人は沈黙せず


宇多田ヒカルの話でも、書こうかと思っていました。レスポンスが返ってくるまではスルーしておこうか、とも。もはや、いかなる状態が通常運転であるのか、よくわからなくなっている、文字通りの難破船状態の、当ブログではありますが。――しかしながら。怒ってしまった手前、言明しておきましょう。個人的な声明を。


http://homepage.mac.com/biogon_21/www/jnt_statement_jpn.html


文面について、私もまた、id:Gedolさんとほぼ同様の感想を抱いていました。


自コメントについての補足 - Apeman’s diary


において示されたApemanさんの見解を拝見して、納得しました。

しかしこれは「歴史認識を政治的判断に従属させる」ことを意味するわけではありません。第一に、特に現代史に属する出来事の場合、政治から自由な歴史認識がありうると安易に想定するのは危険ですが、一定の自律性をもった学問としての歴史学を尊重するならば、もちろん政治的判断のために歴史認識を単純化してはならない。しかし翻って考えるなら、否定論の活動に対して異を唱えることは純然たる歴史認識の問題ではありえない、というのもまた現実です。なぜなら南京事件否定論はひとつの政治的な運動―現役の国会議員や、歴史教科書の作成に関わる人間をメンバーないし賛同者にもち、CSの有料放送とはいえテレビ局までもった―として存在しているからです。

南京事件を口にするのが中国政府だけなのであれば歴史認識と政治の関係だけを考えておけばよいかもしれません。だが、直接当時を知る生存者こそ(当時10歳でも今年で80歳ですから)数少なくなってきているとはいえ、例えば「祖父が殺された」「隣の家のおばあさんが殺された」といった程度の近さでもって南京事件を考える人々はまだしばらく存在し続けるわけです。私たちはそうした人々に潜在的には出遭っているし文字通りの意味で出遭うことだってありうる。それに対してどのような態度をとるのか。


共同声明という試みと、その文面に示された趣旨について、改めて、全面的に支持するところであることを、明記しておきます。

否定論に与しない保守派の間では秦郁彦の主張に人気があるようですが、(後略)


仰る通り、私もまた秦氏の議論に多く与する立場の者ですが、南京事件については、相対的にも不案内であるため、自身の見解については措きます。


署名はしません。理由については3月1日付の自エントリに私自身が書き込んだコメントを参照していただきたいのですが、ようは、私は実生活ないし仕事と直接に関係する局面以外では、言い換えるなら直接的な自己の経済的利害と関係する局面以外においては、端的に意思表明としてのみ機能する署名ということは一切やらない質であるので、ことにWebにおいては。私個人の信条の話でしかない。であるから、こうして全面的な支持を表明するエントリの掲示によって換えています。もうひとつ、私は私なりに「共同声明」に対して賛同の署名を行うことの「重み」を認識しているので、現在の私の立場からも、一線は画しておきます、という話。


むろん、声明の文面に対して決定的な異論を持ち合わせないからこそ、支持するところではあるのですが、体質的な署名嫌いにして政治嫌いの私が全面的な支持を言明するに及んだことについては、Apemanさんとの機縁と邂逅も関係しているのですけれども、それ以上の、私なりの理由がある。それは――声明の「二.」について。

この報道が引き金となり、映画関係者(レオンシス氏や出演した日本人俳優)のブログに悪意に満ちたコメントが多数投稿されるというかたちで、南京事件否定論者による攻撃が行なわれています。攻撃の対象となったブログは、南京大虐殺は中国の反日プロパガンダによってでっち上げられたフィクションであると主張するコメントでいっぱいになっています。

二、この映画がまだ日本では公開されていない現段階において、私たちは映画それ自体についての評価は差し控えます。しかしながら、このような論争的なテーマについて映画を制作、公開する自由を私たちは全面的に擁護します。また、南京事件についての研究、議論を深めるきっかけとして、本作が日本公開されることを望みます。私たちは本作に対する、否定論的、人種差別的な動機に基づくネガティヴ・キャンペーンに反対します。


私は――韓国語が読めないどころか、英語が読めないorz――辞書片手にならなんとか読めます――ので、実際の状況についてはよくわかりかねているのですが(「出演した日本人俳優」のブログの炎上については、当時確認しました)、もし仮に、状況が上の通りなのであるなら、とりあえず、人種差別的な言辞を英語のサイトに英文にて書き込むのは、さすがにまずいのではないかと。


