行為の帰趨――書簡――(前編)


最初に。過去ログというのは案外読まれるものであるらしく、日々精進しているはずの筆者としては冷汗を掻く限りであったりもするのですけれども、半年以上以前のエントリに対して、匿名の方から大きめのはてなポイントをいただきました。有難うございます。切に御礼申し上げます。かかる支持を地の塩としてブログは運営されていくし、モチベーションもまた維持される。結局のところ、誰にも読まれないなら私は文章など書くことはないな、と省みたりもします。そのくせ、誰が最後まで付き合ってくれるのかわからない超長文を懲りずに掲示している。たとえ10人でも本気で面白がってくれるなら、記す甲斐はあるというものです。とまれ、感謝しています。ありがとう。


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たとえば、ほのめかしメソッドがなぜまずいのかというと、リテラルな記述の背後に明確なメタメッセージを含みかつそのことが瞭然でありながら、表出としてのリテラルな記述に拠ってはメタメッセージに対して言及することが、不可能であるためです。ことに、批判的な見解を、発言者本人に対して、直接に提示するに際しては。リテラルな記述における無瑕疵ないし正当は、その明確なメタメッセージに対する言及を、あらかじめ斥ける。少なくとも記した本人は、関知しないとし得る。そしてメタメッセージは伝播されていく。以上一般論。


http://homepage.mac.com/biogon_21/iblog/B1604743443/C1634184641/E20070210151951/index.html


――大変お持たせいたしました。はてな界隈における、対立的な議論に際する作法をめぐって近々立て続けに記された、主にいわゆる「非モテ」関連のエントリに、遅ればせながら色々と目を通していました。で、形式的な「リテラルな記述に示された内容と主張の正当性」をめぐる、およそ結果において「政治的」な綱引き/駆け引きをこれ以上続けたところで、実質的な話にはならないと思うし、私もまた、Apemanさんの議論のやり方については、ほぼ把握しました。Apemanさんが、最大限の誠実な態度を私に対して示してくださった結果の、かかる丁寧な返答であることも。


仰る通り、少なくとも貴方に対しては、「逃げ」ていても仕方もまた甲斐もありませんね。「政治性」と「炎上のポリティックス」についての話、率直に真正面から応えましょう、「右」として。阿部氏の発言の件については、分量面からも、また別の機会に触れますが、貴方が私に対して問い返事を求めていることは、つまりはその2点であるのだから。


なお、引用部含めトータル6万字に及びました。ダイアリーの1日の投稿容量は最大3万2千。2日間ないし3日間かけて、分割して掲載します。一編の長大な書簡であるため、結部まで確認した後にレスしていただけると、筆者としては幸甚です。


ある方のエントリから一方的に受け取ったサジェスチョンの通りに、対話に際して内容的な実りを求めるのであるなら、政治的な立場は事前に明確化しておくべきでしょう。「私こそが公正に振舞っている」という言明と証明と主張こそが、およそメタメッセージとしての政治的な振舞いないし効果として機能するものではあるので。ええ、わかっています、そのようなことは、最初から。


貴方も承知の通り、「私の個人主義」前後編における私の記述には、全編に亘って明確かつ瞭然のメタメッセージが含まれています。表出において政治性を毅然と否定することは、政治的な問いに対して、メタに政治的な機能を果たす。それは結果において遂行的に機能する印象操作でありイメージメイキングであり(その結果が、皮肉なことに「はてなサヨク」と揶揄するコメントを書き込ませた。むろん当方にとっては心外)、つまりは――「言説としての政治」の一環でも、またある。たとえば、小谷野敦氏がかかる発想とその実践に対して一貫して反撥していることも、またその理についても、私は了解しています。


私が、かの超長文による返答において「リテラルな記述に示された内容と主張の正当性」に執拗かつ徹底的にこだわってみせ、貴方の「意図」を間接的に描き出すことによって、「内容と主張の正当性」によってパッケージされた、任意のメタメッセージを遂行的な主張として故意に刻んだ、そのことは事実です。むろん、何よりもまず第1に、貴方に対するメッセージではありましたが。私の読み違えがあったとするなら、かかる、私が点を配置して線を引くことによって間接的に描き出し指摘した構図は、あくまで図星であろうと、思っていたということです。


万事をベタにポリティカルな問題意識に基づいて判断する人間が示す問いに対しては、当方はメタにポリティカルな対応を示すべきであろうと。それが幾らかは私の誤解であったことを、Apemanさんの返答によって確認した以上、まずはお詫びしなければなりません。とはいえ、貴方の1月8日付のエントリに便乗して、私に対する政治的な意図に基づいた揶揄を幾度も連ねるような人がいる以上は、当方としても、火の粉と誤解は払わなければならない。


しかしながら――貴方が掲示された「宿題」エントリにつまらない書き込みをなさっている方は、今のところいない。totさんもまたMacacaFuscataさんも、私に対して直接に意見を示してくれた。ようやっと、実質的な「中身」についての話ができる状況が整ったということで、記した通り、リテラルかつ形式的な正当性の獲得合戦はやめて、相互が発しているメタメッセージの水準まで含めて、踏み込んだ話をしたく思います。


踏み込まないことには、双方「リテラルかつ形式的な正当性」を盾に、相手の指摘を突っぱねて平行線、となります。拠って、私は「右」ということで結構です。少なくとも貴方とは、見解においてまったく同じくはしない部分が幾つかは存在するので。なお、繰り返すけれども、私は価値相対主義者ではあるけれども、認識論的な相対主義者であったことはない。「捉え方は人それぞれ」で済まない話は、時に多く存在するでしょう。


私は「自分が中道」(=私の解釈によるなら、自らが政治的に中立な、政治意識に基づくコミットメントなき立場であるとすること)であると言明したことはないし(私が冒頭部を引用した小林秀雄のエッセイは、そのようなことを言っているのではない)、そのような立場はないと思っている。


ただし、私の認識を示すなら、日本における政治的なコミットメントが、常にある種の形式的な外延へと帰着しているかのように見られているという、現実が、歴史的にもかつ現行においても存在している。それは無知と無関心に基づく偏見でもあるし、イメージメイキングとしての印象操作でも、当然にある。つまり誹謗と中傷。


であるから「プロ市民」などという、ありえない、というか、およそ国際的な標準に達し得ない軽蔑的な呼称が、呉智英小林よしのり氏に対してサジェスチョンを行った命名者、ということになってしまうのだろうな、きっと……)の意図を逸脱して野放図に蔓延する。結果、市民運動と政治的なactivistに対する、無知と不見識に基づいた偏見に拠る中傷が横行する。


私が、貴方が繰り返し問題とされている自エントリ「公正泥棒」において示した一端は、そうした事柄のことでした。怠惰で保守的なシニシストの私は、かつて政治的なactivistであったことはないけれども、右左に拠らずactivistに対して原則的に敬意を払うことは、市民概念に合意する者の認識的な前提であるとは、考えている。


とはいえ、「右」として言わせていただくなら、右翼の「運動家」などもっと糞味噌に言われていたし、「普通の人々」からも引かれていたわけですよ。忌避されて仕方なきこと、過去におかれては事実ですが。近代的な「市民概念」に合意しないことが右翼の思想的な前提であるから。私が「失格」であったというのは、かような話。あるいは、純粋に思想的な案件です。


