、当事者の嫌悪するがゆえにこそ「支那人」を「支那人」と呼ぶことを、なにゆえに「いけない」と、それも日本人から「強制」される筋合があるのか。


そのようなあっけらかんとした問いに対して、いかに対応するべきなのか――「おまえばか?」とか「氏ね」意外に。いや、それも誠実な対応とは思う。私とて、高島俊男呉智英小谷野敦の尊敬に値する長きに亘る意思と彼らの積み上げてきた議論にどれほどの傷が付くかと小一時間(ry。「不寛容への不寛容」というのはあって然るべきとは思う。というか、ふざけた悪意の徒が多すぎるがゆえ、そうした人間の不見識は悪意によってカウンターされてやむなしと私は考える。


私なら「空気嫁」と正しく保守的なスタンスを示す。分節するなら、公衆の面前においてそのようなことを、あまつさえ他意を持って公言することは、儀礼的な見地から非難に値することなのだ、そして日本語圏であろうと、Webとはとてつもない公衆の面前であるのだ、当事者ならずとも、外交的な儀礼の場でもあるインターネットにおいてそのような文脈的に摩擦係数の高い発言を示すことは時にテロと同義であり、少なくとも儀礼の場からは締め出されるものなのであって、国籍民族にかかわらず、当事者ならずとも儀礼の場の構成員の意によって退場を指示し得るのだ、ということ。


むろん国籍と民族に人は現実に無縁でなく、かつ現実は個人の意識にフィードバックされるがゆえ、個々の構成員が腹で何を考えているかは知れたものではない。しかるにそれは、顔には出すなという約束。それは社交における外交辞令的な抑圧と拘束であるわけだが、私はプロトコルを採る人であるので。


あるいは。原理的には、かく言える。前述の通り、個人において人間存在において、意識認識と言行は一致しない。一致しないことが認識的な原則であるにもかかわらず、不穏の蓋然される事象について故意に一致させるということは、摩擦の発生を意図した確信的行為と見なされ得る。


むろん。確信的行為においてその確信的な志向/方向性と結果としての「表現」について、是非の検討に付されるべきである。さもなければ、たとえば中上健次バロウズは差別主義者という話になる。いやバロウズは差別主義者であるとは思うが。素晴らしい文学と私は思う。


しかるに、かかる故意の確信的行為を示す理由が、もし仮に「自分の感情を素直に表明することを是として教育を受けてきた世代である」から「なぜ、嫌いなものを嫌いと言ってはいけないと強制するのか」であるとするなら――甚だしい順応主義にして反動であり、かつ歴史意識の不在であり倫理性の模索の不在である。要約するなら略だ。言ったらおしまいであるから言わない。御約束で書いておくと、ゆとり教育の成果だ。


理性の狡知というのはあながち冗談とも言えない。およそ抑圧的かつ拘束的なプロトコルの涵養に原則として公教育は関知せず、とすることは正しい制度的指針と言えるけれども、公教育の外部に所在するその補填装置が相対的にも機能不全に陥っていることも、また確かなことと思う。処方箋は容易でない。


ま、「それが何か?」「何か問題ある?」「考え方は人それぞれ、価値観の多様性でしょ」ときっこ氏のごとく反応されるなら、私としては、関係性もなき相手に対して公的にはあまり何も言うことのない(きっこ氏がWeb日記の運営に際して極めて個人的なる自己規則を設けていることは確かなこととは思う、御都合主義的に運用していたとしても、自己規則自体が手前味噌なので)。


私が普遍概念公共概念を前提するのは、ひいては世界についての倫理性の模索を前提するのは、儀礼的なプロトコルに準じた意識としてである。個人における主義ではない。メタレベルにおいて分岐する。よって、御勝手に、となる。そして、聖書的な意味において、復讐するは我にあり、と少しく思う。


ただ、ヒトラーに対するに自らをヒトラーのレベルに落としても仕方がないとは、それこそ自己規則、というか、個人的規制として思う。真正の確信犯的「差別主義者」は省みることをしない。しかるに対するなら自らを省みるべきである。太刀打は、いずれにせよできない。ファクトならず情報ならざる言論は無力である。


