石原氏のオリジナルな審美主義をめぐって淡々とインフォするよ。


http://d.hatena.ne.jp/kmizusawa/20070404/p2


原則同意です、私は「右派」ですが、自戒を込めて。そのうえで、本筋からは外れたことだけれども――以下、kmizusawaさんに対する何かということではまったくなく。

石原個人に対しても、四男問題のときに顕著だったが、知事として公私混同的なことをするのが問題なのに、四男の絵のレベルを馬鹿にして、そんなものを芸術扱いするのはおかしいといった、個人のセンスの問題にいつの間にかすり替わっていた。


「四男の絵のレベル」については措いて、また彼の文学観についても措いて言うなら、石原氏は美術については一家言のある人で、見識も日本の政治家としては相対的に有る人です。作家であるから当然、とも言えますが。論より証拠。手元に『美術手帖』の2000年8月号がある。石原都知事のインタビューが掲載されている。編集部が記した前記より抜粋。

東京都が運営する各美術館は
いま経済性と文化振興のはざまに立っている、
大幅な運営赤字が都財政を圧迫しているのだ。
石原慎太郎東京都知事
斬新な館長人事を断行して刷新をはかりつつ
予算削減の方針を各美術館に示している。(p69)


以下、インタビューにおける石原氏の発言抜粋。(p70−73)

――こんど知事の発案で、都庁の回廊をギャラリーに見立てて「トーキョーワンダーウォール」という新人選抜の公募展を始められましたが、これも若い人の感性を生かした企画ですね。(略)


石原 (略)

僕は画商の友だちもずいぶんいるけれども、日本画の特定の画家があんな法外な値段で売られているなんて、日本は終わりだよ。日本の政治と絵画のかかわりというのはほんとに貧弱なもので、たとえば首相官邸に掛かっている絵を見てごらんよ。毎月、どこかと契約して替わるんだけど、くだらない絵ばっかり。

 現代のアートがいろんなものを追っかけるのはいいよ。ただね、僕はギャラリーためながの親子とも仲がいいんだけど、僕がフランク・ステラは嫌いだというと、「私も嫌いだ。あんなものはだめだ」。(略)僕は中原浩大のすごくおもしろいオブジェを買ったの。そしたら接着剤がはがれて倒れてきちゃったんだよ(笑)。そんなのはシェイムだよ。

それで、石原とか徳間(引用者注:康快、徳間書店創業者にして元東京都写真美術館館長)が乗り込んできたらアートフルなものがなくなるとかいったから、「それはそうかもしれない」といったんだ。ようするに、アラーキーの個展を現代美術館でやったら客が来るけど、「あんなもの」といって写真美術館に展示しないんだったら、加納典明はもちろんだめだし、メイプルソープだって、ものによったら展示しないわけだろう。

写真はたかだか写真でしかない。でもほんとうの写真というのは難しいよ。とにかく採算がとれなきゃしょうがないんだもの。僕は言ったんだ、どんな芸術的なものでも人が見なきゃ芸術品じゃないだろうって。

僕がいままででいちばんいいと思ったのは、生まれてはじめてスペインに行ったときに、トレドのカテドラル(サント・トメ大聖堂)の中に《オルガス伯の埋葬》が一枚だけあったんだよ。ああいう絵の飾り方は、もうたまらなくいいね。プラドなんかになると、いいものばかりありすぎるから、目移りがしちゃって。今日はゴヤだけ見ようと思って行くのはいいけど、ティントレットも好きだし、ルーベンスも好きだし、となってしまう。(略)《オルガス伯の埋葬》のときは、ボーッとこうやって三十分、四十分、見てられたもの。僕、グレコが好きだから。

東京は一種のカオスだから。それがいいんですよ。たとえば福沢一郎を僕は好きだし、東京駅のステンドグラスだっていいものだけど、人はほとんど気がつかないでしょう。目立つように置いてないし。猪熊弦一郎さんの上野駅の絵だって、あれはペンキですね。だからまた塗り直したんだよ。あそこをJRが建て直すというから、僕は社長に「だったら、あれはちゃんとはがして美術館に戻してやれ」といったら、「いや、あれは僕も好きだから直すにしてもきちっと保存します」と約束してくれた。あそこで立って見ていると、うしろから突き飛ばされちゃうしさ(笑)。でも、ああいう公共の場所にある美術館のほうが雄々しくて、僕はいいと思うけどね。

――一般の人の目に触れるところにもアート作品があったほうがいいと考えていらっしゃるわけですね。

石原 そうですね。なにか下意識にあるものを植えていくんじゃないかと思うんだ。

――(略)アートが社会的に機能することはできないでしょうか。

石原 むずかしいですなあ。無駄なスペースはいっぱいあるけどね。知事室の前の細い廊下もなんにもなかった。せめて写真ぐらい置けといったら、都庁職員のコンテストにとおった下手な写真なんか持ってきたんだ。「やめてくれ、せめて加納典明のを」というと、加納のおとなしい写真ばかり持ってきやがってね(笑)。ワイセツでもいいからおもしろい写真を持ってきてくれと言ったんだ。

やっぱりドキッとしなきゃ。まさに挑発だよ。太郎さんじゃないけど、芸術は爆発だよ。

――太郎さんの《太陽の塔》のようなものはどうですか。

石原 あれをひとつ残したのは、とってもいいことだね。あんなすごいモニュメントってないよ。あれはすごいよね。

僕は美術に限らずアートが好きなので、東京をおもしろい街にしてもらいたいよね。でも、わが街では路上に彫刻を据えましたって、通りに作品を置いてあるじゃない。あんなのはみっともないよな。


