MacacaFuscataさんへ


大変、お待たせしました。出張中に書いていたエントリを、アップロードします。見込み、というか目算通りに、書き込んでいただきたい方が、当方に書き込んでくださったことは大変に嬉しいことではあります。――ただ、その内容については、しかしながら。


あるいは忘れられた歌 - 地を這う難破船

とりあえず、finalventの日記におけるBaatarismさんのコメントについては、当時すでにApemanさんのブログのコメント欄において話題になっております。


示してくださったURL、コメ欄に至るまで拝読しました。MacacaFuscataさん、インフォメーションをありがとうございます。感謝します。内容的にも、皮肉ではなく、大変に興味深いものではありましたが――「話題になっております。」


http://homepage.mac.com/biogon_21/iblog/B1604743443/C1534355107/E20060815212016/index.html

http://d.hatena.ne.jp/finalvent/ ...date=20060816#c

 未だに中道をにんずるものこそ右翼ではなくウヨクなのだとわからない人々、前回のリンクにも同じ人が…。


と当該のコメ欄のリンクを貼ったうえでNakanishiBさんのごく手短なコメントが付され、それに対してApemanさんが、

これはもうとぼけてるんでなくてほんとに自覚がない、ということなんでしょうね。


というレスを返されている。リテラルには、それに尽きるやり取りでしかないように思われますが。――で、貴方は私に対していったい何を伝えたかったのでしょうか。情報を提供してくださったということで、宜しいのですか。なら感謝します。


この「人々」とはつまりどなたのことであるのか、「前回のリンクにも同じ人」が果たしてどなたのことを指すのか「前回のリンク」を確認し得なかった私には、わかりかねているのですけれども。NakanishiBさんは、id:Baatarismさんの当該発言を名指しで批判しているようには、私には見えない。enemyoffreedomさんの発言について批判されているのであるなら、私が同意するかは別として、NakanishiBさんの発言の趣旨については理解します。というか、もし名指しで批判している意図があるのであるなら、以前、呉氏の件に際して私にされたように、先方に対して通知するべきとは、思いますね。なので、今回、コメントを引用させていただいた者として、あるいは遅ればせながら、idトラックバックを送らせていただきました。御了解ください。


なお、私はBaatarismさんのブログの愛読者でもあり、ことに自分自身、経済についてはいささか疎くもあるので、コメント欄も含めて、大変興味深く拝読しています。そうした信頼を前提して、私はBaatarismさんの、おそらく御本人にとっては一種の冗談に過ぎないであろう書き込みを引用させていただいたのですけれども。ところで、私はBaatarismさんが「右翼ではなくウヨク」であるとは、まったく思わないわけですが。むろん、NakanishiBさんは蔑称としてカタカナ表記を用いているのでしょうけれど。


御本人の見解を拝見しないことにはわからないことであるわけですが、NakanishiBさんがこれ以上当方に書き込んでくださるのか、よくわからないので(言葉の定義の段階から、互いにズレてばかりのようでもあるし。認識面においても根本的に一致点を見出し得ないようです)。とはいえ、NakanishiBさんの論評の趣旨については、ある程度は私なりに理解しています。当該のfinalvent氏のエントリに続けて、

ネトウヨの定義 他人をネトサヨと罵る奴
ネトサヨの定義 他人をネトウヨと罵る奴


と記したなら、それは「ネトサヨ」を揶揄し「ネトウヨ」を「利する」発言として機能するに決まっていると。遂行論的に。少なくともNakanishiBさんが、かように考えたことは想像に難くありません。その理を私は了解しますけれども、ところで私は、もし私の勘違いないし見落としないし誤認であったら申し訳ないのですが、ApemanさんもNakanishiBさんもMacacaFuscataさんも、「ネトウヨ」という語を用いたことはないと、私の知る限りでは考えているのですが。私が「ネトウヨ」「ネトサヨ」という語のレッテル的な濫用を嫌うのは、それが蔑称であるということ以前に、「右翼」「左翼」の、理論以前の、事実的な歴史性に対する忘却の傍証のように、私の目には映るためです。濫用者と僭称者に、多くそれを見出すがため。


あるいは――「右翼」「左翼」との明確な差異ないし相違性の明示という区別のために、かかる語句を使用している方も、またおられることでしょうけれども。とはいえ私は、かかるカタカナの略称を対他的なレッテルとして無分別に使用することに対する自己規制を、Webにおいて維持している方に対して、シンパシーを抱きます。――右左にかかわらず。Webにおける現在の状況を前にしてなお、忘却していないということであるから。なお、当該のfinalvent氏のエントリのコメ欄に書き込まれた、

bluefox014 『(前略)
ちなみに私は「たんこなす」さんの「ネトウヨさん」という表現には賛同できません。』


という発言もまた、そうした事項のことを指していると、私は私の問題意識から、一方的に読みました。更に、僭越ながら申し上げると、当該エントリに示されたfinalvent氏の困惑もまた、そうした事柄であろうと、私は判断しています。誤読であるかも知れませんけれども。あえて、というか、わざと書きますが、MacacaFuscataさんは、御自分のことであると、思われたのですか。であるなら、残念としか言いようがありません。もしそうであるなら、私は筆を尽くしてレスしたりはしません。書き込んでいただいたその内容については、いささか残念なものではありましたが。


――言明しておきますが、私を納得させる水準の知見もまた見識もなきままにfinalvent氏を「ネトウヨ」と一方的に認定し、「ネトウヨ」が揶揄的な蔑称であることを知りながらそのことを公言する人間とは、私は話をする気はありませんので。公平を期するために記すなら、氏もまた「左前さん」「ネットゲシュタポ」という表現を用いているのですけれども。鏡の法則はさておき、そうした経緯については、むろん、存じ上げています。

偶然にも、NakanishiB(N・B)さんがあなたを評していった「頽落史観」の話がここでも出ている。


「頽落史観」の話が出ている、というか持ち出されていますね、NakanishiBさんによって。現在、いまだ出張中であるため、『限界の思考』は確認できない、というかするに難儀な具合ではあるので、かかる4文字熟語のみを投げ出されたところで、困る、としか言いようがない。というか、Webにおける活動と、各所における発言を、長らく拝見してきた限りにおいては、MacacaFuscataさんの問題提起というのは、ことに特定個人の発言を直接的に批判する際には、誰に対しても、そうした形でしかなされていないようなのですが。つまり、およそ直接的な形では、なされていない。


説明不足にも程があるし、当方の読者に対して不親切というレベルではない。そもそも応えようがない。余計なことを書いて言質を取られてはならない、とでも思っているのですか。もうちょっと真面目に書きますと、任意の理論ないしはURLのリンクのみを端的に提出することによって他人の見解を容易に批判し得るとでも、かかる批判が当事者及び第三者に対して有効性を持ち得るとでも、思っているのですか。


貴方がなさっている、他に対する「批判」とは、一貫して、事実誤認の指摘等ではなく、自己の問題意識の開陳と自己が準拠している理論ないし見解の、URLへのリンク提示によって尽きているわけです。自分なりに筆を尽くす、という発想がないのでしょうか。他人に対する直接的な批判に際しても。totさんはそうしてくださいました。御自身の見解を、丁寧に記述し、私に対して突きつけた。であるから、私なりに真面目に答えました。


