再選始末


遅くなりました。さて。こちら。


2007年都知事選雑感: 極東ブログ


投票率の上昇についても、Webにおける言論と現実の都民の政治意識ならびに投票行動との乖離についても(それが悪いとは全然言っていない為念。私とて同様であるし、2ch言論にしたところで同じこと)、とはいえ現実の政治と投票において左派リベラルは東京においては相対的に一定以上の勢力を擁しているということも、菅直人の件についても浅野史郎の「外様」性についても、そして溝口善兵衛元財務官の島根県知事当選って何それ、という点に至るまで、流石のfinalventさんが、私もいくらかは書こうかなと思っていたことを漏れなく見事に指摘し尽くしていたので、さて、他に何を私が付け加えたものか、と考えてしまう。


浅野氏とその陣営に対する正鵠を得た批判についても、幾人もの信頼すべきブロガーの方が既に提示している。また。以下の見識ある分析についても。



http://homepage.mac.com/naoyuki_hashimoto/iblog/C478131471/E20070408211735/index.html



私が今更の雑感的な感想として改めて付け加えるべくがあるとするなら――書いてみます。


http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/wadai/news/20070409k0000m040126000c.html

壇上で浅野さんは「石原都政の実害を受けている人は限られた層だということ。それが一般に広がらなかったのがこの結果だと思う」と述べた。さらに「石原都政が信任されたということならば、このまま4年間を進めていけばいい」とも。今後の都政に注文を付けることはなかった。


………………――――――


ひとつ言えることは、私も、そしてたぶんに貴方も含めて、現実の小さき生活や日常において、多く人は保守的である、ということ。保守的である、というのは改変を望まない、ということではない。自らの意思や欲望に拠らない改変を原則的には望まない、ということです。かかる原理にまで抽象すればあるいは誰でもそうですが。


階層構造の固定してしまった閉塞的なる社会の流動化と撹拌のためには戦争すら希望する、と左派論壇誌に寄稿して話題を呼んだ人がいた。あれは、物理的な大状況に対する言論の無力、という話でもあるのだけれども、むろん本人が戦争の勃発を「希望」し意思し欲望するからこそ戦争による物理的な大状況の改変が本人にとって是認されるわけであって、たとえば、超弩級の経済恐慌による軍事力の介在なき状況の改変は、本人の「希望」し意思し欲望するところではないので、望まれるべき改変ではない。大恐慌の発生に際して真っ先に屠られるのは、相対的にも既得権なき不安定な社会的弱者である。


むろんのこと、戦争も経済恐慌も、多く本人の希望や意思や欲望とは無関係に発生したりしなかったりする。少なくとも、左派論壇誌に「戦争よ起これ」と寄稿することとは、関係なく発生したりしなかったりする。むろん、原理的には関係のないことではない。しかるに主体的なる「意思」「欲望」とはやはり関係がない。そして「希望」とも。


空を飛びたく意思し希望し欲望しようとも人間は宙に浮かない。その認識と共に、代替案が出発する。代替案は発展し複雑化する。そして現在、相も変わらず人間は宙に浮くことはないが、その冷厳なる事実を証明した認識の体系が構築した方法論とテクノロジーによって、飛行機が世界中を行き交う。


而して――民主主義というシステムもまた、空を行き交う飛行機と同じものだ。個人の意思や希望や欲望とは無関係に物理的なる大状況として戦争が内乱が虐殺が勃発して個人が死ぬ。かかる冷徹なる認識から出発した代替案のいまなお不完全な発展形が、民主主義という方法論と政治システム。能う限り、小さき無価値な個人の意思と希望と欲望を物理的なる大状況に「公正に」関与させ関係させること。1票の行使という価値はそこに由来する。


私の1票の行使が大規模な選挙の結果に何の関係があるのか、投票に行っても無意味じゃん、という言い種をよく耳にするが、前提からして間違えている。小さき無価値な個人たる貴方の意思や希望や欲望など、物理的なる大状況とそれを現実に動かす為政者や権力機構には何の関係もないし「たかが1票」分の関係すらもないし、関与することすら許されなかった。


