Apemanさんへの返事のはずがいろいろと脱線


――Apemanさんからいただいたコメントに対する返事として記し始めたところ、またしても長文となり、そのうえ前半部にて色々と内容的に脱線し、かくてまた遅レスとなってしまったがため、当該コメ欄に投稿するところを変更して、幾つかの小見出しに割り振ったうえ、更新も兼ねて新規のエントリとして掲示します。御了解ください。


行為の帰趨――書簡――(中編) - 地を這う難破船


Apemanさん、ども。9日付エントリに記した事情から、御返事が遅れまして申し訳ありません。ぶちまけた話をしてくださって、感謝しています。本当に。私は、もう怒ってもあきれてもいないので、普通に応対させていただきます。

南京事件の事

まったくもって呆れました。あなたは私がなにに関して怒っているかをまったく理解していないのですね。私が「遺憾」であるとしたのは「貴方が、私が示した「指摘」を意識して件のコメントを記されたのかわかりかねますが」という一節に対してです。


あくまで、その一点に限定された話であり、南京事件も共同声明も、貴方の怒りには関係がなかった、「かかる「但し書き」に、貴方が私の恣意と他意を一方的に見出している」わけではなかった、ということですか。なら、非常に嬉しいことですし、ことに私の「穿ち過ぎ」についてはお詫びさせていただきます。


貴方は――私のことをrevisionnistとは考えていないとしても、いわゆる否定論に対して密かにシンパシーを覚えている人物であると、判断していたのではないかと、考えたので「ふざけるな、と頭にきて」しまいました。それもまた、私の側の「予断と先入見」であったようです。


ただ、いずれにせよ、つまり、上記のコメ欄における局所的な「喧嘩」がなくとも9日付のTBエントリは掲示したと思います。それは「前編」に記してある通り。馬鹿は日本語圏に限定してやるべきであるし、貴方方が公的に発信した「共同声明」に対して、共鳴する「右より」もいる、ということは、明確にしておきたかった、当方の意思として。


暗黙には、私に限ったことではむろんない、この件についても、Webの、いわゆるサイレントマジョリティの判断力を、右左にかかわることなく、私は結構信じているのですよ。「沈黙者は暗に否定論を容認している」というふうには、一概には考えないほうがよいのではないですか。余計な意見ですが。


佐藤亜紀氏がかつて某会に対して言い放った通り、触ると馬鹿が染る、と考えている方も、多いことでしょう。誰もがこの種の「議論」や「問題」に対して免疫を備えているわけではないし、馬鹿と関わることを必然のコストと考える人間ばかりでもない。コストとバランスする信念を、貴方やあるいは貴方方は持ち合わせている、というだけのことです。


蓋然が必然となりかねないことが明確な案件には、コストの覚悟なきことにはタッチしないことがクレバー――正論です。蓋然はあきらかに、必然の域へと達している。かような言もまた、「炎上リスク」に対する「保身のススメ」の一種ではあろうと思いますが、とりあえず、私も――タッチしましたよ。


――補足的に記しておくと、私は「便衣兵だから虐殺無問題」とは、まっっったく思いません。というか、現在の段階においてそういうことを記す「若い人」の神経がわからない。神経なら蛇にだってあるそうですが(by『長いお別れ』。現在村上春樹による新訳を読んでいるので)。


また「30万人説はないよ」とは、現段階では私は、言いません。理由は、貴方が再三述べておられる見解と懸念の通り。「お前が言うな」な人間が平気で言っているのでね。貴方あるいは貴方方の主張と、内容態度において多くバランスしていないことは、一目瞭然のことです。


仮に「30万人説」に対して、訂正的な論駁を期するなら、緻密な準備とクリアさるべきルールとプロセスの階梯が所在する。歴史学戦争論、基本的な知識に限ったことではない、自己の倫理観/人権意識から現行におかれる政治的な状況認識に至るまで、外部の批判に耐え反駁し得るようトータルに規定して、脇を締め腹を括って臨まなければならない。いわんやそれが、かつて侵略被侵略の関係にあった国家間の歴史認識における、事実認定的な実際の調整を求めるものであるなら、なおのこと。


――の、はずが、あろうことか、真っ先に「中共プロパガンダ」とか「情報戦」とか「便衣兵だから(ryとか、あまつさえ「そんな残虐行為は日本の文化にはない、そういう殺し方は中国人に特徴的なものだ」だのと、不用意にも程があることを言いまくっていて、実を取れるはずがないでしょう。比較文化論を理解してくれ。脇が甘すぎる。って、貴方に言っても仕方がないし、釈迦に説法ですね。


実際――「比較文化論」的に、こう言ってよいなら、たとえば、制度化された暴力としての「処刑」「刑罰」文化における方法的/意識的な相違が存在すること、ことに過去におかれては歴史的にも事実ですが(日中間に限ったことではむろんありませんが)、であるからと言って「中国人の残虐性」などと公言してよい理由にはまったくならないし、倫理以前に論理的にも間違っている。


政治的には、いわゆるレイシズムの文脈から受容されます。そうなったら負けです。いわんや南京事件と絡めるなど論外。ま・じ・で、ホロコースト否定論と同列に処理されますよ。あ・れ・は、現在進行形の、触れたなら腐臭に汚染される、度し難い文明人の恥にして汚物と受け取られているわけです。