嫌韓とはつまりHate Koreaであるのか、とアメリカにて問われ、東浩紀氏は説明するに頭を抱えたそうです。決定的な文脈格差。あれはネタ的コミュニケーションで、などと答えたところで、Ha?との返事が返ってくる。人種嫌悪ないし民族嫌悪的な言動がネタ的コミュニケーションって、アメリカにおいて公的な場にて公言したなら、えらいことですよ。


むろん、歴史的な経緯と文脈およびそれに規定された個々の構成員の意識における相違が関係しているわけですが、グローバライズされた普遍主義を前提するなら、理と正当性は全面的に先方にあるわけです。意識における土人が蛮族丸出しの偏見を説いたところで、黒服につまみ出されるだけなのです。先方から一方的にかく認定されてしまう、という話。


ええ、それこそ普遍主義とグローバリズムという大義の旗のもとにおける、西欧的価値観の専横であり差別であり収奪ですよ。現在においてもなお、普遍主義を自賛する、知識層ならざる西欧人の大半がレヴィ=ストロースであるはずもない。


それは、あるいはPCであるかも知れないが――少なくとも私は、現在進行形の人種差別と民族差別については、許容し得ない。ガチで。目がマジになる人と、マジになるだけの経緯と理由が、明確に存在しているわけですよ。米欧はむろんのこと、日本におかれても。深刻な話なのです。PCを設定しないことには、あるいは設定することにより、いっそう、プライベートな領域にてかような言動と意識認識、その表出が日常的に横行しているという現実が、ある。かの多民族国家におかれては。あるいは日本におかれても。


差別意識は御勝手であるが、顔には出すな、「あえて」でないのなら、「あえて」とは覚悟である――それが大人の世知というもの。差別意識を顔に出すどころか、日本語圏といえ、ネットに堂々と公的にリリースしてしまう人の発想/感覚というのが、いまだによくわからない私は、古い人間であるのでしょう。ネットの発言って、原理的には半永久的に残るのですよ。覚悟と匿名性とが、この場合、引き換えられているわけです。で――さすがに、英語圏のネットに公的にリリースしてしまうというのは、そういう出張と遠征というのは、愛国右派としても、正直なところ、迷惑です。


私は、まったく正直に申し上げて、2chというものを、ローカルな島国日本の、似非普遍主義を排撃し解体してみせた、誇るべきブリリアントな独自文化と考えているのですよ。皮肉では決してなく、リテラルな意味にてマジで。文明に汚染された文化の僻地にこそ在るラディカルな最先端、ジョン・ウォーターズの撮るボルチモアのようなものです。


で、日本の誇るべき反普遍主義の一大文化は、普遍主義の本場――欧米に晒すべきではないとも思っているわけです。たぶん――「民俗学」「文化人類学」の対象にすらなり得ない、独自文化のローカルな独自性を守るためにも。繰り返すけれども、皮肉でも逆説でもなく、ガチ。


最低線の綱領の話をしますけれども、人種嫌悪/民族嫌悪的な発言と、いわゆる陰謀論は、パブリッシュした瞬間に、当該発言と発言者について終了宣告が下されるのが、欧米圏の言論空間においては自明のコモンセンスというものです。南京事件について「中国政府の主張」に反駁したいのであるなら、なおのこと、人種嫌悪/民族嫌悪的な発言と陰謀論と受け取られかねない言説は、厳に慎まないことには「情報戦」にも「言説における政治」にも、勝てません。


欧米圏の、知識層と言わずともメディアにおいて実践されている「言説における政治」のルールは、ローカルなる日本の「論壇」におけるそれとは、明確に相違している。少なくとも、PCに対して喧嘩を売ったなら、米国では勝てません。PCの綱引きをやるしか、ないのですよ。


連中の多くは、あるいは一部は「アラブ」など蛮族の集合的な巣窟としか思っていないわけです、エネルギー大量消費国の国民がね。日本はハラキリとゲイシャとカミカゼとオタクの国。そしてそれは、グローバライズされた欧米的な普遍主義を自明の前提としたなら、あるいは正しい。二重の意味で、双方にとって。私は――少なくとも近代主義を前提しているから。この話は始めると長いしややこしいし脱線するので略。