とりあえず「頽落史観」とは何のことでしょうか。御自分の言葉で、分節的な説明をお願いします。単にコピペを貼ることによって批判を済ませることが軽蔑されるのであるなら、URLについても同様です。当該のURLの提示が、あくまで私に対するインフォとしての情報提供に過ぎないというのであれば、当方としても、本心より感謝を申し上げるのみです。違うのであるなら――以前、Apemanさんからいただいた御指摘に則って、貴方に対して苦情を記しますが、横着していないで自分の手で書いてください、応えるに値する批判を。


ここは、Apemanさんのブログのコメ欄ではありません。自身のブログからTBを送信するのではない以上、個別的なブログ主の流儀に、原則的には従っていただきたい。ことに対話を前提した批判を直接的に記すのであるなら。貴方はそうした理性を、当然、持ち合わせる人であると私は考えているから、注文としての要望を示させていただきたく思います。


然り、


難しい問題 - 地を這う難破船


に示されている最初の自己引用部において、恥ずかしながらも、

「方法論的な公正」という認識は社会の全体性を決して包摂し得ないし、それは世界の十分条件をしか構成しないと、私は考える。そして「公正な方法論」は、個人すらもまた包摂し得ない。


といった啖呵を切っている「最終的に言語を信じない」と公言する私が、宮台的に言うなら非合理的な主意主義者であり、よって「右」の感性に準拠する人間であることは、私自身にとっても、自明の事柄ではあります。というか、小林秀雄夏目漱石森鴎外T・S・エリオットや作家としての三島由紀夫に影響されまくった文学野郎のその帰結としては、陳腐なまでに至極妥当かつ順当。更に記すなら、思想的にもスタンスとしても人柄においても、私は北田氏よりは宮台氏を贔屓するし、あえて対立構図を借定したうえでかく記してよいとするなら――相対的にも宮台氏の側に付くことでしょう。


余談を記しておくと、いわゆる亜細亜主義的な戦前右翼の大陸浪人としての源流に関して、ひいては北一輝等についても、宮台氏による紹介のその以前から、私やその友人知人(多く年配者)にとっては知れていたことでした。宮台氏による批判的な指摘の通りに、時に歴史トリビアへと傾斜する向きは、ないとは言えなかったにせよ――声を大にして明記しておきますが――決してその限りではない。むろん、かかる言論におけるインビジブルアンタッチャブルな末流を「思想空間」の表舞台に、一時的にもセンセーショナルに引っ張り出し、かつ現代の情況を前提して先端知との合金として再解釈してみせたことは、宮台氏以外にはおよそ為し得ない、見事な「知の資金洗浄」であり、功績でもまたありました。


そして――「頽落史観」というものが、およそ当該のコメ欄においてNakanishiBさんが述べられている通りに「要するに昔はよかったとw、この論理展開は最終的に「起源」の設定に行き着くのですが。」といったものであるとするなら、確かにsk-44による「あるいは忘れられた歌」という前記エントリが、過ぎ去った個人的な体験を綴っているだけの「個人史の開陳」に過ぎず「自分語り」でしかないではないか、というのはその通り、認めます。MacacaFuscataさんによる指摘を受け、改めて読み返して、なんと爺の昔話としての繰言めいているのか、まだ一応20代であるにもかかわらず、と、いささか呆れました。


とはいえ――私が記したことは、主旨としての要諦においては、忘却に対する嘆息という、アイロニーに尽きています。私は「忘れられた歌」を批判しているわけではない、「右左にかかわらず」、歌が忘れられてしまったこと、ただその一点を――批判しているのではなく――単に嘆息し、アイロニカルな諦念を抱いている、そして、そのことを綴っている。歌を「上手に思い出す」べきとは、言って詮ないことであるから言わないし、歌のあった時代に還れなどとは、端から無理筋であるし、言うはずもない。そういうのを正しく反動と言うし、そもそも、私は歌のあった時代に懲りているうえ、愛想が尽きている。比喩を重ねて記すなら――時代遅れの「インターナショナル」と軍歌が声高に歌われた時代に。私のような相対的には若年の世代においてすら、というべきか。


であるから、「いつか来た道」としての、反復的な光景をこそ、嫌う。政治的な光景としても、言説空間における光景としても。両者に同時に足を掛けないことには、言説のバランスとは、個人においても保ち得ないとは、考えはしますが、実践とはつとに難しい。大局的にものを考えているつもりの人間というものは、私も含めて、多く非行動的な敗北主義者としてのスタイリストへと、成り下がるものなので。結局、個人の問題関心に準拠して、やる意思のあるものが、相対的にもやれることをやっていくしか、ないのでしょう、アイロニーを前提し、そのうえで「あえて」アイロニーに棹差しそれを超えて。――というのは、カール・シュミット的な機会主義としての決断主義なのでしょうか。


とまれ、私が前記エントリにて記した事柄の要諦とは、蔓延する忘却に対する嘆息と諦念という、アイロニーに尽きている、そして、かかる要諦において私が対他的に発信し得る積極的な内容とは、忘れた歌を思い出せ、ということではなく、歌を忘れていること、忘却という事実をこそ思え、ということです。むろんこれは、MacacaFuscataさんやApemanさんに対して言っているわけではない。――で、私の認識によるならば、『限界の思考』において宮台氏が言っているのは、そうした事柄でしょう。


私は「昔はよかった」とはまったく言ってはいないし、宮台氏も同様。――過去を懐古しているわけではまるでない、にもかかわらず、個人史的な自分語りが多い(これは北田氏も同様)のは、それを理由としている。思想における、理論以前の事実的な文脈を、マクロではないミクロな歴史性の文脈を、あるいは切断された過去から後続世代に対して接続し手渡していかないことには、そもそも話が通じない、また、思想における理論的な文脈、ないしマクロな歴史性の文脈についてならば、あるいは(浅田彰的に)鳥瞰的なパラフレーズによって把握し得るものの、その現実社会における事実的な(受容の)文脈、個人史とリンクし得るパーソナルな歴史性については、時に個別的な個人史、というか個人における文脈の受容史の開示に拠ってこそ説得的に規定され、また伝達され得る、少なくとも私はそう読んだし、同感しました。


totさんから突きつけられた問い。「sk- 44さんの取り上げる問題や仰っていることが「フレームを解除した地点において」話されているとは思えません。どうしようもなく「フレームにはまっている地点」から話されているように見える。にもかかわらず自分はそうではないと仰る。」それは、なぜなのか。つまりは――右左という価値的な旗幟の分岐に明示的に準拠した議論を、文脈の事実的な所在を知る癖に殊更に忌避するのは何故か、という問いに対して真面目に答えるなら、個人史の一部から説き起こすしかなかったということです。ウヨサヨといったラベリングを嫌う所以についても。


私が実際に見てきた光景と、現に見えている風景について話すしか、ないのですよ。むろん、それは、sk-44という「右より」らしき色眼鏡(=ドクサ)の所在について自己言及することと、同義です。私にとってのリアリティの話でしか、あるいはない。誰かに何かが伝わったのか、それはよくわかりません。