安保の際に岸信介が言ってのけた事柄は正しく、いまもってなお、正鵠を証明し続けている。「サイレントマジョリティ」メソッドというのは、本来「右」、というより保守が使用し利用しまくっていた論法と認識であるわけです。概して、右左にかかわることなく「日本における政治的なコミットメント(あるいは政治意識に基づくコミットメント)が、理論的にも、また現実においても、常にある種の形式的な外延へと帰着しているかのように見られている」という条件が今なお生きているということこそが「自分は中道」論法と認識の蔓延する理由ではあるのでしょう。


であるからそれは、つまりは『脱正義論』であって、政治的なactivistは今なお、かかるイメージメイキングのワリを喰っている。右左にかかわらず、です。正義としての大義ないしは義を公式に掲げること、右翼もまた同様であるので、当然のことながら。


小林氏の「わしズム」というismは、かかる「ある種の形式的な外延」に対する徹底した拒否の謂でもあって、氏の才能と一致する強烈な主観眼鏡については措いて、かような観点から見るなら、氏の一連の行動は、甚だしき思想的言説的な変遷にもかかわらず、一貫してはいる。是非は措いて。つまりは――党派性ないし党派的な発想/行動の拒否。氏の思想的言説的な非一貫性は、体質的な一貫性に規定されている。是非は、措くけれども――私は氏の体質については、信じるに値するとは思っているのですね。余談。


話を戻して。かような認識を、少なくとも一般化することは、偏見であると私は考えますが――はっきりと申し上げて、Apemanさんの「論敵」に対する物腰は多く、かかる旧弊な「偏見」を、Webにおいて更に深刻化させているとも、私は思いますよ。かく対応して当然の相手があまりに多いこと、過去ログを確認しても大いに認めるところではあります。言って栓ないことを私はあえて言っているわけですけれども。傍観する部外者の視線の所在について、認識しておられますか。


以前の私とのやり取りからも、貴方は「自覚」しておられるものと私は考えていますが、貴方と、貴方のブログ(ことに本館)の幾人かの常連コメンテーターが準拠しているディスクール(=言説/言説圏)は、少なくとも一般性を有したものではない。その何が悪いかというなら、かかる意識に基づいて説明なきままに私のブログのコメント欄にそのディスクールを持ち込んでくることが、悪い、というか、少なくとも管理人としては、困る。最低限、「翻訳」「説明」しないことには、通用しません、言説圏の外部においては。なお。普遍と一般を峻別したうえで、一般性という前提を設定し言説において時にそれに準拠する者です、保守主義者としての私は。前提を操作的に設定することは、意識においては規制しているつもり。


時折、無造作/無謀な表出として窺える「傍観する部外者の視線」に準じた認識は――貴方に対しても間違っている偏頗な先入見の類であるとは、私は思います。であるから「「はてなサヨク」と揶揄しているなら直接意見をぶつけて話してみればよい。」と記しました。他所にてそうした事柄をネガティブキャンペーンとして故意に吹聴している馬鹿については、知ったことではないですが、現在進行形にてかように考え、引いている「政治意識において自覚なくナイーブな」「部外者」が、おそらくは多く存在すること「自覚」しておられますか。


かく考えている「傍観者」の、あるいは無造作な表出を「自分は中道」「自称普通の人々」として一概に片付け得るものと、貴方は考えておられるのですか。そうした人間に対して「自覚」を促せばよいものであると――?私は自らが確信犯であったことを、認めますけれども。


かかる私の僭越な言に対して「大きな御世話だ」とされるのであるなら、私も貴方が私に対して迫る「自覚」とやらに対して同様の応対をさせていただきます。「見下す」云々は知りませんが、踏み込んだ対話における意見交換に際して、僭越とはお互い様の大前提ではある、ことに対立的な立場から対話を交わすなら。非礼とは別個に、僭越を拒否するなら対話は成立しない。貴方は百も承知のことでしょう。


時折目にする事象ですが、「無自覚」な「自分は中道」の人間が、貴方に対して直接に、かような見解と認識を無造作かつ不躾に示すことは、端的に非礼であり専横であり半畳でしかないと、私は考えますけれども、とはいえ私はかく考える「傍観者」としての人々の、認識と判断自体の理を認めるところではあります、直接的な越権行為に及ぶことがなければ。


かかる認識と判断のWebにおける表出と明示それ自体が「結果的に右派を利する」ものであると貴方が見なしているのであるなら、私はその見解に対しては同意することができない。現実的な状況認識としては、およそ同意するところではありますけれども、価値判断としては一致させることができない。現に現在も、sk-44は先般来何をやっておるのだ、と考え引いている「政治性の希薄な/政治意識において無自覚な」かつての閲覧者が多くいること、およそ想像に難くない。


あえて集合的な表現を用いますが、貴方方は、貴方方が「自分は中道」と見なす人達に対して「自覚」を促すかのようなことを、よく述べておられますが(それも直接には言わず貴方のブログのコメ欄にて記す。むろん、貴方は違います)、ならば私も「自覚」についての話をすることにします。


「自覚」についての話を、本人に対して促すかのように突きつけることは、そもそも非礼にして僭越な行為です。私は非礼と僭越を承知のうえであえて書いている、たとえば音羽さんに対しても、MacacaFuscataさんに対しても。MacacaFuscataさんは、自らが非礼な僭越を行っているという「自覚」に、それこそ乏しかったようですけれども。


sk-44が何をやりたいのか――かかる問いについて、先に答えておきます。少なくとも貴方との、行きがかり的な関わり合いに限定するなら、万事は一事。Webにおかれる「右より」に対する貴方の認識について、変容を迫り得る材料を提供すること。決めました。


私以外にも、おそらくはそうした意図に基づいて貴方のブログに書き込みをなさっている「右より」の方は、過去にも幾人も見出されました。当該の「村山責任」エントリについても同様。私もまた、かかる意図に基づいて(呉氏のエントリについても)幾度も長文投稿を行ったところではありますけれども、意図を明示することなきままに介入するべきではありませんでしたね。「旗幟の隠蔽」と見なされたのであるから。


意思的に自らを「左」と規定する者達に対する偏見は今なお存在するし、それを故意に煽っている馬鹿者も多くいることでしょう。しかしながら、意思的に自らを「右」と規定する者達に対する偏見もまた、甚だしい。過去においても現在も、Webなき時代においてもWebにおいても。一貫して、差別主義者と国粋主義者とミリタリストとその残党ないしシンパとしての扱いを、無知と不見識のために被り続けている、ひどいものとは、惻隠の情としても思います。


少なくとも、いわゆる「民族派」は、一線を画しているのですが。むろん、元「マルクス主義者」として言わせていただくなら、「左」に対する「アカ」呼ばわりもひどい。お互い様では、あるわけですけれども。相殺論ではなく、単なる現実の話。


そして、そもそも――任意の問題について政治的な旗幟を鮮明としたうえで、特定の政治的な立場に対して意思的にコミットメントする人間に対して、右左を問わず冷淡であるのが、日本の風潮であり「国柄」でもあって、大衆的な意識の在り様でも、またある。西欧的な「市民」概念と「主体」概念が、そもそも形成されず周知すらなされていないのであるから。


政治意識の大衆における涵養なき以上、市民主義など、ありえないわけです。市民としての自らの主体性を政治的に再規定し、任意の選択的なコミットメントによって行為として示す。かような発想自体が、欠落し全壊している。『民主と愛国』の結部において示された、小熊英二の問題意識もまた、そうした類のものでしょう。


であるから――それを由々しき問題とするなら、最低線の綱領として「市民としての自らの主体性を政治的に再規定し、任意の選択的なコミットメントによって行為として示している人間」は、少なくとも「市民概念」に対して前提的に同意する人であるなら、右左にかかわらず、「大義の為に」共闘し得ると、私は思っているのですけれども。