……公正を期するために記しておくと、当該インタビューの、なんというのか、公職にある人間としてはいささか「不穏」に受け止められかねない発言については、分量の関係からも引用しなかったのですが、それでもこうして書き写していると、正直、微妙な感想を持たざるを得ない。たぶん、それが石原という人なのですね。能う限り穏当な表現を用いるなら――その「不穏」さが。


都知事になる以前の、石原氏の自宅や仕事場を撮影した写真を目にしたことがある。それはよくある「作家の仕事場」といった連載をまとめた大判の写真集であったが(注:篠山紀信のものではない)、そこに写されてある石原氏の自宅と仕事場の、一貫した独特の趣味の良さというか悪さというか、きわどい紙一重の美的な規格に驚いた。整然として厳格にモダンな美意識によって貫かれた、それでいてどこかひどくストレンジな内装の邸宅と、仕事場であった。


ただ、そこに石原氏独自の「美意識」が貫徹されていたことは、間違いない。名高い佐藤春夫の自宅のように誰しもが「趣味がよい」と認めるものではないであろうが、少なくとも私にとっては、美的には惹かれる邸宅であった。暮らすことは御免だが。


――はっきりと言うなら。基本的には大戦前のフ※※※※的な美意識に規定され貫かれた邸宅であった。それも、ドイツというよりイタリアの。邸の主における意識の有りや無きやについてはわからない。で、私は好きなのですね。建築的な美意識としては。磯崎新御大に、いっぺん見解を伺ってみたい、石原邸について。


なお、当該の頁の巻頭には、庭に設置された岡本太郎作の「坐ることを拒否する椅子」に腰掛けて脚を組み雄々しく何処かを見据える石原氏の御姿が。坐ることを拒否する椅子に堂々と脚を組んで腰掛けるのが石原という男であると。いや、格好良く決まってはいるものの、へんてこな写真であった。かのコロニアル式の邸宅においてキメている三島由紀夫くらいに。むろん石原氏に、三島のような演技意識/虚構意識などあろうはずもない。


http://www.new-york-art.com/tarou-sakuhin-Sculptures-9999.htm


↑に堂々と腰掛けて渋く決めている壮年の石原慎太郎を、イメージしてください。


少なくとも。石原氏には独自の審美意識があるらしきことは疑いなきことであり、その実質とて斎藤環による考察によって摘出されてはいるのだが、とまれ自治体の美術行政を語るに際してメイプルソープに肯定的に言及する都道府県知事が日本において石原氏の他にいるであろうか、そう、かつての田中康夫以外に。もっとも、石原氏がメイプルソープに肯定的に言及するその内的な文脈を考えると、なんというか、悩ましくもある。


そして、今年の1月、東京都写真美術館にて細江英公の大規模な回顧展が開催され、多くの観客を集めた。東京都現代美術館の転機ともなった、2001年秋の大規模な村上隆展とて、石原氏の都知事就任以降のことであり、これもまた、多くの集客を誇った(私も足を運んだ)。質の高い展覧会であったことは、言うまでもない。


また、石原氏が都の美術行政において為した仕事(と言ってよいと思う、トータルには)には、以下において紹介されている施設も含まれている。


http://d.hatena.ne.jp/Belial/20060607


もっとも。この筋が冒頭の「四男問題」へと結実するのであるが。――結局、良きにつけ悪しきにつけ、石原氏をめぐるかような側面については、以下の見解に集約されるのであろう。


浅田彰【石原慎太郎と政治の美学化】

それだけに、粗野な反米ナショナリストとして知られる石原が実はそれなりに教養のある文化人であることが強調されている。たとえば、ラウシェンバーグやクリストの作品と並んで、慎太郎自身の描いた裕次郎の肖像が飾られた知事室。

「(略)石原の考えには、主観的で、並外れて隠喩的なところがあるのだ」。この判断は正しいと思う。


知事室にラウシェンバーグを飾るくらいに、相対的にも「現代美術に対する見識」ある日本の都道府県知事は、現在では、石原氏以外には、かつての田中氏くらいしかいまい。石原氏は具体的折衝の能力と資質を欠くがゆえ、浜渦武生のようなタフ・ネゴシエーターを必要とした。


もっとも。私にとってもわからないのは、いわゆる広義の「石原支持」のうち多くは、べつだんこうした事情やコンテクストを知ったうえで石原氏を支持しているわけでもあるまい、ということ。たとえばではあるが、上のような事情を知っていたなら「石原には芸術がわからん」とは、そう安直には軽々しく言えない。下手すればブーメランとなる。


もっとも、たぶん実際に、たとえば「絵画」の何たるかについてはわかっていないのであろうと思う。というのも、文学含めた石原氏の芸術観においては「形式」という概念自体が存在しないので。そしてそこに、石原という稀有な人間の、あるいはその小説の、色々な意味において無規範な魅力が所在する、というのは斎藤氏の二番煎じではあるな。


「形式」概念なき内発の人石原慎太郎にとって、美とは常に実存の反映としてある。個の実存を映す美が爆発としてある。それなんという『オリンピア』?――うん。私もそう思う。大筋において浅田彰の言う通り。しかるに世界の選択は――ではっ。