むろん、以上は個人的な心情に過ぎない。とはいえ――私はパブリックなセクターに属する問題であればこそ、個別的なプライベートなセクターに属する表出をこそ、汲み上げるべきとは思うし、Webとは――少なくともブログとは、それに最適なツールでありメディアであると、一般論としても、一貫して考えています。むろん、これもまた、あくまで「私はそう考える」という話でしか、ありませんけれども。とはいえ参考。アニメの話ですが。


ガタリ(包茎チンコはそっと出せ、さすれば衆人は耳を傾ける) - 地を這う難破船


私は、「チラシの裏」という判断と発想を最終的には支持しないし、「自分語り」を大いに認め歓迎する者なので。というか、そうしたエントリのほうが、私は読んでいて面白いのですよ、いささかPCないし事実と反することを書いていようと、明確に私的な記述であるなら。それは、上記に一節を引用した自らの過去エントリの内容とも、関係する。理論と実践を、一致させてみました、という与太はさておき、むろん、プライベートなセクターに明確に属する内容が、普遍性ないし相対的な正当性を構成し得るものでは、時にはない。


とはいえ、たとえば個人的ないわゆる神秘体験、ことに近親者との関係性に体験者の主観において帰納させたそうした事柄に対して、多くの人が、証言を頭ごなしに否定することをしない、というか本人の体験談に所在する内的なリアリティに対して直接的に介入することをしないのは、それがプライベートなセクターに明確に属する内容であって、また個人にとっての私的なリアリティでもあるからです。


そして、あるいは、プライベートなセクターに明確に属する事項が、任意の集合性を形成し、任意の価値的な規範と体系を暫定的にも構成したとして、それは相対的かつ物理的な動力ないし動員力とはなり得ても、近代社会における普遍性ないし正統性を構成し得るものとは、なり得ないし、かくあってはならない。よって、近代の原理原則に準拠して、認可事業としてのキー局が江原啓之氏をフィーチャーした番組を定期的に放送してはならない、という一種の冗談は措きます。


そして――結局のところ、任意の、あるいは公式化された非正統的な価値規範の体系と、個人のプライベートなセクターに属する普遍性を構成し得ない内的なリアリティとしてのファクターとは、常に決定的かつ絶対的に乖離している。そうならざるを得ない。あるいは信仰者においても。公式化された「正統的」な、普遍ならざる価値的な規範の体系と、個人のプライベートな価値規範との決定的かつ絶対的な、乖離とその個別的な距離。


現代の、あるいは現代人にとっての信仰とは、かかる宙吊りの位置に所在していて、個人の信仰とは、およそ個別的であり、内心において任意の公式的な価値規範に全面的に吸収され得るものではない。余剰は残り、現存する。信仰者は、余剰を生涯抱えて問い続けなければならない、言葉と論理の外部において。


前提的条件。個人の内心における個別的な信仰というリアリティのファクターと、公式化された任意の信仰体系という既存の価値規範との、常に個別的で不定形な、距離と落差。人はそれを、時に既存の信仰体系と、あるいは再帰的に照合させて観照的に問うていく、回帰することのかなわぬままに。――現代人にとっての信仰問題とは、かかる焦点こそが問われている。個別的な距離と落差という不一致が、余剰が。


なぜ、かような抽象論を記しているかわかりますか?――MacacaFuscataさん。私は一貫して特定の信仰なき腐れスノッブではありますが、かかる信仰問題について、問題関心とし続けている。であるから、時に腹が立つのです、広義の信仰問題を政治的理由と知的傲慢のもとに、無知と無感情のまま土足で踏み付けて涼とする人間が。むろん、Apemanさんのことではありません。貴方と、当該の女子大生のことです。


「ありうべき誤解を避けるために」最初に記しておくことにします。NakanishiBさんが「頽落史観」について言うところの「この論理展開は最終的に「起源」の設定に行き着く」というのが、よくわからない。私はおよそ公共的な「起源」など(内的にも)認めたことも設定したこともないし、「保守主義」の本義とはそうしたものではないのですか、というのは狭義の定義に過ぎるのでしょうか。上記の自己引用の元になる過去エントリにおいても記しましたが、私は「本来性」という概念ならびに発想を、基本的には認めません。本質主義についても同様。更に記すなら、68年の歌は美しくもあるけれども、現在においてはその有効性は希薄化していると、私個人は見なしている。


付記。むろんプライベートなセクターにおける「起源」「本来性」としての個人的な認識とは、決してパブリックなセクターへと移行しない、というか、公共性を構成し得ないし、公共概念の本義から言って、かくあってはならない。レトリカルに言うなら、夢と現実を厳格に分別し人為において峻別したうえで分節化するべし、という、個人の内的な固有のリアリティと、普遍を前提した公共概念とのゾーニングの強制的な徹底化こそが、原理原則としての、私の「近代的」な価値観の骨子。


私の認める、言論における保守主義者とは、一切の「事実性」を人工的なものと見なし規定する、「自然」「本来」などとアイロニー抜きにしてはまかり間違っても言わない、人間の所作と慣習の一切の人工性を前提したうえで「あえて」を論じる、メタな近代主義者のことでありましたが、そうした人も、減りましたね。


内容的にはおよそ惨憺たるものではあるので、タイトルだけ示しますが、私はかつて「人工という本来」という表題のエントリを掲示しました。偉大なるモダニスト山本夏彦の金言を借りるなら、題に論旨の一切は集約される、少なくとも筆者の意は尽きている。と詭弁を弄してみます。であるから、むろん私は一切の信仰を人工的なものと考えている、というか、一切の人文的な表象とその体系を、人工的な装置として、捉えているのですが。価値的な鼎の軽重と正統非正統の変遷は当然、歴史的にも存在するにせよ。

今回のエントリでも、「境内に足を踏み入れたことがあるか」とか「大鳥居の存在について知っているか」などという靖国批判を行う際にまるっきり不必要な条件を持ってきて、彼女を批判できたつもりになる。そういうところにあながご自身の「頽落史観」によりかかっている点が現れているわけです。


文章というものを、他人は常に正確には読まないし、正確には読まないどころか、多く自らの問題意識に沿ってしか読まない、ことにブログのエントリなどというものは。そのようなことは百も承知であるし、読者としての私自身もまた、かかる弊からは逃れ得ない、つまるところお互い様ではあるので、仕方がないことではあるのですが――はっきりと申し上げて、甚だしい誤読です。私は、貴方の一貫した問題意識についてはある程度察しが付いているし、わからなくもないので、貴方が何を言わんとしているのか、おそらく理解してはいるのですが、であるからそれは、貴方の問題意識に露骨に傾斜した誤読です。


私の記述における落ち度も関係しているのであろうし、誤読することは無問題でもあるのですが、誤読の結果を当方に批判目的をもって明記された以上は、私としても記すべきことは記さなければならない。つまりは――Apemanさんの言葉を拝借するなら、「喧嘩を売っている」と解釈して宜しいのでしょうか。


