音羽理史さんに向けて


お待たせしました。まだ「続ける」余地がありそうです。じきクリスマスですが、男友達と『硫黄島からの手紙』を観て終、という始末になりそう。音羽理史さん、私に対しては、比較的丁寧で冷静な返答、ありがとうございます。しかし他のコメンターの方達に対しては……sakimiさんが多少「意地悪く」貴方に対して指摘されているのは、過去の経緯からいっても当然のことですよ。かつsakimiさんは、少なくとも私から見れば、内容的におかしな指摘をされているとは言えない。およそ政治的な話題を取り扱う(ROMに限らない者としての)「ねらー」は現在の貴方にとっては一律「2ころ」に過ぎないのかも知れませんが、こちらのコメ欄において、どちらが妥当性を欠く言を記しているかといえば、言うまでもなく歴然と貴方の側です。かつ、sakimiさんは貴方同様に自ブログの所在を明確にし、自ブログのコメ欄に寄せられた、それこそ「書き捨て」的な批判に対してもちゃんと個別的に対応している。むろん、10月の段階における貴方の「指摘」に対しても。


そして、なぜ貴方は><さんとドクターさんに対してかくも攻撃的になるかな。管理人として評するなら、そういうのを「狼藉」というのです。本来、私に対して記された貴方のレスに対してのみ答えるべきであって、個別的なコメンターの方達による書き込みへの貴方のレスに対して私が返答するのは「横槍」になってしまうのでしょうが、どうやら><さんもドクターさんも(というか当ブログに限ってもこれまで複数の方が)応答意思を失い匙を投げられた(まったく無理もない当然のことです。管理人として音羽さんの無礼と私の至らなさをお詫びします)ようですし、かつ私は管理人としては一応「調停的」なスタンスからエントリを記しているつもりではあるので、前記エントリのコメ欄にて音羽さんが私以外の方に対して記された書き込みについても、総ざらえ的にフォローして返答します。前口上も手短に切り上げますが、ひとつ。数えてみたところ、前記エントリをもって、音羽さんへの言及エントリはちょうど10エントリ目に及んでいました。Webにおいては、音羽さんで暮れる年末のようです。いったい音羽さんをめぐって何万字(たぶん本当にそのくらいは書いている)費やしたやら……行きがかりとは不可思議なものです。


長いお返事 - 地を這う難破船

> 「貴方のやった批判」とは、上記の理由により明確にはわかりかねるのですが

『「馬鹿」「死ね」と相手に向かって直接記す「公正な論評の自由な権利」が存在するのであれば「電波」と記し「キチガイ晒し」とタグを付ける「公正な論評の自由な権利」もまた存在しますしかつ貴方はそれを甘受しなければならない。』
「「電波」と記し「キチガイ晒し」とタグを付ける」こと自体を批判した覚えがないということですが。


> 第三者的な他人のブログのコメ欄で、自らが揉めた別のブロガーに対する「批判的感想」を(当のブロガーが読むことを前提して)記すことは、単純に迷惑なのでやめたほうがよいです。

貴方が持ち出してるんでしょうが。


あ、そちらのことでしたか、御丁寧に過去の記述の検討を仔細に行ったあげく他人様のブログにエントリへの言及すらないトラックバックを飛ばして貴方の発言を参照してまで長々と説明してきた一切は単なる勇み足の的外れであったようですね。失礼しました。「「「電波」と記し「キチガイ晒し」とタグを付ける」こと自体を批判した覚えがない」その通りですよ。muffdivingさんのブログのコメ欄における貴方の発言にそうした内容が含まれないことは前後の関係からいって明らかであるから。貴方による当該コメントの削除とは関係がない話です。明示しましたが。ところで「私が持ち出した」とのことですが、またしても物事の筋道を確認しましょうか。過去の対応記述とそれに対する貴方の書き込みの引用。長めの引用になりますが、その要があること、御理解ください。


「壁」の向こうの風景 - 地を這う難破船

NC-15 - 他者をDisるときはDisるための裏付けがなければ話にならんと思うが

こちらのコメ欄における音羽さん=gerlingさんの複数のコメントが、数日前をもってすべて削除されています。言うまでもなく、悪い意味で話題を呼び「受賞」以後コピペされ各所に貼られまくって知れ渡った書き込みの数々です。魚拓も取られていることでしょうが、全削除によってコメ欄の流れが今となっては再確認として把握できない。もし間違っていたら(管理人氏が消した等)土下座しますが、音羽さんが自ら削除したのですよね。むろん自由です。当該コメ欄の関係者であればともかく、少なくとも私が論難し得るような事柄ではない。ありませんが、すべてを削除したということは、自らの振る舞いを恥じておられるのですよね。

いや、ネガティブキャンペーンに使われたので、そんな人たちのためにわざわざ参照できるような状態にしておくこともないかな、と思ったので消しました。
特に恥じることはないですね。話にならない人と無駄なことをしたってだけで。


文系が記す - 地を這う難破船

はっきりと記しておきますが、muffdiving氏ら当該「議論もどき以下」(貴方は「議論」自体の意義を認めていないのだからこう記して構わないでしょう。私はそのことを無条件で批判するものではありませんが、それについては後述します)の当事者が貴方の「受賞」に関して、貴方のコメ欄における発言を引用のうえで批判エントリを掲示し歴とした怒りを個人として再三表明したとして、それはまったく妥当かつ至極当然のことです。というか、貴方の「暴言」はmuffdiving氏達に直接投げつけたものなのですよ。それも氏のブログのコメ欄にて再三。「暴言」について氏が腹を立て批判を継続するのはあまりに当然のことです。


貴方は小倉秀夫氏のブログのコメ欄において、自らの(確信犯的な)「暴言」について「公正な論評の自由の権利」と主張していますが、その旨について同意したとして、ならかかる「権利」を他の者が行使する自由も存在します。「馬鹿」「死ね」と相手に向かって直接記す「公正な論評の自由な権利」が存在するのであれば「電波」と記し「キチガイ晒し」とタグを付ける「公正な論評の自由な権利」もまた存在しますしかつ貴方はそれを甘受しなければならない。というか、強弁とは思いませんか。「貴方がそうした領域に望んで足を踏み入れている」という事実が存在するだけではないのでしょうか。別にそのことに意見する気も筋合いもありませんが。「話にならない人」というのはmuffdiving氏のことですか。貴方の評価もまた自由です、自由ですがたとえ貴方の本心であろうと他のブロガーに対する批判的感想(というかDis)をこちらで記すことは控えていただきたい。fw0さんがトラバされたのもそうした貴方の行為に対する指摘を含んでいます。

語彙の少ない人だな、と言ったことがありますが、別にそのこと自体を批判した覚えはないですね。
問題は論評が公正であるかどうかです。
「生理的」に「馬鹿ポモ死ね」というのは当然公正な論評ではないですし、「精神に異常をきたしてるとしか考えられねえから、ヤケ起こして幼女を襲う前に〜」云々に論評の入る余地があるのかというとそうは思いませんが。