それがデフォルトであったし、そのデフォルトを認識したうえにて、いかに小さき無価値な個人の意思と希望と欲望を大状況に「たかが1票」分でも関与させ得るかという試行錯誤の、政治システムにおける結果ないし結実として、現在の民主制がある。北朝鮮の人民の「意思と欲望」が、金正日の「意思と欲望」に一毛たりとも関係あると考え得るか。ひいては「希望」が。


付記するなら、ナチスは巧妙にかつ狡猾に簒奪をやった。ドイツ国民の「総意」としての「意思と欲望」そしてがヒトラーの「意思と欲望」であるとして、気が付けばヒトラーの「意思と欲望」がドイツ国民の「総意」としての「意思と欲望」になっていた。


最終的には、ヒトラーの「意思と欲望」のもとドイツ国民は「滅びるべき」ということになった。万事は「希望」でもあった。民主制というシステムの簒奪による瓦解。


肝心なことは。ヒトラーは自らの「意思と欲望」を常にドイツ国民の無記名の「意思と欲望」として言挙げた。ドイツ国民全体の「意思と欲望」を凝集的に形象して言挙げることによって喚起し既成事実化したということである。


ありやなきやもわからないところに、主体を欠いた無記名の「意思と欲望」を、歴史的なリソースに準拠して、あるいはそれを簒奪して、国家という単位、民族という単位において形象し、あまつさえその成就を望んだ。言葉と観念の魔法によって形象化される国家の民族の「意思と欲望」――それは時にロマン主義と表され、近代的な民主制下におかれるその現実政治における実現のための方法論を、時にはファシズムとも言う。


ファシストとは、自らの「意思と欲望」を、名前を欠いた集合体全体の無記名の「意思と欲望」として、ロゴスによる形象的な名前を与えて声高に言挙げる者のことである。「政治の美学化」とは、そのことを言う。集合体の単位とは、時に国家であり時に民族であり、しかるに、形象的なる言挙げに酔う集合体の構成員とている。


彼は、彼の知らなかった、彼の外部に在る「意思と欲望」を既成事実として美的観念的にひいては政治的に喚起されるに至る。むろん彼自身は、それを歴史的なるものと思う。


そして、むろんのこと「外部に在る」というのは誤認に過ぎない、彼は内発的に「目覚めた」のだ。集合体全体の「意思と欲望」は、最初からそこにあった、貴方が集合体の構成員である以上、貴方の内にそれは在るのだ、言葉と観念を用いて形象して言挙げたなら、ホラ、そこに。


ドイツ国民の総意」の体現者たる総統の「意思と欲望」とはドイツの「意思と欲望」である。総統とは帝国であった。それも「ドイツ国民の総意としての意思と欲望」を体現する帝国であった。君主ではない。民主制において誕生した国民国家「ドイツ」の正統的なる民族的な「意思と欲望」の体現者なのである。


教訓は那辺にあるか。ヒトラーがおそらくは故意に行使したロジック。「ドイツ国民」なる概念を形象的に言挙げ、あまつさえそれを人種/民族に厳格に準拠して定義したこと。そして、反対者批判者は「ドイツ民族」にあらずとして、「ドイツ民族の総意」から排除し最初から勘定に加えなかったこと。たとえば、共産主義者は「あるべきアーリア人」ではない。よって民族のために撤去さるべきである。


ヒトラーは「ドイツ民族」のあるべき内的な理念型を追求し要求した。不適格者は「ドイツ国民」にあらず「あるべきアーリア人」にもあらず。「あるべきアーリア人」の集合体(ヒトラー自身が共同体なる概念を信じるはずもない)の「総意」としての「意思と欲望」を民族の代表として体現した総統は、人種間民族間の支配被支配優生排除の覇権をめぐる闘争を国家規模にて繰り広げた。ヒトラーは、万事の階梯に意識的なる確信犯であった。


――私が説きたく思うのは、小さき個人の無価値とその「意思と欲望」のひいては「希望」の、物理的なる大状況とそれを現実に動かす権力者に対する、無関与と無関係という、冷徹かつ残酷な認識のもと、個人が自らの意思や欲望とは無関係に大状況への関与を許されることなきまま戦争や内乱や虐殺という「高度な政治的事象/国家的行為」によって屠られることの能う限りなきよう、試行錯誤のもと発展してきた方法論としての政治システムのリソースとは、時に容易に簒奪され骨の髄まで食い尽くされ利用されることのあるということ。