貴方が以前に私に対していかなる言及を、間接的に繰り返してきたか、当然御承知ですよね。私がこれまで、貴方に対しては幾重にもオブラートに包んだ記述を示してきたことも。仏の顔も三度、って御存知ですか。貴方が、ブクマコメントやApemanさんのブログのコメ欄という「安全地帯」からしか、私に対しては批判的な言論を示し得ない人と思っていたがゆえの対応です。であるから、そうした意味においては、私は音羽さんは好きでした。ことにブログ再開後の、現在の音羽さんは嫌いではない。さて。

今回のエントリでも、「境内に足を踏み入れたことがあるか」とか「大鳥居の存在について知っているか」などという靖国批判を行う際にまるっきり不必要な条件を持ってきて、彼女を批判できたつもりになる。

そうですね、私は、当該のエントリにて描写した女子大生に対して「腹を立てて」いたのかも知れません。ただし、その立腹は「知識の不足」に対してというよりも――境内に一度も足を踏み入れたことがない、というか近寄りたくもないし、(大鳥居の存在についても知らないということは)事実、九段下近辺を通過した際に意識したこともないであろう、かくありながら堂々と批判する、そうした風情の彼女の姿勢に対してかも知れません。自らが眼を切り意識から切り離している対象に対して、無関係という認識を前提したうえで賢しげに軽蔑的な見解を示す人間を私は嫌うし、そうした見解は支持を受けない、とは個人的に考えているので。


原文は上記の通りですが。よく再読されたうえで、どの記述に同意でありどの記述に不同意であるのか、分節的に御提示ください。私が批判しているのは「自らが眼を切り意識から切り離している対象に対して、無関係という認識を前提したうえで賢しげに軽蔑的な見解を示す人間」のことですが、かかるわたしの価値観について不同意ないし異議があるのであれば明記のうえで背景的な見解を示してください。


「無関係という認識」とは、追記的に言い換えるなら対話を前提しない無関心のことです。むろん「彼女」は――貴方は御存知のことと思うから他の閲覧者に対する不親切を承知でマイナー極まる例示を用いますが――かつて湾岸戦争の際に呉智英が参照し解釈した中島みゆきの発言のように「あえて」無関心と無関係を言明したわけではない。


「対話を前提した、世界に対する想像的な関心」というのは「左翼」を自認する者の意識における要諦であるとも、あるいは思っていたのですけれども、これも時代遅れの「頽落史観」的な考え方ということでしょうか。森達也氏などは現在においてなお、というか現在であるからこそ「あえて」そのことを、あまりにベタな言葉を用いて(自著の題とするほどに)再三主張していますし、私は氏の政治的な主張の個別の内容についてはともかく、かかる姿勢については敬意を隠すところのない者ですが。


MacacaFuscataさんの問題意識に依拠して記すなら「自らが眼を切り意識から切り離している対象に対して、無関係という認識(=無関心)を前提したうえで賢しげに軽蔑的な見解を示す」――それはあらゆる差別的な表出の温床となる意識の土壌です。


広義の心的疾患者や精神障碍者、性的マイノリティ、性産業従事者、最近のトピックで言うなら野宿者に対して、かかる「無自覚」な言い種を面と向かってナチュラルに述べられたこと、私は数多い。むろん先方は、私が心的疾患の経験者であることも、重度の心的疾患を抱えた人間や、身体にハンディを抱えた福祉受給者を、友人知人に持つことも、心に病を患った女に惚れていた、幾年も経った現在においてもなお未練たらたらであることも、また別のそうした女と付き合ってきたことも(かくていささかうんざりしたことも)、私が性的嗜好において完全にイリーガルな真正の変態であることも(ペドファイルではない、為念)、あげく不能となって本人は安堵していることも、知っていたりあるいは知らなかったりするわけですが。


ただ、1点、言えることは、彼らはそうした存在について現実には知らないし、関わり合いになりたくもないと、つまりは知らないことにいかなる問題があるのかと、断固たる自明の事項として考えているということ。そして彼らはべつだん、全面的にバカなわけでは全然ない、相対的にも教育のある、比較的ないし個別的に聡明な人間である、というか何よりも、良い奴ではある(であるから現在も付き合いが続いている)、ということ。この場合の知らないということは、知識の問題では時になくて、あえてこういった言い方をするなら、直接的かつ身体的な接触において知らない、経験していないということ。


とはいえ、そうした事柄自体を、責めるわけにはいかないし、私は当事者でもあるけれども、経験の有無それ自体を直接的に批判することができるとも思えない。そして私は、対面における直接的な啓蒙については、早々と諦観の境地へと至りました。かつて橋本治は、同性愛について記したコラムにおいて、かく喝破しました。およその大意。差別とは「そうした事項は自分とは関係のない話であるから、存在してもよいけれども、自分の目に入らないところで勝手にやっていてください」という態度のことであると。むろん、かような事柄は、MacacaFuscataさんには百も承知のことでしょうが。ですよね?私が早々と諦観へと至った現実の人々の、その「大衆」的な「政治的に正しくない」意識と、かかる状況についても。

「境内に足を踏み入れたことがあるか」とか「大鳥居の存在について知っているか」などという靖国批判を行う際にまるっきり不必要な条件


誤読であることを措いても、へえ、それは想定外でした。「境内に足を踏み入れる云々」は、およそレトリカルな、大仰な言い回しではありましたね。「実際に訪ねたことがあるか」と記せば済む話です。「右より」の傾向でしょうか、すみません。とはいえ、当該の場所は法人格としての神社でもまた、あるわけです。私の物言いはおよそ東京中心主義的であったかも知れず、そのことについてもまた、反省しますけれども、ちなみに当該の「彼女」もまた東京在住者です。


確かに、現行の中国政府の姿勢について批判する際に、中国訪問体験の有無は、あるいは「まるっきり不必要な条件」でもあることでしょう(というか、そちらについて突っ込みが入るかも知れないと思っていた。別の方向から)。宋文州氏が述べていることは、あくまで氏個人の姿勢と考え方の話であって、私はそうした姿勢と考え方に対して、敬意をもって支持し同意している、ということに過ぎませんけれども。また、私とて最後に靖国神社を訪ねたのは、一昨年の8月15日、大々的な式典の開催された日です。


――たとえば私は本土続きの国内であるにもかかわらず広島市を訪ねたことはないわけですけれども、そのことに対して幾許かの感覚は覚えていますね、常にぼんやりと。むろん、私は原爆ドームの存在について知っていますし、原爆資料館の展示内容についてもおおよそを把握しています。広義のフィクションに限定したとしても――『夕凪の街・桜の国』も『はだしのゲン』も『黒い雨』も『原爆の子』も、また『鏡の女たち』も、素晴らしい作品でした。佐藤俊樹氏が、少年時代を過ごした広島市について記した、印象的な文章にも目を通している(『00年代の格差ゲーム』所収)。


首相の参拝について批判するなら、確かに「不必要な条件」でもまたあることでしょう。ところで私個人は、九段下近辺を日常的に頻繁に通過する条件にあるおよそ多忙とはいえない人間が、たとえ物見遊山としても靖国神社を実際に訪ねたこともなく大鳥居の存在すら知らず、したがって遊就館の展示内容を実際に目の当たりにしたこともなく、自らの目で確かめる意思も持たないままに(というか、遊就館の存在についてすら知らない)並べてみせる、いわゆる「靖国史観」についての批判、ひいては宗教法人靖国神社の信仰とその信仰者に対する批判、それを一切信用しません。大前提として。