と、いうことですが。『NC-15』におけるコメント削除の件を「持ち出した」のは確かに私ですが。そして、私は貴方に対して、自らの「論評」が公正であると思うのか、muffdivingさんの「論評」を公正でないと貴方がするならば、かつ、ならなぜそれらを削除したのか、と一貫して訊いているわけですが。つまり貴方が言われる「公正な論評の自由の権利」とは貴方の主観にのみ基づいて使用される概念であり、対外的にはバランスを失しているものと受け取られ得るのではないか、と指摘していたのです。回答は聞きました。ですから回答を伺った後に「貴方が主張される主観的な正当性については了解しました」と記したのです。構いません。「主観」は人の数だけあります。「「「電波」と記し「キチガイ晒し」とタグを付ける」こと自体を批判した覚えがないということ」であるなら「貴方の「暴言」はmuffdiving氏達に直接投げつけたものなのですよ。それも氏のブログのコメ欄にて再三。「暴言」について氏が腹を立て批判を継続するのはあまりに当然のことです。」という私の記述に対しては同意されていたわけですね。なら構いません。てっきり当該記述に対して「異議」があるのかと思っておりました。誤解してしまい申し訳ありません。


「公正な論評の自由の権利」は誰もが持ち合わせます。「死ね」と記した後で削除する自由も。それも「言論の自由」の内なのでしょう。私は「公正な論評の自由の権利」の相対的に妥当なバランスの所在について貴方がこだわられているのであろうと思っていたので。なら貴方がいまだに「話にならない人」「銭の亡者」「そいつら」と先方を形容されているように、muffdivingさんが今なお「キチガイ」「電波」「ガキ」と貴方を形容されることも相方当然に自由である、という原則は踏まえておられるのですね。形容の内容における相対的な妥当性についての検討を行う意思もまた、貴方にはないようですので。その点についても誤解しておりました。公開されログが残っている以上、以降は第三者による印象の問題であって、それは「ネガティブキャンペーン」とはまったく関係がありません。削除されたログの存在が「第三者による印象」に影響を与え得ることは、当然の話でありますが。


貴方に「パブリックな言論空間における倫理性というバランスの模索」という概念がそもそもないことは、よくわかりました。かかるスタンス自体が、貴方が最大級に軽蔑している「2ころ」とやらと、何が違うのかわかりかねます。まさに匿名実名の相違のみです。貴方は本当に、自己の実名性に「のみ」発言内容の責を置いておられるようですね。しかしその点を除くなら、貴方が発言に臨む際のスタンスそのものは「誰もが言いっ放しでよい自由」という、貴方が軽蔑する「2ころ」の発想とされるものと同一です。自覚のうえでの「無鉄砲」ではあるのでしょうが、現在ではその部分的な硬直性ともされる点を限定的に批判されてもいますが、既存のエスタブリッシュな(悪い意味ではない)ジャーナリズムが公的には模索してきた「公共的な言論における倫理性というバランス」という価値的な「コンセンサス」とそれに対する(私ですら踏まえている)尊重と敬意を、貴方は認識も考慮も前提もしていない。


それはオーマイニュースもまた鳥越俊太郎氏も、公的には前提として踏まえかつ現在も「既存のWeb」において試行錯誤のうえで模索し続けている事柄ではあるでしょう。オーマイニュースの、いや鳥越氏の近来の発言から汲み取り得る問題点について私個人が指摘するなら、公共性を公的に志向する商業ジャーナリズムにおいて(功罪あれども)模索されるべき「公共的な言論における倫理性というバランス」の一切を、実名性ないし実名「主義」によって「のみ」担保しようとしているかに見える点にある。そして、かかる意味で現在の貴方が示している態度ないしスタンスと鳥越氏の発言に見られるそれとは、いささか相似しています。

> 「自身にとって都合が悪い自らの発言は削除し、そうでないものは残し、そのうえで自己の『公正』を主張する」と対外的に判断されてやむを得ない振舞いではあります。

無意味だったから消しただけです。知らぬ存ぜぬと言っているわけではないでしょう。


いや、ですからそれは了解しました。むろん貴方には自らの「意図」ないし「真意」を開示する権利がある。自身にとってはやましい点なきことも。それは認めます。ですから、結局のところセックスブロガーのごとく格好良くなれない私達は自らの発言や行為の「意図」「真意」について開示することになるのです。自己に向けられた誤読や誤解に棹差したくなるのであれば。それは貴方のそしてあらゆる発言者にとっての当然の権利でありますが、決して義務とは私は思わない。記しましたが「応答責任」なるものを私は他には要求しない。


以下、私以外の方に対する貴方のレスへと移行します。あくまで私個人による対応的な見解の表明ということであって「代弁」とかではありません。そもそも本件の関連エントリにコメントしてくださっている方達は、当然の原則として匿名wさんのように私の見解に対する個別的な異議も突っ込みもあるでしょう。同じ人間ではないうえに、私に不案内なことも多くあり、そもそも私はアカデミズムに疎いうえ主観的かつ観念的な人間であって、であるから貴方にかろうじて言葉を届け得てはいるのでしょうから。まずは、ドクターさんの書き込みに対する貴方のレスについて。

>今の状態でどっちだ?といわれれば判定はgrayだと思います。

何が、ですか?


> 今の状態でどっちだ?といわれれば判定はgrayだと思います。

貴方はそう思ったのか知りませんが、ぼくはそうは思わなかったし、そう思わなかった人たちをぼくはたくさん知っているし、鳥越俊太郎ですらそう思わなかった。それで貴方たちは誰を説得できたんでしょうか?
何かひとつでも怪しいと思う点があったなら、説得できるようにやってみれば良い。貴方の口から具体的なことなど何一つ聞けていません。


> 救う会の方たちは応えるもしくは証明する義務はないにせよ、『貶める』考え方が生まれることに対してはそれを否定することは出来ない状態かと思います。

だからといって、匿名でわめき散らしていいということではありません。こうして、匿名の貴方とぼくがブログで話すこと、それはとても矮小なことだ。
でも、「社会」に呼びかけようとするならば、「矮小なこと」では済まない。責任を持つべきなんだ。
貴方も「職業倫理」を背負うなどとかたるのであれば、せめて実名くらい出してみなさいよ。
貴方にはまったく社会人としての責任の所在が感じられない。


以上引用のうえ、レスの冒頭部を最後に。

>どちらの陣営も証明は出来ていないのですが?