自らの意思や欲望と物理的なる大状況との徹底した無関係という歴史的なデフォルトとしての原則の存在に思い至ることのなく、自らの主体的なる「希望」としての「意思」「欲望」のもとに戦争の勃発による物理的なる大状況の改変を望みそのことを左派論壇誌に寄稿しあまつさえ左派論者の応答などもらってしまうなら、屠られる蓋然に歯止めの掛かることはない。


話戻って。「私も、そしてたぶんに貴方も含めて、現実の小さき生活や日常において、多く人は保守的である、ということ。保守的である、というのは改変を望まない、ということではない。自らの意思と欲望に拠らない改変を原則的には望まない、ということ」――それは正しきことであり、なんらやましきことではない。


政治というのはなるほど最大多数の最大幸福のためにある。それは言い換えるなら個々人の利害とエゴイズムを均衡するシステムでもあるが、均衡の過程において、いわゆる既得権者が有利になることがままある、ことに既得権者がマジョリティであったなら。


補正と是正のために、たとえば、アフォーマティブ・アクションとしてのマイノリティや社会的弱者に対する優遇策を導入するという選択肢が議論の遡上に乗せられる。そして、最大広義のマジョリティとしての既得権者が「現実の小さき生活や日常において、自らの意思と欲望に拠らない改変を原則的には望まない」とき、その保守的態度の反映は既得権の原則的な維持を企図して示されるし、それは「最大多数の最大幸福」という観点においては一概に否定し得るものでもない。「最大多数」の範囲を設定するための議論を通じた検討を捨象し棄却するなら。


――はっきりと言うなら、石原慎太郎はその検討を故意か無自覚か捨象した。浅野史郎は検討すべきと問うた。石原氏が教育を言挙げるのはそのゆえであるし、浅野氏が福祉を問うたのはそのゆえであった。そして、更にはっきりと言うなら、最大広義のマジョリティとしての既得権者たる都民の多くは、「最大多数」の範囲の再設定を捨象した石原の言に乗った。


「最大多数」の範囲を改めて設定するということは、「最大幸福」の分け前が減り、「最大幸福」の循環が混乱する、少なくともその蓋然を招来するということであるから。誰が根無し草の余所者を「最大多数」の一員に迎えようと思うだろうか。自らのリソースを消費して「最大幸福」を与えようと思うだろうか。東京都に住民票を置き「都民」になるとは、そういうことである。つまりは、地方自治の酷薄ということ。


格差是正」に代表される理念では今日明日の飯は食えない。いったん減った「最大幸福」がいずれ異なる体にて返還されると、誰が信じるだろうか。返還されないこと、わかりきったことである。今日明日の飯を保証しない「耐え難きを耐え忍び難きを忍び」に付き合う義理など、都市的なる、この自由な個人主義の社会においては、誰にもない。


「最大多数」が質的量的に膨張し多様化する過程において「最大幸福」を再分配するならパイの分け前が減ること、そして以前と違えた「最大幸福」を甘受しなければならないという事実を、小さき生活者たる「最大広義のマジョリティとしての既得権者」は見ることないし、関知する筋合とてないし、コミットを強制し得るロジックは、自由な個人主義社会としての自由な東京において見出し得ることのない。自らのリソースを消費しての、「最大幸福」の再分配に率先して同意「してやる」余地も必要もない。


隣近所を信頼し得ない都会生活者が自己の利益を最優先しエゴイズムを貫いて何の問題があるであろうか。隣近所が入れ換わってばかりでそのうえ言葉と礼儀作法と常識の通じない連中が越してきたら、迷惑ではないか。


――市井の小さき生活者は、仕事や家庭や人間関係含めて市井の小さき生活としての最小単位の日常には強い。しかるに、それを通じて得た個人的知見と所感を自らが存する社会的なる上部構造に抽象して止揚し任意の価値的な構造の枠組において位置的に整理するという発想は、多く原則的にない。世界システムのことなど考えようもない。想像すべくも。


