黒の舟唄


黒の舟唄

たとえば男は あほう鳥

たとえば女は 忘れ貝

真っ赤な潮(うしお)が 満ちるとき

なくしたものを 思い出す


一時、私のカラオケにおける愛唱歌でした。迷惑がられましたねぇ。さすがに女といるときに歌ったことはない。引かれるというレベルではない。女と私的にカラオケに行く趣味がとうになかったりもする。きっとリリックを記した本人は女の前で歌ったのでしょう。歌うのが漢の本懐であり、漢の本懐とは偽悪的な偽善者であること。むろん、私のそれがコスプレでありロールプレイであること、知っている。たとえ本当に好きであっても、どことはなし不自然であり人工的なものです、20代の男がフォーククルセイダーズとか浜田省吾とか歌うのは。


リリックを記した能吉利人こと野坂昭如先生の、甘く臆面もないセンチメンタリズムとロマンティシズムに満ちたポエムにやられていた、我が事ながら恥ずかしきもの也。久世光彦がその死の直前、『マイ・ラスト・ソング』という連載エッセイにてこの唄のことを一見遠まわしにその実かなり直裁に斬っていた。記憶に基づき超単純に要約するなら、臆面がない、陰惨だ、と。


実際、男と女を、かくも一見甘くその実相当陰惨に謳い上げるのも、あの時代のゆえのことではあり、時代と寝た野坂昭如の資質でした。そして、かかる昭和の男と女の絵空事の陰惨を、桑田圭祐がツボを押さえてセンスよく汚しを入れてカバーする。かくて、ながらえるものと失われたもの。還ってこないもの。