どちらの陣営も、というのはどういうことなんでしょうか?
ぼく対貴方だというならそれはただ矮小なだけだし、救う会対ネットでの批判運動だというならそんなのただのネットの見すぎだ。


違います。そういうことではありません。告発者対被告発者ということです。貴方は一貫して告発者の非当事者性を前提とした資格の欠落を述べ、一連の告発における正当性/正統性の不在、告発者の不適格性について指摘していた。全面的には同意しませんが、そういった事柄を問うのであれば、と仮定するならその点、私個人は認めましょう。ですから、というよりも原則として、私的な告発において被告発者が告発に応える「義務」はありませんし、告発に応えることを「強要」するべきではない。怪しいと思うなら募金しなければよい、とごくシンプルに考える人間の存在について、理解はします。


それは単に個人において関心の優先順位が低いだけのことであって、関心の所在が個別的である以上、そう思うことは自由ですが、思うだけであるならともかく、それをそのままブログ等にパブリッシュしたなら、関心の優先順位が高い人間から当該意見における不備について指摘される蓋然性は当然、存在します。そして、それに対しては、明白な事実誤認や認識違いについては別として(指摘に感謝して訂正すればよい)、関心の所在の問題ないし所在する関心のパブリッシュにおける個人の選択の問題だ、と答えればよいのであって、他人の個別的な関心の所在ないし関心の優先順位について「下衆の勘繰り」である、などと個人に属する倫理的な位相から概括的かつ頭ごなしに非難し全否定するべきではない。当該の記事において、貴方が被った批判の内実とは、多くこうした事柄です。例の件に関しては、貴方に限ったことではないですが。言うまでもなくこうした事柄は、まったく「些細なこと」でも「矮小」な問題でもない。結論的に申せば、貴方の認識はあまりに偏狭です。


戻りますが、ですから例の件に関して、被告発者の側が告発に対して応える「義務」が存在したとは、あくまで私個人は、ということですが、思いません。私個人は「応答責任」に限らず「責任」という言葉や概念を他に対して振り回せるほど「責任」概念に私的にコミットしている人間ではない。つまりは無責任男、というかそうありたいな、と思っているのですが。しかし、それと同時に、告発者が告発ないし「検証」を各自行うことも当然原則的に自由です。法的事態が告発ないし「検証」に際して介在しないなら。そして告発行為に存する「問題点」を批判的に指摘することも、かかる瑕疵ないし欠落に基づき告発者を批判することも、個人に属する倫理的観点に基づいて「行為」の「意図」を非難することも、当然自由ですし、またそれに対するレスポンスが発生することも、かつ貴方個人が「応答責任」という概念に「同意しない」ことも、自由であると私個人は考えます。


貴方が当該記事において行ったこととはいわば「告発者に対する告発」です。告発とは相互的であって当然平等に自由です。この場合の「告発」とは「内部告発」等とは異なる以上、外的な「検証」に準拠した「批判」といわば同義でもあるから。そして付記するなら、これは「代弁」ではなく私の個人的な判断ですが、ドクターさんもまたこうした事柄は踏まえておられると思います。そう以下の書き込みから判断させていただきました。

救う会の方たちは応えるもしくは証明する義務はないにせよ、『貶める』考え方が生まれることに対してはそれを否定することは出来ない状態かと思います。


踏まえたうえでそれに同意するかはまったく別ですが、かかる前提を踏まえずに同意しないこととそれはまるで異なる。というよりも、当時そうした原則を踏まえない感情的な言が告発者の側においても告発批判者の側においてもあまりに横行したがゆえに、fw0さんのようなスタンスが支持を受けた、いや、少なくとも私は支持したのです。


ところで告発行為に存する「問題点」として貴方が記事において指摘した点における明白な誤り(=誤情報の発信)について、それこそ『シム宇宙』であれ『NC-15』であれsakimiさんのブログであれ当該記事の「ひと言」欄であれ、貴方はこれまで散々指摘を受けているわけですが、貴方はその点についてまったく認めることも訂正することもしておらず、自己の主観的な正当性のみを主張しておられるわけですが。告発ないし批判とは常に相互的です。告発者の主張に存する「具体的な問題点」として批判的に指摘した貴方の記事の当該箇所に存する明白な誤りについて批判的に指摘された方に対して、貴方はあまりに頭の痛い対応をされてきているわけです。


なお貴方の記事に存する「明白な誤り」について「根拠は?」と貴方はまた言い出しかねないので(さすがに私も「うんざりしている」)記しておきますが、そうしたことはまずfw0さんとmuffdivingさんとsakimiさんと当該記事の「ひと言」欄にて指摘をされた方達に「応答」してからにしてください、とは言っておきます。「根拠提示」と「応答責任」という概念に同意しないことは私は構いませんが、である以上他にそれを要求するべきではない。というかみなほぼ同一の事柄を提示しているわけです。以降は前述の繰り返しです。


いや、やはり記します。貴方が当該の記事において「具体的」に指摘した事柄とは、告発における「批判」の前提とされている外的な「検証」の不完全性についてです。その不完全性について「具体的」な例証に拠って貴方は指摘し批判した。そして、その「具体的な例証」における誤りと瑕疵について貴方は複数の人間から「例証」「根拠提示」に基づいて指摘された。貴方はその「例証」「根拠」についてことごとく否定した。基本的にはソースの「不完全性」を指摘することによって。それは、少なくとも「説得的」に機能する否定ではなかった。今となっては当然のことであって、貴方が示した「具体的な例証」とは、つまりは根拠となるソースの「不完全性」、要するに「具体的な例証の不在」を指摘することによって、当該告発における「批判」の前提とされる外的な「検証」の不完全性について指摘し批判することが記事の主旨であったのであるから。かつ、それに尽きているのですから。むろん構いません。


貴方が批判を意図した対象とは、「批判の前提」とされている(貴方が「異端」にして「非社会的」とする)コンセンサス自体と、それを無批判に自明な準拠枠としたまま、他への批判と告発に「明け暮れる」者達であった。それゆえ貴方の記事は当該告発において「批判の前提」とされている「具体的な例証」の、その不確実性と「根拠の不在」について指摘し批判することにとどまる内容であった。貴方はやはり、コンセンサス自体の不完全性と非自明性、およびそのことに無自覚かつ無批判なまま既成の「非社会的」なコンセンサスに準拠する者達への批判意思を一貫して抱いている。そしてかかる貴方のスタンス自体は現在に至るまで一貫して変わっていない、と。ほぼ正解でしょう。御要望通り素人のエセ抽象論はやめました。


貴方が新規の書き込みにおいて自己の当該記事にこだわられていた理由を理解しました。照準が絞られ明確化していく。ここまで遡行しないことには、物事の順序自体が把握できない。結局のところ、貴方は、あくまで当該の記事について、ですが「わかってもらえていない」「伝わっていない」ことを不本意に思っている。その忸怩たる思いについては本心から了解しましたが、とはいえ、これは貴方が悪い。以上の、というか一連の私なりの不充分かつ不完全な「整理」によって初めて「腑に落ちた」人達はあまりに多いであろうと、私は確信を持って言えますが。ですから、誰も読み取れないし汲み取れないのです。私のような酔狂者ですら、これだけ頭をひねり続けてようやくおよその最終解に到達したのであるから。それも、現状においては当該の(初発)記事に限定した体で。貴方に関しては、申し訳ないながら、またしても「代弁」というか「翻訳」を図ってしまう。貴方の言説は、いや少なくともこちらも含めた方々のブログにおける書き込みの一切は、「翻訳」の作業を必要とします。さもなければ荒れ模様を帰結すること請合いです。管理人としてそれは困るから、こうして長々と「翻訳」作業を続けているわけです。それが「バカの壁」の解明作業になるとも信じて。


自らの言説、すなわち「記述された文章」自体について「(字義的に)わかってもらいたい」「伝わってほしい」とするのでもしあるなら、最低限「伝わる」ように書くことです。事後的なフォローをでき得る限り要さないように。「伝わる」ようには(意図してなのか)表現しないままにオーマイニュースという「公的媒体」に掲示し、その後の反響に対しておよそ最悪と言い得る「フォロー」をして回っていたなら、誤解と反感が増殖する一方となることは自明の理です。todeskingさんのブログにおける「ここまで伝わらないものなのだろうか」という自己記事での記述に対して「フォロー」しての「あれはレトリックです」という言は、やはりアイロニーによるものでしたか。貴方が13日付エントリのコメ欄にて、

ぼくも短くして、分かりやすくする作業は嫌いだが、読む当人の根気を前提にしてるなら読んでるひとを選んでると言うことになる。貴方は誰に向けてブログなど書いてるんですか?