分業的な観点から言うなら、その作業を代行したうえにて還元するのは、たとえば、リベラリズムについて継続的に議論し検討する職業的な知識人である。――ぶっちゃけ、その回路が機能していない。アイロニカルに言うのだが――右派のほうがよほどその回路が機能している。そして私は時折頭が痛い。米国においてブッシュが再選したのは何故か。


石原慎太郎は、東京都民にとっての「最大多数の最大幸福」を説いたが、石原氏にとっての「最大多数」とは「石原氏にとってのあるべき東京都民」に限定されていた。最初から。石原氏は、その枠組を絶対に変えないし検討することもない。リテラルならぬメタフォリカルな表現であると断るが「江戸っ子」でないなら「あるべき東京都民」ではない。いわんや「外国人」においてをや。


石原氏は意思的に(あるいは確信犯ということ)正しく自民族志向であり国家志向であり、東京都知事石原慎太郎にとっての「民族」「国家」とは「東京」の別名である。それは定義においても「極右」であろうし、ことに外国からはそう見えるであろう。


夜郎自大な中心主義にも程があるという話でもある。ナショナリスト都知事に就くとは、そういうことである。まして万事を自己を基準に考える石原氏はアイロニーなきナショナリストである。


しかるに、誇り高き最大広義のマジョリティとしての既得権者たる都民は、石原氏のナショナリスティックな中心主義に乗った。何しろかの中心主義は、いやこの点が一番オソロシイところなのだが、単なる口先の綺麗事ではない。石原氏には「実績」があるし実績を築くだけの意思と覇気を持ち合わせていた、そしてそれは今なおある。


自民族志向国家志向を東京において「あるべき東京」「あるべき東京都民」という発想的な前提のもとに実現し自ら体現するという石原氏の理念とは、決して口先だけの人気取りチキン野郎の美辞麗句ではなかった、石原氏はガチであったしキンタマもあった。


なお。個人的なる辞書において「ディーセント」という単語と概念なき石原都知事は、「あるべき東京」を目指した諸施策のもとの制度/規制/再開発ならびに治安対策風紀対策等を通じて物理的に「あるべき東京都民」としての都民の意識に対して時に矯正を企図して介入せんとする。


かかる摩擦のもっとも先鋭的に噴出したのが、いわゆる都教委をめぐる一連の問題。詳しくは触れないけれども、ゆえに、かの点をめぐって石原都政は安倍政権と方法論的に相違するし、首相とその周辺よりよほど賢いやり方ではある。狡猾とも言う。


話戻って。あまつさえ。石原「都知事」は今なおガチであるしキンタマもある。早速神戸絡みで「問題発言」を恒例の確信犯としてやってくれたようで。言わずもがな、石原都知事の一連のアレは「失言」とは言わない。煽りと釣りも政治のテクニック、って頭が痛い。それで「極右」でないとは、通らないよなぁ。


かかる石原氏の「実績」を、都民はずっと見ているし知っている。そして了解する。この政治家は「私達」の有する既得権の維持に尽力してくれる、と。しかるに、石原氏にとっての「あるべき東京都民」に対しては、その約束は一定は果たされた。「最大多数」の枠組をいじることの最初からないなら、石原氏は彼らの「最大幸福」のためにそれなりによくやった、ということになる。……グロテスクな話をしているな私は。


「東京中心主義」を殊更にスローガン的に言挙げ理念的観念的に喚起することによって、再開発の推進によって進行する地域共同体の解体は糊塗される。そもそも、強烈な自己原理主義の石原氏は共同体主義者であったことなどないし、民族的なる「東京中心主義」という観念の凝集力のもとに「強い個人」が屹立していくことはむしろ歓迎なのである。


むろん、その発想はこう言ってよいならいわば新保守である。破壊と再生の渦中において強い無法な個人が屹立していくことを石原氏は望む、ただしあくまで、石原氏にとっての「あるべき東京」「あるべき東京都民」という絶対の枠組の範疇において。


すなわち、今更ではあるが、この点において石原氏の立場はかつての小泉首相とあるいは分岐する。石原氏は行政権力の強大化と民間や私企業や金融資本に対する統制を前提している。「あるべき東京」という民族的な連帯のもとに独立国家たる「東京都」は(こう言ってよいなら)統制的なる「大きな政府」として、時に資本とそのグローバリズムに対して介入せんとする。いや地方自治なのですけれどもね。


