何が「差別」であるのか(――検証)


http://yuki19762.seesaa.net/article/35621477.html


http://yuki19762.seesaa.net/article/35637000.html


http://yuki19762.seesaa.net/article/35891252.html


http://yuki19762.seesaa.net/article/35897307.html


http://yuki19762.seesaa.net/article/36049824.html


http://yuki19762.seesaa.net/article/36170622.html


http://yuki19762.seesaa.net/article/36273452.html


http://yuki19762.seesaa.net/article/36282042.html


http://yuki19762.seesaa.net/article/36324278.html


http://yuki19762.seesaa.net/article/36354063.html


――あえてエントリを列記したのは、改めて発端から通して読み返していただきたいと、経緯を知る方に対して少しく呼びかけたいとも思うためです。これは、端的に読解の問題ではないのであろうか、と。yuki19762さん(以下yukiさん)のエントリは、yukiさんによる再三の言葉を尽くした説明にもかかわらず、時に多く、きちんと読まれていない。念の為。以下に引用した記述を示した方達が「誤読」をなさっている、ということではまったくない。ただ、私なりに伝え得ることはインフォしておきたい。長文掲示を決めました。


売春者への蔑視発言をめぐる議論(3) - *minx* [macska dot org in exile]

もしかすると、事実「差別ではない」という言論も差別であり、それを疑う人も差別主義者かもしれないよ。そこまで仮に受け入れたとしても、それでもまだ元の「売春者に対する蔑視発言」が差別であるという主張の論拠は空っぽなまま。その空洞を埋めない限り、「自分の主張を前提にすれば、自分の結論は正しい」というトートロジー以上のものではないということ。


http://d.hatena.ne.jp/aozora21/20070319/1174308246

差別的発言があった、差別だ、レイシストだ、とにかく謝れ撤回しろ、これがデフォルトになることを危惧しています。
全てではないですが差別をなくそうという動きにブレーキをかけているのが、このことばの論証なしに被差別者と差別主義者という対立を生みだしているところにあります。
(これはしっぽの人が書いてくださってます)
yukiさんは差別意識の有無より表層的なことばの部分にこだわっていると判断しました。
それなら、自分も気をつけたほうがいいですね、とブクマコメントで提案したのです。
yukiさんのコメントは人によっては誤解を受けやすいよなあと思っていましたので。
(中略)
yukiさんはコメントしてくださって「差別との線引きをしている」といいました。
私は感じているし、そう説明されたのでそうかと思いますよ。
でも、感じないし説明されない人は「差別だ」と言い出すかもしれません。
そんなつもりじゃなかったら、それを知ってほしいです、少なくとも私なら。
arisiaさんの発言が差別的じゃないとか、yukiさんは我慢しろと言うのではないのです。
検証なしに『差別』認定をしてしまうことがデフォルトになることが困ることなのです。


2007-03-19


エントリ内にて引用されてある、id:suVeneさんによる管理人氏に対する質問。

「嫌い」であることと、「差別」することについての違いについて質問が有ります。<<勘違いして欲しくないのは、「差別する」ことと「嫌う・非難する・罵倒する」ことは必ずしもイコールではない、ということ。要するに、yukiさんを「元風俗嬢だから」という理由で貶めるのは「差別」だが、例えば「yukiさんの書く文章は汚い言葉が多いから、嫌いだ」というのであれば「差別」とは言えない(かもしれない)、ということ>>

とありますが、
例えば、ある A という人が「職業の中で風俗嬢が嫌い」という価値観と、「言葉の中で汚い言葉が嫌い」という価値観を持っていて、B という人が両方に当てはまる場合、

1-1. Bさんは「風俗嬢」である
1-2. 私(A)は「風俗嬢」が嫌いである
1-3. よって、Bさんが嫌いである

という内容と、

2-1. Bさんは「汚い言葉」を使う
2-2. 私(A)は「汚い言葉」が嫌いである
2-3. よって、Bさんが嫌いである

という内容において、違いはどのようにあると考えられているか、お聞かせいただけると嬉しいです。


売春婦への蔑視発言の話 - ARTIFACT@ハテナ系

空いた時間をそれ程好きでもない相手とデート代を払ってもらってする面倒なセックスが売春のようだと元風俗嬢が言うのは興味深い。好きな相手と金銭が介在しない気がのらない身体貸します的なセックスも相似形?

そもそものきっかけである、このarisiaさんのブックマークのコメントからは、自分としては「侮辱」、ましてや「差別」の意図は読み取れなかった。arisiaさんは、売春を経験している人が「売春のようだ」ということに対して、特別な意味を見いだしたのだろうと考えていた。

yukiさんもaozora21さんのコメント欄で、この発言は「差別」ではないと言っている。ただし「上から目線でモノを言った」として「侮蔑」の意志を読み取ったようだが、これは相手の意志を想像しすぎではないか? そういった自分の推測する相手の意志を根拠に、相手をかなり不快にさせるであろう「メスブタ」という発言をしてもいいとは思えなかった。「侮蔑には暴言に対抗していい」と言っている人がいたが、そもそもの発言が「侮蔑であるかどうか」という検討は今回の議論ではあまりされてない感がある。


こちらも。

※ただ、この「社会的地位」というのを決めているのは誰なのか?という問題を考えると、「社会的地位」を考慮することが差別なのでは…?という疑問も湧いた。複雑な問題なので自分のなかでまだ解答はないのだが、とりあえず気になったということをメモ


増田から。リンクがうまくいかない。というか仕掛けが打ってあった。短文ゆえ全文引用。

yuki_19762 白痴 爽やかな読後感とか言ってる奴は白痴。こういうデリケートな問題に対する揶揄、エントリそれ自体が差別という記事を、ふざけて連投する奴もおもしろがる奴も白痴。


yuki_19762さん自身は白痴じゃないと思うのだけど、他人を白痴だと罵倒したら差別なんじゃないですか?

……と、ツッコミしたら「私も白痴に決まっているじゃない!バカ!そんなこともわからないの!」と返事するのでしょうか。

もしそうだとすると一連の話は白痴が原因だったのですね。


増田もう一件。


yuki_19762被差別陰謀論


[http://yuki19762.seesaa.net/article/36170622.html]――コメント欄から。


現時点において、一定以上の方が疑問を感じているらしきことについて、端的にかつ丁寧に記してあったため、失礼ながら長文を全文転載して引用させていただきます、問題があったら仰ってください。id:akky20050605さん。

余計なお世話で申し訳ないけど、そろそろ論点を整理したほうがいいのではないかと思います。ぺんぺん氏はいくらなんでも粘着しすぎだと思うけど、いっていることにも一理あって、黒人差別とか部落差別とかそういった問題は今回のyuki氏の問題とは関係ないですよね。
yuki氏はあらゆる差別はイクナイって繰り返してるわけだけど、例えばあなたの過去の発言に「薄汚い不倫や浮気を、愛に捏造しているトリッキーなブス」という発言があって、これを「不倫」をしている人に対する差別発言と受け取ることもできるわけです。
例えば芸能人が不倫したとか国会議員が不倫したとか、そういう話題ってよくワイドショーや週刊誌なんかをにぎわせて一斉にバッシングが始まりますけど、「不倫」は職業ではないから批判されても口汚く罵っても「差別」にはならないんでしょうか。だとすれば、「差別」とそうでないものとはどこで区別されるんですか。
この議論では初めから何が「差別」かということが明確にされないままに話が進んでるんですよ。だから論点が拡散して、いろんな方向からいろんな意見が飛んでくるんですよ。で、飛んできた批判的意見をyuki氏は全部「差別」だといってしまうから話がこじれるんですよ。
ネット上では言葉にしてあらわす以外行動の選択肢がない。で、差別心を持つことは仕方がないがそれを行動に表してはいけないといわれるとき、yuki氏に差別者扱いされないためには、初めから最後まで黙っているか、yuki氏の意見に100%同意するしかない。これではあまりにやり方がひどいですよ。差別するつもりでいってるんじゃないのに差別者扱いされたら誰だって怒ります(もちろん、差別新をむき出しにした言及もあることは認めますが)。
そもそもの発端であるarisia氏の発言が差別的であったこと、それに対してyuki氏が怒ったこと、ここまではほとんどの人がすでに理解を示していると思います。僕自身もそうです。yuki氏はそれ以上の何を求めているんですか? いまそのことを聞きたがっている人は多いと思いますよ。