と私に対して問うていたその意味を、ようやく了解しました。やはり自問でしたね。私も貴方に対しては不明であった、ということでしょう。そして再引用ですが。

でも、「社会」に呼びかけようとするならば、「矮小なこと」では済まない。責任を持つべきなんだ。
貴方も「職業倫理」を背負うなどとかたるのであれば、せめて実名くらい出してみなさいよ。
貴方にはまったく社会人としての責任の所在が感じられない。


音羽さん。頭に血が上っていたのかわかりませんが、まず私が16日付のエントリにおいて難じた事柄について対応的な見解を提出してから既知の言を記してください。よいですか、貴方がおっしゃっていることはまったく逆です。貴方の言に準じたとしても、「『職業倫理』を背負う」(「などとかたるのであれば、」とおそろしいことをおっしゃっていますが、「職業倫理」と記したのはあくまで私であって、そのことに対してドクターさんは何も記してはいません。ことさらに否定されなかっただけです。かつ「背負う」とは私もまた記していませんし、別にドクターさんが「『職業倫理』を背負って」こちらにコメントしている、つまりは貴方に対応しているわけでないことは、わかることです。このように、感情的になった貴方の発言は、瑕疵だらけで指摘する気もなくなる)からこそ「実名くらい」が出せなくなるのです。ごく簡単かつ通俗的に言って、失うものがあるかないか、ということです。「実名くらい」と言ってしまえる時点で、現在の貴方が「失うものがない」、すなわち「意識において社会的な文脈に組み込まれていない」「非社会な存在」であることを示しています。自己の「実名」に社会的な文脈と文脈的な価値が付随していることを、意識に置いてはいない、ということです。語るに落ちた、わけですが。付随している、と意識されてはいますか、オーマイニュースの「受賞記者」として。


補足的に申し上げますと、逆に、「実名」に社会的な文脈と文脈的な価値が付随しているからこそ「実名」をもって言説を発信するべきだ、とする立場の存在について理解はしますが、そうしたスタンスを取る者であろうと、それこそたとえば鳥越氏であれ「実名くらい」とは口が裂けても言いません(まして氏は「実名」という看板を張って商売しているのであるから)。かかるスタンスを意識する者は「実名」に付随する社会的な文脈と文脈的な価値を言説発信における担保的な条件として肯定する以上、他人の「実名」を軽んじることはない。それは他人の「実名」に付随する社会的な価値と、その所属する社会的な文脈自体を軽んじることになるのであるから。「実名くらい出してみなさいよ。」と言い放つ貴方は、おそらくはオーマイニュースも前提としているであろうはずの「実名開示」の社会的な文脈を前提した価値的な重みについてすら、一切理解も認識もしてはいない。ま、社会性については私もあまり人のことは言えませんが(だからこうして貴方の相手をしている)、「社会的な責任の所在」を自覚するからこそ、Webにおいて不特定多数に対してなど「実名」を記して晒せない、という「大人の常識」くらいは踏まえていますよ、まして、通りすがりEさんが指摘される通り、こと貴方に対しては。


3月の件については立ち入りませんが、いかなる経緯があろうと一般論として、ブロガーがWebでの活動においては明記していない実名を再三自ブログにおいて記すのはどうかとは、思いはしますね。たとえ影響力のある方であろうとも。以上は常識の範疇ですから。言わずもがなの自明について念押しで指摘しておきますが、貴方がドクターさんに対しておっしゃっていることは、非常識極まっています。かつかかる「非常識」とは、Web以前の「社会」「職業倫理」「社会人としての責任の所在」としての「常識」に属する範疇の事柄です。すなわち「社会的」な非常識です。貴方が「社会」「責任」と連呼するほどに貴方の非社会性と無責任性が浮き彫りになっていく。


言っておきますが、私は貴方個人の個人性における自身の「実名」開示に対する自負について認め納得はしましたが、貴方の自負を他に強制する越権について是認した覚えはありません。現状において、「実名」開示に対する貴方の自負とは、失うものなき者の自負としか読み取れません。言説の内容に、かかる自負が生産的な形で反映されてはいないと判断しているためです。「実名開示」の(貴方の個人的な自負とは異なる)社会的な文脈を前提した価値について貴方が認識しているとは思えない。医師とかかる価値的存在が所属する社会的な文脈自体を貴方が軽視している、というか認識していないことはよくわかりました。医師という存在の価値を貴方が軽視している、少なくともそう判断されてやむを得ない、ということです。先に記しておきますが、ドクターさんが医師であるとあなたが認めなかったこと自体とはこれは関係がない。

> 2点目は医学的な知識が無い状態でこうした議論の流れに持っていってしまった点でしょうか?

何度も言ってるとおり、貴方に医学的知識があるだなんてぼくは思っていません。


とりあえず、あらゆる医療関係者が一連の貴方の発言に目を通して「舐めとるのですか」と思っているであろうこと、その蓋然性の存在については指摘しておきます。それと、あまりのことゆえ別の場所にてドクターさんが指摘しておられましたが。

> ><さんも述べていますが、マイナーな雑誌の論文なぞ、メジャーな雑誌の前にはあまり意味のないものです

ちょっと意味がわかりかねますが。まあ日本の医学界というならやはり洋論文よりは和論文を読んだほうが早い。


「まあ」じゃないでしょっていうの、私にとってすら頭痛とともに瞭然のことですよ。以前もコメ欄にて似たようなことを書き込んでおられましたが、私も不案内ゆえ確信がなくそのときは触れませんでしたが「やはり洋論文よりは和論文を読んだほうが早い」って。それでよく「まあ日本の医学界というなら」などと自信満々に言い切れるものです。意味がわかりかねるのはこっちだっていうの。言葉遣いがぞんざいになって申し訳ありませんが、失笑ものの発言であることは伝えておきます。「日本の医学会」を貴方が舐め腐っていることも。13日付エントリにて私が記した一切を忘却しましたか、「釘を刺した」つもりであったのですが。造語めいた誤表記以前に根本的な認識の問題です。僭越も大概にしたほうがよい、ということです。ドクターさんが再度匙を投げるに決まっています。


音羽さん、私は大学出ていないのですよ。ですからアカデミズムの専門的な事項については多くちんぷんかんぷんです。それでも無理して記しています。とりあえず貴方の一連の発言はすべての「日本の大学生」に対する侮辱であり愚弄であり「ネガティブキャンペーン」ではないかと、私は思ったりしますが。「学部4年」という><さんが真面目に腹を立てるのは、まったく当然のことです。一点だけ申し上げておきますと、もはや貴方の医学に関する発言は、誰にも省みられない状況にあります。発言権がない、ということです。発言権を全壊させたのは御自分です。世の中はそう親切な人間ばかりでも酔狂な人間ばかりでもない。それと、もう引用するまでもないのですが。