私が、宋氏の当該コラムに直リンすることなく、あえてはてなブックマークにリンクしたその意図について、了解されたうえで仰っておられるわけですよね。そうでないのであるなら、当該記事に付された大量のブクマコメントを、ひととおり御覧になっていただきたいところではありますね。「喧嘩を売っている」と私が判断せざるを得ないのは、そうした事柄のためです。つまり、私のエントリの主旨そのものに対して、真正面から半畳を入れているもの、としか当方としては受け取りようがないので。なら、私としても貴方のかかる揶揄ないし批判の、その背景にある見識について、その所在を問い合わせるところから始めなければならない。


当該コラムのブクマコメントを参照すれば瞭然であるように、宋氏は実際に遊就館の展示内容を目の当たりにし確認して、その結果、あるいは当然のことですが、きわめて批判的な感想と見解を表明しています。展示内容について、私が如何様に思っているのかと問われたなら、一貫して、知的な水準においては甚だしい違和感を抱く、ことに改装後は、と答えます。であるから、宋氏の示した見解については、そうであろう、と思う。参考。


遊就館 - Wikipedia


どうやら、姑息な伏字まで用いてぼかした書き方をしたことがまずかったようですが、誤解されているようなのではっきりと書いておきます。私は、現在の状況のもとで現行の靖国神社に対して、現職の総理大臣が参拝を行うべきではないと、考えています。いわんや8月15日においてをや。小泉氏の、特異なパーソナリティーにおそらくは由来するその内心については、いまなお忖度しかねていますが。言うまでもなく、私は中韓の話をしているわけではない。――であるから、ええ、単に結論的には、私と「彼女」の見解は合致するわけです。ところで、彼女が首相の参拝に批判的であることのその理由とは、


何か誤解されているみたいですが……(後記:最後にドンデン返しがあります……) - 地を這う難破船

彼女の言によれば、私、宗教キライだから、とのことで尽きていました。言うまでもなく、政教分離とかそういった話ですらなく、単なる宗教全般に対する無背景にして無免疫なアレルギー。単に首相の靖国参拝に対して批判的でありさえすればよい、というものでもないと、私は考えますが。


結論的には見解は一致しますがね。で、実際、彼女は、首相の参拝についてしか批判することはなかったし、他の「付随的な問題」については特段の関心もないのでしょう。ま、良いわけですけれども、そうした人間の宗教批判と信仰批判と更に言うなら歴史観を、私は一切信用しないので。


私は、靖国神社といわゆる広義の「靖国問題」について、一定以上の見解を個人的には持ち合わせている。開陳しなかったのは、むろん、面倒事を嫌う怠惰な人間であるためです。昨年の終戦記念日前後については、もう色々な意味で引いていたうえ、物理的かつフィジカルに参っていたため(ブログの更新自体、休止していた)、Apemanさんのブログのはてな別館における「靖国問題」関連エントリについても、当時は断続的に拝読していたのみです。先日改めて、検索のうえで通覧的に拝見させていただきました。とまれ、かの私が夏バテ込みで引いていた小泉参拝の前後に立て続けに関連エントリを掲示していたその姿勢については、改めて頭が下がるところです。


――で、私なりにきちんと、靖国の件についての私的な見解を明示しておいたほうがよいのかな、とは思いはしました。たとえば、finalvent氏が一連の見解を示されているところでもあるし、読まれまくっているのであろうし、私の出る幕でもないか、と思っていたのですけれども。べつだんApemanさんが提示されている一連の見解に対して異論があるわけではない、というか、問題意識の所在と、問題設定の角度が、いくらか異なっているのであろう、と思うところではある。その点について「右より」としては明確化しておくべきかな、とはちょっと考えました。


それと――はてな別館の「靖国問題」関連エントリにおいて、Apemanさんが批判しておられる「論敵」のような方と、「靖国問題」についての見解を同じくする者と思われてはたまらない、というかWebにおける「右より」がかように考えてばかりいる、と判断されたあげく私の見解も一緒くたに括られるのであるなら、たまったものではない、と少し思いはしたので、いずれ、機会があれば、いわゆる「靖国問題」についての私的な見解をエントリに拠って掲示することになると思います。モチベーションが下降しない限りは。ただ、突きつめるとおよそ不敬な結論にしかならない見解であるのですけれども。


ところで、確認しておきたいのですけれども、MacacaFuscataさんは、いわゆる広義の「靖国問題」について、そして現行の靖国神社について、いかなる私的な見解を持っておられるのですか。首相の参拝に対して批判的であることはわかりましたが(結論的には一致しますね)、他なる貴方の見解については、さっぱり。私の知る限りにおいては、貴方はいわゆる広義の「靖国問題」について、最低限のまとまった私的な見解すら示しておられないと思うのですが。少なくとも私は「最低限」は示しました、ひとまず。


totさんが示された問いの文脈からも書かずして済む、というか、触れないに越したことはない事柄でもあったのですけれども、totさんが突きつけてくださった丁寧で的確な問いという意気に応えて、私は一部を開示しました。そして貴方が誤読のあげく「自分は中道」の如きつまらない半畳を入れる、と。――「自分は中道」とは貴方のことですよ。鮮明にしていただきましょうか、「靖国問題」をめぐる貴方の個人的な旗幟について。首相の参拝を支持しない、という一事に尽きているのであるなら、私達は結論的には一致しているので、右と左が握手し合えたかのようで、喜ばしい限りです。


――まさかとは思いますが、貴方は「右より」の人間はみな、首相の参拝を支持しているものと、思っていたわけではないですよね。ならば無知と不見識も甚だしい。首相の参拝を、その最後の強行についても支持されている方は、ネットに限らずとも、相対的には多い、とは思いますよ。であるから、私は殊更に「右より」と名乗ったうえではこうした見解を表明したくはなかったわけです。「右翼」失格の人間としては、単純に悪いと思うので。

そういうところにあながご自身の「頽落史観」によりかかっている点が現れているわけです。


「頽落史観」がどうしたんですって?「そういうところ」というのは貴方の問題意識に露骨に傾斜した、というか還元された誤読の結果としか当方としては言いようがないわけですが。また「そういうところ」と「あな(た)がご自身の「頽落史観」によりかかっている点が現れている」との接続が、私には意味不明です。あまりに説明不足であるので。私は当該の前記エントリにて明記したと思うのですけれども。

すなわち、認識に準拠した判断を特定個人について言明するに際して、妥当な見識と手続きが示されているのであるなら。totさんが私について公言された判断は、上記を満たすものでした。付記するなら、当方のコメ欄に記していただいた、丁寧で明晰な書き込みによって、満たすものであることを、すなわち背景的な見識と論理の所在を、確認しました。見直した、というのは、そういうことです。任意の見解ないし判断を任意の事象について示す以上は、発言者個人の背景的な見識を同時に最低限は開示するべき、というのが私個人の、相互的な言論に際する「手続き」としての要請項目ではあります。