Posted by Akky at 2007年03月18日 14:16


http://yuki19762.seesaa.net/article/36324278.html――同じくコメント欄。

つうか昨日も書いたけどやっぱ「差別」を明確に定義しないで話を進めてるのはおかしいし混乱のもとだよ。あらゆる差異に基づく言及が「差別」だってんなら「教師にあるまじき行為」なんて表現も「差別」だしな。yuki氏が怒ってんのはつまり「元売春婦であったことを理由に侮辱された」ってことなんじゃねえの? 「差別」が定義できないんだったら「元売春婦であることを理由に侮辱されたことに怒っている」って主張のほうが分かりやすいと思うよ。

Posted by Akky at 2007年03月19日 10:02

「差別」が定義できないんだったら「元売春婦であることを理由に侮辱されたことに怒っている」って主張のほうが分かりやすいと思うよ。


そう最初から言ってるんですけど。そんなこと言うならわたしもあなたが差別したとは書いてないですよね。「差別じゃないって言いはってる」っていうのはわたしがアリシアさんにされたことをっていうのに、かかってるし、事実そう言ってるんだと思ってましたから。自分が書いたことに対して言ってると思ってないですから。

Posted by yuki at 2007年03月19日 13:01

わたしはアリシアさんの行為を一貫して差別だといってて、それを差別じゃないという人も差別だっていってるのよ。

おれのこの発言は差別じゃないとか、ここで延々と主張されても困るし、わかりにくいんだよ書き方が。まったくわかんないもん。

Posted by yuki at 2007年03月19日 13:08


yukiさんは、一連のエントリにて再三記し続けています。少なくとも、私の読解によるなら。『日々是自己主張』の1読者として、yukiさんに勝手に換わってお答えします――「何が「差別」か」について。Akkyさん。

黒人差別とか部落差別とかそういった問題は今回のyuki氏の問題とは関係ないですよね。


関係があります。関係ないとすることが、yukiさんの言う通り「差別」です。

例えば芸能人が不倫したとか国会議員が不倫したとか、そういう話題ってよくワイドショーや週刊誌なんかをにぎわせて一斉にバッシングが始まりますけど、「不倫」は職業ではないから批判されても口汚く罵っても「差別」にはならないんでしょうか。だとすれば、「差別」とそうでないものとはどこで区別されるんですか。


以降の記述によってお答えします。

この議論では初めから何が「差別」かということが明確にされないままに話が進んでるんですよ。だから論点が拡散して、いろんな方向からいろんな意見が飛んでくるんですよ。で、飛んできた批判的意見をyuki氏は全部「差別」だといってしまうから話がこじれるんですよ。


繰り返しになりますが、「何が「差別」か」については私が換わってお答えします。というかyukiさんは、再三言葉を尽くし念を押して説明し「明確に」してきているのですけれども。


Akkyさんのことではまったくありませんが、「元風俗嬢という履歴を明らかにして自己言及的な売春と娼婦をめぐるエントリを再三掲示してきた、他に対する悪態と罵倒に長けたブロガーとしての、Webにおけるyukiのキャラ/パーソナリティー」について云々している人がいますが――こうした問題を「個人の事情/問題」ないしは「個人対個人の事情/問題」に還元し縮減してしまうことが、何よりも「差別」なのです。少なくとも、本件については。


yukiさんの意識におかれては「わたしはアリシアさんの行為を一貫して差別だといってて、それを差別じゃないという人も差別だっていってる」にもかかわらず、Akkyさんや、あるいは他なる方にとっては「飛んできた批判的意見をyuki氏は全部「差別」だといってしまう」――yukiさんは否定していますが、少なくともそのように傍目から見えてしまいかねないくらいの対応を、言及に対してyukiさんが示していることには、理由が存在します。少なくとも私は、それを正当とする。

そもそもの発端であるarisia氏の発言が差別的であったこと、それに対してyuki氏が怒ったこと、ここまではほとんどの人がすでに理解を示していると思います。僕自身もそうです。yuki氏はそれ以上の何を求めているんですか? いまそのことを聞きたがっている人は多いと思いますよ。


yuki氏はそれ以上の何を求めているんですか? いまそのことを聞きたがっている人は多いと思いますよ。」――「それ以上の何を求めて」いるか、このことについても、私が勝手に換わって答えます。多くの人に対して、問題の内実と根本を理解してほしく私は願う。これもAkkyさんのことではありませんが――「個人対個人の事情/問題」という「私的な喧嘩」に事態を縮減して受け取る人の、能う限り少なくなるように。「yuki氏が怒ったこと」に対して「だけ」「ほとんどの人が理解を示している」ことが、たぶんに問題の根本なのです。


批判ではありません。後出し野郎にはその権利もない。こちらもまた、現在示されている疑義のひとつの範例であると、思いました。


これは差別なんだろうか - hiddenseekの日記

 この方が「差別」と感じているものの中には、「行為に対する嫌悪感」に過ぎないものが多々含まれている気がします。「好きでもない人と入れ替わり立ち替わりしょっちゅう性行為(に準じる行為って感じなのかな?)をすること」に対する嫌悪感です。これは差別なんでしょうか。

 黒人差別の場合、黒人が何か嫌悪感を抱かせるような行為をしたわけではないし、池内ひろ美さんのブログが炎上した騒動で話題になった期間工という職業の人たちも、工場で働いているだけです。

 そういった場合と売春行為を一律に論じていいのだろうかという疑問がわいてきます。


少々脱線 - hiddenseekの日記

そもそも発端は

  1. yukiさんの日記
  2. arisiaさんの、「空いた時間をそれ程好きでもない相手とデート代を払ってもらってする面倒なセックスが売春のようだと元風俗嬢が言うのは興味深い。」というコメント
  3. yukiさんが「おれに言わせれば売春婦じゃない女なんてこの世にいるの?って感じだし。おまえも所詮メスブタ。」とコメント

というあたりから始まったと思います。(それ以前のことを見落としていたらご指摘下さい)
「2がすでに差別的発言であり侮蔑である」か否かを考え、もしこれが侮蔑でないならば、侮蔑的発言をしたのはyukiさんの「おまえも所詮メスブタ」ということになります。(他人をメスブタ呼ばわりすることは侮蔑であるということを前提としますが、それで問題ないでしょう。)

職業か否かを問題としないならば、売春婦をヤリマンと同じ扱いにすることは差別にはなりません。ヤリマンを侮蔑することは差別なのかということも同時に考える価値があると思います。先ほども書きましたが、侮蔑は侮蔑として許されないことですから、許されるか否かの問題ではなく、差別か否かを考えているのです。