米国下院に提出された「決議案」をめぐる現在のゴタゴタについても思うことですが、私は、PCを盾にしたあからさまな政治的争闘というものを、一様に嫌うし、正直なところ、反吐が出るとすら思っている。


率直に申し上げるなら。おまえらが言うな。おまえらにだけは言われたくない。当事国たる韓国ではなく、おまえらに謝罪決議を審議される筋合はない。ああ、旧帝国陸軍前近代的な思考に支配された、合理主義と分別なき軍隊であったさ。占領軍の米兵諸君に対して時の政府内務省がいかなる粋なはからいを先回りして示したか、京極夏彦も書いた周知の事実だよ。君達から批判され軽蔑されて当然さ。君達にとって、戦人とは敬すべき紳士の謂であるらしいから、たとえ、それが観念論であろうとも。率直に、羨ましくもある。この場合の「政治的争闘」とは、Webにおけるそれのことではむろんなく「言説における政治」のことですらなく、ベタな国家間のそれ。


――この件をめぐって、とある著名な、実名にてブログを運営されている方のエントリを拝見しましたが――内容以前に、勘弁してくれ、10年前に厭というほど目にした議論だよ。吉見とか吉田とか、かような名前が反復されて再批判される日が来るとは思わなかった。もう忘れたい。それだけです。


誤解なきように書いておくと、この件について私は見解を持っているし、それは、TBを送らせていただいた手前、記すなら、Apemanさんや、あるいはbluefox014さんが問題提起なさっているそれと、ある段階までは一致している。ある段階まで、というのはつまり、「問題」として言挙げたうえで議論するとするなら、その採用する枠組ないしパースペクティブについては一致しているということ。10年前に取り沙汰された事項の「その先」の議論が、大枠として所在する。


決議案などというハナシは、私の知ったところではないし、首相の答弁も含めてそちらのハナシには、意思的に私はコミットしません。ふざけんな、と思っている。ただし、かの件について、10年前の議論と異なるパースペクティブから、改めて、正しくイデオロギー的に考えるべき事柄は別個に在って、私個人はあまり趣味ではないけれども、安倍答弁も米国議会も関係なく、個人的に問題として検討してきた人達が、オープンな問題提起の機会とすることはあってしかるべきと思う。アグネス論争の際の上野千鶴子氏のように。


再度引用。

二、この映画がまだ日本では公開されていない現段階において、私たちは映画それ自体についての評価は差し控えます。しかしながら、このような論争的なテーマについて映画を制作、公開する自由を私たちは全面的に擁護します。また、南京事件についての研究、議論を深めるきっかけとして、本作が日本公開されることを望みます。私たちは本作に対する、否定論的、人種差別的な動機に基づくネガティヴ・キャンペーンに反対します。


私が「共同声明」を全面的に支持する最大の理由――表現の自由は、最大限守られるべきに決まっているからです。たとえそれが、露骨に政治的な効果を意図した「表現」であったとしても。原則論であって、当該の『Nanking』がそうである、ということではまったくない。というか、まだ、わからない。


南京の真実』についても、私の立場としては同様、原則論の通り。「情報戦」とか公言していらっしゃるそうですが、「映画」に謝れ、とか、思うけれども言っても仕方がないでしょう。『Nanking』共にドキュメンタリーであるそうだし。明確な対抗言論の所在を「健全」な状況と考える私は、製作側が一方的に言明する対抗映画の所在についても、歓迎するものです。


明確な意図を持った政治的な表現を、政治的な理由から、その発表自体に対する、あるいはそれを流通に乗せること自体に対する、直接的な抗議を行うことを是とするか――私の立場は、原則的に否。


「しかしながら、このような論争的なテーマについて映画を制作、公開する自由を私たちは全面的に擁護します。また、南京事件についての研究、議論を深めるきっかけとして、本作が日本公開されることを望みます。」――禿しく、同意します。


呉智英夫子はかつて「つくる会」の発足に際してかく言いました(注:あくまで「発足時」の話。氏は「つくる会」シンポジウムでの講演を依頼され、引き受けている。いつもの話をしたそうですが。氏は、かつて依頼されてアムネスティ・インターナショナル日本でも講演している。いつもの話をするように依頼されて、いつもの話をしたそうですが)。大意。見解とスタンスにおいて、自らとは多く異なるが、その発足については支持するし歓迎する。何よりも、その時代固有の政治力学から、議論自体が封殺され、時に政治的な表現が政治的な理由に基づき禁圧される状況こそ、あってはならない。議論は常に喚起されるべきである。