中傷ではなく――思想的政治的な観点からもファシストであるとは流石に私も思う・


ファシズム - Wikipedia

その条件として産業の国営化又は準国営化、外国資本を徹底して排除する国家統制(dirigisme)を取り、民族主義・人種主義に依拠したのがファシズムである。従って、極端な民族主義国家主義だけをファシズムとするのは俗用による語義の拡散である。


教育施策とて国旗国歌の強制とてディーゼル車から表現に至る一連の規制強化とて大江戸線とてかつての銀行税に新銀行東京とて首都大学とてお台場カジノとて歌舞伎町の「浄化」とて下北沢再開発とてオリンピック誘致とて、映画アニメ等文化産業コンテンツ産業に対する良し悪し両面有る振興を企図した介入とて、言わずもがなの防災関連施策とて、その点においては石原都政の方向性は一貫している。


かような石原都政に「乗った」方達は官僚であれ資本家であれ教育関係者であれHAHAHA!と笑いが止まら以下略。数年を経て不透明な「都政私物化」へと至るのもまた理の当然なのであった。


であるから――たとえばであるが「自己の範疇の外部に位置する多様を嫌う偏見の徒たる石原は、少数者と弱者を認めない」というのは、確かにその通りではあるかも知れないけれども、その背景にある思想的な、あるいは政策的な枠組は存在するし、偏に石原という人間の資質ないしその人格の偏向に帰して批判すれば済むというものでもない。少なくとも、石原という人間の資質が反映された施策の方向性が、東京都におかれては支持されているのであるから。


そして、肝心なことではあるけれども、石原という人は、現実の東京という地域の具体性については基本的に、あまり関心を持つことないし愛もない。彼が愛し思い入れているのは、日本という「民族」「国家」の別名としての「東京」であって、彼にとっての「あるべき東京」のことでしかない。


だから、築地市場とか別に思い入れもないし彼にとってはどうでもよい。それは、彼にとっての「あるべき東京」とは関係のない話である。


しかるに最大のテーマは――かような石原都政の施策的な方向性を、最大広義のマジョリティとしての既得権者たる都民が、条件付留保付とはいえいまなお支持しているというところにある。そして、私はそのことを理解し得ないこととは思わない。


言ってみれば、小泉政権の政策と石原都政の方向性とはパラレルの関係にあった。国家の政策における急激な新自由主義の渦中において東京という地方自治にナショナリスティックな「大きな政府」を擬似的擬制的にも求めた都民が多くいた。「独立国家東京」の長として小泉純一郎に代表される国と対峙してみせた石原都知事夜郎自大な中心主義に、乗った人は多かったのだ。


しかるにそれは現安倍政権の方針とも相容れない、一種の強権的かつ覇権的な東京国家主義であった。東京国家主義者が、多かったということです。小泉が退陣しようと趨勢の著しく衰えることはない新自由主義の経済的/価値的な覇権に抵抗を覚える「市井の小さき生活者」が、身近な地方自治においていかなる選択を示すか、言うまでもないし、了解し得ないことではない。時に自民以上に新自由主義的な民主党という選択が論外であることも。


矛盾しているだろうか。私はこう言っている。


自由な社会におけるリバタリアニズム的な個人至上主義が都市住民において前提となり中間集団的な共同体が価値的かつ現実的に解体したとき、そしてその進行が加速するとき、人は容易に中心主義や国家主義帝国主義や順応主義やメタフォリカルな意味でのネオコンに――総じて保守に舵を切るということ。時に構造について抽象的に思考することのないままに。いや、あるいは、世界システムについて思いをめぐらせるならいっそう露骨に。


いわゆる相対的な既得権者が自己とその周囲の利益のみを考えるなら、人はおよそ保守的な選択を示してなんら不思議ではない。強い無法な個人が屹立するために、国家主義的な枠組が要請されること、西欧的なファシズムが中間集団をことごとく解体したこと。


強き国家のために強き個人があり、強き個人のために強き国家がある。他者への想像力?なんすかそれ。食べられるのですか。――そういう状況です。ステージが進化したと言うべきなのか、慶賀すべきことなのか。