エントリ、ちゃんと読んでくださっていますか。それとも同意されない、ということでしょうか。「任意の見解ないし判断を任意の事象について示す以上は、発言者個人の背景的な見識を同時に最低限は開示するべき」――Apemanさんもまた、そうしたスタンスに基づいてコメントへの対応をされていると、私は判断していますけれども。


私は、たとえば靖国東京裁判をめぐる事柄について、Apemanさんに対しては一目も二目も置きますし敬意もまた払いますが、貴方に対しては全然そうではありません。たとえば呉智英氏をめぐる事柄については、私の敬意をめぐる構図はまた反転するのかも知れない。物事には順序というものがある。少なくとも私は、いわゆる広義の「靖国問題」についての貴方の背景的な見識の所在を、確認してはいません。もし私の見落としであるなら申し訳ありませんけれども。


なお、再度記しておきますが、横着はなさらないように。URLを示して済ませるつもりであるなら、 最低限、御自分の発言の含まれているURLをお示しになってください。また、もしも、貴方が、あくまで単に、sk-44が「ご自身の「頽落史観」によりかかっている点が現れている」ということを「方法論」の水準に即して例証のうえ指摘するためにのみ、誤読のあげく靖国について、開示に耐える背景的な見識もなきままに直接触れたということであるなら、私は明確な不快を覚えますし、貴方に対してはっきりと失望するでしょうね。貴方にとっての「靖国問題」とは私個人が「よりかかっている」というその「頽落史観」とやらを証明するためのダシですか。「右より」として言わせていただくなら、ふざけているわけですか。


というか、私が「ご自身の「頽落史観」によりかかっている」ことを、ええ、そうでしょうね、と、実質/内実がよくわからないのですが、認めたとしたならどうなるのでしょう。べつだん私は、もはや「右より」であろうが「右派」であろうが「右翼」であろうが、そうした類の(相対的に伝統的な日本語表現に則った)言葉であるなら、自分が何と呼ばれ思われようと、構わなくなってきているのですけれども。


自らを「右」と規定して――私は自らの認識と価値観が思想的な右の本義に値するともまた合致し得るとも思わないのですけれども(と、いうか、本当の「右」はブログなどやらない)――いささか対立的な体にて意見交換を行ったほうが、「左」と意思的に自らを規定する方達とは、話が通じやすいということに、ようやっと気が付いたので(totさんに感謝)、オマケで「頽落史観」がくっついてきても、全然構わないわけです。何のことであるのか、説明が極めて少ない以上いまだによくわからないマイナーな概念であるので(釘を再三刺しておくと、URLリンクのみという横着はなさらないように。私は貴方が自ら草した文章に拠る説明が読みたいのです。ほら、伝統的な価値観を尊重する右翼であるので)。


真面目に書きますが、個人の問題意識とは個別的かつ相対的です。貴方が貴方の個人的な、あるいは貴方が公共性を有した主題と考えている、その問題意識に則って私のエントリを読み、私としては誤読としか思えない解釈のもとに、貴方の問題意識に基づいて「そういうところにあな(た)がご自身の「頽落史観」によりかかっている点が現れているわけです。」と私に対して直接記すことは、むろん自由ではあります。貴方が靖国という個別的な問題についていかなる背景的な見識も持ち合わせていなかったとしても。


私は知見と見識あると思われる、Webの「左」の方に対して、首相の参拝問題に限らない広義の、九段下に現実に存在し現存し続けている「靖国問題」に対して、いかなる「べき」的な――つまりは対案としての見解を考えておられるのか、批判の意をもってということではなく、あくまで率直に、訊いてみたく思ってもいるのですけれども、記した通り、物事には順序がある。私が自らの見解を示すことが、不躾な問いの先に来るべきでしょう。どちらにせよ、貴方に対してそのことは求めません。靖国について、私が自らの不明を恥じるような見解を、貴方が示してくださることを、期待してみたりもしますけれども。


そして、他人の固有の問題意識に基づいた断定的な判断を、説明不足のまま、かかる問題意識をあるいは共有し得ない人間――この場合は私――に対して一方的に示されたところで、被言及者としては、貴方の目には私の言動がそのように映り得るのですか、わざわざ教えてくださって、御親切にどうもありがとうございます、今後の参考とさせていただきます、としか、率直さを示すならレスポンスとしても応えようがないし、内的にもそうとしか受容し得ない。むろんそれもまた、私の歪なドクサに映り得る貴方の言動という風景でしかない。


別に嫌味ではなく、内的に参考とするし、検討することは事実であって、かかる作業の一環として、こうして貴方の短い書き込みに対して、分量的には全然バランスしない、おそろしく長い返答を記しているわけです。貴方のその向こうに所在する、当ブログの奇特な読者の方達に向けて書いているとも、また言えるわけですけれども。


筆を尽くすという発想のないままごく短文にて符牒めいた語句を記し、こちらが空白を埋める形でレスエントリを掲示した後に事後的に、言葉の解釈を間違えている、少なくとも私の前提する認識とは相違していると、苦情を記されても、それは困ると、率直なところを記させていただきます。訂正してくださることは歓迎ではありますが、また私の文章と語句の使用が独特であることも認めますが、Webにおいてはごくごく小数の間でしか使用されず流通もしていないような、符牒めいた言葉の定義を云々し合うというのは、不毛なものであるし、私に対してそうした作業を求め得る資格が、貴方にあるとは私は思っていないわけです。


概念の話、ないし私の認識における傾向性についての指摘をしたいのであるなら――たとえば、「頽落史観」というものが「昔は良かった、人間が人間らしくあった」とか、通俗化されたハイデガー的に言いたがる人間/考え方の謂い、であるならそう記してくださったほうが、当方の読者にとっては、というか私にとって、よほどわかりやすい。参考。


頽落史観 - Google 検索


申し上げますが。自らの問題意識について、相対性の範疇に位置させる視座を導入することも、必要ではないのですか。Apemanさんが私に対しても記していたところではあるけれども「ええ、その通りですが、それが何か?」と言ってしまったら、話は、少なくとも対話は、終わるわけです。「問題ある?」と一緒であるので。


最後に。機会なので気に掛かっていたことを、蛇足的に記しておきます。貴方のブログは『反・反ヤンキー主義者宣言』というタイトルであって、またそうした趣旨に基づくエントリが多く見出されるのですが――ひょっとしたら誤解なさっているようなので記しておきます。元「ヤンキー」ですよ、私は。「ヤンキー」という語が今となってはまるで耳に馴染みませんけれども。10代の時分は立派なそれでした。ボンボン私学の「ヤンキー」というのは、遊びっぷりと羽目の外しっぷりにおいて半端ではない。異性に対する倫理観が、歪んでいるとかそういうレベルではない。相対的には甚だ貧乏人の倅ながら私も金髪にして眉毛を尖らせてコマしていた。結果的には無理をしていたとも言えるし、色々あって「更正」しましたけれども。


ごく個人的な経験則から言うなら、「ヤンキー」くらいいわゆる通念的なフェミニズムから遠い人達もいません。というか知らないし。「ホモソーシャル」な男塾において、女というのは常に情婦としての位置に置かれる。自らその位置に行くわけですが。女も多く10代ですから。で、そうした光景に、嫌気が差しました。結局のところ、私は古典的な「男女平等主義者」であったようなので。