というか、別の話をするなら、たとえばですが、「夜這い」等、本邦民俗学の研究成果をもって「現代日本人の性意識」について半可通のガイジンから云々されたら、気分的にはたまったものではないでしょう。ことアメリカ人から性意識について言われたくはない。私なら切れます。――Apemanさんに対して言っているわけではない。誰に対して言っているのか、それは。


他国民他民族の「民族的心性」を、概括的かつ一方的に言挙げることの非礼と僭越と錯誤に気が付くべきであるし、三島由紀夫は自国民自民族のそれについてすら、不幸なほどに聡明であったがゆえに、半分は虚偽と知りつつ言挙げていた、それがために、共鳴する者少なかった。本気でない者に、ロールプレイとしての思想家に、多く人は心酔しない。


他国民他民族の「民族的心性」について、「同質的」な島国の人間が21世紀におかれて真顔で公的に言挙げて云々していたら、おしまいです。というか、比較文化論とは本質論/本質主義ではまったくないから、「民族的心性」の取り扱いはしておりません。文化とは、むろん人工の、持続的な環境を前提する産物です。ゆえに環境の変容に比して時間的にも文化は変容する。


宗教観含めた「文化的な相違」を言挙げることと「民族的心性の相違」を言挙げることは、まったく異なる別個の話です。「文化的な相違」の対比的な検証から、個別の「民族的心性」という、本質主義的な解を導き出してはならない。倫理的にも間違っているし政治的には不用意、そして何よりも論理的に、錯誤です。


いちおう、ネットはドッグイヤーゆえ、みな忘れているかも知れないので、参照項として。


はてなブックマーク - 日本が特定アジアと分かり合えない最大の理由は宗教観である。|C.I.L(Charismatic Itabashi Lover)


と関係した話。あくまで、私が読んで勝手に思った、連想的な記述に過ぎないし、当該ブログの管理人氏はいわゆる「否定論者」ではない。私もまた、直接に批判しているわけでも対応的な体にて言及しているわけでもない。管理人氏は「民族的心性」の話をしているのではないと私は判断している。


当該エントリに示された通りであるかは措いて、「文化的な相違」はむろん所在する。文化的な相違を前提した「認識的な相違」もまた、原則論としては。当該のエントリは、字義通りの意味にて面白く読ませていただきました。であるから、直リンはしません。


ただ、危うい立論であるとは、思った。id:CrowClawさんが、注目を集めたエントリによって部分的な反論を示しているし、finalvent氏も突っ込んでいるけれども、遅ればせながら私なりの補足を。


話戻って――「比較文化論」的課題といえ、留意さるべき比較文化とは日中のそれではなく「国際社会」とのそれ。たとえば――アムネスティ・インターナショナルは、日本政府に対する以上に中国政府に対して、死刑制度等、人権問題をめぐる抗議活動を展開しています。当然のことですが。とはいえ私は、かの国については一概には民主化支持でも、なかったりする。


加えるなら、端的に、いたずらに自らを貶めるようなことは能うかぎり公的に記したくはない、という自己規範の話。モラルとは自己規範の謂であり、倫理とは個人の内なる視線として所在するものであると、私は考えているので。原理的に、倫理とは外在的なる自明の装置でも機構でもない。


私は――原則的には、既に「歴史」に属する事項をめぐる、事実認定の領域については、多国籍の多くの専門家による「非政治的」な精査に委ねるべきである、と考えています(意図して「非政治的」と書いている為念)、ことに対象が「虐殺」という戦争犯罪であるなら。有体に言うなら、不勉強な私が現在の段階において犠牲者数を云々したくはない。であるから、その領域については、むろん貴方と比しても相対的に不案内な私は、直接には言及しません。


しかしながら、原則論とは別個の、現在進行形のアクチュアルな問題と問題設定が明確に所在していて、政治的なる、あるいは倫理的なる、ないしは端的に不穏な――それに対して個々人が如何に処するか、という課題は、むろん在りますし、その所在について私は認識しています。


――私の解釈によるなら、それが、貴方が呼びかけ人ないし言い出しっぺとして「共同声明」を草し発信したことの意味と理由であり、私は、その旨に対して、共鳴し支持を表明しました。9日付のエントリにて、長めに引用させていただいた、貴方の2月25日付エントリでの「補足」において、貴方が示した意図と意思とは、そのことであったし、私は、引用の箇所に示された意図と意思を拝見して、個人的に納得した、ということです。


そして――現実に、馬鹿の政治的な「工作」の横行によって「専門家による「非政治的」な精査」自体が、その継続が、あるいは長年に亘るその結果ないし成果が、旧来的なイデオロギーと政治問題の大好きな馬鹿によって阻害され簒奪され撹乱されているという、困難な現状がある。


政治問題化しイデオロギー化することによって妨害されるものが所在するわけです。「日中友好」も含めてね。妨害自体を目的とする言行としか、時に思えないから私は「工作」と呼んでいるわけです。


そして、現在の時点におかれて、南京事件をめぐる議論に限定するなら「旧来的なイデオロギーと政治問題の大好きな馬鹿」はどうみても「右」の論者らしき人達に多く見出されます、本当に(ryというバックラッシュに対する苦諦の念は、わずかにはないでもない。わずかに、しかないのは、かつて弛緩しきったままぶいぶい言わした自業自得な言論人とメディアの連中については見放され叩かれて当然と思うので。


現行の中国共産党というファクターが、議論に関して、あまりにも決定的に介在してしまっているわけです。むろん、原則的には私は認めない。別個の話、と思っている。というか、厭な話、毛沢東は日本の侵略に感謝していたわけですよ――結果論として。行為の帰趨、です。