ちなみに「石原氏が都知事であるがゆえに支持されている」という言は、上記のような意味で言うなら私もまた、その通りと思う。


すなわち、上記の認識について双方が一致したという前提のもと、都知事と都民、双方の「意思と欲望」ひいては「希望」もまた、かかる事項においてかりそめの一致点を見出したのでしょう、と。同じ夢を見た、ということですよ。現実には明白に同床異夢であるとして、そのことに気が付かない都民でもない。


「意思と欲望」を石原氏は煽りもしたが、認識については、都知事に帰し得るものではないし、かかる認識を私は一概に批判し得ない。そして、「意思と欲望」を煽ることのなかった浅野氏の示した認識は敗北したし、実際に見誤っていたとも思う。


「希望」を煽ったとき、かかる「希望」が多くの当事者の「意思と欲望」と合致ないし相関することなければ、「希望」は当事者に対して機能することのない。前提とする認識が相違していたということは、都民の多くの「意思と欲望」を読み違えたということである。而して、冒頭に引用した発言へと帰結する。浅野氏は、都民の多くが「希望」と見なすことのない「希望」を提示していた。


――ところで、私は以上のような構造に基づき支持を集める石原都知事に対してその確信犯的暴言や差別性や偏頗な人格を言挙げ批判することによって現行の都民による石原支持の構造にダメージを与え得ると考える人間の発想がわからない。批判することがわからない、ということではむろんない。指摘し批判したとして、支持の構造にダメージを与え得ると考えているなら、その点についてはわからない、ということ。


石原氏が「余所者」とする存在を、石原氏から「余所者」に区分されることのない都民の多くはやはり「余所者」と思っている。東京における「最大多数」の枠組をいじることを、多くの最大広義の既得権者としてのマジョリティは、その利害と感情において望んではいない。


「最大多数」の枠組をいじることなければ「最大幸福」は既存の枠組のまま一定は享受し得る。そして、石原という都知事は既存の枠組における「あるべき東京都民」の「最大幸福」を保守するための仕事をした。行政面における「改革派知事」たる石原氏は自らの「都民のための」「意思と欲望」をその前提となる認識と共に具体的な言行によって示してきた、無数の顰蹙をものともせず。


その石原氏の、都政に賭ける有形無形の信条と信念に対して、有権者は1票の信任をなお投じたのだ。念の為。私がリテラルに記述しているとは受け取らないでほしい。言い換えるなら、石原氏の「有形無形の信条と信念」についても、有権者は信任したのだ。政策と不即不離であるそれに。


いずれ「最大多数」の既存の枠組は変容を迫られる。それこそ物理的な大状況において。結果において都民が示した選択とは、グローバル化に対するソフトでナチュラルな反動に過ぎない。別名無駄な抵抗とも言う。


そんなことは皆知っているし気が付いている。知ったうえにて変容の蓋然を強制的に捨象し棄却して先送りする、まさしく保守的な態度を最大広義の既得権者としてのマジョリティが示すことは、批判さるべきか。少なくとも、錯誤と言うことは私はできない。


むろん、無理とツケは石原氏本人を含めて都政の方々にて噴出している。しかるに、抵抗の存続をめぐって沈黙の検討のもとに結果として示されたのが、今回の選択である。諸々の無理と強権をひっくるめての「現状維持」という消極的反動を選択したのだ、投票者の過半は。


4年をもって、抵抗は限界へと至る。そして4年のうちに都民における「最大広義の既得権者」とて生老病死含めて多く物理的に入れ換わる。「あるべき東京都民」などという寝言もほざいていられなくなる。諸行無常。わかっているのだ、そのようなことは。終わりの始まりであることなど。


それが、ローカルな地方自治というものである。浅田彰が、(大意)東京という世界の田舎にふさわしい石原という知事、と記していたが、皮肉も含めてまったくその通り、「外様」の仕切ることを許さない「あるべき東京」のローカリズムとその表裏としての中心主義が要請した「田舎者」の大将を、経済と情報の先端都市東京の有権者は選択したのである。


東京都を構成する「あるべき都民」にとって「国際的な先端都市」であることなど知ったことではないし、リベラリズムや「他者への想像力」などもっと知ったことではないのである。それをして「田舎者」と言うが、都市住民とは総じて都市という田舎に自足する視野狭窄の徒である。