再三名前を挙げるのも失礼なことではありますが、finalvent氏など、明確にそうしたアンガージュマンの人であり、市民主義者でしょう。発端がネットであれ2chであれ、政治意識に「目覚める」というのは、目覚めないよりはよほど良いことです。「寝た子を起こすな」「寝ていてくれればいい(by森喜朗)」よりはよっぽどマシ。であるからこそApemanさんは、そうした「ネットで目覚めた」人々への啓蒙に対して積極的であるのでしょうけれど。


私が「公正泥棒」にて記した事柄とその「意図」について、あえて再述するなら、そういうことです。「手を差し伸べる云々」と記したのは、かような意図に基づいてのものでした。茶にした「フリッパントな」語り口であったこと、再記しますが反省するところ大ではありますが、アレントなど持ち出すのは不謹慎でしょうけれども、かかる発想もまた肝要であると、思ってはいます、現在においてもなお。


ところで私自身が以上を「由々しき問題」と考えているかというと、べつだんそうでもない、諦観している。であるから私は、直接に啓蒙的な内容のエントリを、およそいわゆる政治問題に際しても、書かない。私が自らを、貴方ほどには行動的にはなれない、とするのはそうした意味においてです。「シニシスト」としての私自身は、啓蒙の意思自体は、あまり持ち合わせないので。状況の分析としての個人的な認識の開陳と、参照項としてのリファレンスの提示は、時に行いますけれども。


貴方が示してくださった応答の、個別の記述に対するレスへと移行します。「政治性」と「炎上のポリティックス」。貴方が示し私に対して問うた大枠の論点2点について、私の見解を述べます。記述の精緻に必要以上に拘泥することなく(「揚げ足と言質を取られないために」とか考えることをやめました。少なくとも私の側からは、今後、警戒を解いて話します)、率直かつざっくばらんに(本人比)。


まず。

「「反Web 的/非Web的」なブロガー」という論点については正直に申しあげて関心がないのです。それが「リスクコントロールないしトラブルメンテナンスの類の話」なのだとすれば、正直に言って「つまらない」はなしです。私の関心は繰り返し申しあげてきましたし、最近の tot さんのコメントの趣旨と極めて近いものです。


「任意の事象に対する、個別的な関心の所在の相違ならびにその優先順位の個別性を前提した相対性」――つまりは「個人の問題意識とは個別的かつ相対的」であることについて、Apemanさんも前提事項として了解してくださっているようですね。私もまた、貴方が一貫して問題関心として検討されている論点について、個別的には「正直に申し上げて関心がない」ものが幾つもあります、「頽落史観」「自分は中道」「普通の人々」「オタクとヤンキー」「非モテミソジニー」そしてレイコフのモラルシステム論など「正直に言って「つまらない」はなしです。」――嘘ですが。


レイコフは措いて(貴方は(少なくとも近年の)呉智英に関心がないでしょう。論者本人について批判する以上は、『犬儒派だもの』(文庫化されている)『ホントの話』は読んでください、『危険な思想家』『現代人の論語』『放談の王道』についても、と私が言ったら読みますか。「頽落史観」に基づいた、NakanishiBさんによる呉氏に対する批判は、大筋において妥当なものではあると私は考えますが、私は呉氏についてはかかる観点からの批判は採らないので。なお、呉氏は本質主義者ではない)、貴方やNakanishiBさんやMacacaFuscataさんが一貫して問題関心として検討されている事項については、私は「つまらない」とまで思ったことはないし、「関心がない」ということでもまったくない(貴方というよりは他の御二方に対してですが――実生活における貴方の視界にオタクとヤンキーと萌えの人とミリオタと性的に奔放な女性は、たとえば友人知人として、存在しているのですか、とは素で疑問に思うところではあるのですけれども。「正直に言って」。女を買ったことのない男には買春行為を批判する資格はない、買ってから批判しなさい、という、かつて男友達との酒の席にてほざいた逆説的な冗談を思い出しました。私は、趣味でないから買ったことはない。気取っているのではなく、生活費の比較的かからない相対的な貧乏人のゆえに本とか映画とか美術展とか他なる趣味にカネを回している。そもそも性的嗜好においてSEX自体をまるっきり求めないうえ、現在はその元気もない。であるから、私は批判しない。けっこう真面目に、資格なきものと考えている。余談)。ただ、貴方がかく仰るのであれば、私もまた、かく言い得る、ということでは、ある。


なるほど、仰る通り、問題関心と問題意識が決定的に分岐し相違しているようですね、かくある以上は、相互の個別的な問題意識に基づいて、不干渉原則のもとにWebにおいて活動していきましょう、私が「サンフランシスコ講和条約によって日本が受諾したのは戦犯裁判の判決だけで、裁判そのものではない」「相手は賊なんだから、本来国際法としては極刑が当たり前」「中国共産党は日本軍と交戦していないので」「村山首相の判断の遅さは2000人の助かるはずだった命を奪った」といった、明確な事実誤認を記した際にのみ、厳しい御指摘をお願いします、その際は謝罪し訂正します、そのような事柄を私が記すことはないものと思われますけれども、それでは、互いの武運長久を。と言ってしまったら対話は終わるわけです。私はそうしたくはないので。


「「問題ある?」とのこと」というエントリを掲示する時点において、貴方のこともまた音羽さんのことも意識になかった、ということは再三記しています。そのことは本当。間接的な言及すらしていない。信じ難いと思うなら再読してください。私が私の個人的な問題関心と問題意識に基づき掲示したエントリに対して、おそらくははてなのキーワード検索によって辿り着き、自らに向けられた挑発ないし問題提起と認識し先んじて反応されたのは、あくまで貴方です。エントリの掲示が、貴方の個人的な問題関心と問題意識に、結果的に接触したことは理解しました。


誤解をなさっていると私は思ったので、また私の側に落ち度がないとは言えないので(「李下に冠」というやつです)、説明しました、かかるエントリを掲示した私の「意図」と「問題意識」について。それに対して「関心がない」「つまらない」と貴方がされるのは、予想されたところではあるし、むろん自由ではありますが。――結果としては話が色々と深まったので、良かったとは思っていますけれども。問題関心と問題意識において分岐し相違していることは、最初から認識していました。貴方も同様であろうとは、思いますが。

私は「自愛」云々の部分(だけ)を問題にしているのではありませんよ? むしろ私が問題にしているのは

自らの本音たる素朴な私見に基づく裁断ないし断罪とは「リアル」の社会性に準拠した意識の高い正論であって、率直に堂々と述べるに問題やあるいはやましさを感じる筋合いなどあろうはずもないものであって、ゆえに当然のごとく理は先方にあり(…)

彼女の感性と価値観に基づく素朴であるがゆえに確信的な「判断」と「見解」において、批判を容れる余地などなくその必要もまた筋合いも、本人は感じていない(…)


といった記述であり、こうした記述のよって立つスタンスが「国立大学に通う卒業間近の女子」への評価が基づいているそれと一致していることは明白であるわけですが、「死ぬ死ぬ詐欺」と言って騒いでいた連中についてはどう「記述」するつもりなのですか? と私の問を言い換えてもかまいません。


貴方が示してくださった、テンプレート改変としての書き換えによって精確に「記述」されていることと思われますが。記しましたが、かの「記述」については100%全面的に同意しています。相互に記述し合えば宜しいのではないでしょうか。