――余計なインフォを書きとめますが、呉氏について先入観から誤解をなさっている方は、青林工藝舎から復刊された、平田弘史血だるま剣法』に(復刊に際して尽力した監修者の)呉氏が寄稿した長い解説を、是非とも読んでいただきたい。


血だるま剣法/おのれらに告ぐ - Wikipedia


――私はね、昔、頭にきていたのですよ。『プライド』の製作と上映自体に対して文句を付けていた「一部の人々」や、『新しい歴史教科書』の市販にさえ反対していた「一部の人々」に対して。検定を通すべきではない、って、おまえらは検定制度廃止論者ではなかったのか。検閲反対と言っていたのは誰だ。その点については同意していたのに。


後出しの言ではありますが、原理的には――家永氏の執筆した歴史教科書についてもまた、最初から自由に流通させるべきであったと、検定制度廃止論者にして歴史教科書自由化論者たる私は考えています。繰り返しますが、あくまで、原理的な原則論。現実の事情が分岐していることは、承知していますが、「あえて」関知したくもない。


家永三郎 - Wikipedia

教科書の発行に関しては、自由発行・自由採択であるべきだとの持論を教科書裁判提訴の頃より一貫して明らかにしており、80年代半ばの『新編日本史』を巡る議論が盛んだった時期には、「あの教科書の内容にはもちろん反対です。しかし、検定で落とせとは、口が裂けても言えない」と述懐していたといわれる。


上記引用の言に、まったく同意なのですが。


プライド・運命の瞬間 - Wikipedia


『プライド』『新しい歴史教科書』――むろん、両者ともに「明確な意図を持った政治的な映画表現/出版物」ではありましたよ。前者については、一概にかく言えるものではありませんでしたが、政治的なる議論の局面に一石を投じんとする作品でありフィクションであったことは、確かでした。『ブレイブハート』『パッション』を監督し前者には主演もしたメル・ギブソンに対して今なお個人的な最敬礼を捧げているように、当時の津川雅彦の男気と心意気を、私はリスペクトしている。宗教観、あるいは歴史観について、彼らと私は明確に違えるところではありますけれども。


映画としての出来や歴史観/宗教観に対する是非は措いて、明確な政治的/宗教的信念の基に映画を製作し公開して流通に乗せることの何が問題であるのか。ならオマエは某科学が製作し公開している映画についても肯定するのかと問われたなら、製作し上映すること自体については、全面的に肯定する、と答える。私は、筋金入りの、ヴォルテール主義者であるし、ヴォルテールと同様に、我々の理性の在処を信じているので。それもまた、一種の信仰ですけれどもね。


明確な政治的表現に対して政治的な理由から発禁へと追い込むことを、私は断固として是としない。たとえそれが、いかなる質的水準にある表現であったとしても、あるいは悪質な内容を含む表現であったとしても。言論の自由表現の自由は、最大限に守られるべきです。


発表の機会を全面的に確保し、表現の存在自体については全面的に擁護したのち、かかる表現のその内容/内実について、要あるなら糞味噌に言えばよい。私は、私たちの理性の中核を構成する批判精神の力を、盲目的かつ宗教的なまでに信じているので。


かつて、山本弘氏は言いました。大意。露骨な差別思想等、いかなる悪質な内容を含んだトンデモ本であれ、それが出版されること自体を、あるいはそれが流通すること自体を、妨害するべきではないし、そのこと自体を由々しき問題と考えるべきでも、ない。言論の自由は守られるべき。時に、利益目的に大出版社が刊行することは、いささか困った話ではあるが。


発表の機会の確保については全面的に支持し擁護したうえで、発表された言論らしきものに対して心おきなく突っ込み、理性と批判精神のもとに笑い飛ばして対処するべき。鳥を乱獲して絶滅に追い込んではならない――それが、バードウォッチングのエチケットというものであって、バードウォッチャーの醍醐味でもある。