しかるに。「中共を利する」といった言が横行する一因を作った、過去に「中共を利する」としか言い表しようのない言行を実際に繰り返してきた、名のあるイデオロギーの徒の方達は、現状を鑑みて、自ら処決してください、と思う。自己批判せよ、とは、私は言わないから(自刃せよ、とは言うのが右)。


いささか脱線しました。しかしながら。繰り返すなら現状を鑑みるに、さすがに、閾値を超えているとは、私もまた、思っているし、かような「工作」は、日本国を「利する」行為であるはずがない。それが、「右より」たる私の感慨であって、「共同声明」に対する支持を公式に表明する理由でもあるし、そして、支持表明のエントリを、いずれにせよ掲示しようと考えていた、その理由です。私は、貴方やbluefox014さんのブログを、ひやかしで愛読しているわけではない

慰安婦問題」の事


少しく言及。現在進行形のかの件については、私は辟易を通り越して、ドンビキしている。たとえば、いわゆるフェミニズムにおける議論を概括的にもフォローしていたなら、とうに知った話であり、寝た子が起きたなら、政治的にも予期された帰結です。


実感からも――この件については、南京事件をめぐる議論と比して、国内的な反応はいささか異なる。個々の冷静なる認識とは別個に、端的に、ドンビキしているサイレントマジョリティが多いこと、私は保守なので、察知したうえにて国内的には空気を読んでいただきたいと思う、ことに池田信夫先生は。


――池田氏を無理筋承知でフォローしますと、少なくともエントリ本編におかれては、池田氏は字義通りの意味にてリテラルに「非問題」と言っていたわけではなくて、既存メディアに対する批判的な論者として「朝日がその大々的なキャンペーンにおいて、当初、違えた筋道のもとに問題提起することにて「問題化」し、筋道を違えた「問題」を広く周知させて、吉田氏の証言を前提するような誤った認識を蔓延させた」という趣旨のものであって、氏は朝日新聞による「問題化」の、その過程に所在した部分的なる問題点について(その恣意をほのめかしつつ)指摘していたのですが……


「英語だとまともな議論をするのに日本語だと喧嘩を売っているとしか思えないネイティブ日本人の池田信夫という人」(by切込隊長氏)の法則発動と言いますか。キャッチーで挑発的な断定と共に言葉を補うという発想が、いつものごとくない人で。「慰安婦問題」とそれをめぐる認識については、id:jujoさんの重ねての指摘、ごもっとも。


十条さんも紹介しているブクマコメント。


はてなブックマーク - 池田信夫 blog 朝日新聞という亡霊

2007年03月14日 kurokuragawa 日本, 歴史, 政治, マスコミ 慰安婦問題は実在する。朝日が作ったフィクションは「(強制連行された)従軍慰安婦」問題


端的に言うなら、それに尽きている話です。私は蒸し返したくもないけれども、吉田氏の証言を前提するような「慰安婦=軍あるいは当局による直接的な強制連行」という認識は、少なくとも莢雑物なき純等号的な関係として捉えるなら、現在の時点においては、成立しない。成立するかのように記して報じたなら、それは誤報か詐術です。


そして、その点に関して、ネットインフラの普及なき時代における影響力からも、当時の朝日新聞には問われるべき責が所在する。であるから、その点については、なおかつ細部を措いた大筋においてなら、「専門家」たる池田氏の指摘は妥当であると私は考えますが――


なお、ちょっと気にかかったので、ひとつの反論ですが、少し。引用した当該のブクマコメントをめぐって、十条さんのブログエントリに書き込まれていたコメント。


「無から有を作った」という池田信夫アジテーション - 十条隆介の「極右系の人たち」観察記録

# bluefox014 『こんにちは。
保守系ブロガーに位置する玄倉川さんが「慰安婦問題は実在する」と述べているのは印象的ですね。これに対し池田さんは「慰安婦問題は存在しない」と言い張ると。』 (2007/03/16 03:39)


べつだん他意はないのでしょうが――というか意図はわかるのですが、池田氏は措いて「保守系ブロガー」云々については、何を言っているのですか、というものです、id:bluefox014さん。


慰安婦問題は実在する。」――当然。かつて朝日新聞が大々的に行った「問題化」の、その筋道については異論なしとはしないけれども。という認識を前提する「保守系」の「実在」については、踏まえてください。であるから、私もこうして余計なことを多くインフォ目的にて記している。


池田氏は当該のエントリにおいて、断定的に述べている――「「慰安婦問題」なんて最初からなくて、これは無から有を作り出した朝日新聞問題なのだということだ。」と。


当時、朝日新聞は、筋の違う/筋の悪い仕事をしたよな、しかもいまなおほっかむり、こないだのあの社説はなんなの、という意味における「朝日新聞問題」は、池田氏の指摘通り、歴と存在します。しかしながら、こと現在におかれては「慰安婦問題」=「朝日新聞問題」では全然ない。「慰安婦問題」は「朝日新聞問題」と別個に歴と所在する。


朝日新聞問題」の指摘は肝要、私はとことんやるべきと思う。しかしながら、「朝日新聞問題」の指摘によって、現行の、米欧にまで波及した百家争鳴としての「慰安婦問題」を無には帰し得ない。「朝日新聞問題」の指摘をもって「慰安婦問題」はバーターされない、国内的にも。