とぼけているかのようなので真面目に書くと、貴方は、私が「「死ぬ死ぬ詐欺」と言って騒いでいた連中について」「記述しなかった」こと、貴方が「記述」を示せば「全面的に同意」とは言うけれども、そうでなければ自らからは「記述」することがなかったであろうことを、問題とされている。つまり行為と不作為から判断して「評価」がバランスしていないところに、sk-44の選択における恣意性が介在しており、それはsk-44の「政治性」を示すものであろう、と。


まず、貴方の有する左右概念に準じたとしても、政治性を僭称し簒奪する馬鹿の傾向に右も左も関係がないと、私は原則的に考えているということ、また、他人の行為ならぬ不作為について、ないし行為と不作為がバランスしないことをもって、他人の「行為」を批判し得るものではない、かかる原則論は「左」の方達もまた主張されているところではないのですか、ということ、かかる2点を前提として明記したうえで、私なりの補助線を引きます。もし間違いないし印象操作的と貴方がされるのであるなら、その旨御指摘ください。


――大筋/大枠において、貴方は、愛・蔵太氏に対して問題とされたことを、私に対しても問題としている。長めの引用を御容赦。


http://homepage.mac.com/biogon_21/iblog/B1604743443/C1534355107/E20060226222550/index.html

(前略)実際、氏はSWCやテニー氏に伝えられた情報が歪んでいる「可能性」についてはなんら具体的な根拠もなしに危惧してみせるくせに、そもそも『文藝春秋』に掲載された笹論文に問題があった可能性については金輪際検討しようとしていません。本人がどう自称しようが、また本人の主観的な意図がどうであれ、結果として愛・蔵太氏の言説は『文藝春秋』を一方的に擁護するものとして機能しているわけです。愛・蔵太氏が「ネタ」をもっぱら「左寄りのサイトのテキスト」から選び出してくること自体に文句を言うつもりはさらさらありません。それを言うなら、私の「ネタ」はもっぱら「右寄りのサイトのテキスト」から選び出されていますから。問題は、私は自分が主として「右寄りのサイトのテキスト」から「ネタ」を選ぶ理由が私が左翼であるところにあることを自覚しているし、そのことを隠してもいないのに対して、愛・蔵田氏は彼が「ネタ」を「左寄りのサイトのテキスト」から選ぶ理由があたかも政治的には中立であるかのように自称している点です。ぶっちゃけて言えば、そんなことあり得ないんですよ! ご本人の主観にとっては純粋に“面白さ”という基準でネタを選んでいるというのが真実だ、と仮定してもかまいません。しかしながら、どのような言説を「ネタとして面白い」と判断するかという段階で、すでに政治的なバイアスはかかっているのです。(後略)


愛・蔵太氏について云々するつもりもまたその資格も、私にはないので、上記にて貴方が記されている事柄について、個別事例としての水準を捨象して、あえて一般論として、かかる記述が準拠する批判の枠組自体について画定するなら(「命題的な意図」とはかような意味です。言葉の使用がいいかげんかつオリジナル過ぎて、すみません)、原則において同意します。


原則に対する例外について私が記すなら、行為と不作為の選択に際して、万事の一切を「政治的なバイアス」に還元することはできない、ということ。「無自覚」と指摘すればすべて通るわけではない。精神分析における「無意識」の役割ではないのであるから。愛・蔵太氏の話ではなく、原則と例外の所在の話。むろん、原則ありきですよ。万事の一切を原則としない限りは。再度抜粋的に引用。

愛・蔵太氏が「ネタ」をもっぱら「左寄りのサイトのテキスト」から選び出してくること自体に文句を言うつもりはさらさらありません。それを言うなら、私の「ネタ」はもっぱら「右寄りのサイトのテキスト」から選び出されていますから。問題は、私は自分が主として「右寄りのサイトのテキスト」から「ネタ」を選ぶ理由が私が左翼であるところにあることを自覚しているし、そのことを隠してもいないのに対して、愛・蔵田氏は彼が「ネタ」を「左寄りのサイトのテキスト」から選ぶ理由があたかも政治的には中立であるかのように自称している点です。ぶっちゃけて言えば、そんなことあり得ないんですよ!


愛・蔵太氏のことは措きます。上記について、Apemanさんが私に対してもまた「問題」とされているのであるなら、私は認め同意しますよ、上記について。自らのことに限るのであれば。自身の「政治的なバイアス」についても。であるから、私は「右より」として貴方に対しては応じることとします。


「「右より」として貴方に対しては応じることとします」という言い回しを詭弁ないし韜晦と受け取られるかも知れませんが、貴方はやはり「自分の殻に合わせて穴を掘っている」と、私には感じられるので。むろん、お互い様です。「自分の殻」とは、個別的な問題関心と問題意識のことであると、私は考えている。つまり、貴方の問題関心と問題意識に能う限り準じて、私は対話としての対立的な意見交換を試みたく思う、ということです。


繰り返しますが、引用した上記について、一般論としては、そして私個人については、原則論として同意します。例外を前提して、原則部については全面的に同意する、ということです。原理論と歴史的な段階論の話でもある。原理論の領域に属する事項については、現行においておよその決定解が所在する。議論の余地なきものについては、認めるし同意します。


先に部分的に触れておくと。

他方、あなたがなぜ asdf氏やmamezou氏 に対しては「保身のススメ」を説かなかったのか、は問題にしうることだと思いますが、繰り返しになるので省略します。


リンク先に飛ぶまで、誰のことであるかわかりませんでした。

そして私が当該のエントリに限らず、いわゆる「死ぬ死ぬ詐欺」にまつわる件に関して一貫してブログにおいて記してきたことは、無知に基づくリスクの蓋然に対する、実際的な対策意識の必要性、という、現行のWebにおけるあくまで現実的かつ常識的なプラグマティズムの話でしかありません。


これを「公正泥棒」というエントリであなたが行なったことと対比してみるなら、後者においてあなたの関心は「リスクコントロールないしトラブルメンテナンスの類の話」にはなく、「無関心に準拠した無知」に基づく「素朴で率直な感性と価値観」を表出したコメント投稿者に対する野原さんたちの口のきき方がなってない、という点にあったわけですね。もちろん、とりあげられている具体的な事例が違うのだから関心の所在が違っても当然、とおっしゃるなら、それはそうなのでしょう。私にはまったく不可解ですが。したがって私はそこに一貫した政治性を見いだしますし、私が書いてきたことはつまるところそれに尽きます。


上記における「「無関心に準拠した無知」に基づく「素朴で率直な感性と価値観」を表出したコメント投稿者」のことでしたね。「右より」として言ってみるなら、右派の信用と評判を下落させ右派に対する世の偏見を昂進させるために活躍している真正バカの工作員をなぜ私がフォローしなければならないのでしょうか、


(――注記:2月26日付にて更新されたApemanさんの別館ブログを拝見して、当段落の当所に原文として記されてあった、論旨に即した指摘としての記述を、自己規制として削除します。何のことかわからない閲覧者の方には申し訳ありませんが。Apemanさん――私が貴方に対して示すことを意図していた指摘自体については、以降の記述から把握し得ることと思います。掲示直前に気が付いて、1日思案したうえで削除した理由については、察してください。


近々別個のTBエントリを掲示して見解を示そうと考えていたことですが、私は――自らの「賛同の署名」については今なお「消極的に考慮」中ではあるものの、はてな別館にて貴方が提案し実現した「共同声明」という試みとその文面については、原則において全面的に支持する者です(私なりのその理由についても、掲示予定のTBエントリにて明記する予定でした、今後手が空くなら)。それゆえに、かかる試みに対して水を差すようなことは能う限り記したくはない。「保守」の御家芸として、空気を読みます。