「あえて」原理主義的なスタンスのもとに教条的な表現を用いますが――誤った言論は、正しき言論によってこそクリティカルにカウンターし得る。下手に政治的な――つまりは露骨に政治的であることが見えすいた――抑圧と規制は、逆効果。「物言えば唇寒し」と暗黙に思わせ、かかる認識と感慨を無言のうちに共有させてしまったなら、およそテクニカルにも負けであって、沈黙に閉じ込められた感情の内圧は、ひとたび契機あれば暴発し爆発します。それは、現実的にはバックラッシュと裁断して済む類の話ではない。


拉致被害者帰国によって開いた感情の蓋。拉致の事実を以前から認識していた者として記すなら、結果論としても、沈黙の蓋を閉じることに積極的に加担していた、日本におけるメディアの関係者と言論人と政党は、自らの「行為の帰趨」について明確に認識すべきであったし、こと現在に至った以上、腹を切って死ぬべきとまでは言わないから身を処してくれとは思っている。連中に「若者の右傾化」を嘆きなじる筋合はないし、小泉と安倍と「つくる会」と小林よしのりに責を全面的におっかぶせるなど言語道断である。


物事には原因と結果がある。自らの言行の結果が、「若者の右傾化」を意図なくとも結果的にも推進したとは考えないのか。連中に2ch便所の落書きと呼ぶ資格はまったくない。私達「日本人」に詫びる筋合などあるいはない、ただし「在日」の、二世三世の若者に対して詫びてくれ。「若者の右傾化」と自らの行いは関係がないと思っているのであろうか――連中は。行為の帰趨とその結果について、認識したうえで、己が身を処せ。


以前から、言われ続けてきたことではありますが、日本におかれては、いわゆるユダヤ陰謀論に対して政治的な理由に基づいた圧力を直接的かつ明示的に加えることは、かえって陰謀論を強化させ蔓延させることにしか繋がらない。政治的な意図に基づいた、誤った言論ないし表現であるからこそ、政治的な理由のもとにその発表と流通を禁圧してはならない。日本のおかれた個別的な条件からは、現行において示され得る最適解でしょう。


政治は、言論と表現に対して優越してはならない。理性と批判精神を持ち合わせるヴォルテール的な文明人にとっての、一種の定言命令です。政治が言論と表現に対して優越したとき、文明人の矜持は、理性と批判精神が維持する閾値は、瓦解する。


「情報戦」と連呼し息巻いている「理性と批判精神ある文明人/知識人」(――ですよね)は、あるいは映画監督にしてメディアの代表者は、そのことを忘却しているし、言論の徒/表現の徒としての自らの誇りすら、打ち棄てている。


チャンネル桜の「南京の真実」映画製作発表の記者会見 - クッキーと紅茶と(南京事件研究ノート)


そして、むろんのこと、ドキュメンタリー映画南京の真実』は、製作され公開されるべきである。頭の痛い内容であったなら、叩かれることでしょう。それは正しい。かかる条件は『Nanking』についても同様。原則論を、忘却し捨象してはならない。製作を上映を日本における公開を、妨害するというのなら、私は断固として、かかる行為に対して否とします。


――愛国者たる貴方方は、戦後60年をかけて立派に涵養された、日本国民の理性と批判精神を、信頼しないのですか。私は信頼しますよ、愛国者として。「と学会」をオタクを、そして巨大なる2chを発生させた、誇るべき理性と批判精神を持ち合わせた、国民の民度を信じる。皮肉ではなく、ガチで。


もし、『Nanking』が、トンデモにしてふざけた腐れ黄禍映画であったなら、あるいは、イーストウッドソクーロフスピルバーグの靴先舐めて出直せというレベルでしかない、単に出来の悪い映画であったなら、題材が題材である以上、日本公開されたその後に、映画の内容について糞味噌に叩けば宜しいし、あるいは『デビルマン』『ゲド戦記』の際のように、監督ならびに関係者の責を「戦犯」として徹底的に追求し糾弾すれば宜しい。それは正しい。仮にもアメリカ人が、リスキーな題材を扱って日本で公開するという以上、テッドやビルら製作者に賭金は支払っていただく。覚悟のうえの製作でしょう?映画人の気概を見せていただきたい。


イーストウッドソクーロフは、私達の視線に晒されたうえで、賭けに勝った。映画人の気概を見せた。日本の、映画に対して、あるいは先の戦争や先帝に対して、一家言ある観客の多くを納得させたのであるし、スピルバーグは、かのブリリアントな水準の映画であっても、現実の人間関係において、同胞達に対する賭金を支払うこととなった。正直なところ、ソクーロフの『太陽』については、私個人の感想は色々とあるのですが――措きます。そして、はるかに端的な話として、『プライド』も『新しい歴史教科書』も、同様の憂き目に遭ったわけですよ。正しい始末として。