蓋は、開いてしまいました。「慰安婦問題」と「朝日新聞問題」は、別個に存在する問題として、別個に追求が為されるものです。個々の個別的な問題関心と問題意識に基づいて、あるいは個々の信じる相対的正義に基づいて。


池田氏は、少なくともレトリックのうえで、異なる問題を同一にしてしまった。当時の朝日新聞が言挙げていた「慰安婦問題」と、現在国際的に問われている「慰安婦問題」は、別の「問題」、であるはず、ですが――……


慰安婦・慰安所に関してオンラインで閲覧できる一次史料(追記あり) - Apeman’s diary

この問題が広く認識された当時「強制性」についてどのようなことが言われていたのか、なにぶんかなり前のことでありかつその後集中的に調べたこともないのではっきりした記憶はないのだが、仮に「ほとんどのケースで、銃剣を突きつけて連行するような強制が行なわれた」といった認識を持つ人が少なくなかったのなら、その点に関する限り認識を改めるよう求めたってかまわないだろう。しかしながら、そのことは国家が自国の兵士の「性」の管理のために女性を動員することを国家として発意した(単に黙認するといった消極的なかたちではなく)という問題にはなんら影響を与えない、というのがeichelberger_1999さんの問題提起の趣旨であろう。


最初に。「eichelberger_1999さんの問題提起の趣旨」には同意、ロジカルには。そのうえで。


少なくとも、私の記憶に基づく認識によるなら「銃剣を突きつけての強制連行」という、あるいは「俗情との結託」として形成されたイメージ――「「ほとんどのケースで、銃剣を突きつけて連行するような強制が行なわれた」といった認識」が、この「問題」に関して、こう言ってよいなら「通念化」していた時期が「過去に」在った。


私の記憶と認識に、いわゆる右バイアスの色眼鏡が介在していることを、認めますが。当時の朝日新聞が展開した「キャンペーン」が、かかる「通念」の「過去における」蔓延に関係しなかったとは、到底言えない。影響力の点からも。


それがための10年前、国内的な、当時蔓延しているとされた「通念」に対する反撥が広く示され論駁が為された。秦氏らもコミットした当時の議論に部分的かつ限定的にも実がなかったとは、私は言わせない。しかしながら。而して現在のこの事態……歴史は反復される、2度目は略。清算、すべきなのでしょうね。


私は、こと当時の朝日新聞は、左右両翼(ここ大事)から、部分的かつ限定的にも批判的な指摘を受けてしかるべきであると、考えています。「強制性」をめぐる問題が、かくもこじれた一因は、いわゆる「奴隷狩り」的な、「軍あるいは当局による直接的な強制連行」という「通念」の「過去における」蔓延にあり、「通念」的な認識という、現在におかれては、国内的には多く存在しない敵をいまなお撃たんとする発想にある。


朝日新聞がその影響力を通じて「問題化」することもその言挙げを広く周知させることも、それこそ、原理的には無問題。ただし「問題化」の筋道を、あるいは作為ありてか違えたことこそが、いまなお続く混乱と錯綜を招き、ひいてはそれは対米欧的な問題へと波及した。踊る阿呆、と私は思うし、朝日とそのコネクションの思う壷と考えている(追記:比喩的な話。為念)。トラップとしての議論には、乗らんことです。


「通念」と「通念への論駁」という、いまなお継続しているらしき(「通念」に対する、現在の段階における訂正は為され、それもまた広く周知された。その件に限るなら、知的には終了した議論と思っていた)、対応関係にある国内的な、あるいはドメスティックな議論の文脈のもとで、いわゆる「狭義の強制」という発想と認識と語彙が、政治的ならざる知的な議論の土俵においても10年を経たいまなお生きている。そのことを知って驚いたのでした。


「軍あるいは当局による直接的な強制連行(銃剣を突きつけてのそれ)」という「通念」と「狭義の強制性」という認識と語彙は、対応している。「慰安婦=軍あるいは当局による強制連行」という「通念」をめぐりめぐって、万事は朝日の掌。みな思惑通りに踊る。呪は作動し続けている。


そして。かかる発想と認識と語彙自体が、中韓というファクター含めた国内的な政治状況と議論の文脈から切断されて摘出的に欧米諸国に晒されている、という西欧主義者にとっては慶賀すべき事態が到来した、と。「かかる発想と認識と語彙」を、首相自身が公式に表出してしまったら、それは、ね。チェックメイトでありんす。


仮にも先進国の首相が「慰安婦」などという単語を口の端に上らせることあってはなりません。よりにもよって、御自ら国会答弁にて強制性の定義の話とは。首相は立場上絶対に触ってはならない話、という認識はないのでしょか。


戦時の性労働の話ですよ、それも植民地統治地域を舞台とする、国家の関与が問われている。「性的搾取」に、もし国家が直接に関与していたなら、しかも公的な軍の書類まで残っていたなら、まずいに決まっているではないですか。首相が「強制性の定義」について国会答弁にて言明するということは、ちゃぶ台返しと同様です、パフォーマティブには。


半世紀以上経っていようと追求され断罪されるのです、よりにもよって、かつて原爆を2発も落としてくれた、いまなお政策的なダブルスタンダードが標準の、自称普遍主義の使徒達からね。――はっきりと書きますが、複合的なファクターの見事な連続技、最悪のコンボとしての、国辱です。


そして2007年におかれて国内的な文脈から「インテレクチュアルの知的な議論の俎上」において反復されているわけです、吉田という名前が。なんなのそれ。なにゆえに、かくも万事が噛み合わずズレまくったあげく、現実にソリッドにも洒落にならない事態へと至るのか。