><さんが記者登録したということですし、こうした議論に対して専門的な知識を持ったまともな意見が出てくるのではないか?と期待しています。

くだらない。


オーマイニュースまで斬りますか、もはや知りません。私もまた、><さんの御活躍をドクターさん同様期待しています。以上と関連する話ですが。

>1点目は「記者としての記事」であった点

意味がわかりかねますが。


音羽さん、なぜ私がしつこいまでに価値判断に際して「私個人は」と繰り返し注記し続けているかわかっていますか。いわゆる「価値相対主義者」として、私の見解がそれこそ多く主観的であり「異端」に過ぎないことを、貴方に対する評価に関して私の見解に異を覚える多くの方達に対するエクスキューズとして、あくまでこれは私見に過ぎないと、しつこく断りインフォしているのです。貴方の一連の言動に対する「評価」「認識」のうえで、私のスタンスは多く自らの価値観に拠った「マイナー」なものでしかないことを私が意識していること、その都度明示する要があったがためです。むろん貴方に対しても。


その最たる事柄が、貴方に対して「記者」として云々とは私個人は言わない、とする点です。かかる個人的な判断ないし評価における前提を私が繰り返し記したがため貴方は何か勘違いされたようですが、「記者として云々」は、私以外の人間であるなら指摘のうえ批判して当然の事柄です。私の判断がそれこそ「非社会的」であるのです。貴方が最初にレスしてきた私の5日付のエントリに記したことを覚えておられますか。仕方がないので、またやや長く自己引用します。


「受賞」をめぐる発言に目を通しての雑感 - 地を這う難破船

上述したが、私はオーマイニュース自体に発足時も現在もさして関心がない。つまりは期待していなかった。ワッチの対象ですらない。であるから「オマニー」やその編集部を、あるいはその「傾向」を批判する意図も筋合いも資格もない。私が批判したのは鳥越氏による「編集長賞」の授与とその「講評」に見られた氏の個人的な恣意の存在についてであって、それ以上ではまったくない。放言するなら、そもそもオーマイの「賞」とはいかなる名誉であるのかそもそも私個人はわかりかねるのであるが、それはオーマイの全関係者に対する部外者による半畳であり非礼であるから、公的にそのような観点から批判するわけにはいかないし、批判としては成立しないものでもある。


私がワッチしていたのは「死ぬ死ぬ詐欺」騒動に関する事柄に限定される。音羽氏はそれに言及した当事者であった。私もいくらかは言及した。であるから「オーマイの市民記者である音羽理史」と意識して認識したこともない。ゆえに、その投稿内容ないし振る舞いは「記者」としてどうよ、とは私個人は批判しない。ただし本人が「記者」として所属する「オーマイニュース」の団体としての公式的な姿勢からは逸脱した言動であろうな、とは思う。とはいえ私は「オーマイニュースの団体としての公式的な姿勢」を支持しかねる部分があるので、その観点から「逸脱者」を批判する気はない。


音羽氏は「市民記者」という概念や「音羽記者」と自らが呼ばれることそして自らに「オーマイニュースの市民記者としての責」を求める意見に対して再三違和感を表明しているが、それを私はわからないでもない。かかる違和を再三表明している本人が「市民記者賞」を受賞したことこそが、本件の最大の皮肉である、とは思うし、私が妥当と考える批判者の指摘もまたその点に準拠している。元ねらー云々という批判は鳥越氏の恣意にこそ問題があると私は考えるが、「オーマイの市民記者」というアイデンティティを自らに対して認めず、そのことを言動によって証明している所属としての「記者」が「市民記者賞」を受賞した点は、批判されても仕方がないかな、とは思う。私は頼まれても「市民記者」など務める気はないし、先方としてもお断りであろう。で、この矛盾にこそ音羽氏の問題意識が反映されているのであろう、とは思う。


よいですか、私が貴方に対して「オーマイニュースの市民記者」として云々とは言わないのは、私がそもそもオーマイニュースに関心がなくオーマイニュースが公的に志向している情報発信の姿勢に対してまるで同意もできず価値的に共鳴し得ない、はっきり言うなら、個人的には価値的にまったく評価もせず認めてもいなかったためです。現在のオーマイニュースが公的に提示しているとされる「理念」に対して、個人的には言及どころか意識する気にもならなかったということです。つまり結果されるのは無関心です。嫌韓絡みによって敵視されWatchの対象となっていたのかよくはわかりかねますが、要は私はそのこともわかりかねるくらいの無関心であって、無関心とは反撥以上に心無い態度であるとは思います。そして意識において自省してはいるため記すことは自粛していましたが、つまり私は「オーマイニュース」という団体ないしメディアに特権的な価値を認めずその「市民記者」というスタンスとそのスタンスに基づいて記された「記事」に対してもなんら特権的な価値を認めてはいない、ということです。無関心と無知に基づく偏見であることは認めます。ですから記しませんでした。


特権的な価値を認めない、とはたとえ「実名」記事であろうと編集部による審査があろうと、市井のネット言説とその発信者と同様の一律的な判断をしか価値において前提的には認めない、ということです。むろん無関心と無知に基づく偏見でしょう。ですから私は、特に貴方が書き込んで以降はオーマイニュース自体については言及しなかった。つまり、私個人が貴方に対してオーマイニュースの市民記者として云々と質すことがないのは、以上の事柄と表裏、オーマイニュースに、ひいてはその「市民記者」というスタンスにそもそも価値を認めないがためであって、私個人が価値を認めないものに対してその所属的なスタンスの欠如を「倫理的」に問う理由があくまで私個人には存在しなかったため、つまりは私の無関心と無知に基づく偏見を前提とした認識と判断を理由とするものであるということ、理解されていますか。


しかるに、オーマイニュースというメディアに、ひいては価値的に志向されたネットジャーナリズムに一時的にも可能性を見出し、「市民記者」というスタンスに対して価値を置く人達が、貴方に対して、オーマイニュースに所属する「市民記者」としての資質を問い自覚を促し、かかる事柄に準拠して批判を行い、ネットジャーナリズムとそれが志向する価値に対しても「市民記者」というスタンスとその価値に対しても一切省みることなく「オーマイニュースの市民記者」でありながら侮蔑的な姿勢をしか示してこなかった貴方の「受賞」に対して、怒りの声を上げることはこれはまったく当然のことです。つまり、fw0さんら「シム宇宙」にて「市民記者」としての貴方の資質を問い自覚を促した方達の対応のほうがよほど妥当かつ一般的かつ「社会的」であるのであって、私の対応のほうがはるかに異端であり非社会的であり個人ブログと2ch至上主義的(私はmixiに加入しているけれどもほぼ放置状態)であり、あるいは心無く不適当であるのです。


オーマイニュースに対して志向されたネットジャーナリズムに対して「市民記者」というスタンスに対して、私などよりはるかに継続的に関心を有しその価値を認め、それゆえに、資質のうえでも自覚のうえでも価値的に欠けていると考えられる貴方の「受賞」に対して幻滅のうえ失望されたのは、fw0さんらの側です。自らのスタンスにそしてスタンスを規定する所属団体にひいては志向されたネットジャーナリズム自体に価値を認めない、そのような不適格な「市民記者」に「賞」を授与したオーマイニュースの編集部に対して幻滅し失望されたのです。私が「受賞」自体に幻滅も失望もしなかったのはなぜか、上の引用において記しましたが、「賞」自体にひいては賞を授与する団体自体に価値を認めていないためです。芥川賞に価値をまったく認めない人間は、それを誰が受賞しようとも失望はおろか反撥すらしないでしょう。あっそう、で終わりです。価値を認めるから(期待を前提して)失望もまた反撥もするのです。