売春婦差別に関する推測的な結論 - hiddenseekの日記

一般論を離れますが、今回の件に関してはyukiさんが「(自分も含めて、という趣旨だと思いますが)おまえも所詮メスブタ」とおっしゃたことが、「一緒にするな」という論調の反論を呼び起こしたと考えています。是非ではなく、今回の流れをそう捉えているということです。

  • arisiaさんが誤解を招く発言をした
  • yukiさんが誤解に基づいて人格を非難した
  • arisiaさんが反論
  • さらなる泥沼へ

と、こういうことではないのでしょうか。


総論として、始めます。


id:inumashさんがクリアな原則論を示してくださっているので私はこのような変則的な内容を後出しにて記しているのですが、職業に貴賎なし、というのは近代社会の原理に属する大前提であったかと、私は考えていました。


いやむろんタテマエの話ですよ。家父長制的な近代社会は売る女と売らない女を区別して成立してきたから。「もちろんそれは偽善である。そしてこの世は偽善を必要とするところなのである。」by山本夏彦


ところでホンネをおおっぴらに口にするからには腹を括っているわけですか、夏彦師くらいには。タテマエを言うがいかに易いことか夏彦師は死ぬまで書き続けていました。売る女は区別されるが世の常であると、夏彦師は言い続けてきたわけですよ。


夏彦師は、そうは書かなかったとしても、売る女を区別する世を問うていたのであるし、あらゆる職業について言えることですが、是非を問うなら性労働という職業を存在させている社会にフィードバックされるべき問いに決まっている。


売買春は現行において日本では部分的限定的にも法規制の対象となっています。しかしながら。まさしくタテマエとホンネの背理という、誰もが知る、この世に必要とされる偽善ですが。インフラが要請されている以上、この世のこの社会の誰かがインフラの維持に務めなければならない。


それ全部すっ飛ばして捨象して「インバイ女」なら、つまりは個人の姿勢をひいては性意識を摘出的に詰問調にて問うたなら、言論の自由によって発言は保障されますが、個人に対する毀損の話には、なります。


そして事後的に法を持ち出すことは、あまりに明白に御都合主義です。なら最初から、法における条文と運用実態の乖離について、それが指す意味について、見解を示すべきであった。なにゆえに日本において管理売春が当局の事実上の黙認のもとに横行しているのか、と。


なお。かような周知の事情について知っていながら、法を持ち出して売買春とその当事者を批判するなら、批判を受けた当事者が日本国憲法の規定を持ち出して反論することは当然であり正当です。というか、そうした批判こそ欺瞞の極みであると考えますが。


条文と運用実態の乖離について知りながら法の条文をもって該当行為自体とその主体を批判するということは、憲法第九条の条文をもって現行の自衛隊を批判することと筋において同様です。私は、条文にのみリテラルに拠るなら自衛隊は海外派遣どころかその存在自体が憲法の規定に反していると考えざるを得ないと思いますが、しかしながら私は、9条については現行において改憲論を採らない。ゆえに現行の「偽善」的なる解を限定的にも支持せざるを得ない。


極端な例えを示すなら。死刑執行担当の刑務官という任意の個人に対して、法の枠組を除外してその人殺しを問うなら、死刑制度とそれを存在させ存続させている社会を問うことがまず先決です。現行の社会においては自己選択の結果として個人はその職にあるわけです、タテマエとしては。


というか、私は保守なので、普通によくわからないことなのですが、初対面も同然の相手に対して不躾に性意識を問うことは、あまつさえそれを揶揄し非難することは、あってよいことなのですか。相手がかつて風俗嬢であったことを公開ブログにて公言し幾度も関連エントリを掲示していたなら。


「面倒なセックスをビジネスのようだ、つまり売春と考えるのだ、元風俗嬢は、なるほど、と興味深く思ったということです。」とは、まず何よりも、私が言うのもなんですが、大きな御世話ですよ。


呉智英夫子は、以前に紹介した平田弘史血だるま剣法』復刊の長大な解説において、かく記している。徳川以前に遡るとも一説にはされる、部落差別の歴史的な起源を問い解明することと、現在進行形の部落差別に対して糾弾運動を展開することは、直接には関係することなく、別個に行われるべき営為である。


なぜなら。アクチュアルなる反差別運動の大義とはあくまでも、部落差別の歴史的な起源における「理由」とその解体撤去を一義には前提するものではなく、現行の近代社会の原理に所在するため。反差別運動の正当性とは、任意の差別の歴史的な起源としての「理由」とその解体撤去にのみ拠ることなく、まず一義に、近代社会の原理に拠る。


「差別イクナイ」とは私は改めて言挙げる気もないけれども。職業に貴賎なしとは、近代社会の原理に属する命題。たとえタテマエでしかなくとも。現行の社会を構成するインフラを担う個々人に対して、制度論以外の見地からの区別を公的に行うことは、近代社会の原則からも規制が示されるし、個々人の意識におかれる不均衡に対しては、時に唯物論的な形にて是正が期されなければならない。


男女雇用機会均等とて法的に整備され実態面においても運営されないことには、個々人の意識における不均衡は時に緩和しない、あまりに当然のことですが。タテマエとしての制度の所在とその変更によって、時に個々人の意識もまた事後的に再編成される。


差別意識ならざる現実に存在する差別の存在を前提して公的に発言するということは、幸いなる私達の生きる近代社会の原理に対する問題提起として原則的に機能する。原則論としてのタテマエに対する事実性としてのホンネの言挙げとして。


むろん、いかなる問題提起であろうと問題提起は自由であるし、かくあらねばならない。そして問題提起は、というより、たとえいかなる質のそれであろうと問題提起を公的に示し得る状況の設定と維持は、バックラッシュの蓋然性を緩和させるためにも、何よりも肝要である。


タテマエをタテマエと指摘することも、タテマエの実態的な無機能について指摘することも、問題提起としてあってしかるべきと私は思うけれども、それは何周回目の反復?とも思う、それも事実です。


小熊英二の嫌味を借りるなら、タテマエをタテマエと指摘しその実態的な無機能を指摘すること、ただそれだけが、戦後保守言説の取り柄であったのであるから。――たぶん、小熊氏にとっては、夏彦大人の数十年の言論活動もまたその範疇なのでしょう。モダニスト夏彦氏は、タテマエとホンネの背理と、タテマエの必要と肝要ならびにホンネの醜悪と堅固について、同時に指摘し分析していたのですけれどもね。


たとえば。私はギリギリの高卒なので世のボンクラ大学生は偏差値のピンキリにかかわらずひとり残らず即刻イラクの最前線にて『きけわだつみのこえ』のごとき壮絶な死に様を遂げてほしいと思っているわけですが、そんなことを公言したところでルサンチマン乙という反応が返ってくるだけであり、そしてまったくその通りなのですね。


こちとら東京番外地の公団育ちといえ私の親は私を大学に進学させられないような経済状態であったわけでは決してなかったから。現実に私の妹は結構な高学歴であり、そして妹は言う、自分より偏差値の低い大学の男とは付き合えない、自分はともかく、合コンやっても、先方が気にして引いてばかり。ま、事実なのでしょう。それは君に見る目がないか行いが悪いか両方のゆえにめぐり合わせが悪いのかのいずれかだよ、と言いはするけれども私は。