ええ、むろん日本が土人的な島国であるからですよ。この件については、そのことに対して、思いを馳せるのです――私は。あるいは、そのことだけに対して。


遅ればせながら、参考。


歴史認識問題の難しさ: カワセミの世界情勢ブログ


参議院の攻防: 雪斎の随想録


歴史認識問題(1) 日韓: forrestalの回顧録

Apemanさんのコメントに対するレス


以下、内容としては私信的な返答です。何の話をしているのかわからん、という方は、スルーなさってください。冒頭にリンクしたコメントに対するレスで、当初こちらが本題でした。私の遅レスも悪い。

それこそアクセスログをチェックすれば私があなたの「示した「指摘」を意識して件のコメントを記されたのか」どうかはわかる(=うちゃさんのところにコメントした時点で私はあなたの「指摘」を読んでいなかった)はずですが、


「私のブログ「本館」には「最近のトラックバック」なんて機能はありませんから、あなたが返答を書いている間にこちらが書いたエントリで当初のエントリは「埋もれて」しまうのです。」と同様の、「当方の事情」という話でしかないことですが(――トラックバックは送りました、「前編」のアップロードと同時に、としか、当方としては応対のしようがありません)。私はアクセス解析の習慣がなく、今年に入ってから一度も試みていない、記事の下に表示されるリファラを見るくらいです。カウンターすら長らく確認していない。


ゆえに。私はアクセス解析機能自体に、あまり詳しくないのですが、「アクセスログをチェックすれば私があなたの「示した「指摘」を意識して件のコメントを記されたのか」どうかはわかる」ということは、つまり。


それこそアクセスログをチェックすれば、「前編」の掲示以前に私が貴方のブログの26日付エントリに目を通していたことはわかる、というか、私が貴方のブログを、普段は日に幾度もチェックしていることがわかる(コメ欄が常に大変に興味深いもので、新規の書き込みはないかとつい。アンテナ機能を使え、という話ではありますが)、ということも言える、はずですけれども。不案内なもので。違いますか。


つまり。貴方は――3月2日付(日付は1日付)の「中編」エントリを私が掲示した際に、あるいはその極めて近い前後に、私による貴方に対する言及に気が付き、「前編」を確認しないままに「中編」の冒頭部の「前追記」のみを目にして、記されてあった「「貴方が、私が示した「指摘」を意識して件のコメントを記されたのかわかりかねますが」という一節に対して」反応し怒りを覚え、掲示時刻の8時間後に「遺憾」とするコメントを当方に書き込んだ――ということですか。


なら――更なる誤解が所在していても仕方がないことではありますが。事実関係について、おそらく貴方は勘違いをなさっている。

仮にその手間を省いたとしても私が「読んでいた」と考える根拠もないのにあたかも「後だしじゃんけん」であるかのような可能性を仄めかすのは卑劣としか言いようがありません。


まず。「根拠」と仰るならありません。sk-44が「前編」の掲示に際してApemanのブログの26日付のエントリを「読んでいなかった」と、貴方が考えたことの根拠も、ないように。


貴方は――私が貴方のブログの「26日付のエントリ」、つまりは「問題の人物」に対して苦言を呈しているエントリを、読まないままに「中編」の前追記を、ひいては「前編」を掲示していると、考えておられたのですか。それとも、私が経緯について知ったうえで、故意にネグっていると、考えたのですか。URLを示したのも、私に対してではなく、当方の閲覧者に対するインフォであり証明であって。


「卑劣」とまで仰るからには、後者であったのでしょうか。事実は上のコメントの通りです。「3月1日付のコメント」と、前追記にて日付まで明記しています。貴方が、当該のブログエントリに最初に書き込まれたのは「at 2007-02-28 23:52」です。


オープンに明記されている事柄について、貴方に対して故意にネグってどうするのですか、それも「前編」掲示の際にTBを送っているのに。「TBを送った」というのは「言及させていただいた旨、通知はしました」ということです。


「根拠」はありませんけれども、「事実性」の水準に属する話というのは、ある。貴方は、自らに対して名指しにてなされた理不尽な言及について、関わりあったブロガーによるものであった場合、多く即座に反応しておられる。であるから私の「中編」における巻頭の「前追記」に、迅速に反応なさったのでしょう。


TBを送った「前編」の存在を貴方が見落としていたことについて、私は素で驚きもしました。もし、私が貴方の知らないうちに貴方のことを糞味噌に誹謗中傷していたらどうするのです。


ま、私はむろんそのような「卑劣」な真似はしません。なぜかと言うなら、私も貴方といささか同様のメンタリティを持ち合わせておりまして、たとえ何処かのコメ欄であろうと、sk-44に対して、名指したうえにてふざけたことを言っている人間をブロゴスフィアにて発見したなら、状況次第気分次第ですが、看過しかねるものであったらTBは飛ばすし、時には当該発言を晒しますね。システムスルー力を発揮するほどの大物ではまったくないもので。自分がされて嫌なことは、他人に対してもしません。

知らない間に批判されてそれがこれまた知らない間に伏せ字にされていて、おまけにその部分に「こっちの書いたもの読んで後だしじゃんけんしやがった可能性は否定できない」と仄めかされて頭にこない人間がいたらお目にかかりたいですな。