貴方はわかっておられないようなのではっきり言いますが、取材もしない「ひと言」欄における読者に対する応答責任を認めない記事における「論拠」と「根拠」提示の概念がない「記者」としての自意識すらない、そのような、ないない尽くしでありかつそのことを平然と肯定する「市民記者」が、批判を受けないと思うこと自体が甚だしい認識錯誤です。オーマイニュースの「外」、方々のブログにおける貴方の行動を除外したとしてもこの有様です。いわんや無数の暴言を加えたならば。そして貴方はそれを片端から削除していると。そもそも上記はオーマイニュースの「市民記者」に対して、団体として公式に要請している大前提の姿勢ではないのですか。貴方は「記者」という価値的な概念に対してもかかる概念の価値を規定する社会的な文脈に対しても無関心かつ無頓着であるから遠慮なく記しますが「オーマイニュースのそして市民記者の面汚し」とする評価が、外部であれ内部であれ存在して当然の一連の振舞いであるとは思いますよ。否、それ以前に上記は「市民記者」云々以前の問題ではあります。また瑣末的な引用目的のトラックバックではありますが、この方が気を悪くされることはないと思います。


ブックマーク・RSSから(2006/10/19) - 愛・蔵太の気になるメモ(homines id quod volunt credunt)

(引用部略)NC-15:マトモに記事書けなく、マトモに議論できねえ尚絅学院大学人間心理学科2回生でオマニーのオナニー記者 音羽理史(2006年10月14日)

↑批判対象に対する批判は、第三者が見ても納得できるようにやってほしいと、ぼくも思いました。


そして、当該エントリのコメ欄におけるgerlingさん=音羽さんの書き込み。

gerling 『> 批判対象に対する批判は、第三者が見ても納得できるようにやってほしいと、ぼくも思いました。

ええ、やっぱり愛蔵さんもそう思いますよね。根拠なく人を誹謗する2ころにはまったく困ったもんです。(後略)』 (2006/10/20 17:02)


当然のごとく愛・蔵太さんはレスにおいてはぐらかしておりますが(まったく賢明な対応です)、こればかりは音羽さん、貴方は故意にそう言っているものと判断しますが(でなきゃよほどの文盲です)、愛・蔵太さんがそのスタンスから当然、一般論として指摘しておられるのはこの場合は貴方のことであり、同時に貴方が記事において批判した当該告発のことでもあります。つまり、そうしたスタンスに準拠したなら貴方もまた告発者も同時に批判され得るということです。そして、愛・蔵太さんがどうということではなく一般的に言って「そうしたスタンス」に準拠して「ネットジャーナリズム」という志向された概念とその社会的な文脈に規定された価値はWebにおいて成立し得る、ということです。「批判対象に対する批判は、第三者が見ても納得できるように」やることがWebにおいて要請されるのは、かつそのことを一切顧慮しない態度がWebにおいて顰蹙されるのは、当然のことと私は考えます。


ところで貴方は「ネットジャーナリズム」を志向してオーマイニュースに参加したのでは、事実としてありますよね?「1点目は「記者としての記事」であった点」「意味がわかりかねますが。」貴方がかくも白々しい態度を故意であるのか天然なのか取る以上は、いっぺん貴方のオーマイニュース編集部の現行の編集方針に対する参加者としての私的な見解を言質として伺っておきたいですね。むろん答えないことも自由ではありますが、貴方がかかる問いに対して「答えなかった」という事実が私も含めた閲覧者に認識されるでしょう。申し上げますが、貴方の記事などよりよほどmuffdivingさんのエントリのほうが広義の「ネットジャーナリズム」に値すると思いますけどね。つまり上記の意味において。「チラシの裏」を記事として掲示しようと「私個人は」構いませんが、それが社会的な文脈において価値を規定された志向されるネットジャーナリズムに準ずる「記事」として成立し得るものであると思うかと問われたなら、即座にノンと答えるでしょう。私もまた、社会的な文脈において価値を規定された「ジャーナリズム」という概念に「記事」という語句に込められた価値的な概念に対して部分的かつ限定的なものとはいえ敬意を払い尊重するものではあるので。


そして、sakimiさんの書き込みに対する貴方のレスへと移行しますが、とはいえ私が改めてわざわざ指摘する要のあるもの(いやそれも無用ですが)は1点だけでしたが。直接自らに向けられた指摘に対してごく部分的かつ限定的に一行単位で、はっきり言えば恣意的に引用したうえで自身が答えたい箇所(段落ではない)に対してのみ応答する、という貴方の癖は、コメントされている方に対しても同様であるのですね。わかりきったことでしたが。そりゃみんなレスする気なくしますよ。私は嫌がらせのごとくこうして逐一的に長文レスしているわけですが。

> その前に、君の実在性を証明してもらいたい

そりゃ、ぼくの知ったことじゃないから自分で調べてくださいよ。
できるでしょう?ぼくに関してこれだけ情報があるんだから。


もはや故意にそう言っているのか天然であるのかわかりかねるのですが(両方でしょう)、私も少し意地悪なことを言います。簡単です、貴方の学生証を活字が確認し得る距離から写メールのうえ自ブログに画像をUPすればよい。むろん顔写真も含めて氏名と学校名、すなわちオーマイニュースの「市民記者」としての貴方が公開している個人情報以外の事柄が記されている箇所は伏せて構いません。その画像自体を捏造とは言いません。躊躇するでしょう?当然のことです。つまり、言説の信頼性の担保として個人情報を開示するというスタンスを取るとしても、裁量は個別的でありむろんその裁量は個々人にゆだねられる、個人の見解表明としてそうしたスタンスを他に主張することは構いませんが、それをもって他に干渉するないし干渉的な発言を繰り返すべきではない。言説の信頼性を担保するものとして個人情報を開示する、そうしたスタンスを絶対化する以上は、裁量の個別性など考慮する要はないし自ら率先して範を示さなければならない、「反語」を繰り述べていれば済むという話ではない。「社会的」には当然のことですが、開示された個人情報の確認とは公的機関が発行した書類の提示に拠ってなされます。免許証すら持っていないフリーの身分にとっては羨ましいことです。


つまり、少し現実的に考えればわかることですが、現行のWebにおいて言説の信頼性の担保として個人情報を開示するという発想自体が、原理的にも無理筋なのです。少なくとも当然のこととして、唯一的な絶対の担保となるはずがない。5日付のエントリにも記したことですけれど。ですから「社会派」として信頼されるブロガーの多くもまた、ハンドルを名乗り個人情報をごく限定的にしか開示してはいません。そして現に彼らの言説は信頼され支持を集めている。というか「2ころ」に対して貴方が最大級に軽蔑的であることは貴方にとっては当然のこととして、はてなに限定されないいわゆる「ブロゴスフィア」全体に対して、すなわち多くハンドルのみを名乗る個別的なブロガーに対してもまた、そのスタンス自体について貴方は前提的に批判的ないし否定的ではあるのですか。