――何が言いたいかというと。「大学生はバカ」「大学生だからバカ」と高卒が言ったら、これは悲しい話ですよ。ルサンチマン乙。そしてそれは、少なくとも私個人に限るなら、まったくの事実である。


何の話かというと。差別というのは第一に社会構造の問題であるから差別なのです。既存の社会構造が社会を生きる個々人の感情に影響を及ぼす、そのもっともネガティブにして陰惨な様態こそが「差別」であって、ゆえに個人の感情の表出としてある差別は、既存の社会構造とかかる構造の歴史的な来歴にフィードバックして問わねばならない。


部落差別も黒人差別も、そうして問われてきたし、なによりも当事者達が問うてきました。我々に対して投げかけられるいわれなき視線は言葉は、何処から来たのか、と。そして、次なる時代と世代にそのいわれなき視線と言葉を順送りするべきではない、と。それが反差別闘争の要諦であり綱領。


そして何よりも、幸いなる私達が生きているこの近代社会の原理は、社会構造に組み込まれた歴史的な差別を、原理的に容認も許容もしない。


――言い換えるなら「既存の社会構造とかかる構造の歴史的な来歴」にフィードバックして問うことなく個人の感情の表出を個人的な意識のもとに裁断ないし断罪するなら、有意ではないし、それこそ私的な価値観と感情の闘争でしかない。


「私的な価値観と感情の闘争」を、少なくともyukiさんは、決してしてはいない。しかしながら、「差別」という公共的社会的な概念を掲げたなら、いわばメタ正義の立場から半畳が入る、あるいは問題提起が示されることあるし、現実にそれは示された。複数の方向から。半畳でしかないものもあったけれども。


そして。むろん、「差別」概念を無前提に掲げそれを振り回してはいません――yukiさんは。誤解して受け取っている方がいるらしいので、ちょっと。


arisiaさんは――「既存の社会構造とかかる構造の歴史的な来歴」の水準を一切捨象して、あくまで「個人の意識と姿勢に基づく私的な価値観」の表出として、つまりはあくまで「差別意識」ではなく「個人的な嫌悪」の表出として「インバイ女」に始まる一連の発言を記してきたと――私にとってはそのように解釈せざるを得ない意味のことを、記しています。


御本人の意識のうえでは実際そうなのでしょう。つまりは性に対する意識と認識と価値観の相違である、と。例証。


http://d.hatena.ne.jp/arisia/20070309/1173439132

売春婦っていうのは、不特定多数を相手にするんですよね。好きでもない相手に身体を売るんでしょう?悪いけど、私は好きでもない相手とはセックスは出来ません。下が軽くないんですよ。だからそこが、まず違う。

# 2007年03月09日 arisia arisia バカはアンタ(わらい)。つなぎとめるためになんてしないですよ。愛しているから癒しているのです。悪いけど、アンタと違って男に卑屈になるような女じゃないものですから。
# 2007年03月09日 yuki_19762 yuki_19762 バカ 好きな相手じゃないとできないから軽くない?気が乗らないセックスするくせに?好きな男を繋ぎとめるためにするセックスと金のためにするセックスにたいした違いねえよバーカ。


最初はこのコメントでしたね。

2007年03月09日 arisia 相手が満足したら癒しでしょう?で、気乗りしなくてもそこで互いに交流するでしょう。癒すのはあげるんじゃないのです。気乗りしなくても一瞬で身体も心も切り替わるのですよ。もっと年齢増して女になればわかるよ。
2007年03月09日 yuki_19762 バカ 気乗りしない身体貸すだけのセックスを癒しと言い切るのに「するだけ」ですか。気乗りしない身体貸すだけのセックス、これを愛してるから癒してると言ってるんですから「あげる」女です、その発想が。


で23時35分現在がこれ。心が売春婦と言う人もいますが、実際にお金を稼ぐ売春婦とでは恐ろしく差があると思います。

世の中の女が皆売春婦と言うのは、yuki個人の正しさです。

この世の中の女性がみんな売春婦だと言うyuki発言。これを、ビジネスとして売春の経験が無い女が、自ら、まるで売春みたいって言うのと、不特定多数を相手にする元売春婦がいけしゃしゃーと言うのとでは違う。それを、元売春婦であるというポジションをわきまえずに、世の中の女性を自分と同じポジションに引き込むような発言には反発を覚えます。


それから、「癒し」、「愛している」、「あげる女」、とyukiが嫌いなキーワードで、ブクマ書き替えコメント交換しましたが、私個人の性に関して、あなたに理解は求めません。


――と。ようは、arisiaさんの意識におかれては「私個人の性」と「yuki個人の性」の相違に尽きている話であると。かかる相違において、一方に対して抜き難く嫌悪感が所在すると。


「私個人の性」という意識と価値観の観点から「yuki個人の性」における意識と価値観に対して嫌悪を表明することが、なぜ「差別」という話となるのか、なにゆえに自らが差別主義者という最悪のレッテルを貼られなければならないのかと、たぶん、御本人は本当に困惑されているのであろうと私は考えますが――差別ですよ。「個人間の性意識の相違」を言挙げる際に、社会的な文脈を明示的に持ち込んでしまったら。


反差別がなぜ正論となるのか、言い換えるならなぜ反差別に正義が所在するのか。憲法を掲げる以前に、いや憲法を前提することではあるけれども、反差別とは社会的な制度の枠組を前提する相対的な是正の試行であって、近代社会の公的な大義の実践であるため。近代社会の原理を前提する以上、理論的な大義もまた所在する。


反差別とは近代の原理に属する綱領。近代の枠組において問われる理論的/実践的な公共の大義たる反差別を、近代社会を生き近代社会を肯定する「私達」は公的に否定し得ない。かかる状況こそがいわゆるPCを形成し、PCという原則的なる「タテマエ」に対する事実性としての「ホンネ」の提示という問題提起もまた、存在するし時には横行する。反差別に対して否とすることは近代に対して否とすることと原理的には同義であるため、人は公的には反差別を否定し得ない。


つまり――社会構造に対する言及を前提して「個人間の性意識の相違」を言挙げたとき、それは「個人間の性意識の相違」を現行の歴史的な社会構造へとフィードバックさせて論じる行為であり、公共の領域に属する社会的な発言となる。「私見」として済む話ではない。


差別というのは、歴史的な社会構造という文脈を自明の前提とし、それに依拠ならず依存したうえにて示される言行であり、差別発言とはヘイトスピーチとは、歴史的な社会構造に明確に依拠し依存して示されたネガティブな「私見」の表出をこそ指す。


arisiaさんは、既存の社会的な文脈の存在を前提して、それもあるいは自明の前提として「私個人の性」と「yuki個人の性」に同時に言及し、その相違について論じた。しかも露骨な表現を用いて。それを、差別と言いヘイトスピーチと言うのです。


酷な「晒し」であることは知っていますが、これはarisiaさんひとりにのみ向けて記しているのではまったくない、そしてarisiaさんはおそらく本当に、御自身の発言の何が「差別」であるとされたのか、そのことにいまなお疑問と理不尽を感じている。


「差別」概念という否定し得ない正義のもとに差別者というレッテルを貼られたとだけarisiaさんが今後も思い続けることは、そしてyukiさんの一連の行動がただ単に「元風俗嬢という被差別者であることをよいことに自らに批判的に言及する他人に対して片端から差別者というレッテルを貼って片付けて回っている痛い人」と、幾らかの人達から今後において認識され続けるなら、あまりにやりきれない。