私が、個人の感覚的な水準において群れることを嫌うのは、何よりも、当時のイカレた乱痴気な経験と、その結果として心身を壊し、かかる不具合が何年も根深くフィジカルに尾を引いたという苦い記憶が、根底にあるためです。群れることと群れを統率することと群れの内部におけるごく私的な駆け引きのみが好きな人種というのはいるし、私は、そうしたある種の無軌道ならざる無規範が、結局のところ水に合わなかった。


私の場合は、父親がまたそういった人であった。『世界』を購読する勤勉な左傾の読書家であることと、暴力性を中年に至っても内に抱えている、育ちの悪い粗暴な言動が時に顔を出す、10代の頃に頭として潰し合っていた朝鮮人グループとの武勇伝について酒が入れば語りもする、水商売以外のあらゆる職を経験してきた堅気の男であること、そして、そうした一切の、自らに根ざした粗暴と暴力性に本人なりに苦しみかかる自らの資質を恥じて、苦学して遅く大学に入り、そして老いてなお仕事の合間に村上春樹京極夏彦などを読み耽っている、不自由な人間であること、それらは、ひとりの凡なる市井の個人において一致する。


私は、親父と議論した回数よりも、殴られ殺されかけた数のほうが、たぶん、多い。文字通りの強い父親でね、長じてもなお、腕を折られかけたり唇を潰されたり首を本気で絞められてオチたりもした。思いきり裂けた唇の傷跡は今も、目立たないけれど残っている。少なくとも、かかる「コミュニケーション」のほうが、濃密ではあったし、私の人間性と人間観の形成に大いに寄与したことは、確か。とはいえ、当時は、むろんのこと、いっそうグレた。けれど――私は、父親に脅えていた。為念追記。虐待があったということではない。お互い様。あと血。本人の名誉の為。


何が言いたいかというと。私は思うのですが、貴方は――常に、一貫して御自分の問題意識に準拠してしか、物事を見てはいないのではないですか。「頽落史観」とか「自分は中道」とか「反・反ヤンキー主義」とか。私が言うのもなんですが、貴方の言辞は、時に現存する現行の現実の一切を抽象化し、理論を先行させたうえで、理念ありきとして捨象しているようにも、私の目には映る。


ブログのエントリを拝読する限り、貴方の問題意識の中心にあるのは、あくまで、私の理解によるなら、「普通の人」と自らを規定する人々の、「無自覚」な規範至上主義としての抑圧的な保守性の、逸脱者に対する理不尽な攻撃性の発露としての「道徳心」の現れのことであるのでしょう。かかる人々の攻撃の対象としての「逸脱者」の象徴的な代表として、「ヤンキー」という理念型が借定されている。そのことは、わかるのですけれども、しかしながら、私個人としては違和感を拭うことができない。


「ヤンキー」というのは、貴方の頭の中において問題意識とそれに基づく問題設定に即して借定されているような、理念型ではないのです。無理もないこととは、思います。たとえば、はてな村にて著名なブログを運営している「ヤンキー」ないし「元ヤン」を公言している方というのは、むろんいないわけではありませんが、数少ない。つまり「表出」ならざる「表現」としての水準を構成している、質の高い「言葉」としての範型を容易かつ広範には見出し得ない。とはいえ、その少数例のうちに幾つか、私が愛読しているブログがある。むろん、私とは資質も個性も来歴も、また個別的な経験も異なる方達です。個別性という当然を、類化して事象を語る人間は、時に忘れ、捨象する。現実に存在する人間のことであるにも、かかわらず。


ブログの過去エントリにて明記している通りに、貴方はあくまで「反ヤンキー主義」をこそ問題としているのであって、であるから、「反・反ヤンキー主義者」を名乗るからといって、べつだん「ヤンキー」に殊更のシンパシーを抱いているわけではない。ことに現実の「ヤンキー」に対しては。むろん、そのことは無問題です。とはいえ、私個人は、どうしても違和感を抱いてしまう。ことに貴方のブログのタイトルを目にするたびに。字面のうえで「ヤンキー」と平気で一括してしまう時点ですでに、ね。


「ヤンキー」の個別性については、貴方は一切捨象しているし、そして、かかる一方的な概括の結果として、貴方がWebの言説に即して扱う「ヤンキー」とは、貴方にとっては、決して「他者」ではなく、知的な水準にある言語を持ち得ない、言葉なき「異者」であるのでしょう。理念型としての「表象」でしかないのであるから。つまり――貴方の問題意識と、かかる問題意識を貴方が持つに至ったWebの情況については、私もまた理解し了解するところではあるのですが(その種の炎上のまた多いこと)、しかしながら、そのうえで、貴方が仰っておられることは、一貫して、私の経験的なリアリティとは、まるで合致していない、ということです。


なお、言うまでもなく私は、10代の「ヤンキー」であった時分からいわゆる「オタク」でもまたありましたが(最近はそれも落第気味。ところで「オタク=「真面目」な非モテルサンチマン」とか、1対1対応的に現実に敷衍し得ると、まさか考えてはいませんよね。貴方にとっての「オタク」もまた問題設定のために借定された理念型なのであろうと、私は考えていますけれども)、こうした人間は貴方の認識においてはいかなる範疇に入るのですか。素朴に気になるのですけれども。


付記すると、私は『嫌オタク流』にて示された内容については、多くの同意同感と、それ以上に多くの異議不快がある。かの書に象徴的に見出される、ローカルでありながらもパブリックな、文化的な対立と相互的な無理解と偏見の所在については、嫌というほど認識し熟知しているところではありますが。長い時間を掛けて。


素で訊きますけれども、首相参拝についてはともかく、(貴方が、ということではない)東京在住でありながら、実際に訪ねること一度もなきままに、靖国神社という施設/場所/宗教法人それ自体を批判し得るものと、お考えなのですか。「境内に足を踏み入れる」というのは、神社という宗教施設にして信仰の場と、たとえ言論的なスタンスからにせよ政治的な関心ゆえにせよむろん興味本位の物見遊山にせよ、対象として向き合うに際しては、肝要なことであると、一般論としても私は考えます。たとえば教会であろうと、そのことは同様。


貴方が仰っているのは、政治問題としての靖国神社のことでしょう。むろん現行において問題化された「靖国問題」とは多く政治問題です。私はそのことに、一貫して不快感を抱いている。繰り返すけれども、私は中韓の話をしているのではない。むしろ小泉氏の話ではある。しかしながら同時に、かの場所は法人格を有した宗教施設でも、またある。


たとえ明治期に国家的な施設として管理された国策神社としての、特異な経歴と経緯と位置を有する現在の一新興宗教でしかなかろうとも、信仰の地を信仰に対する無知と不見識に基づき批判するべきではない。一般論であり原則論です。そして、現行の靖国神社とは、原則例外でもある、そうした認識を私は持ち合わせています。かかる政教問題としてのジレンマに、そのジレンマないし両義性が信者個人の内心へと影響として波及し得ることに、そして、天下周知の事項ではありますが、影響はすでに深く根ざしていることに、貴方は思いをめぐらせたことがあるのですか。