まことに――個人において人間存在において意識認識と言行は一致しない。その点においては、「日本的」なる私は吉本隆明の立場を採りたく思いもする。何を言っているかというと。日本は「同質的」であるがゆえに、欧米と比して相対的には概念的なる「他者」との摩擦的な邂逅少なく、緊張と軋轢の歴史意識とて相対的には希薄である――欧米と比して、良くも悪くも。森達也の『A2』の話。


むろん、現実としての在日外国人の増加にも伴い、状況が現行のまま暢気に立ち行くことはないと私は考えるし、ことに拉致被害者帰国以降、とうに立ち行かなくなっているのかも知れない。処方箋をめぐる課題は問われる。そして、ことに現行の摩擦と緊張が(「特定アジア」だのと呼ばれる)「アジア」に集中して在るなら、吉本的な発想に基づく処方もあるいは可能であるかも知れない、とは、思考実験としてだが、かつて少しく頭の片隅にて思ったことある。というか、森達也もきっと同じようなことを考えているのだろう――しかし。


吉本隆明は国家幻想を解体した。少なくとも本人の意識におかれては。むろん西欧においては最初からBOO!な話である。そして。国家幻想は日本を含めたアジア諸国におかれても、解体されるどころか昂進していく一方であること明白である。なら吉本的な発想に意味もない。フーコー的なメタ・ディスコースを採るしかない。


「大衆の原像」に代表される吉本的な「人間」把握のその価値に、私は今なお部分的には拠るし、明示せずとも拠っている論者は多い。もっとも、その多くはいわゆる全共闘世代であり、うち多くは現行の言論状況に対しては用済みとなった人達である。いわんや吉本隆明自身においてをや。なに、新人類世代とて10年後には同じことになる。


私は他を「説得」することの原理的に難しきを知る。そもそも「説得」概念自体が西欧的な意味における「他者」なき日本においては今なお通用し難い。しかるに「説明」することは本人の心掛けの問題に尽きる、言い換えるなら原理的には「他者」あるいはそれとの「対話」を前提しないので、最初からその「不可能性」に対して絶望する理路とてない。


「説得」すること難しきなら、そして「おまえばか?」と(端的なDisであるならともかく)「対話」における拒否をあえて言明するのでなければ、残る方法は愚直に意を尽くして「説明」するしかないのでないかな、そうは思う。


「説明」する際に認識においても言説的なロールプレイとしても「他者」をフツーに「他人」の意味にて前提するなら、つまり当然のごとく、自らの記すことに頷いてくれる人ばかりではない、政治的な立場や信仰や国籍や民族にかかわることなく、原理的に誰しもが自らの示す価値判断的な見解に対して是々非々である、自らが他に対してそうであるように、という認識のうえにて見解を記すなら、「達意」を原則として、まさしくリテラルに「文意を尽くす」必要がある。


言葉のメタ機制を意識したうえにて、前提の危うきという了解を常に明示して文意を尽くす。あるいは、あえて尽くさない。以上、私のエントリが時に長々と迂回的になることの長々とした言い訳でした。


いずれにせよ、現在の私はリテラルとメタフォリカルを必要に即して使い分けているけれども、リテラルを自明とする悪意の人間というのは、あるいは善意の人間というのは、最悪である、そのことだけは言える。善も悪も同じであるからである。


むろん、メタフォリカル「のみ」を自明とする人間も、同様である。批評の原義とは、境界線上の営みであること。而して読者の獲得によってかろうじて社会性を持つ。吉本隆明が生涯を貫いて果たした尊敬すべき仕事とは、批評の原義たること以外の何物でもなかった。


そして。人間存在の二重性の境界線上へと立つ意思なき人間は、多く以前は左に曲がったが、現在は多く右に曲がるものであるらしい。私は、その徹底した表層的なメタシステムのゆえに、2chとそのクリシェ的な言論を愛する。クリシェを「自らの意見」と本気で信じて真顔で言う人間よりはよほどマシであるから。で、問題は。クリシェを「自らの意見」と本気で信じて真顔で言う人間が増えたのね、という点にある。


『嗤う日本のナショナリズム』に示されたような――「批評的」な地点は、既に通り過ぎてしまっているよ。メタをスルーして、ベタな言行が横行している。リテラルでベタな「ヘイトスピーチ」が。「何か問題ある?」「考え方は人それぞれ」の世相です、ほんとに。