ほのめかしたところでわからない、sk-44は自分についていかなる「指摘」を示していたのかと公的に仰るなら――やむなく、削除した文面を改めて掲示、いや、メールさせていただきます。繰り返しますが、私は「共同声明」の試みとその文面については全面的に支持するからこそ、水を差すようなことを公的には記したくはない。付記するなら、以降の記述に示されてある「党派性」云々という話も、「共同声明」の試みに対して暗に言及したものではないし、揶揄するところではまったくない。


Webにおける「超党派」(――ですよね。私は南京事件における「虐殺」の否定論者であったことはない。「全面的に支持」する私なりの最大の理由は別個の点に所在しますが)の「共同声明」も「署名」もアリに決まっている。私個人が「共同声明」の試みと文面について「全面的に支持」していることと、上記における急場の要から支持を端的に言明しながらも、自らの賛同署名については「消極的に考慮」している理由は、完全に別個のセクターに属する話。言わずもがな「保身のススメ」とは関係がない。御了解ください。なんというのか――こういうときはその意図なくとも「板挟み」の意識となってしまって困る――予想された通りに、彼の人が速攻にてTBのうえ言及なさっていますが………)


となりますしそれはまったくの本音でもあるけれども、そうした一種のポジショントークは措いて。


また、本人達が「右派」であるのかもよくわからない。とぼけているのではなく、「市民運動家(=政治的なactivist)嫌い」と右派を機械的に等号にて結ばれることは、現行においては誤認の類であると私は考えているので。右翼活動とは理論的な思想運動でもあるし、かくあるべき――たとえば、それが「民族派」の論客たる鈴木邦男氏によるかつての主張でした。こと現行におかれては、「右翼」とて市民社会に包摂されてあるうちは政治的なactivistであること同様です。公安活動全肯定の「右派」とは何事ですか。国家主義と右翼は、現在の日本の体制下におかれては、直接的には相容れることない。


無礼には無礼によって報いられてやむなしと、私は「公正泥棒」においても記したはずです。そして、馬鹿は原則放置が私の方針です。消耗戦に私は原則的には向かない。これも以前に記したけれども、自ブログのコメ欄におかれても同様。私は音羽さんを、少なくともかかる意における馬鹿と思ったことは一度もないので。「リスクコントロールないしトラブルメンテナンスの類の話」を、説くとして私はブロガーに対してしか説きません。発言者としての人称性を対他的に認定されていないコメンテーターとは、炎上する蓋然すらなく、いくらでもハンドルを捨て得る存在であるから。


――上記は知って記した補足的な余談です。Apemanさんが迂遠な体にて、あるいは、手続きを踏む形にて仰っている事柄の主旨とは、私の解釈に拠るなら以下。


sk-44が「公正泥棒」において「asdf氏やmamezou氏」の「「無関心に準拠した無知」に基づく「素朴で率直な感性と価値観」」を批判することなく、「「問題ある?」とのこと」において「女子大生」の「「無関心に準拠した無知」に基づく「素朴で率直な感性と価値観」」を揶揄的に批判したのはなぜか、条件的には同様であり同類項ではないか、あまつさえ「公正泥棒」においては「野原さんたちの口のきき方がなってない」と暗々裏に揶揄的に記しているのはいかなる振舞いであるのか。前者は公安問題。後者は靖国問題。「したがって私はそこに一貫した政治性を見いだしますし、私が書いてきたことはつまるところそれに尽きます。」。


行為と不作為の選択においてバランスしていない、かつ不均衡とは結果論ではなく、行為と不作為の選択の段階において事前に恣意が関与している。かかる恣意には「一貫した政治性」が見出され得る。Apemanというブロガーにおかれても、条件的には以上は同様であるが、自身の「政治的なバイアス」としての「一貫した政治性」を「自覚しているし、そのことを隠してもいないのに対して」sk-44というブロガーは、自らの「一貫した政治性」について公言していない。「私が書いてきたことはつまるところそれに尽きます。」。


大筋/大枠における回答は、すでに示していますね。以下補足。私は、右左にかかわらず、無礼な馬鹿に味方するつもりはない。任意の馬鹿を渦中において直接的に批判しなかった「不作為」をもって、それを全面的に「党派的な判断」に帰され、かく他人から見なされたなら、たまったものではない。


(――上記注記と同様の理由から、以下の長い一文については原文の大部分について削除し一部については伏字を使用します。御了解ください――)上記の通り、(――削除――複数形の話でした――)が方々にて「「無関心に準拠した無知」に基づく「素朴で率直な感性と価値観」を表出」させていることを、貴方が●●されないばかりでなく「無関心に準拠した無知」についても、直接的に言及されることなければ●●しておられる、かかる一事をもってApemanというブロガーの「●●●な●●」について外部の「ウォッチャー」から云々されたなら、ひいてはダブスタ呼ばわりされたなら、たまったものではないでしょう。あるいは、自らに向けられた、的を外した批判と揶揄など、貴方にとっては無問題ですか。


「馬鹿と一緒にするな」と言いたくなるのは、常識的な感覚であると、私は思っています。そして、かような自明について言明する必要などないと考えることも。貴方が問うから答えている。私は、音羽さんをかかる意における馬鹿とは、思っていない。私に対するに限らず無礼であるとは、思うけれども。


――私も、貴方が音羽さんに対してあくまで沈黙している限りであったなら、つまりは12月から1月における「募金活動をめぐる騒動」の件に関して、非言及という「不作為」に直接にはとどまっていたなら、その間における貴方の、音羽さんに対するものを含めた一連の対応を「党派的な判断」に拠るものとは、考えることはなかったし、暗々裏にも記すことはなかったのですけれども。


「私の個人主義」というエントリに示されたメタメッセージです。御承知のことでしょう。そして貴方は私に対しても「党派的な判断」を見出している。それが貴方の殻という問題意識であるのだから。――甚だしい誤解、ですか。ならはっきりと仰ってください。私が納得へと至れば、謝罪しますし認識を改めます。


行為と不作為の不均衡において、事前に選択的な恣意が関与しているとき、「選択的な恣意」を構成する自らの「一貫した基準」について常に明示するのであるなら、個人の行為と不作為の選択におけるかかる恣意とは二重基準としての批判には該当しない。また「一貫した基準」としての「選択的な恣意」に個人の政治性が関与しているのであるなら、かかる個人は自らの「選択的な恣意」に関与する自己の政治性についてもまた開示するべき。以上、私は認めますし、貴方もまた原則的には同意されるものと、思います。


ただ、貴方が如何様に考えておられるのかわかりかねますけれども、私は政治性とは常に個人に所属するものであって、条件として党派性を構成することなく「党派的な判断」をまた招来するものでもない、とは考えている。このようなこと、「左翼」における「市民主義」ないし「アンガージュマン」の最低線の綱領であるとは、思います。


私は皮肉を記しているのではない。近代主義者として、個人を原理的な単位とすることにおいて同意し得るものとは考えているから。ダブルスタンダードとは、正確には二重規範の謂。同条件における行為と不作為の不均衡でなく、同条件を前提する複数の行為間の矛盾こそが、二重規範性を構成する。かような事柄もまた、常識の範疇ではあることと思います。右左に、かかわらず。付記、保守は「常識」概念を「あえて」使用します。