そして――たとえば「差別」をめぐる諸問題とは、貴方のかかる言動から窺い得る、教条主義的な意識にのみ基づいて公式論的に取り上げるべき類のものではない、少なくともそうした発想にのみ準拠して特定個人の言動を批判し得るものではないと、私は考えている。およそ言論においては、無原則に事例ありきとして判断するべきではないかと私は考えるし、それこそ、プライベートなセクターに準拠した体験的な表出をこそ汲み上げたうえで、その一切を抽象し捨象してしまうべきではない。


「差別」というのは社会的な構造の問題ではむろんあるけれども、同時に、個人において蓄積された感情の問題でもある。唯物論的な相対的是正はむろん企図されるべき。しかしながら、被差別者と差別者双方の、蓄積された感情に対するフォローといった領域について、行政が対応することには、限界がある。――あるいは無理筋であることを知ったうえで私は綺麗事を偉そうに書いているのです。嫌韓とか、そうした「差別者」の感情の話を私はしていない。


私は、現行の状況において、いわゆる差別問題を「差別は許されない」という切り口から記述することに対して、大きな違和感を、ごく個人的には覚えている。そうした認識を起点として、いくつかのエントリをこれまで掲示してきました。私は、小林よしのり氏がかつて示した、差別問題に対する、あるいは「ナイーブ」に過ぎる、一連の見解と見識とスタンスについて、いまなお原則的には支持する者ではある。支持と同意は、異なりますが。


――たぶん、貴方は、私がかつて「ヤンキー」であったとは、考えたこともなかったでしょう。僭称であるかも知れません。しかしながら、あの頃の自分は甚だ人格と人間性の破綻したキョーボーな少年であったろうと、鑑別所等の経験はないけれども、私は思う。コマしていたし、警察の厄介にも幾度か、刃物を持ち出したことも幾度も。誰も刺すことがなかったのは、また自らが刺されることもなかったのは、まったくの奇跡でありおよそランダムな幸運であったと、いまなお冷汗とともに朧気ながら思い返す。いや、リスカとかではなく、自らを刃物で傷付けたことは、あったな。他人を刺さないために。暴力において、外向と内攻は、時に関係がなくなる。つまりは、北野武の映画。


後に、身体はともかく、脳味噌を何年にも亘ってぶっ壊したことも、また当然の決済であり帳尻合わせでもあった。非合法の薬物は、たぶんやったことがないはずであるけれども、合法の薬を非合法に長期間――つまりありえない量を幾年も継続的に摂取しまくって最重度の依存症、というか中毒にはなりましたね。で、薬物依存で入院しました。重度の睡眠障害にてもう一度。――私のような人間は、貴方の頭の中に理念型としてのみ存在する「ヤンキー」ないしは「更正したヤンキー」とは、合致しないことでしょう。頭の中に理念型を構築して、一事が万事、かかる頭の中の地図にのみ準拠して現実の事象ないしは他人を裁断的に批判する傾向、というか方法論については、いささか自省されたほうがよいのではないでしょうか。御覧の通り、それこそ「噛み合わない」。かかる批判を幾度も向けられた当事者として記しておきます。


「モラル的正しさ」というのは何なのですか。私はレイコフについては未読ですけれども、字面から導き出される私の勝手な解釈に拠るなら、私がそうであると貴方が裁断されるのであれば、笑うしかないわけです、当方としては。私はモラリストですよ、と、そうした話では、ないのでしょう。再四。URLのリンクのみ貼って終了、というのは結構。私のブログのコメ欄においては、自粛していただきたい。そうした姿勢というか発想が、そもそも「頭の中の地図」なのです。私と、対話としての意見交換を行う意思が、貴方にはあるのですか。以前も記したところですけれども、たぶんに、関心領域は多く重なっていると思われますが。


貴方が私に対して記しているのは独り言か、それとも尊大な一方的啓蒙であるのですか。ならば必ずしもレスされる必要のないブクマコメントで宜しいのではないでしょうか。自らとおよそ決定的に異なる見解を有する者との対話を求めないのであるなら。私が言っていることは、一事が万事、そうした話です。少なくとも、貴方のブログエントリの方々において、かかる傾向は見出されます。他なる場所における多くのコメントとブクマコメントに至るまで加えたなら、なおのこと。あたかも私の「頽落史観」のように。貴方の意図が、単に、自らの傾向に「無自覚」なsk-44に対して「自覚」を促したかった、ということに尽きているのであるなら、目標は達されました。――だから、空しいでしょう、こうした言いっ放しは。


私の経験則から個人的に知る限りの、東京の盛り場の、いささか小金を持った(≒親のカネ)「ヤンキー」(多く未成年)とは、多く女癖が悪く、多く「女性蔑視」的であり(こう書いただけで笑ってしまう)、多く群れることとそのリーダーシップをめぐるごく内輪の駆け引きが三度の飯より好きで、多く弱い者への「差別的な態度」を恒常化させています。「蔑視的な言葉」を「無自覚」に頻繁に口にします。「姦る」とか「さらう」とかそれに類することを、人によっては普通に言います。「殺す」は当然。うち、実行する奴も、口だけのヘタレもまたいます。後者のほうが断然圧倒的に多いです。良い事です。私は、揉めた先輩方に拉致されそうになったことがあります。自宅ではありませんでしたが、夜中に裏口から逃げました。しばらくトンズラしていたけれども、結局オトシマエへと至る。あの人は真性であった。10年は以前の話ですけれども。


何よりも、単純に、事実としてもまた比喩的にも、ガキであるので。かかる所業の最大のファクター。むろん、そうではない例外もまた、時に多く存在します。私がそうであったとは、まったく言えないことが悲しいのですが。――このようなことは、べつだん私が「経験則から個人的に知る限りの」などと付記して書かずとも、一般論としても、多く世に知られていることではないのでしょうか。それを、世知と呼ぶのかあるいは「俗情との結託」と呼ぶのか、どちらが適切であるのか私にはわかりかねますけれども。


とまれ、MacacaFuscataさん、ありがとうございました。なんというのか、最後にはおよそ絵に描いたような「保守」が「左翼」へと宣う言の紋切型を反復してしまいましたが――であるから私は右だと言っただろう、と開き直るわけではありません。ただ、MacacaFuscataさんのような、明確に「左」の問題意識に準拠する方から、かかる問題意識に基づく批判的な言を直接に示されると、やはり返答の過程において、私の「右」性が直接に露出しますし、私自身もまた、自らの意識の布置に対する見通しが、対立的な見解の所在によってこそクリアになるということがあるので、弁証法の偉大に、改めて気付かされるというところでは、あります。ですから、本当に、感謝しています。


かかる言葉が、MacacaFuscataさんに伝わることを身勝手に祈って。Apemanさん、約束通りの、エントリの掲示に拠る大変に丁寧な応答、本当に、ありがとうございます。御礼申し上げます。私もまた、応えたく思います。しかしながら、当方のエントリ掲示が遅れるに相違ないことを、先にお詫び申し上げておきます。MacacaFuscataさんの短いコメントに対してすら、時間を掛けてこれだけ長く書く人間ではあるもので。Webにおけるレスポンスが、往復書簡化することは、私にとっては一興です。というか、交換日記とでも、呼べばよいのか――それでは、皆様、失礼いたしました。