であるから、念押しの例証を示します。あくまで、私は当該のエントリに限定してarisiaさんの発言を引用している。その意図も、汲んでください。

女性がみんな売春婦であることが正しいのならば、yukiさんは堂々と子供の父兄会やその他社会的なイベント、付き合いで私はインバイの職業についていましたと公言できるんでしょうか。呆れられるだけでしょう。子供が可哀想ですよ。

よく、「専業主婦が売春婦みたいだ」と言う人がいたり、お金を出してもらって生活したり食事したりするかわりにセックスをするのは売春婦だと言うような考え方をする人がいるけれど、女は全て売春婦だなんて、インバイ女に言われたくないですね。ちなみに私は、男とは金銭的にはフィフティ、フィフティかな。あんまりその、誰とでもセックスできるだらしない思想で世の中の女性をなめて欲しくないですね。


以降のエントリとそのコメ欄における発言からも、あきらかにarisiaさんは自らを主婦であるとして、そしてyukiさんを元風俗嬢であるとして、言い換えるなら自らを「売らない女」として、yukiさんを「売る女」として、「主婦と元風俗嬢」「売らない女と売る女」と対置したうえ両者が置かれている現行の社会的な文脈を前提しあまつさえそれを明示的に参照したうえにて、自らとyukiさんとの「個人的な性意識の相違」を言挙げている。yukiさんの性意識を揶揄し非難している。


それは――「私個人の性に関して、あなたに理解は求めません。」で済む話ではもはやないです、あるいは最初から。「個人的な私見の個人間の主観的な食い違い」では済まない。


arisiaさんはとっくのとうに、あるいは最初から、「私個人の性」の話も、個人的な私見に尽きる話も、純粋に主観の領域に属する話もしてはいない。「主婦と元風俗嬢」の「売らない女と売る女」の、性意識の相違の話をしている、それも「私個人の性」と「yuki個人の性」を両者に代入して話している。


それは――個人の性の話などでは、ないのですよ。社会的に機能し、社会的に処理される話です、言挙げた側が社会的な文脈を明示的に持ち込んだ以上は。


そして、現行の近代社会のもとにおいて、かかる発言は社会的に「差別」「ヘイトスピーチ」として処理されます。なぜ処理されるかというなら、当然、社会的に「差別的」に機能する発言であるためです。


既に相当にまわりくどく言っていますが。以下、更に分節して説明します(yukiさんがあれほど言葉を尽くしてなお趣旨が伝わらないなら)。近代社会は、公的なる、あるいは社会的なる差別を原理的に許容しません。正義とは原理に所属する事項です。


なお付記しますが「専業主婦が売春婦みたいだ」とは私はまったく思わないし言いませんが、yukiさんがarisiaさんに対して「女は全て売春婦」と記したのは、正当な理由と文脈あってのことです。


端的に言うなら、arisiaさんが「専業主婦」と「売春婦」を差異化したうえにて対置し、あまつさえ双方の性意識に言及したがための反応であり、反撥であり反論としての「女は全て売春婦」です。


arisiaさんは事実上「職業的な売春婦は私生活においても売春婦」「職業的な売春婦は個人の性においても売春婦」という意味のことを言っているのです。それも「売春婦」全体の話として。であるからyukiさんは「女は全て売春婦」と言った。全面的な本意であったかはわかりかねますが、職業的な売春婦に限ったことなく女は全て私生活において個人の性においても売春婦である、と。


文脈あっての話です。arisiaさんはその文脈を読まなかった。これでも穏健な応対であったと、今となっては私は考えますが。問題の所在について、双方に決定的な認識の相違があったことは、確かなようです。


しかしながら。繰り返しますが「個人間の認識の相違」で済むことではなくて、歴史的な社会構造のもと社会的な文脈から規定された「専業主婦」「売春婦」を、原理的/存在的な差異性を前提したうえにて対置し双方の性意識について、あまつさえ実在の個人に対応させて言及すること自体、ろくなことではないし、私は到底是とし得ない。


「差別」という単語と概念が存在したとき、それが該当しない行為ではありえない、ということです。あえてこのように書きますが――「差別行為それ自体の是非」について論じ判断することを措いたとしても、「差別行為」であることは間違いない。以下、更にくだくだしく重ねて説明します。例を挙げて。


嫌悪というのは私的な感情です。表出して悪い筋もない。ただし、それが社会的な文脈を、少なくとも明示的には前提することなき表出であるなら。


性に対する個人の意識認識とは私的な領域に属するという立場を私は採る。たとえ反動と言われようとも、私は、いわゆるカミングアウトというコンセプトに対して、個人的にはあまり賛成しない。誤解があってもいけないので。以前に幾度も記していることではあるけれども、私は極度に偏向したイリーガルな性的嗜好の所有者であり、かつ最近はいくらか緩和したもののもう半年近く不能である。


いわゆる性的マイノリティではあるから、なにか、自分の如き人のうち自分と異なる悩める人の役に立てば、と自らの性癖と不能について幾度か言及してもいるけれども、それは単なる露出癖であること、私は自らについてはよく知っている。むろん、自らにのみ限っては、でもある。


個人における性に対する意識と認識と価値観の相違について、「私個人の性」というスタンスからyukiさんのそれに対して個人的なる嫌悪感を表明したに過ぎないことが、なぜ「差別」「ヘイトスピーチ」とされるのか、arisiaさんがおそらく覚えている疑問と理不尽に対して私が改めて答えるなら――「売春婦」全体の話をしたためです。yukiさん個人についてではなく。


yukiさんの「履歴」「社会的属性」を、yukiさん個人の「性に対する意識と認識と価値観」としてariciaさんが判断したものと共に言挙げたがためです。それを「差別」と言うのです。


http://d.hatena.ne.jp/arisia/20070309/1173439132

2007年03月09日 yuki_19762 yuki 同じじゃない?つうか何が興味深いのかわかんね。おれに言わせれば売春婦じゃない女なんてこの世にいるの?って感じだし。おまえも所詮メスブタ。
2007年03月09日 arisia 空いた時間をそれ程好きでもない相手とデート代を払ってもらってする面倒なセックスが売春のようだと元風俗嬢が言うのは興味深い。好きな相手と金銭が介在しない気がのらない身体貸します的なセックスも相似形?

対応するであろう記述。


http://yuki19762.seesaa.net/article/35489578.html#trackback

泊まりがけだから当然セックスを求められたが、それもものすごくめんどうくさかった。というか、自分から誘って好奇心でやった最初の一回以外は、彼とのセックスは全部めんどうくさかった。お金を貰ってやるセックスと同じだった。苦痛だった。それでもそれをしていたのは、未練たらたらの男と連絡を断っているせいで、空いてしまった巨大な時間の穴を埋めるため。それから彼がわたしとつきあううえで、負担している金銭の代償のつもりだった。どっちみち売春みたいなものだった。みたいなものどころか売春そのものだった。


arisiaさん――なぜ「元風俗嬢が」という一節が入るのですか、要らないではないですか。


「空いた時間をそれ程好きでもない相手とデート代を払ってもらってする面倒なセックスが売春のようだと言うのは興味深い。」という記述であったなら、それは「個人における性に対する意識と認識と価値観の相違」であるとして済む話です。それでもyukiさんは気を悪くするとは思いますが。