貴方がはてなにダイアリーを持っていることは貴方もまた隠し立てしているものではないし問うものでもありませんが、現在はともかく「受賞」以前にはコメ欄等で純粋に懇親的な交流のあったブロガーの方もおられましたよね、むろんハンドルを名乗り個人情報をごく限定的にしか開示してはいない。私とも縁のあった方もおられました。別にそのこと自体をどうこうと言う気はまったくない、たとえば色々あったといえ私は基本的にはその方の姿勢について、同意はいささかしかねるといえ、敬してはいます。つまり貴方ははてなにかぎらない大半のブロガーの実名非開示について、前提として否定的でないにせよ批判的ではあるのですか。「意地悪」なことばかり言っていても仕方がないので、貴方の実名志向の内実について、伺ってみたく思いました。このように、一般性に至るまで演繹し延長し得る見解の相互的な開陳ないし提示によって、「論破」なる勝敗とは別個に説得というのは部分的かつ相互的になされていくのです。なお18日付エントリにおける貴方の><さんに対するレスについてひとつだけ言っておきますが、


真面目な返事は続く - 地を這う難破船

あなたの言ってることは論点としては瑣末で突き詰め方としては粗雑だから実に不毛だ。もしもぼくを言負かしたいだけなら無意味なことだから止めていただきたい。


音羽さん、><さんも含めて誰も貴方を言い負かそうとなどしていませんよ。ええおっしゃる通り無意味なことです。貴方は発言の端から勝手に言い負けて自壊していくのだから。つまり、貴方の側がどうもそう思っているようですね。自らの発想の相手に対する投影。言い負かすの負かされるのという前提ありきで浅はかなレスするから言った端から足元をすくわれる、というか自らがすくっているのです。そういえばmuffdivingさんのブログにおいても、誰もそのような前提に準拠してはいないのに最終的には「言い負かされた(むろん先方が)」と一方的に宣告して呆れられていましたが(再々度トラバするつもりはさすがにありませんが、貴方以外のコメンターの方による対応コメントによって貴方の当該コメ欄における発言の「証拠」は限定的に残っています。削除した当人による検証的な異議提出の資格などそもそもないですが。こうした常識の類をどうも貴方は根本的にわかっていない)。


論破と説得とは異なります。そして少なくとも私自身は、貴方に対して最初から「言い負かす」発想などない。もはや説得すら私は諦めかけていますが(ちょっと前向きになった)、少なくとも「言い負かす」だのという発想は、先方においても当方においても、ほぼ貴方にしかない。というかそもそもWebにおいて「言い負かす」という発想自体がいわゆる厨のそれなのですが……貴方はネット歴は私よりも長いのですよね。私は98年導入であるから。


ということで、最後に貴方の私に対するレスの(おそらくは)本題へと戻りますが。

> そもそも、コンセンサスに準拠しない、記述された文章にのみ拠るべき、とする貴方が他人のブログのコメント欄に頻繁に「出張」されているのは何故なのですか。

貴方は説得というものを哲学的に考えてるのかもしれないが、ぼくはそうじゃないのです。ぼくは例の件で救う会を貶める根拠を聞いただけなのです。彼らのパラダイム抜きにして成立するような根拠は何一つないことを証明したかっただけです。それが証明できてるのは貴方も認めるとおりでしょう。ぼくはそれだけでいい。彼らが改心するとも思わない。一生ああやってりゃいいんだ。
「説得」をすべきはぼくじゃない。彼らなのです。

貴方が抽象的に「事実」だの「真」だの言ってるから分かりにくくなるけれども、ぼくの言ってることはもっと単純なのです。ただ単に例の件で批判していた人たちに「社会的な」根拠は何一つなかった、それだけなのです。そうであったから、ぼくも受賞できたんでしょう。貴方はぼく個人対多勢みたいな構図の立て方をするけれども、それは違う。
社会対可愛らしい肥溜めなんだ。
本当にそれだけで、貴方が長々と論評してくれたようなことは一切ない。ぼくを個人的に嫌いな人たちがネットで騒いだところでぼくには別にどうということもない。そんなことはたいした問題じゃないんだ。まして、ぼく個人がどうだって言うんだ。貴方の言ってることは徹底頭尾些細なことに過ぎないんだ。


以上縷々綴ってきた私の記述によって、上記引用に対する返答に換え得るとは思いますが、長い補足を記します。この部分については、貴方が私に対して真面目に本心に基づいた「対応的な見解」を記してくれたことに感謝しているから。まず「論評」と言われますが、前記エントリの「抽象的」な後半部については、貴方についての「論評」ではなくて、完全に貴方に対する念入りな「説明」のみを意図した記述でありました、筆者にとっては。あの「説明」は、貴方以外の大半の人間にとっては多く言語的な定義化すら意識してはなされない自明の事柄であり常識の範疇に属する事項です、つまり説明の必要がない。それをコンセンサスとも申しますし、かかる「自明」に対して疑義を提出することは肝要ではありますが。少なくとも貴方に対して「説得」は望まぬまでも「説明」を意思しなければわざわざあのような事柄を門外漢が頭ひねって定義的に記述してはいません。貴方に対していくばくかは言葉が伝わりはしたのか、貴方の反応は天邪鬼であるからわかりかねるのですが。抜粋して再引用。

ぼくは例の件で救う会を貶める根拠を聞いただけなのです。彼らのパラダイム抜きにして成立するような根拠は何一つないことを証明したかっただけです。それが証明できてるのは貴方も認めるとおりでしょう。ぼくはそれだけでいい。

ただ単に例の件で批判していた人たちに「社会的な」根拠は何一つなかった、それだけなのです。そうであったから、ぼくも受賞できたんでしょう。貴方はぼく個人対多勢みたいな構図の立て方をするけれども、それは違う。
社会対可愛らしい肥溜めなんだ。


例の件に対する私の事後的な見解は11日付エントリの通りです。かつ、貴方がおっしゃっている、当該の記事において意図された事柄については上記において記しました。私が認めるか、と問われたなら「証明できてる」かはそれこそ「証明」の定義にもよるのでその点については保留しますが、大筋においてかつ原則として、私個人は認めますよ。大筋においてかつ原則として、とは「何一つない」「何一つなかった」という点に関しては同意しかねる、ということです。とはいえ限定的かつ条件的には、私見としては認めます。「彼らのパラダイム」が存在したこと、「彼らのパラダイム」自体は原則としては「非社会的」なものであったこと、貴方の表現ないし認識に準じたならば、つまり「死ぬ死ぬ詐欺」という象徴的なコピーによって貴方が言うところの「彼らのパラダイム」を代表的に表象するのであるなら、私個人は「同意」します。これまでの10エントリに渡って部分的には変遷しつつも一貫して記してきた通りです。


価値的な判断において私がそうした事柄を貴方同様に批判するかということは別として、ですが、「そうした事柄」を「問題の所在」として指摘する要について貴方が切実に感じ、かつ「祭」の渦中の当時において、オーマイニュースという否が応にも注目を集める媒体にて実名を掲示したうえ批判意思をもって指摘したこと、その点に限定するなら、私個人はかかる貴方の行動とそれを規定する意思に対して本心から「認めて」いますし、あるいはいまもってなお敬意を払ってはいます。ですから、むしろ問題は事後の記事執筆者の言動にあったと、私は考えています。


