番外編


更新と御返事がいささか遅れて申し訳ありません。前記の総括エントリ、コメントを書き込んでいただいた皆様に対する個別のレスに対して、改めてさらなるレスをコメ欄に記していただき、切に有難く思います。丁寧に記していただいた挨拶に対してさらなる理屈レスを返してもそれこそ空気嫁という話となるので、こちらこそ、皆様もまたよいお年を、と感謝と御礼と共に本心より記させていただくことにとどめておきます。ただ、2点だけ。もうこちらを拝見しているのか分かりかねるのですが。


罵倒観音(漢音)さん、いえ、そのような意味で記したわけではまったくありません。誤解を与える書き方をしてしまい、申し訳ありませんでした。罵倒観音さんがされたような書き込みは、殺伐としかけてしまうコメ欄の空気を茶々で緩和させる意味(また茶々を入れられて仕方のない内容ですし)でも、管理人の私の頭痛が緩和して気持ちがなごむという意味でも、少なくとも私にとっては、嬉しい書き込みです。罵倒観音さんの書き込みが煽りの類であったとは、私はまったく思っておりません。当ブログは洒落た茶々と突っ込みを歓迎します。ことブログ主に向けられない限りにおいては大歓迎です。罵倒観音さんの目論見、笑いました。そうだったのか!不発であったことは私も悲しいです。


通り過ぎましたさん。驚きました。このような詭弁野郎の心無いエントリが他人様の家庭のクリスマスに貢献していたとは。延々と記してきた甲斐がやはり少しはあったようで、何よりです。17歳の息子さんに宜しくお伝えください。私も某会長のように、心は永遠の17歳、とか言ってはみたいのですが。戻りたくは絶対にない年頃ですけれども、過ぎてずいぶんと経ってしまえば、懐かしくもあるものです。


そして。新たにコメントを書き込んでくださったおふたりの方へのレスを記させていただきます。『シム宇宙』における「議論もどき」の当時から、コメント欄にて拝見しておりました。思うところがありまして、当エントリにおいては固有名詞は記すことなく、一般論的な体裁によってレスを述べさせていただく点、御容赦ください。


・嶺さん


はじめまして。10月の頃から『シム宇宙』における書き込み、拝読しています。ええ、言わずもがなでありますが、おっしゃっておられることにまったく同感です。つい「ネット脳」とか言いそうになりますが、先方からすれば私がそうであるのでしょう。それはそれで肯定しますけれど。後述する別の話題と少しばかりリンクしますが、私個人は原則的に、Webに尽きるやりとりにおいては、現実の社会的な前提を関係性においてむやみに持ち込むことは、ましてそれが(年齢や所属等)抑圧的に機能しかねない場合は、能う限り避けたいと思ってはいます。ただ、先方がそうしたフレームを持ち出してきた場合には、かつ、あからさまにバランスしていない状況で「自分はいかなる背景を持つ相手であろうとWebでの議論においては平等に扱う」とまでは言い切り得るかというと、やはり難しいです。ことそうした「フェア」な言明がかえって状況的には恣意性を有するもの、ないしはそうした対応と受け取られかねない蓋然性が、先例からも存在するもので。


理想的な状態において、関係における現実的な社会性とWebとが切断されていたとして、Webにおける社会性というものは、現実のそれとは別個に模索されなければならないし、そもそも実際的に存在しています。つまり、ごく単純に、お互いの顔も素性もわからない状況において「初対面」の者同士がデジタルな活字のみに拠ってやりとりを行うのですから、摩擦を回避するためにも、現実の会話などよりもはるかに、言葉には細部に至るまで気を遣わなければならないし、Webでのやりとりにおける空気ないし手続きがことさらに、あるいは過剰なまでに儀礼的になるのも、原理において前提的に存在する摩擦係数を常に勘定しなければならないがためです。こと対立的な意見交換を交わすのであるならなおさらに。間合いに気を使って使い過ぎることはありません。


何年も以前からの現実の友人達が集う、私もテキトーなことを書き込んでいる公開の掲示板が存在するのですが、そちらでの言葉遣いや相手のレスに対する対応はみなおそろしくぞんざいで無頓着でいいかげんです。現実の対面的な関係の蓄積が前提として存在し、デジタルな活字のずっと手前で信頼的に機能しているから。ただ言うまでもなく、一見で書き込まれる方はその空気に困惑しますし、現実の友人たる管理人はそうした方面への配慮を基本的にやめたそうです。それは例外であって、原理的な前提として要請される上記の配慮を意思的に突っぱねるのであれば、摩擦係数と負荷を自らが多くコストとして背負わなければならない。これも後述の話と関係しますが、以前、現代美術家岡崎乾二郎が「礼楽の問題」として論じていましたが(『美術手帳』2001年2月号「原宿フラット」)、共同体の習俗とも、ともすればされかねない儀礼とは多く本質においてはプラグマティズムであって、プラグマティズムとは、あるいは問題を回避する方法でしかありません。とはいえ問題を回避する意思がないものと判断される言動を個人が継続するのであれば、問題の介在において当人の責を解除し得るものとすることは、対外的にも原理的にも難しいでしょうね。プラグマティズムの個人的な実施によって節約することが可能とされるコストを、意思に基づき不可避的に引き受けているのであるから。つまりは、意思が試される、ということです。