でも違う。arisiaさんは何よりも、yukiさんの「元風俗嬢」という履歴に対して、拘泥しているし再三直接に言及している。一連のやりとりにおいても「風俗嬢」「売春婦」というファクターを、arisiaさんはyukiさんに対する意見表明に際して一方的に介在させているし、yukiさんがかつてそうであったこと、そしてそのことを公言していることに、一方的にこだわっている、それも明示的に。


yukiさん個人の「性に対する意識と認識と価値観」に対して言及する際に「元風俗嬢」であったというyukiさんの「履歴職歴」としての「社会的属性」を言挙げその事実と並べて記す。


それは、紛れもない差別なのです。他人の個人的なる「性に対する意識と認識と価値観」を、他人の「履歴職歴」としての「社会的属性」に対する言及を前提して同時に明示的に問うたならね。


「風俗嬢」「売春婦」であること、あったことを理由として、他人の個人的なる「性に対する意識と認識と価値観」を、公衆の面前にて明示的に言挙げ問い質したなら、それは歴とした差別行為ですよ。


――あの、ですね。「風俗嬢」「売春婦」であること、あったことを理由とする、固有の「性に対する意識と認識と価値観」とやらを、特定の個人に対して明示的に問うというのは、とんでもないことです。


そもそも、問うということはそれが「在る」ことを前提しているわけでしょう。「「風俗嬢」「売春婦」であること、あったことを理由とする、固有の「性に対する意識と認識と価値観」」なるものが「在る」と、任意の個人に対してさえ考えている。それが既に差別意識に該当する発想であって、そもそも単純に、不見識の類です。


風俗嬢「は」性意識がXなのであろう、風俗嬢「だから」性意識がXなのであろう、私的にも個人的にも、と言っていることと同じなのであるから。


「だから」というのは、絶対に用いてはいけない表現であるわけです。「だから」とは何事ですか、関係のないことでしょう、個人の私的個人的なる性意識と、その個人がビジネスとしてSEXする「風俗嬢」「売春婦」である、あった、という事実とは。


綺麗事?いいや。少なくとも、そういうことは口にしてはいけないのだ、任意の個人に対しても、まして「履歴職歴」としての「社会的属性」自体「社会的属性」全体に対しては――という認識は「常識」の範疇であると、私は考えていました。


私にとっては、べつだん正義の話でもない。言ってはいけないことを言ってはいけないと知らないがゆえに平気で直接に言ってしまうのが、コドモという陶冶されていない生き物であって、私は自らがコドモの頃からコドモが嫌いであった。


先述したカミングアウトについての私の考えと、関係するけれども。「性に対する意識と認識と価値観」とは、個人の私的領域に、あえてリスキーな言葉を使用して言い換えるなら、私事に属する事柄です。任意の個人の私事を問うことは、あるいは任意の個人のそれに対して嫌悪を表明することは、失礼でこそあれ、少なくとも「差別」とは言い得ない。


他方、あらゆる職業は「既存の社会構造とかかる構造の歴史的な来歴」に規定されて存在します。そして「売春婦」はひいては女性全体は歴史的に、そして現行におかれても「既存の社会構造」に基づき非対称的に抑圧されてきたこと、フェミニズムもPCも疎外論も引くまでもなく自明の事実です。


そして――任意の職業/履歴職歴という「社会的属性」を理由として、個人の私的領域について言及したなら、それは社会的な文脈を前提し認識しそれに依拠している、かつ、以上を明示している、ということであって「純個人的な見地からの、私的な感情と価値観の表出」と言って済むことではない。好き嫌いや趣味の話ではもはやない、ということ。


「風俗嬢」「売春婦」が現行の社会において如何なる位置に置かれた存在であるか認識したうえにて、つまり、歴史的な社会構造に対する認識の欠落や現実の社会的な文脈の所在に対する無知ゆえのことではなく、いわば確信犯的に、かかる「職業/履歴職歴」という「社会的属性」を理由として、任意の個人の「性に対する意識と認識と価値観」について、明確な私的領域にまで及んで、揶揄的に言及したなら、あるいは非難したなら、「インバイ」と罵倒することあろうがなかろうが、それは差別行為であり差別発言であり、ヘイトスピーチです。


まず第1に有体に言うなら、macskaさんの指摘した通り、「売春婦」が現行の社会において賤しめられている存在であることを認識し、その事実を明示したうえで、現実の「売春婦」ないしかつてそうであった存在に対して、「売春婦」であること、あったことを理由として「個人的に」卑しめる発言を同時に示したなら、それは差別に該当する行為なのです。あまつさえ、yukiさんという個人に対して直接にそう言ったのであるから。それは差別行為です。


第2に。「面倒なセックスをビジネスのようだ、つまり売春と考えるのだ、元風俗嬢は、なるほど、と興味深く思った」などということは、思ったとして公的には絶対に言ってはいけないことなのですよ。常識として。


理と筋の話をします。yukiさんの話ではない、つまりは原則論にして一般論ですが、ある人間が「面倒なセックスをビジネスのようだ、つまり売春と考える」ことの理由を「元風俗嬢」であるから、として「なるほど」などと納得し合点してはいけないし、ましてそのようなことを単線的に直結させて記すことは慎まなければならない。


たぶん、実際に単線的に直結させて、理路の筋道明解に処理し判断しておられることと思います。かような短絡的な処理と判断の機能に作用するファクターを、偏見と言う。


というか、私は「なるほど」と納得すること、合点できることがよくわからない。「風俗嬢」「売春婦」の性意識と人格を何であると思っているわけですか。繰り返しますが、端的に、差別意識とかいうよりも、まず不見識であると思いますが。


「無知」と「偏見」が組み合わさって「差別」が生まれる、「無知」自体「偏見」自体は個別には悪とは言い得ないけれども、そのコンボによって生成される「差別」は明確に悪である。この場合の悪とは歴たる有害という意である。


ゆえに「無知」と「偏見」は地上の人間社会から相対的にも能う限り除去されなければならないし、自己の内においても撤去が常に企図されなければならない。――そのように、かつて岡田斗司夫氏は言いました。


そして、arisiaさんは明確な他意をもって一連の発現を記している。仮に悪意と言わずとも、あきらかなる敵意です。


「風俗嬢」「売春婦」であるから、あったから、かかる「履歴職歴」としての「社会的属性」を有した個人の「私的な性意識」について、両者を単線的に直結させて考えることができるわけです。「社会的属性」における広義の性産業従事者に対することなければ、そのように考えることはないし、まして当事者に対して直接には言えない。


それはつまり。少なくとも「風俗嬢」「売春婦」が現行の社会において如何なる位置に置かれた存在であるかということについては、認識しているということです。そして「風俗嬢」「売春婦」を、如何なる存在であると認識しているのか、ということ。


有体に言うなら「ビジネスとしてSEXをする女は、個人としての私的なSEXにおいてもXである/であるのか」or「ビジネスとしてSEXをする女だから、個人としての私的なSEXにおいてもXである/であるのか」という単線的にして安直な命題を明示的に立てた、そのような物言いと言い方を、人はしてはならないのです。任意の個人に対しても、一般論としても。


更に有体に言います。あくまで例示ですけれども。「淫売」と言うことも「淫乱」と言うことも、別個に言うなら少なくとも「差別発言」「ヘイトスピーチ」には該当しない。直接に言ったなら当事者ならびにその関係者にはぶん殴られることと思いますが。