――この箇所を読んで、ようやっと理解しました。繰り返しますが、貴方は、事実関係について勘違いをなさっている。


私は「前編」エントリの内容を、掲示後に改変していません。つまり、最初から現在のバージョンでアップロードしているのです。


貴方は、掲示当初のエントリには、削除と伏字にする以前の記述が示されてあったと、考えておられませんか。違います。「原文」は、「削除と伏字にする以前の記述」は、私のテキストエディタのファイルにしか、過去にも現在も、存在していません。筆者たる私以外の誰の目にも触れてはいないのですよ。


「前編」の削除部に示された「注記」――「2月26日付」から始まる括弧内のくだりをよく確認なさってください。


行為の帰趨――書簡――(前編) - 地を這う難破船

何のことかわからない閲覧者の方には申し訳ありませんが。Apemanさん――私が貴方に対して示すことを意図していた指摘自体については、以降の記述から把握し得ることと思います。掲示直前に気が付いて、1日思案したうえで削除した理由については、察してください。

ほのめかしたところでわからない、sk-44は自分についていかなる「指摘」を示していたのかと公的に仰るなら――やむなく、削除した文面を改めて掲示、いや、メールさせていただきます。


と記してあります。繰り返しますが、加筆訂正は行っていません。「掲示直前に気が付いて、1日思案したうえで削除した」のは、テキストエディタにおける作業段階での話。「掲示直前」すなわち掲示以前の話。貴方が、おそらくは3月2日以降に目にした「前編」は、アップロードの時点の「前編」と、内容も記述も同じ。


私は、アップロードの直後の段階において、改めて全体を確認したうえ、およそ文意上の観点から細部をちょこちょこといじる癖はあるけれども、誤字脱字含めた文意面を除いた、内容的な改変は、ない。


――既に記憶が曖昧なので、確定事項としては言い得ないのですが、「前編」の掲示日時もまた、実際には2月28日の10:10であったと思う。いずれにせよ、夜通し作業していたことは覚えている。テキストエディタとプレビュー画面を同時に開けて。


繰り返します。貴方の「2月26日付」のブログエントリに「掲示直前に気がついて、1日思案したうえで削除した」のは、テキストエディタにおける作業段階での話です。


批判的な内容の記述を、1度掲示してしまったら、「1日思案したうえで削除」しても仕方がないでしょう。音羽さんとのやりとりにおいても、示してきたスタンスです。あくまで、個人的な信条に属する話に過ぎないことですが、以前も申し上げたように、「発言の撤回」とか「削除」とか、私は軽々しく行いたくはないので。


私は――「前編」の掲示と同時にTBを送っている以上、貴方がアップロードの直後に「前編」の記述を確認するという前提のもとに「ほのめかしたところでわからない、sk-44は自分についていかなる「指摘」を示していたのかと公的に仰るなら――やむなく、削除した文面を改めて掲示、いや、メールさせていただきます。」と記しているわけです。


最初から、削除&伏字状態のエントリを、アップロードしているのですよ。異例のこととは承知しつつ(既に準完成稿であったうえに、実生活が取り込み、掲示がさらに順延してもまずいと判断したため、思案したうえで、緊急的にかかる対処しか示し得なかった)。


つまり――「知らない間に批判されてそれがこれまた知らない間に伏せ字にされていて、おまけにその部分に「こっちの書いたもの読んで後だしじゃんけんしやがった可能性は否定できない」と仄めか」したことは、全然ないのですよ。事実関係の問題として。誤解というより、誤認です。「知らない間に批判」した「原文」を、私以外の誰も目にしてはいないのであるから。


3月2日以降の段階にて、「前編」の当該記述に気が付いたのであるなら、貴方がそのように誤認なさることも、わからないではありませんが。


もし、私の言を疑っておられるなら、名前を挙げることは控えさせていただきますが、有難いことに私のブログをアンテナに入れてくださっている方のいずれかに問い合わせをなさってください。「左」の方もおられます。

>誤解にも程がある。

私が読む以前に肝心な部分が伏せ字にされてしまったエントリに関して「誤読」を云々されるとは思いもよりませんでしたね。


私は、「「誤読」を云々」してはいませんよ。貴方による引用部に続けて「誤読というレベルではない。」と記しています。レトリックとでも思われましたか。誤読以前の問題、ということです。


貴方は――私が指摘した「前編」内の「2月26日付」から始まる括弧内のくだりを、読んではおられなかったでしょう。読んでおられないままに、当該のコメントを怒りにまかせて記された。


いいですか。貴方の怒りは別として、貴方が当該のコメントによって示した私に対する指摘は、私が、貴方のブログの2月26日付のエントリを読んでいなかったか、あるいは読んでいながら故意にネグっていないことには、成立しません。


繰り返しますが「「2月26日付」から始まる括弧内のくだり」は、10:10にアップロードした当初の時点から、削除とともに「注記」として明記されていました。確認しておきますが、貴方による当初の指摘は、理と正当性を持ち合わせていない。整合性も。


よって――貴方が問題とされている「「貴方が、私が示した「指摘」を意識して件のコメントを記されたのかわかりかねますが」という一節」は、「私が「読んでいた」と考える根拠もないのにあたかも「後だしじゃんけん」であるかのような可能性を仄めかす」記述としても、「知らない間に批判されてそれがこれまた知らない間に伏せ字にされていて、おまけにその部分に「こっちの書いたもの読んで後だしじゃんけんしやがった可能性は否定できない」と仄めか」す記述としても、閲覧者に対して「機能」することはないのですよ、最初から。