それと――貴方の表現に準拠して、あえてかく言うなら、私が「口のきき方がなってない」と感じたのは、野原さんでは決してない。「公正泥棒」の件以来、巡回しているのですが、意見とスタンスの相違は個別的には多く見出されるけれども、記した通り、私は、野原さんのような方はまったく嫌いではない。


――私は、しまうまさんの明解にして的確な議論整理能力については見事なものと常に思いますし、ゆえに私のスタンスに対して苛立たれることも理解するのですが、明確に目的ありきで議論をされる方であるので。典型的な、コメンテーターとしてのネットワーカーと申しますか。――目的ありきの議論に特化され過ぎていて、議論整理能力もまたそのために駆使されている、というか、議論を前提しない知見を示す意思を持っておられる方であるのかよくわからない。件のmamezou氏のように、他人のブログに目的ありきで無知と不見識を書き込む馬鹿は目的ありきで撃退するに越したことはないのですが、こう言ってはなんですが、あまりに露骨過ぎて、普通は、いや、私は引きます。


「口のきき方」が露骨なのではなくて「目的ありきの議論」をやっていることが露骨に過ぎる。馬鹿に対して無視するのではなく応えるのであるなら、言いようというものがある、明確に撃退目的であるなら別であるが。Webにおける売り言葉に買い言葉、が感覚的な水準において好きではない私は、かく考えるところに変更はありません。あくまで、貴方が問うたから答えた、野原さんの当該エントリにおける、しまうまさんの発言に限定した話。


批判ではない、それこそ件のmamezou氏の発言を渦中において直接に批判することのなかった以上、その資格もない、私は自らのスタンスとしてかく思う、というだけの話です、為念。その後、私のブログに大変に丁寧なコメントを、投稿してくださったのですけれども。そして生まれたのが「右を左へのジレッタ」というエントリ。なお、しまうまさんがかく記していることについても添えておきます。心情については、同意します。根っから口の悪い人ではないことは、わかっているのですけれども。あ、右なので情で動かされるのです、私は。


http://homepage.mac.com/biogon_21/iblog/B1604743443/C1534355107/E20061108181813/index.html

とにかくどんな無茶苦茶でも最後まで書き続けたほうが勝ち(根負けさせた方が勝ち)、としか思えないようなコメントを書く人たち見てると、思わず書いちゃうんですよね。僕は言葉が悪い方で、結構挑発的に書いてコメント欄の雰囲気を殺伐とさせてしまいがちなんで、なるべく自省しようとは思ってるんですけど。ふざけたコメント見ると、つい…。人間出来てないっすね。

しまうま | 11.10.06 - 1:27 am | #


閑話休題

そしてあなたがそうした政治性をもはや否認されないというのであれば、私としても現時点でそれ以上申しあげることはないわけです。2ちゃんねるの起こす波に巧みに乗っておられるけど、その自覚はもちろんあるんですよね? と。


「右より」の「右派」という自覚はありますけれども、ないし保守主義者という自覚は持ち合わせていますけれども、そのことと2chといかなる直接的な関係があるのでしょうか。と書いたなら、とぼけていると思われるのでしょうね、本心ですけれども。私の回答は、万事そのことに尽きます。


私が、自らの政治性について「否認」していた理由とは、大筋において、9日付のエントリにzaikabouさんが書き込んでくださっている事柄の通りです。zaikabouさん、後で改めてレスさせていただきますが、的確かつ正確な補助線を引いてくださり、有難うございます。御礼申し上げます。


はっきりと、あえて極端に端的に言うなら。


「ネットの右派は嫌韓レイシストで「特定アジア」とその出身者ならびに二世三世に対する蔑視を隠すことなく中国を「支那」と明確な他意をもって呼び小泉全肯定でその小泉の靖国参拝支持で市民運動家を「プロ市民」呼ばわりして嫌悪するアンチフェミで非モテ喪男ミソジニールサンチマンで反ヤンキー主義者で反コギャル主義者で死刑制度については無条件に容認で南京事件における「虐殺」の否定論者で歴史修正主義者で朝日毎日等左翼と見なす存在を叩くためならダブスタも厭わずそもそも左翼は全員中国シンパといまだに考えていて「中国政府を利する」といった言辞を用いる(私は「利する」といった発想自体が嫌いなのです、右左にかかわらず。万事を「情報戦」として捉えている人にはついていけない、右左にかかわらず)炎上原則是認で「嫌儲」で2chに書き込むユーザーでイラク邦人人質事件について「自作自演」と吹聴して回り『ホテル・ルワンダ』など観ることもなく「弱者」に対して冷淡かつ差別的で「募金活動をめぐる騒動」の渦中において「両親が自宅を売れ」と平気で公言するベタな保守的道徳の持ち主」


――という認識の蔓延する中で「右派」とされたならたまったものではない。それはすべて私とは関係のない「右派」「保守」の話ですね、としか言いようがない。


秦郁彦保阪正康も虐殺否定派ではないがゆえにサヨ認定しているネットの右翼、などと記してあると、あの、それはどちらの右翼の話ですか、右翼を騙った工作員ではありますまいか、と素で訊きたくもなる。事実「サヨ認定」している人がいるのでしょうけれども、であるからそれは私の知る右翼の話ではない。私が実際に知る「右派」はみな――多く年配者ですが――秦氏もまた保阪氏についても、断じて下にも置きません。明確に敬意を払っていますよ。


http://homepage.mac.com/biogon_21/iblog/B1604743443/C1534355107/E20061020110942/index.html

旧日本軍の戦争犯罪を率直に認めたら保阪正康だろうが秦郁彦だろうがかたっぱしから左翼認定するような連中は、左翼からみればもうギャグでしかないんで、むしろ保守を自認する人々こそなんか手を打つべきでしょう。


Apemanさんが仰ることはごもっともではありますけれどもね……


愛・蔵太氏経由で知ったのですけれども、他なるエントリもみな非常に興味深い、現在いささか更新が停まってしまっているブログに記してあった定義。


2005-10-13

Web上で政治的発言を行う人のうち、次の4条件の中の2つ以上を満たす人を「ネット右翼」と勝手に定義しておきます。

1. 中韓を毛嫌いする。具体的には、日本との経済的関係が悪くなっても構わないと思うくらいに毛嫌いする。
2. 自由主義史観(歴史修正主義)に共感できる。具体的には、「新しい教科書をつくる会の主張」に共感できる
3. 人権保護法案には無条件で絶対反対である
4. リベラル派(いわゆるサヨク)による市民運動を毛嫌いする。


上記定義の汎用性については措いて、真面目な話、私はいっこも該当しませんよ。かようなことは言うまでもないことであると思っていましたけれども。とはいえ、上記のブログの管理人氏が用いる言葉を拝借すれば、「靖国神社大好き人間」と2月9日付のエントリを読んで私のことを判断したらしく「まるっきり的外れの」「指摘」をしてくださった方もいらっしゃるようなので。


だいたい、現行においてはあくまで首相は参拝するべきでないとする立場である以上、上記ブログの管理人氏よりも「左傾」であるとも、言い得るわけですが、ポリティカルコンパスではあるまいし、そのような区分自体がくだらない、靖国については、私のスタンスは相対的にも明確に「右」ですよ。


首相参拝の支持不支持、ないし現行の靖国神社に対する是非、かような任意の条件によって左右は分かたれるものなのですかね、それも対他的に。そういうのを、踏み絵と言うのです。Apemanさんがそうである、ということではまったくないけれども、それをリトマス試験紙と捉えている方も、おられることでしょうね。赤く染まるか青く染まるか、ふたつにひとつ。