余談を記しておくと。私は『ボウリング・フォー・コロンバイン』を、初見時から、無茶苦茶にセンスの良いプロパガンダ映画、と思っていました。センスが良ければ、私にとっては無限の正義です。『華氏911』の以前のこと。


かつて、従軍慰安婦を扱ったドキュメンタリー映画に対して、上映中のスクリーンが切り裂かれるという事件があった。むろん、私は認めません。ただ、比喩的に言ったとしても、ペンよりも剣のほうが強いと信じるのが、右翼の原理的な条件であるからなぁ……


そして、ペンは剣よりも強しと、定言命令的にも信じる人間は、常に、ペンが剣よりも強くある状況をこそ、現実的に守らなければならない。守らないことには、ペンは剣によって即座に脅かされます、現在の日本におかれてもなお。可能性と蓋然は、払拭されることはない。ペンを信じんとする人間は、現実的にもペンが守られるべく動くべきでしょう。


ペンの先から腐れ有害毒電波を延々垂れ流す人間がいたとして、ペンを信じんとするなら、そうした輩をぶん殴ってはならないし、一時的かつ暫定的に口を塞いでもならないし、そうした輩からペンを取り上げるべきではない。物理的なる「実力行使」に及んではならない。唯物論的にレトリカルに言うなら、物理法則としての決定に人は逆らい得ないけれども、それは結果論としての話。人が物理性を意思的あるいは恣意的に行使したとき、反作用の法則は事後的に発動する。


ペンを取り上げたところで、連中は毒電波を垂れ流す。舌先三寸のデマゴーグで済んでいるうちはともかく、連中が政治という剣に手段として目を向けたなら。そういう連中は、数は多いし、目的としての大義のもとに群れて同調するのですよ。かの会の「一部」の人達が、「運動」としての露骨な政治へと方針を転換させたのは、かかる経緯が関係している。言わせるだけ言わせておけば、好きにペンをふるわせておいたなら、よかったのに。むろん私は、家永氏が著した歴史教科書は「自由発行・自由採択」させるべきであったと考えている。


私は、いかなる既知外からであれ狂信者からであれゲッベルスからであれ、ペンを取り上げるべきではないし、むしろ(あるいは肥大した)自意識において一言居士たる万民にペンを与えるべきであると、常に考えている。ペンとは、メディア(=媒体)でありツールであり流通の経路。幾度も書いていることですが、チラシの裏の私的説教と電波文書が広範に回覧されるシステムを、私は原則的に肯定し支持する者です。かつて岡田斗司夫氏が説いた、自由洗脳競争社会。――で、ペンとしてのブログ万歳Web万歳、といういつもの紋切型のゴタクになりかねないけれども。


いかなる最低最悪のペンであれ、ペンに対して超越的かつ物理的な実力行使に及んではいけません、言論において、それは、倫理問題というよりむしろ、端的にテクニカルな問題である。とはいえ現実的には、あるいは実生活の局面においては、殴る気にはまるでならないけれども、こいつを永遠に黙らせる法はないかと、あるいは端的に怒鳴りつけたくなる言行というのは多いもので、「ペン」をもって理性的に対応するにはどうにも難儀な手合いというのはあまりに多い。


ま、社会というか世間のそこらじゅうに転がっているアタリマエの話ですが、まだまだ私はリベラルさが足りないと、自戒する毎日では、あります。話し合いはできない、話せばわかるは嘘である、という山本夏彦の金言を、より深く日々反芻するということが、世間を生きるということの意味であるのかも知れない。


というわけで、よって、署名はいたしませんが、当該の共同声明に対して、全面的なる支持の意を表明します――sk-44というブロガーは。Apemanさん、これが、貴方の意に対する私の応答です。「なにがやりたいのか」――万事は行きがかりであり、異なる価値観を持つ他人との機縁であり邂逅ですよ。なお、「情報戦」だのという言辞と対応しかねない、ガチでポリティカルなバトルの土俵については、私は個人的な信条から付き合いきれません。付き合ってくれとも、まったく誰にも頼まれていないわけですが。