貴方に対しては機能したようですけれども。それは、確認不足と時間差と先入見の問題。勘違いをなさったのは、あくまで貴方の固有の事情ということです。


端的に言うなら。怒りを書き付けずとも、当該の「一節」は、Apemanを貶めるものとしては「機能」することはない。むろん、sk-44にその「意図」もない。当ブログをわざわざ読んでくださるような奇特な普通の読者は、「前編」に目を通してから「中編」の「前追記」を読むもので。


いいですか。再度改めて記します。貴方が「問題の人物」に対して、私が「前編」を掲示する以前に、既に苦言を呈している事実について、私は「前編」内にて「最初から」明示的に言及しています。そのうえでの「中編」冒頭における「前追記」です。


「前編」に目を通したなら、貴方が言うところの「あたかも「後出しじゃんけん」であるかのような可能性」「こっちの書いたもの読んで後だしじゃんけんしやがった可能性は否定できない」というほのめかしを、「中編」冒頭の「前追記」における当該の「但し書き」から読み取ることは、通常の読解力を前提するなら、ありえない、原理的に。


「2月26日付」と明記しているのであるから。そして「前追記」冒頭にて「3月1日付」と明記しているのであるから。あえてリンクは貼りませんでしたが、「Apesnotmonkeys」あるいは「uchya_x」にて検索すれば、ことに当時なら日付でわかることです。事情についても。


貴方の怒りは理解しますが、貴方が懸念されたような読解をなさった方は、おられないのではないかと、私は考えていますが。根拠はありません、とはいえ、以前から記しているように、私は私のブログの読者を信頼しているので。


私は、今回の件について「「誤読」を云々」した覚えはないけれども、貴方の「未読」を云々してはいます。貴方は、私が「前編」内にて――「最初から」――「2月26日付」に触れていることを知らないまま、思い込みから「遺憾」として指摘を示した。成立することのない指摘を。


TBを送ったのであるからすぐに読むべき、とは私はまったく言っていない。「前編」単独でも超長文であること、わかっている。貴方ひとりに向けて書いているわけではないし、読まないことは、あるいは構いませんが、なら的外れな「指摘」と「遺憾」を、コメ欄に書き込まないでください、私とて、どうでもよい相手であるならともかく、貴方である以上、怒りますし、貴方らしからぬ軽挙に、少しくあきれました。


貴方に敵が多すぎることの、これは弊でしょうか。嫌味で言っているのではなくて、つまり、疑心暗鬼の度が過ぎてはおられませんか、ということ。


――総括。つまり、貴方は、かく考えて腹を立てた。


sk-44が「前編」にて示した指摘を目にしたApemanは「問題の人物」に対して苦言を呈した。ためにsk-44は「前編」における「指摘」の記述を削除し伏字としたうえで「中編」の冒頭にて、そのことを、Apemanの「後出しじゃんけん」の可能性としてほのめかした。「「貴方が、私が示した「指摘」を意識して件のコメントを記されたのかわかりかねますが」という一節」によって。


――以上、まったくの間違いである。Apemanは「sk-44が「前編」にて示した指摘」を目にしていない。26日付の自ブログのエントリにて、そして3月1日付の当該ブログエントリに投稿したコメントにてURLと共に記した通り「前編」掲示の以前から「問題の人物」に対して苦言を呈してはいる。にもかかわらず、sk-44が「あたかも「後だしじゃんけん」であるかのような可能性を仄めかすのは卑劣としか言いようがありません。」


了解しました。貴方が「極めて不愉快です。」「あなたの誠意をもはや信じることができません。」と私に対して記したその理由については。


で、記してきた通り、万事、貴方の誤解というか誤認です。3月2日の段階から事後的に、貴方が頭の中にて描き繋げた画は、事実関係からも成立していませんし、言うまでもなく、私の側にまったくそんなつもりはありません。


「sk-44が「前編」にて示した指摘」は、そもそも掲示されたことがありませんし、よって、掲示後に削除もされていません。「最初から」削除と伏字のまま掲示している。2月26日付の貴方のエントリについて、私は「前編」にて「最初から」言及しています。3月1日付の貴方のコメントについて、私は「中編」冒頭の「前追記」にて、投稿日を明記したうえにて言及しています。


貴方が、3月2日の段階にて「中編」冒頭の「前追記」のみに目を通してかく判断されたこと――「「sk-44が「前編」にて示した指摘」は、そもそも掲示されたことがありませんし、よって、掲示後に削除もされていません。「最初から」削除と伏字のまま掲示している。2月26日付の貴方のエントリについて、私は「前編」にて「最初から」言及しています。」以上の2点について貴方が把握していなかったがゆえのこととはいえ、なんというか、皮肉ではなく、想像力に驚きます。


疑心暗鬼も穿ち過ぎも、あるいはお互い様であるかも知れません。私とて、南京事件と共同声明というファクターが介在したがために、必要以上に貴方のことを穿っていた。そして勘違いのうえで怒ってしまった。――右と左、不幸な道行では、ありますね。本当に。

あなたがこちらのテンポに従う義務がないのと同様に、私にもあなたのテンポにつきあう義務はありません。


そのようなことは、原則論としても実情としても、当方は百も承知であるし、互いにわかりきっていたことではないですか。再三記していたと思いますが。


sk-44は遅レスにして遅筆で怠惰なそのくせ長文のバイタリティと行動力とマメな甲斐性に欠けるブロガーゆえ、どうも、すみません、貴方のバイタリティとそれを支える意思には敬服しています、と。音羽さんと延々やりとりしていた昨年の12月における、自らの馬力は奇跡であった、とも。