任意の政治的な問題、たとえば靖国問題を「あえて」取り上げそれについて「殊更に」意見を表明したがる、かかる欲望の現われとしての行為に属する、問題の恣意的かつ意思的な選択に即した「自発的」な言及それ自体が、発言者の「無自覚」な政治性を証している――「貴方方」にとっては自明のディスクールであることを知っていたから、私は「殊更」には触れなかったのです、靖国について。


あらゆる選択に付随する恣意性を前提して、遂行され累積された選択に則って事後的に、主体の動機とそれに即した意識を「政治性」という条件のもと意味的に問い得る。精神分析ですね。私は「踏み絵」と思っているし、貴方はそうではないけれども(それとも、違いますか)、「リトマス試験紙」と思っておられる方もいる。


選択自体の動機を主体の「内心」に及んで明示的かつ公的に問うことはそもそも下品な行為である、通俗化した精神分析がかくあるように。私はかように考えますが――。付記、保守は「品位」「品性」概念を「あえて」使用します。


そして――私は「募金活動をめぐる騒動」の件について、「リトマス試験紙」と考えている方の存在とその視線を、知っていました。昨年10月の段階から。貴方もまた、かく考えておられるひとりであることも。であるからこそ、貴方やNakanishiBさんはfw0さんに対して、「喧嘩を売る」「覚悟」もなきままに「つまらない」批判を間接的に行ったりもしたし(批判の内容が「つまらない」とは必ずしも思いませんけれども、方法は「つまらない」と思いますよ。ことにNakanishiBさんは。「正直に言って」)、あるいは貴方は渦中において音羽さんを幾度か「フォロー」されたのでしょう。


念の為に記すと「フォロー」自体はむろん無問題です。というか他人が口を出す筋合いのものではない――「フォロー」を通じて不当に批判された当事者以外の他人は。窮地の友に対して助太刀することを私は肯定する人間です(右宣言したので、浪花節的表現を解禁)。ただし、そこに党派性が見出されることなければ。貴方が「公正泥棒」のことを蒸し返す以上、私もまた、少しだけ、蒸し返しますけれども。


何か誤解されているみたいですが……(後記:最後にドンデン返しがあります……) - 地を這う難破船

その「女子大生」に対して「おたくの個人的な正論を、おたくを(その実人生も含めて)知らない不特定多数には晒すなよ、自愛しなさい」と言ったその人物が、「個人的な正論」を現に「不特定多数」に、それだけでなく募金活動をする両親や支援者にも目に入るようなかたちでダダ漏れにしている人びとについてはなんにも言わない、という事実に直面して「はあ?」と反応したのです。ついでに言えば7日付けエントリの「いわゆる右左の話は筆者の意図のうえではまったく前提されていません」でだめ押しをされました。私のブログでのトニオさん(私にとってはこのハンドルが一番馴染みがあるので。音羽さんのことです)のコメントに対する私のレスポンスはこの「だめ押し」を前提にしています。


「私のブログでのトニオさん(私にとってはこのハンドルが一番馴染みがあるので。音羽さんのことです)のコメントに対する私のレスポンスはこの「だめ押し」を前提にしています。」――つまり「意趣返しをした」ということですよね。sk-44が、自らの「党派的」な政治性に対してシラを切ったことへの。「李下に冠」であったことを私は認めますけれども(であるから、その点についてはお詫びしました)、「いわゆる右左の話は筆者の意図のうえではまったく前提されていません」というのは嘘ではありませんよ。説明してきたので、わかっていただけると思いますが。


あれは、べつだん政治問題を「意図」して扱ったエントリではない。左派批判を「意図」した覚えもない。浅薄に政治性を僭称する人間に対する批判という「意図」の所在については、認めます。貴方が「「はあ?」と反応した」のはそのことではないことは了解しているし、貴方が問題とされた点については、上記にて説明しました。


「私の個人主義」というタイトルの通りに、私が党派性ないし党派的な発想/行動を嫌悪することを再三記したことは、かかる私の認識における文脈を前提にしています。もし、私の憶測メソッドないし勘違いであるなら、御指摘ください。私は、貴方は「党派性ないし党派的な発想/行動」を基本的には肯定ないし首肯している方であると、今も考えていますけれども。むろん、無問題です。それは、端的に価値観の相違ではないかとも思いはしますが、その点について貴方と話を重ねても構いません。


――ようは、窮地の音羽さんに対する友情ないし個人的なシンパシーに拠る行動だった、と仰るのであるなら、「右」として私個人は一発で納得したのですけれども、という話です。私は個人主義者ですけれども、実生活上の友は幾らかいるので。連絡もたまにしかしませんが。


私が「踏み絵」=「リトマス試験紙」の話をしているのは、なぜかというと。貴方の問題関心についての私の見解を示すためです。摘出的に再述。


嫌韓レイシストで「特定アジア」とその出身者ならびに二世三世に対する蔑視を隠すことなく中国を「支那」と明確な他意を持って呼び小泉全肯定でその小泉の靖国参拝支持で市民運動家を「プロ市民」呼ばわりして嫌悪するアンチフェミで非モテ喪男ミソジニールサンチマンで反ヤンキー主義者で反コギャル主義者で死刑制度については無条件に容認で南京事件における「虐殺」の否定論者で歴史修正主義者で朝日毎日等左翼と見なす存在を叩くためならダブスタも厭わずそもそも左翼は全員中国シンパといまだに考えていて「中国政府を利する」といった言辞を用いる炎上原則是認で「嫌儲」で2chに書き込むユーザーでイラク邦人人質事件について「自作自演」と吹聴して回り『ホテル・ルワンダ』など観ることもなく「弱者」に対して冷淡かつ差別的で「募金活動をめぐる騒動」の渦中において「両親が自宅を売れ」と平気で公言する」


冒頭において記した通り、齟齬が発生する蓋然を承知で、踏み込んだ話をします。Apemanさん、貴方がWebにおける活動において一貫して問題視なさっているのは、上記の如き発言の野放図な横行と、横行する個々の発言間に見出される「相関」のことですよね。私は、事実として上に列記した条件にはいっこも該当しませんが、そのようなことは貴方も了解してくださっていると思うし、措きます。貴方は――以前、私の問いに対して、かく仰った。


http://homepage.mac.com/biogon_21/iblog/B1604743443/C1534355107/E20061209133100/index.html

私は「右翼」にせよ「左翼」にせよ「家族的類似」的な概念だと思ってますので、「そういう分類も可能だし、意味を持つ文脈もあるだろう」とは思いますが、あらゆる場面でその条件を「勘定」しなければならないとも思いません。「「伝統」が近代国家において「捏造」されたものであることを知ったうえで「あえて」守護しようとする者達」というのは、いくつかのアカデミックな議論の文脈においてならともかく、一般にはむしろ過剰な限定でしょう。


家族的類似 - Wikipedia


本稿の推敲段階にて発見した、Apemanさんがかつて記した関連エントリ。


http://homepage.mac.com/biogon_21/iblog/B1604743443/C1615791011/E2097037626/index.html


当時、「家族的類似」との言を目にして、正直なところ、私は腰が砕けましたが、今となっては理解します。貴方と私と、「右翼」という同一の語のもとに、まったく異なる対象についての話をしていたのでしょう。


貴方は――私が上記に列記した条件に任意に該当する、個別的な個々の発言間に見出される「相関」から描き出された「家族的類似」的な輪郭ないし外延それ自体をこそ、あるいはかかる外延を形成する構造をこそ、Webにおいては問題としている。