東京帝国主義者に対してその植民地主義性を説く、それはまさしく繰り返す歴史である。そして、社会的弱者やマイノリティの存在について啓蒙したあげく「なるほど植民地からの搾取と収奪については了解しましたが、それが何か?」と問われて唖然とするのも繰り返された話である。


都市住民の個人至上主義は公共概念の捨象と棄却と遺棄へと帰結する。それだけのことである。皆、ただ単に、住民として、東京を「住みよい街」にしてもらいたい、ただそれだけなのだよ。


「ただそれだけ」であること、そしてそのことを平然と公言すること、それが公共概念の捨象と棄却と遺棄である。狡猾なる東京都民をそして市井の小さき生活者を舐めてはいけない。単に石原マンセー有権者などそうはいない。


念の為に再度記すなら、安倍的な保守と石原的な保守は別物である。安倍政権が地域共同体の保守なら、石原都政エドワード・ホッパーの絵画に描かれた世界のごとく個別単位として孤立した都市住民の保守である。そしていずれも公共概念なき以上、ことに浅田彰から見たならいずれも田舎であり土人なのである。


最大広義の既得権者としてのマジョリティは、正しく保守的な選択を示した。相対的にも既得権なきがゆえに社会の流動化を求めて戦争の勃発を望む者がいるなら、その逆の者とている。前者を最前線に送って棄却しようとする者が。――共に「希望」ではある。


いずれも立場上の利害を鑑みるなら、あくまで当事者の主観においては、であるが、正しき判断ではあろう。それは、双方にとっての分岐し対立する「希望」である。そして前者を「最大多数」の枠組に算入するか(言い換えるなら――包摂するか)否かによって、リベラリズムと保守は分岐する。


前者を「あるべき都民」にあらずとするのが石原都政であり、それに対するNOを提示したのが浅野史郎である。結果は出た。現行の/現在の「最大多数」という枠組には絶対に触らないという、現職知事が言行としての「実績」によって示してきた「最大多数」との約束が、「最大多数」によって再度信任された。それが、現時点におけるアンサーである。


つまり。後者の屠られる蓋然を抑制するために、前者が時に屠られることをやむなしとする。後者に対する友愛を示すことのなき前者を「最大多数」たる同胞とは認めない以上、当然の帰結である。「余所者」と「余計者」に与える「最大幸福」はない。当然のことだが。端的にロジカルエラーであり、リスクコントロールとしても誤っている。復讐するは我にあり、という言葉を、彼らの幾らかは知らない。


このようなことを記している私の立場をシニシズムと言うのかは、よくわからない。ただ、私見と断っておくが、少なくとも現在の日本に限るなら、それこそ原理的に、リベラリズムの啓蒙はおよそ地域帝国主義ローカリズムには勝てない。


啓蒙が悪いということではない(――というか、私は啓蒙主義者だ)。かような状況を一概に間違っているとも、私は言えない。ごく手短に圧縮してメタフォリカルに言うなら、宮城県の出身者を東京都民は迎えることないという事実的なる状況について、一概に間違っているとは、言い難い。


都市に固有のローカルな擬似ナショナリズムの存在を、都市幻想の所有者は見誤っている。しかるに。ローカリズムの解体は、良し悪し以前に歴史の必然である。それこそ、物理的なる大状況に由来する。そして石原式の(擬似)国家主義的な地方自治とは、端境期における反動の徒花であった――後年にそう総括できるなら、よいのだけれども。


最後に。私はPCを条件付にて前提する人間であると断っておくけれども。「倫理性において批判的な検討に付され得る発言」は時に公的な批判にさらされる。それは仕方がないと私は思う。というか、仕方がなくないと私がするならおまえが言うなという話である。原則論として、政治家の「問題発言」は批判さるべきと考える。しかるに。


時に人は口をつぐむ。私とてまた、一般論としても、個人のあからさまに不穏な本心本音を公共空間にリリースして無問題と考える人間ではない。しかるに。無言の行動は常に強い。「買い物の途中で近所の公民館へ寄って、鉛筆で人の名前を書いて箱に入れただけ」の言葉なき行為の集積が、石原慎太郎過半数の得票を与えた。「たかが1票」の集積が――


