難しい問題


根本的に部外者であるがゆえに、態度としても、きちんと新規のエントリの掲示に拠って対応するべきではあるのでしょうが、現在進行形の事態を鑑みるに、至急的に、過去に記した自己エントリの紹介をもって換える、という手抜きをやります。私もまた引用のうえ言及し、関連してmuffdivingさんも改めてidトラックバックを送ってくださった、いわゆる「ニセ科学」をめぐる議論と、そのmuffdivingさんも別のエントリにて取り上げられている別個の件について、関係するリンクをいくつか挙げます。まず大御所による引用エントリをもって代表します。


ほいじゃ再録 知の構築とその呪縛 - finalventの日記


そしてこちら。下段のエントリに対してトラックバックを送る理由は、以下にリンクする過去の自己エントリが、muffdivingさんがまとめられている本筋の議論とはいささか内容的にはスレ違っているうえ、巡回先のwakamura_youさんのブログにて当該のエントリを目にして一連の議論の存在を私が知り、かつ当該のエントリに対して、さらには翌日の新規のエントリに至る一連のエントリについてもまた、思うところがあったがためです。むろん肯定的な、ことトラバを送ったエントリに対しては「同感!」という意味合いで。


http://d.hatena.ne.jp/muffdiving/20061227/1167196160


http://d.hatena.ne.jp/wakamura_you/20061226/1167105450


そして、過去の自己エントリ。いささか恥を忍んでの再掲であると、断らせていただきます。


公開書簡を受け取って - 地を這う難破船


最小限の注釈を記します。マイミクの方がmixiに記された日記のコメ欄における私とのやりとりを通じて、その方がmixi掲示した「公開書簡」に対して、私が自ブログのエントリにて記したアンサーです。先方のテキストは「公開書簡」も含めて非公開のmixi日記にて記されたものであるため(かつ現在は削除されています)、確認はできません。かつ、非公開のテキストであることを前提して先方のテキストの引用もほぼまったく行わないまま、個別に対応的な見解を記しているため(つまりは当方もまたあくまで「公開」してはいるものの「書簡」を意図していたのですが)、事情というか議論の流れ、ないしスタンスや見解の相違が第三者からはようわからん、という状態ではありますが、特に後半部、私個人の基本的な事象に対するスタンスが明示されていると、思います。たった2ヶ月前といえ、読み返してみれば、それこそfinalventさんが考察されているPVとの相関というファクターが介在して、現在ならもっと別の書き方をしたであろうし、つまりはもっと注意深く厳密に記していたであろう、とは思います。全体的にあまりに飛躍的で断定的で俺様であり、かつ過剰で感情的な浪花節があまりに多い。先方は困惑されたであろうと、今となっては思います。つまりは、まだ当時は私的見解のパブリッシュに際して私もまた迂闊で杜撰であったし、それで許されたということでしょう。そうした筆者のイイワケを前提して、読んでいただけるなら幸いです。ハイライトとしての後半部ないし結部を、長く抜粋的に引用します。(それこそ非公開のmixi日記のコメ欄であるからこそ記せた)ごく私的な身内の事情が関与しているため、記述の背景については、不親切を承知であえて記しません。御容赦ください。

私がなぜ脱力したのか。それは、貴方は読まれていると思うが当ブログの前エントリの記述に関係する。分節していけばキリがないのでおそろしく乱暴かつ簡単に述べる。個々のやり直せない生に裏打ちされた、信念や人間観としての個人的なバイアスこそが、個別的な価値観(の歪み)を構成する。個別的な個々のバイアスをメタレヴェルに置く「普遍」としての公正な方法論への歴史的な合意こそが、貴方が賭ける科学哲学の「正しさ」なのだと思う(つくづく「俺解釈」ですまない)。私も同意する。ただ、さ。


その観点から見て明らかに「正しくない」価値観にも、下部的な規定構造としての個々の切ない生があるんだよ。「正しくない」価値観を構成する個人的なバイアス(という歪み)の、その唯一的な個人性こそが公正性の観点から見て間違っていようと何よりも尊く愛しい、とは思わないのかな。私は性的嗜好において著しく偏向した人間で、そのこととは直接関係なく件の言葉を聞いた。ああそうだろうな、と愛しく笑うさ。書かないが、ママンの個人的な背景を私は知っている。それを尊重する。個人の価値観を「正しい」観点から批判することは、彼や彼女のかけがえのない生の背景を「正しさ」でもって踏みにじることになるんだよ。昔さんざんやった挙句に知ったよ私は、それは最悪の傲慢だと。