・1774さん


はじめまして。嶺さんと同様に、10月以降の『シム宇宙』における書き込み、拝読しています。おっしゃっておられる通りであると、私もまた思います。自己暗示というか、意思においてそうであったのでしょう。それを「個別的な関心の所在の問題」「問題設定ないしフレーミングの問題」として処理する私は魂なき空っぽな人非人に見えたことでしょう。そうした態度が人非人であるなら、これもまた、それはそれで私は構わないのですが。

「慈善活動に対しての誹謗中傷」という図式そのものについて議論しているのであるならば、私も音羽さん側につくでしょうし、大抵の方もそうだと思います。


しかし、一連の議論はそうではなかった。議論の「矮小化」どころか、「もともと、初めから小さかった」。人道的な音羽さん、を批判しているのではなく、それこそ音羽さんの文章そのものに対して掘り下げられていたに過ぎません。


ええ、その通りです。「人道としての大義」を掲げたがために、言説化において要請される他なる一切に対して最後まで無頓着であった、他への批判的な主張に際して付随するコストを節約し回避するという発想がなかった、それが「言説化というパブリッシュにおける甚だしい自失点」という故意と過失の一切です。そして、私がかかる点のみを延々とあげつらっていたことを、認めます。繰り返し記している通り「人道」をめぐる側面については、同意します。とはいえ「人道」を問うことは「感情論」を叫ぶこととイコールではない。感情論として人道を問うことは、現実において多く無力です。人道を問うからこそ、議論におけるストラテジーが要請される、人道を尊重するがゆえに、私はそう考えます。現実には、告発批判者全体の株を下げることしかしていなかった。><さんがおっしゃった通り、現実として説得者の態度(=品性)が説得の効果に影響を及ぼすのです。罵倒家が人道を説いても、それは効果がない。少なくともそれは、コストを前提する行為です。コストに対処する、タフネスはともかく能力には欠けていたのでしょう。かつコストを節約ないし回避するという発想もない。あるいは拒否している。

これほどまでに音羽さんが自己の非を認めてこられなかったのは、極めて個人的な見解ですが、音羽さんに対する誹謗中傷が心なき方々により行われてきた事も一因ではないかと思います。私がこれまで見てきた中には、人格否定ともとれる本当にひどいものもありました。


ええ、その点についても、個人的には同意します。「ネガティブキャンペーン」が、つまりは機に乗じてのためにする批判ないし揶揄が、現実になかったとは言い切れないでしょう。私は、5日付のエントリのコメ欄において、音羽さんの書き込みに対して最初に記したレスの中で「私は公的に「炎上する側にも責任がある場合がある」とは言いません。」と記しました。それは私個人の原則的な意思として現在でも変わりません。思わない、ということではありません。公的にWebにおいては言わない、ということです。発言することの意味と機能について知っているからです。かつ、プラグマティズムないし世間知というものは正論のごとく公言する類のものでもない、と私個人は考えるためです。とはいえ、以上記してきた通りに、かつ(私が一端について把握した)膨大な過去の経緯の存在を勘定しても、13日付のエントリにおいて記しましたが「「そうした領域に望んで足を踏み入れている」という事実が存在するだけ」であろうと、この場合は考えます。「私怨」やら「個人的ないさかい」やらとはまったく別個に、原理的かつ現実的に考えて、長期的な行為が帰結する結果としてやむを得ない、ということです。つまり、本人の継続的な意思ないし意思的な欠落に大半を帰し得る問題に過ぎない、ということです。主張的な内容の、はるか以前の問題として。


つまり「誹謗中傷」が行われたとして、それは当該の記事に関係した事態においては「2ch批判をオーマイニュースにおいて公的に行った」こととは一義的には関係がない。主張のセンセーションが現在に至る一連の状況を発生させたことは事実ですが、センセーションしかない主張を一般的には釣りと言い、釣りが批判的な反響を多く呼ぶことは、やむを得ません。ごく単純に、他を批判すれば自らもまた批判され得るし、罵倒屋が罵倒をもって報いられることは当然のことであり、無礼には無礼をもって対応されることは、当事者たる管理人としてもやむを得ないと考えます。いささか殺伐とした相互的なフェアネスであって、それゆえに、バランスという相対的な均衡と、対他に準拠した倫理を模索する動きないし選択肢もまた、困難とはいえ存在するのですが。私はそうした志向には、部分的には賛成します。


『シム宇宙』経由での来訪、そして丁寧な書き込み、ありがとうございました。皆様、改めて、よいお年を。