で、実際、あの一件にて結構、体力的に消耗しまして、以後マイペースブロガーとして調整しつつ現在に至る、と。そして、貴方は、恐縮する私に対して「sk-44さんも十分「行動的」なのですよ。」と嬉しいことを仰ってくださった。であるから、そうした事柄は相互に了解済みであるかと思っていましたが。

忘れた頃に突然エントリで返事をもらったって困るんですよ。前回あなたに対して応答エントリを書いた際には「あえて」あなたのエントリを読んでから時間をおいて返答することを選んだのですが、その皮肉は通じなかったようで(まあそれは私の不徳のいたすところです)。


いや、そんな迂遠な企みをせんでも、別に、貴方が私のテンポに付き合う義務はないのですから、当方がレスエントリをすべて掲示した、その翌日翌々日にレスポンスを記してくださっても、あるいは1ヵ月後2ヵ月後にエントリ掲示にて返答してくださっても、構いません。まったくの無問題です。


私としては、レスポンスのその内容に目を通して判断するだけですから。待たされたことによって怒ることはないし、忘れるということもたぶんない。しかしながら、レスポンスにて示された内容に対しては、怒ったりあきれたりすることも、たまさかあります。


返事の便りあるまでは、当該の案件についてはペンディングということで、それまでの間、別のことを書いていますよ。貴方と同様に、私にもまた、多方面に亘る趣味的な問題関心が、いちおうは所在するので。


半月経ってから6万字超のレスポンスを示されても困る、というのも、わかります。しかしながら、現在は事情から先月よりいっそう忙しくなっているため、レスポンスのペースはより緩慢化するのではないかと。そのくせ長文癖は昂進している。話題のバスに乗り遅れてばかりのはてなライフです。


ただ、トータルな形にて、待たせただけの内容を示しているつもりでは、あります。貴方にとって、というよりむしろ、感謝すべき、当ブログの奇特な読者のために、というところですが。


そもそも――音羽さんとのやりとりの中においても幾度も、音羽さんに対して記してきた通り、私は原則的に、応答責任というものを他に対しては求めません。貴方はそうではないようですが。むろん、そちらが普通です。


「宿題」と、私に対するに限らず言っていますね。あるいは「逃走モード」とか「スルーされるようです」とか。貴方が自分自身に対しても、他からの指摘ないし問題提起としての「宿題」を課しそのことを公言する、責任概念を重視する言行一致の方であることは承知しているし、その旨明記しておきますけれども。


ただ、私は他なる価値観を持った人から、打つに足る球を投げられたなら、面白いから打ち返してみようかと思う、自らの物理限界の範囲において。そしてそのことによって満足してしまう。


「物理限界」の事情から、相対的にも御返事が遅れることは、私の場合は日常茶飯にあるし、そのことを申し訳ないとは思っている。とはいえ、現状のマイペース運営が私の趣味的なる甲斐性の閾値ではある。


Webにおいても信念と意思のもとやるべきことが無数にある自分は、そのような弛緩したsk-44には付き合いきれん、と貴方が仰るなら、やむをえんです。私は原則的に来る人拒まず去る人追わずであるので、御随意に。別に私は貴方の敵ではないし、要もないのに貴方のことをあげつらう趣味もない。貴方のことは好きであるしブログをマメに愛読しているから。


「公正泥棒」の際も呉智英氏をめぐる議論の際も音羽さんとのやりとりの際も「「問題ある?」とのこと」の際も、私に対して直接に先んじて言及されたのは、あくまで貴方であり、あるいは貴方のブログの常連コメンターの方であった。あ、阿部発言の際は違いましたね。その理由も記しました。


ま、機縁であり、貴方の言葉を借りるなら因縁です。たまさか言及させてはいただくことと思います。原則肯定的に。貴方のブログは、コメ欄もTBも含めて、私がものを考える際の手がかりを豊穣に与えてくれます。論理的な人、好きなんですよ。私には少しく欠けるところがあるから。


最後に。

だいたいなんなんですか、

>迅速な対応に感謝したうえで

って。私はこのエントリが書かれた日時から遡ること半月以上、あなたとの関係でなんらかの「対応」なんてした覚えはないのですが?


………………

「貴方が、私が示した「指摘」を意識して件のコメントを記された」わけではないということは、確認しました。未確認の憶測事項ゆえ「わかりかねますが」と保留を明示して記しましたが、迅速な訂正としての対応には感謝します。


と記させていただきましたが。閲覧者に対する説明は過不足なく為されたと思います。余計な話ですが――確か、貴方はフィリップ・マーロウと同齢であったと思いますが、少なくともWebにおかれては、あまりに喧嘩っ早く血の気が多すぎるし、方々に喧嘩を売り過ぎです。静かなバーのひそやかなギムレットが似合わない。


因果めぐって、貴方は言及に対してこうして過剰防衛的に至急の対応を示さざるを得なくなるし、攻撃こそ最大の防御なりという振舞いを常に示してしまう。というか、こうしてまた長々レスを記しているうち気が付きましたが、行き違いの指摘を除けば、これ反論では全然なくて、単なる感情的な愚痴ではないですか。私とて愚痴を記す質ですし、人間とは抜き難く感情に支配される動物である、と考えていますけれども。


敵多き者は枕を高くして眠れない、ということですか。私も知っている話です。貴方は、やはり、私とは席を同じくはし得ないのでしょうか。2chを愛する保守主義者の私とは。なら、端的に、残念です。