個人的なバイアスをメタ領域に置くという「公正な方法論」に誰もが合意しているわけではない。合意させることが善と私は思わない。吉本の言説とは「公正な方法論」の外部にある大衆の尊さに賭ける営為だったよ。離れて暮らすが私はママンとそれなりに仲がいい。確かに同居しているときは苛々もしたが、いまとなっては知的な上下などという僭越な発想があろうはずもない。福祉についてママンに訊けば彼女にとっては日常的な面白過ぎる話が山ほど飛び出す。だから私は底辺福祉の悲惨極まる現実を知っている。貴方の言う、時に知識人でもある大衆とは、そういうことでしょう。それが同性愛を認めないから、彼女の50数年の大衆的人生を踏みにじってまで「正しく」指摘せよと?私もまた理性を信じる者だが、現実的な諸関係においてそれを盲信するのは傲慢というものだ。その種のノーブレス・オブリージュ尊いかも知れないが、あいにく私は持ち合わせない。「方法論的な公正」という認識は社会の全体性を決して包摂し得ないし、それは世界の十分条件をしか構成しないと、私は考える。そして「公正な方法論」は、個人すらもまた包摂し得ない。


私が「真理」という言葉に違和感を持つのは、生粋の相対主義者だからだが、それは「方法論的な公正性」をも相対化してしまう。その代価として、私はいかなる「非公正な」価値観や意見に対しても、その規定構造にまで遡行して一定の敬意を払ったうえで、相対的に面白がってみる。「非公正な」価値観や意見の背景的な固有性を概括化することはフェアじゃないと私は思う。それは、貴方はお嫌いだろうが10年前に『トンデモ本の世界』という書が教えてくれた姿勢だった。なるほど、貴方のフェアネスと私のフェアネスはやはり食い違うらしい。ただし、貴方は違うだろうが私は、貴方が賭けている「方法論的な公正性」という最良の近代的認識が規定したフェアネスに対して敬意を払っていることは、明記しておく。我が相対主義の要諦にして自己倫理とは、いかなる価値観にも発言者の個人性を前提して敬意を払う、ということなのだから。


以上。そしてもういっちょ、一見、上記とはまるで無関係な過去の自己エントリを再掲します。当時のタイムリーな状況においては、前半部の注釈にこそ意味があったのですけれども、現在では、後半部の個人的な「私的見解」をこそ、別に誰と想定しているわけではないのですが、何人かの方には読んでほしい、と勝手に思います。念の為に筆者として明記しておきますが、後半部の「私的見解」については、一義的にはそうであれ、あくまで本質においては、いわゆる「心の病」に限定した話をしているのでは、まったくありません。当該の議論と、そしてwakamura_youさんがそれに関連して記した事柄との、内容的な接点がいくばくかは存在していると、少なくとも私は思っています。


B・Jに宜しく - 地を這う難破船


これも、あえて内容に関する注釈はしません。また結部を抜粋的に長く引用。

私も身体機能における(些細ではあるが)故障や失調をいくつか抱えてはいる。我が生のデフォルトなのでどうということはない。はるか以前に勤めてすぐに辞めた会社の直属の上司が活舌はともかくえらく声の小さな人でしかもどう見ても昔ヤンチャしてましたという御方で、声が聞き取れない新米の私が幾度も聞き返していたため、お前は俺の話を聞く気がないのかゴルァと散々絞られた。良い人ではあったから、少なくとも私の側に聞く気はあったつもりなのです。ゆえに、自分は社会人失格なのだ、とハタチそこそこの青年は日々負い目で一杯であった。その頃は気付かなかった。些細な故障でしかない、別に「障碍」ではないしむろん仕事の場であったから怒られて仕方がない。ワンマンな有限会社でもあったし、実際私はいまだにどこか反応がおかしいらしい。当時の上司が苛つくのも当然ではある。ところで私は友人に対してはしょっちゅう聞き返す。話を聞かない癖があるのもまた事実だな、と自ら笑う。本人に責のない軽度の故障に負い目を感じるよりは、故障を知ったうえで淡々と快活に生きるべきではあろう、というのが私が自ら出した結論であった。――〆


以上をもちまして、今年のエントリ納めとなるでしょうか。追記があるかもわかりません。行きがかりによりWebにおいてはドラマティックな事態と相成った12月でしたが(ところで先程、話題となっている新規の記事を拝読しましたが、オーマイニュースについて私がなにがしかを述べる意思はもはやございません)、皆様、再三になりますが、改めまして、良き新年を――(一礼)。