――そして結果的に、貴方の意図にはないことでしょうが「家族的類似」概念は転倒して、上記列記の個別的な条件に任意に該当する発言を示した人物は、他なる条件についても蓋然において該当し得る、すなわち発言者としての同人は「ネット右翼」であるとの、帰納的な発想と裁断的な認識が、時に形成されている、と私は体験的にも考える。


私のことを、靖国神社首相参拝の支持者と思っていた方は、多いことでしょう。はっきりと申し上げて、ですからそういうのを「踏み絵」と言うのですが、繰り返しますが「リトマス試験紙」と思っておられる方もいることでしょう。任意の個人の思想的傾向と政治性を計る、リトマス試験紙。貴方のことではない、とは思っていますけれども。


MacacaFuscataさんによる「指摘」は、御本人が一方的に見出した任意の条件から、帰納的に私の認識における「傾向」を裁断する類のものでした。ああした調子で、というか、かような方法論をもって他人を批判し得ると思えるその発想自体が、私には信じ難いのですけれども、MacacaFuscataさんの批判作法は私に対するに限らず常にああなので、これは考え方の「傾向」の問題でしょう、私の「頽落史観」と同様の。


――で、私は自らが思想的傾向と政治性において「右」であり「保守主義者」であることを認めますよ、Apemanさん、貴方の殻という問題関心/問題意識に則るなら。上記列記の条件には事実としていっこも該当しませんが。つまりは、そうした話です。


私が言わんとしていることは。上記の条件のすべてに合致する言行を示している任意の人称性を有した個人など、いないわけです。人称性を有した個人としてはね。そのようなことはむろん貴方も承知であろうし、この線にて恣意的に話を進めると故意のごまかしにしかならなくなるので、貴方の問題意識に私なりに則った話をしますけれども。


貴方は「家族的類似」という概念を明示的に採用している。いわゆる「ネット右翼」とは「「家族的類似」的な概念」としてしか捉えようがない。しかしながら、かく類化して捉えたうえで言挙げせざるを得ない状況が、明確に現実に存在していることを、むろん私は認めます。そして――かかる枠組は、それは、個別の個人について該当させるなら、齟齬が発生するに決まっている。


概念的な枠組というものはむろん必要、問題は、外的なる装置としてのそれを操作的に行使することなく、内的な認識の水準に設定してしまうベタな人がいて、たとえば私を首相参拝支持者と見なして、過去には「性的に奔放な女性に対する蔑視を有する人間」とする。ほのめかしてかく公言する。Webにおいて他人と対立的な意見交換を直接には交わしたこともない人が、かかる行為に及ぶ。


「性的に奔放な女性」?いっぱい知っている、過去に。痛い子ばかりでした。恋人に陰で殴られていた人も、恋人の友達に公然と貸し出されていた人も、後に病んだ子もいました。堕胎とか小耳に挟みました。私は早くから自らの可塑性なき性的嗜好という因果に気が付いていたので、SEX自体に対しては10代にて早々と意欲が失せて、合法的には成就し得ない彼岸のエロスへと不可逆的に移行しミニマルに帰結した。浅田彰がかつてゴダールについて語った名言を勝手に簒奪して借りるなら、永遠の半勃起状態へと。繰り返すが私はペドファイルではない。「成就し得ない彼岸の欲望」などと記すとペド以外を想定し得ない想像力貧困な無知と不見識が横行し過ぎている。


ゆえに、最近再び話題となった件ではあるけれども、私の知る限り私は、父親になりかけたことはない、というか私は、自らを鑑みて傷物の遺伝子は在ると思っているので。話を戻すと、奔放と無規範は時に同義であると知りました、無規範は人間の尊厳とプライドを多く貶め損壊することも。今は単身者として地味に生きています。


それをして私を規範優先の保守主義者とするなら、認めるところです。私が重きを置いているのは、個人における規範の自律的な生成のことですけれどもね。「自己への配慮」、御存知ですか。――御本人だけ、わかってくださればよいので、具体的なエントリは示しません。私は『制服少女たちの選択』『終わりなき日常を生きろ』の内容的な一部について、嘘とは思わなかったけれども、一種のイメージメイキングという感想は抱いていました、初めて目を通した当時(刊行時とは一致しない)から。それこそ、事例と事象の選択と排除の恣意が、私の実感からは窺えた。むろん――『オタク学入門』もまた同様ですけれどもね。


人為の枠組によって現実の個人は裁断できない、まさしく「保守」の言い種ですが、とまれ、かかる事項については踏まえたうえで、話を始めてほしいとは思う――私を「右より」としたうえで、その「右より」の私と意見交換を求めるのなら。むろん、以上、Apemanさんには百も承知のことであって、そのうえであえて、かかる枠組を攻撃的に行使せざるを得ないWebの状況が存在する。ええ、かかる事項については、私もまた百も承知です。その旨踏まえたうえで話します。


――Apemanさんは「そしてあなたがそうした政治性をもはや否認されないというのであれば、私としても現時点でそれ以上申しあげることはないわけです。」という記述を示した。「そうした政治性をもはや否認されない」ということについては、同意のうえで「それ以上申し上げることは」私にもありません。しかしながら、貴方はそれに続けて、

2ちゃんねるの起こす波に巧みに乗っておられるけど、その自覚はもちろんあるんですよね? と。


と仰る。私には単なる嫌味にしか聞こえませんが(「巧みに」?)――つまり、Apemanさんが上記において仰っておられる、sk-44の「政治性」とは「2ちゃんねるの起こす波に巧みに乗っておられる」ことと同義であり、その別名であると。


1に主観的な事実誤認であり、2にそれは全然「政治性」の話ではないではないかと、私は考えるので、かかる認識のうえでは同意しかねるところではありますけれども、これもごまかしのようではあるな。貴方が仰っておられる「自覚」についての話をするべきなのでしょうね。


最初に結論を記しておくと、「募金活動をめぐる騒動」の件について、貴方は「リトマス試験紙」と考えているし、私は「リトマス試験紙」とする考え方それ自体に対して、10月から一貫して棹差している。むろん、私の如きナマケモノがプレイヤーとして棹差す必要を感じる程度には、貴方が、あるいは他なる方が「リトマス試験紙」と考えるに当然の状況が存在したことは、事実ですよ。


「あえて」の行動の結果が、私の「染まった色」として、「募金活動をめぐる騒動に対して」「距離を置いたところから」「事態を把握して」いた貴方には確認されたのでしょう。そしてfw0さんについても。かかるスタンスの相違こそが、貴方と私との、貴方が仰る意味における「政治性」を結果的にも分かつのでしょう。「募金活動をめぐる騒動」におけるWebの最大のファクターが2chであった以上、貴方が言われるところの「炎上のポリティックス」に対する、スタンスの相違として。


――端的に申し上げて、私が察するに、貴方が言っておられることは、前提において親2chであるか嫌2chであるのか、といった「スタンスの相違」へと回収される、ないしは帰結する話であるような気が、するのですけれども。であるからそれは「踏み絵」であると、私は考えるところなのです。とまれ、以下「炎上のポリティックス」について、貴方にとっての「付随的な論点」についての言及を通して幾許か見解を記します。


――……以下、中編ないし後編へと、続く。早くて明日(は無理かも知れない)、遅くて数日中には掲示するので、お待ちください。冒頭において記した通り、もはや準完成稿がテキストファイルに存在しているため、結部まで目を通していただいた後にレスを記していただけるなら、幸甚です――Apemanさん。