しかしながら。「淫売は淫乱」「淫売だから淫乱」と言ってしまったなら、それは明確な差別発言でありヘイトスピーチです。「is」が「だから」が問題であるのです。


しかも、arisiaさんは、歴史的な社会構造と現実の社会的な文脈の所在に対する無知から不用意にそう言ったわけではない、上記の認識のもとにて確信を持って言っている。あまつさえ「歴史的な社会構造と現実の社会的な文脈の所在」について、それが周知されている事項であると知りながら、yukiさんの「履歴的な社会的属性」に対して言及すると同時に明示している。

女性がみんな売春婦であることが正しいのならば、yukiさんは堂々と子供の父兄会やその他社会的なイベント、付き合いで私はインバイの職業についていましたと公言できるんでしょうか。呆れられるだけでしょう。子供が可哀想ですよ。

それを、元売春婦であるというポジションをわきまえずに、世の中の女性を自分と同じポジションに引き込むような発言には反発を覚えます。


――と。「個人的な私見」では済まない。これは、差別であり、ヘイトスピーチです。


現実に存在する差別という状況について、「風俗嬢」「売春婦」が現行の社会において事実上置かれている位置について、認識したうえで、既存の差別構造に依拠し依存した文脈に基づいた差異化区別化そして差別化を図り、そのことを明示的に言挙げている。「風俗嬢」と「専業主婦」の、売る女と売らない女の、差異化と区別化と差別化を、既存の社会的な文脈に全面的に依拠し依存したうえにて言明する。


――家父長制的な近代社会は売る女と売らない女を区別して成立してきた。区別は差別を構成した。しかしながら。かかる家父長制的な近代社会において必要とされた「偽善」のもとに長く抑圧されてきたのは、言うまでもなく、売る女と売らない女の両方であり、全ての女です。


この世は偽善を必要とするところであると、私もまた考える教会的な保守反動ではあるけれども、抑圧の構造のもとにて為された区別とそれによって形成された差異という偽善が、差別という真正の有害なる悪を生み再生産し続けるなら、そしてそのことが今後も自明であり明白であるなら、偽善を撤去することは為し得ないとしても、偽善を再度定義し直す必要はあると思う。ダブルスタンダードを、改訂的に是正して組み直す必要。


――あまりにも当然のことですが、差別とはヘイトスピーチとは特定の語句/単語の使用によって機械的に判定されるものではなく、発言と行為の全体の文脈から判断される。


これもまた、言わずもがなのことですが、いわゆる「言葉狩り」について批判することは反差別運動・差別糾弾運動に対して棹差す行為ではまったくない。現実に、部落解放同盟含めた多くの反差別団体は「発言/行為の全体の文脈から判断」という指針を、現在において採用している。


多くの反差別団体は、とうに、あるいは最初から「言葉狩り」など実際にやってはいない。現在の差別語問題とは、多く既存メディアの自主規制の問題であることは、これもまた言うまでもない。


よって。yukiさんがブクマコメントに、

おれに言わせれば売春婦じゃない女なんてこの世にいるの?って感じだし。おまえも所詮メスブタ。


そう記したことは、上記に縷々記してきた文脈を前提しての記述であると、私は勝手に考えています。「売春婦は○○」「売春婦だから○○」という定型的な発想と意識認識と価値観に対して、そしてその表出に対して、反撥を示した。


この場合、焦点として問われているのは「売春婦」という語彙でも空欄の(上記においてXとしてきた)任意の代入項でもなく、何よりも「is」「だから」という接続詞。「is」「だから」という単線的な発想と命題化、その表出、それはあらゆる差別の温床であり、少なくとも公共においては、許容してはならない近代社会の原理的な閾値です。


――にもかかわらず。よりにもよって当人に向かって「yukiさんが"A prostitute is beautiful"と言えるのかが一番の問題ではないかと思う」などと直接言ってしまっている方は、少しく自らを省みて考えてください。頼みますから。


言い換えるなら、任意の履歴的な社会的属性と直結させて個人の私的領域について言挙げることに対して、ひいてはそれを一般論化することに対してもまた、yukiさんは反撥しているし、差別と見なしている。――それは、まったく妥当であり、全面的に正しい。近代社会の原理を前提することなくとも、正しき義としての正義であると、私は、それこそ個人的に考える。


問題は、ないし問題の本質は「売春婦」「部落」「黒人」あるいは「朝鮮人」と言い募ることにもかかる語句の使用にもない。


「売春婦は○○」「売春婦だから○○」「被差別部落出身者は○○」「被差別部落出身者だから○○」「黒人は○○」「黒人だから○○」「朝鮮人は○○」「朝鮮人だから○○」という定型的な発想と意識認識と価値観、その表出としての言い種にこそ、「差別」という問題が所在する。この場合○○という任意の代入項もまた直接の問題ではない。「is」「だから」という単線的な発想意識認識価値観と命題化、そしてその表出こそが問題であり、「差別」となる。


くどいことを承知で、何遍でも書きます。「売春婦「は」or「だから」そのような性意識であるのだろう」と公開の場において言ったら、任意の個人に対してであれ一般論としてであれ、差別発言となりヘイトスピーチとなる。如何なる性意識であろうが、大きな御世話だろと、そもそも私は思いますけれどもね。


「売春婦は」「売春婦だから」などということを、文明人は言ってはいけないのです。私も含めて、「売春婦」――というか、性別にかかわることなく広義の性産業従事者に限って対するに人は、多くそう思いがちであり、そう思うことに理があるようにも思えてしまうものであるから、なおのこと。


話はずっこけるけれども、でも大事な話。


植草元教授が痴漢をやっていたとして、「エコノミストは痴漢をする」「エコノミストだから痴漢をする」とは、「手鏡と痴漢によって幾度も逮捕されるのだ、つまり偏向したイリーガルな性癖を持ち合わせているのだ、元経済学者は、なるほど、と興味深く思ったということです。」とは、言わないでしょう。いや村崎百郎氏はそう言ったけれども(クロソウスキーの『生きた貨幣』を引き合いに出して)。


真顔で書いたなら、失笑の集中砲火を浴びます、はてな村の方々にて日夜活発に議論を展開なさっている現役エコノミストの諸氏から。「元風俗嬢」に対してならそのようなことを真顔で記せると、考えているわけですよね。それを「差別」と言います。「元経済学者は」ではなく「植草氏という人は」とするならおそらく正解であるけれども。


性意識とは、明確に、そして近代社会のルールとしても、個人の資質としてのみ所在する私的な領域の事也。少なくとも一義的にはそういうことにしましょう、ということです。


yukiさんの「メスブタ」という発言についてもまた、上記に縷々綴ってきたが如き文脈の存在が前提としてある。「おまえも所詮メスブタ。」は、arisiaさんの発言に文脈的に対応してある言です。事実上「売春婦は○○」「売春婦だから○○」とarisiaさんが言ったから、その「is」は「だから」は違うだろ、と、yukiさんは一貫して反撥している。私の認識によるなら。


任意の履歴的な社会的属性に対して、任意の履歴的な社会的属性を理由として、「is」「だから」によって結ばれる単線的で等号的な命題を立て、それを公言することに対する反撃として、皮肉を用いて「女は全て売春婦」「おまえも所詮メスブタ」と記した。


ただしそれは単なる意趣返しではなく、論理的にも筋は通ってはいる。この場合、「売春婦」「所詮メスブタ」のくだりは、あるいはどうでもよいことであって、「女は全て」「おまえも」という部分にこそyukiさんの反論が所在している。