仮に、石原氏に投票した有権者の多くが自らの投票行動の理由を公開ブログにでもいっせいに本音モードにて書き連ねたら、その多くは「倫理性において批判的な検討に付され得る発言」に該当することであろうし、実際に批判にさらされるであろう。無批判を前提して公共空間にリリースするべき類の見解ではないし、原理においてそのようなものは存在しないからである。


しかるに「たかが1票」の行使という無言の行為を、その集積が示した「民主主義における民主的な手続きのうえで正しい」結果について、その無言の行動とその集合を倫理性という観点から批判することは難しい。時には、検討の遡上に昇らせることすら。私は、リベラリストは今なお最低限綱領として民主主義を前提するものと考えている(民主主義の「輸出」や「強制」を前提する、あるいは現行の民主主義に対する無検討/無懐疑を前提する、ということではない)。


偽日記


07/04/08(日)付日記.上記「買い物の途中で近所の〜」という括弧内記述も引用。――ありうべき誤解を解くために。私は幾年も上記日記を愛読している管理人氏のファンである為念。当該日付の日記は卓見です。

ともかくも選挙には行かなければはじまらない、みたいな考えをぼくは信用していない。「既にあるもの」としての選挙制度などで、何かがかわるなどとは思わない。だって、全てお膳立てされたなかで、ただ鉛筆で誰かの名前を書くだけなんだから。


仮に、誰が勝ったかと問うなら、「「既にあるもの」としての選挙制度」の中、投票率の大幅な上昇を記録した「全てお膳立てされたなかで、ただ鉛筆で誰かの名前を書くだけ」の民主主義的選挙において、投票所に足を運び無言のもと、「たかが1票」としての「鉛筆で人の名前を書いて箱に入れる」、ただそれだけの行動を「あえて」示した250万を超える「有権者」の沈黙、ということになる。私はそのように考える。


サイレントマジョリティの話ではない。私も含めて、声高な人間の意見だけが云々ということでもない。ただ、私は、声なき人の無言の行動が発する、時に「倫理性において問題の所在する」声に耳を傾けたくは思う。


たとえ創価学会員であれ、あるいは某所にて記されていた知的障害者と思しき投票者であれ、「石原慎太郎」と「鉛筆で人の名前を書いて箱に入れ」たことは事実なのである。時に判読に難い字で。動員乙とすることは易い。右も左も含めて、「言論」は物理的なる大状況に対して常に無力であるとき、何を記すか。


そして、最低限綱領として民主主義を前提し支持する私は、こうして、選挙結果に対する自分なりの分析的見解を愚直に示している。なんつーか、これこそ自虐だなとつくづく思う。


――こういうことは書きたくなかったけれども、結語を置く。都政におけるリベラリズムの施策的な実践は、都民投票者の過半によって、事実上、否定ならずとも否認された。なにゆえにと問うなら、都民投票者の過半が馬鹿だからでも啓蒙主義者が馬鹿だからでもサヨクが不細工だからでもリベラリストが時に高慢で理想主義で言っていることが難し過ぎて解されないからでもない。


語彙と枠組の存在を知らずとも、都民有権者はおよそ的確に現行のリベラリズムの何たるかを直覚し把握している。そして個別に判断し結論したうえで投票所に足を運び無言の投票行動によってのみ示す。今現在の「私」と「私達」にとって能う限り利益となる「最大多数の最大幸福」を実現し維持していただきたく。そのためにこそ諸施策を立案し運用していただきたく、と。


ひいては。「最大多数の最大幸福」概念自体についても、今現在の「私」と「私達」にとって能う限り利益となるべく規定し運用してもらいたし――かかる規定と運用が恣意的であろうが倫理性において欠如していようが来たるべき状況に合致していなかろうが、小さき「私」と、ごく狭き範囲の、顔を知り人柄を知り手の届く「私達」のために。


かかる「NO」が、280万の都民の見識に裏打ちされたアンサーである。――「急がば回れ」という格言とその正しさを、貴方は説得的に示し得るのか、今日明日の飯を前提する倫理性において決して無欠でない人間存在のために。むろん「貴方」とは、自らをリアリストとおよそ考えたことのない、根において非社会的な空想家たる私自身に対して問うているのである。「急がば回れ」の正しきを、私は了解している。――〆