履歴的な社会的属性なんて、概念としての売春婦であることに、関係がないだろ、と。比喩としてのメスブタであることにも関係ないけれどもな、と。


個人の私的な性意識に対して言及する際に、当該の個人の履歴的な社会的属性を関連的に言挙げること自体がくだらない、と。自分自身に対してであれ、任意の他人に対してであれ、あるいは履歴的な社会的属性としての「売春婦」自体に対してであれ。


この段階におかれては「くだらない」といった対応にて留まっていた。私はそう判断している。以下のリンクを参照。


管理人氏に対する批判意図はまったくない、為念。本件における、aozora21さんの一連の姿勢に対しては敬服しています。というか、当該の表現に限ってはその文脈的なる「意図」は、第三者に対しては甚だ伝わり難いものであると、私もまた思う。


http://d.hatena.ne.jp/aozora21/20070317/1174138317


「差別」というのはリスキーな危うい単語であり語彙であり、そして概念であると、改めて考えました。何が危ういかというと、時に思考停止を招きかねない単語であり概念であるからです。


「差別」の当事者たる「被差別者」から「差別」概念を語彙ごと持ち出されたとき、人は時に「何が「差別」か」「何が「差別」に該当するか」という内実について踏み込むことない。内実に、被差別者たる糾弾者の怒りの実質が所在するにもかかわらず。


彼の人が何に対して怒りを表明し怒鳴りまくっているのかよくは了解しないままに、とりあえずおかんむりのようであるから「差別」のことでもあるし怒鳴っているのは「抑圧された被差別者」としての差別の当事者でもあるし、この場合における、何が「差別」であるか、そのことはよくはわかりかねるけれども――と。そのうえにて言及するか静観するか、その人次第。


むろんのこと、Akkyさんやaozora21さんら直言を示している方達は、十二分に真摯に、yukiさんの怒りと向き合っている、と私は考える。行き違っているだけです。であるから、エントリを掲示しました。「差別は許されないことである」という近代社会を前提する限りのトートロジーとして、それをあたかもブラックボックスであるかのように処理する人とているし、そして、実際に、公共的なる近代社会の原理的な大義としての、「差別」概念とその行使は、時にブラックボックスとして機能しかねないことがある。


ゆえに、「差別」概念は、無前提に掲げ振り回すことのなきよう、言い換えるなら濫用されることのなきよう、その的確な行使が要請される。そして。yukiさんが「差別」概念を無前提に掲げ振り回して行使していることのまったくなきこと、妥当にして正当な判断のもと行使していることを告知するために、遅ればせながら長文を掲示することとしました。


yukiさんが再三に亘り言葉を尽くして、「何が「差別」であるのか」ということについて自らの怒りの内実を示し続けているにもかかわらず、「差別」概念とその行使が関与すると時に伝わらなくなることあるのだな、とやりきれなくなったゆえ、本件の「何が「差別」か」「何が「差別」であるのか」「何が「差別」に該当するのか」ということについて、起点としての発端にまで遡行したうえ、私なりの解釈と言葉から、説明した次第です。


――yuki19762さん、手前勝手なフォロー、申し訳ありません。「個人の性意識」などと第三者が、それも男が云々するべきではないことですが、かかるファクターについて触れないことには、そして一連の事態の発端に至るまで遡らないことには、この件における問題の内実の所在については、指し示し得ません。


すでに、話が拡散し放題となって、発端にして中心としてのarisiaさんとyukiさんとのやりとりについては、検証されることなくなっている。「arisiaさんの一連の発言は酷いけど、酷いことはわかっているから、そのことは措いて、yukiさんの発言のことだけど――」と。違う。そうではない。yukiさんとarisiaさんとの認識的な齟齬にこそ現在に及ぶ万事が所在しているし、問題はいまなおそこに在る。


なお。よって。自己決定としての個人の社会的な選択というファクターは、この件における「差別」とは、原理的には関係しない。――原理的ならざる心理的な受容面、すなわち他からの印象の側面については、さすがに私は一般的には筋論では押し通しきれないこと、知っているけれども。


「is」「だから」のロジックを安直に使用する、単線的な発想とその命題化、そしてその表出それ自体が「差別」なのであるから。「風俗嬢」「売春婦」であることを単に言挙げているから「差別」と示されるのではない。また。yuki19762は、過去に自らの履歴を散々自己言及的にも公的に記しているではないか、という指摘には、この件については私は意を同じくすることできない。理由は結部。


差別とは社会構造/社会的文脈という事実性に依拠し依存し時にその威を借りた、個人的な感情に基づく、現実の人間に対する毀損です。ゆえにinumashさんや、そしてyukiさんが原理的な筋論をもってそれを撃つことは当然。私とて「近代社会の原理」を持ち出す。相手のあってのことです、万事は。


結論としての要約――何が「差別」であるのか。それは。


「履歴的な社会的属性」としてのAに対して「個人の事情」に属するBがあるとき、「AはB」「AだからB」とする定式化した発想/意識認識/価値観とその命題化におかれる、「is」「だから」という関数の存在と入出力、その結果的なる表出こそが、差別に該当します、少なくとも、本件の場合においては。


AやBに如何なる内容が代入されるか、そのことは一義には問題ではない。AとBを単線的に、ないしはイメージにおいて直結させる「is」「だから」という関数としての発想と、関数におかれる入出力としての命題設定ないし命題化それ自体が、差別の機能を果たす。


私のスタンスを改めて示すなら。「差別」とはそれを存在させる歴史的な社会構造と現実の社会的な文脈にフィードバックして問われなければならない問題です。明文化されざる事実性としての差別の構造が現行の社会に組み込まれている。現実の個人が毀損されたときに「社会」の事実性をもって応対することを、個人たる私は一概に良しとはしたくない。


反差別闘争は常に「現行の社会の事実性」をこそ撃ってきました。差別の構造が所在し、社会の事実性を自明とする人間はその構造を意識すらしないためです。また反差別闘争は時に制度論以上に社会の事実性を、ひいては社会の事実性を自明とする意識それ自体を撃ってきました。


「現行の社会の事実性」にこそ多く所在する問題に対して、制度論や原理原則論のみをもって論じ得るものでも、また他人を非難し得るものでもまったくないことを、むろん私は知っている。しかしながら。


――「現行の社会は構造的にも売春婦を区別し差別するものであるから売春婦が区別され差別されたとしても社会的にはやむなし」というのは、それこそ端的にトートロジーであり、思考停止の極みではないかと、思いもするのです。


付記。掲示の直前に以下の記述を拝見しました。当該のエントリ自体に対する言及ではないうえに、横レスにて失礼しますが、コメ欄。


差別と悪口:しっぽのブログ

1483   投稿者: D-SHI (2007年03月19日 09:01)

(前略)
僕は発端の「空いた時間をそれ程好きでもない相手とデート代を払ってもらってする面倒なセックスが売春のようだと元風俗嬢が言うのは興味深い。」というarisiaさんのコメントが「元風俗嬢」という言葉を抜いても成立することから、発端は道で肩がぶつかって云々という話じゃないよなぁというコメントをしました。
要するに、売春者を(売春者だという理由で)侮蔑するために置いた単語として僕は理解したわけです。まあ、この辺の感覚は人それぞれなんでしょうが。
(後略)


「人それぞれ」かもわかりませんが――私は同感であったし、たぶんに、その通りです。私なりに、私もまた思ったところについて、分節して説明しました。id:D-SHIさん。