つまり、個別的かつ具体的な「例証の提示」において瑕疵ないし誤りないし不適当ないし認識違いを指摘されたとしても、当該記事の段階においては、貴方の批判の「本質性」においてはなんら変更の余地なく影響を及ぼし得ないものであるから。貴方が指摘と別個に行った批判とは倫理的かつ価値的な批判であって、それに尽きるものでもある、ということです。よって、クオリティペーパーの記者もまた私のような有象のチンピラブロガーもみな原則的にはやっていることですが、具体事例における瑕疵や誤りや不適当や認識違いを個別に複数の方から一致して指摘されたなら、自ら確認のうえで認めて訂正すればよい。ないし指摘に対して説明すればよい。ただし説明が説得的でなければ再度の指摘と批判を受けます。つまり初発の記事に続いて掲示された「反響に答える」という記事は「反響に答えている」とは到底判断されなかった、ということです。


「ぼく個人対多勢みたいな構図の立て方」をしたのでは私の意図としてはなくて、少なくとも私が「立てた構図」とは、つまりは前述の通り例の件をめぐっては、貴方に限らず、告発者に対して告発批判者が行った指摘が告発批判者に対しても多くまた該当し得るものであった、ということです。私は「ダブスタ」などという言葉をむやみに他に対してのみ振り回す趣味はない。それ自体妥当で正当な指摘は両者に平等に該当し得るということです。両者の分岐は告発批判者が位置する倫理的価値的な位相ないし認識に拠り、かつそれが告発批判者の具体事例を挙げての指摘とは別個に所在する批判の本質として在る、ということです。である以上具体事例に対する個別的な反証は批判の本質に対してはなんら影響するものではない、ということです。徳保さんがされた議論とどうしても相似してしまいますが、貴方をめぐって数万字を費やした者としても、結論的にはそう思います。


「社会対可愛らしい肥溜め」というのは、原点としての例の件に限定するなら「被告発者と告発批判者.対.告発者」ということであって、言うまでもなくそれは鳥越氏が言っているような「オーマイニュース2ch」ということでも「実名対匿名」ということでもない。「リアルvsネット」というような置換的な構図すら適当ではない。そして、原則的にはそれに尽きる構図を「社会対可愛らしい肥溜め」と表現するのは、むろん貴方の価値的な判断が介在しているがためです。「被告発者と(行為としての表出によって対外的に規定された)告発批判者」を「社会」として等号的に対置し得るものとは私は思いませんが、あたかも等号であるかのように対置するのもまた、貴方の価値的な認識が前提的に関与しているがためです。かかる貴方個人における前提的な価値的認識とは、つまりは告発者の主たる活動母体を「可愛らしい肥溜め」と表現することに集約されている。「死ぬ死ぬ詐欺」という呼称に前提的な無条件の嫌悪感を表明することと表裏にあるそれは、決定的なものとしてある貴方の価値的な認識とそれに拠る判断の所在を示し、かかる認識の位相においてなされた判断に基づく批判とは、つまりは倫理的かつ価値的な領域に限定された批判として機能するということです。


そのこと自体はまったく無問題と私は思います。繰り返しますがかかる倫理判断と価値判断に私は部分的かつ限定的には同意します。貴方が批判とは別個にされた指摘自体もまた、個別事例の例証においては不適当でありましたが、前提的な状況の指摘としては適当であったと、私個人は考えますが。記事における個別事例の例証において不適当でありかつその点について複数の方から一致した指摘がなされても訂正すら行われない以上は「証明できた」とは(一般的な「証明」の定義に拠るなら)やはり私は認めかねますが、前提的な状況の指摘としては適当であろうと、少なくとも私は判断しますよ、ということです。そして、当該の記事自体は倫理的かつ価値的な領域に限定された批判としてはPVに比例して広範に機能し得たと思いますし、かかる機能それ自体が無前提に問題であるとは、私個人は考えない。むろん問題として指摘のうえ批判する方があることもまた当然のことです。ただ実際のところ、当該記事に目を通した段階でそれをあえて批判しようとは、たとえWebでの活動にアクティブであったとしても(当時は半ば休眠していた)、私自身は思わなかったでしょう。やはり一切は事後の経過にある。ですから。

> 今の状態でどっちだ?といわれれば判定はgrayだと思います。

貴方はそう思ったのか知りませんが、ぼくはそうは思わなかったし、そう思わなかった人たちをぼくはたくさん知っているし、鳥越俊太郎ですらそう思わなかった。それで貴方たちは誰を説得できたんでしょうか?
何かひとつでも怪しいと思う点があったなら、説得できるようにやってみれば良い。


最初に断っておくと、最初からドクターさんは貴方に対して「説得」を意思してなどいませんよ。一貫して「説明」のみを意思しているのです。つまりあくまでインフォです。それすら貴方に対しては過分な親切というものです。結果は言わずもがなの残念なものでした、ただし貴方ひとりに対しては、ということです。公開のWebにおける発言は常に閲覧者を前提します。そもそも「説得」云々と述べ記したのはあくまで私であって、それに準拠した批判をドクターさんに返されましてもドクターさんの側が困惑するというものです。以前『シム宇宙』においても私が貴方と直接的には関係がない(とはいえやはり例の件絡みの)エントリのコメ欄にて「個人的バイアス」云々と勝手に記したところ、その翌日には早速、同時進行していた「議論もどき」の中で貴方は他のコメンターの方に対して「それは貴方のバイアスだと思いますよ。」などと言い放っておりましたが。人間の区別が付いていない、というのは精確に記すなら、自己に対する発言の、そして発言者の区別が付いていない、ということです。こうした点を鑑みたとしても、やはり現在の貴方には言論の場に立つ資格がないと、muffdivingさん同様に思いますが。ま、唐突に「ソース」だの「コンセンサス」だのという語句を用いて何がしかを遠くでほのめかす弁護士の方もおられます。おっしゃっていること自体はリテラルにはことさらに異論もありませんが。


それはともあれ、鳥越氏はともかく(「ネット以外でも疑われている人間」であるか私は知識不足ゆえ一概にはわかりかねるのですが、少なくとも「受賞」時の「講評」におけるそのスタンスについては11月27日付のエントリにて批判しました)、貴方の価値的な認識に基づく前提的な倫理領域における判断に対して共感ないし同意された方が多くあったこと、あるいはあったであろうことは認めますし認識してもいますよ。月間市民記者賞の授与もまたそうした多くの声に準拠してなされたものであるかも知れない。であるなら私のごとき完全な外野が云々することでもない、結構なことと思います。私が貴方の「受賞」に関して批判したのはあくまで鳥越氏個人による「編集長賞」の授与とそれに際する「講評」についてです。そのことについても、貴方の側が責を受けてしかるべきとも到底言えない(あくまで仮に、ですが、不本意な部分があったとしても、返上という極端な形も含めて、それを表明することが難しいことは、察します)。


とはいえ、貴方がこちらにおいておっしゃっているのはそういった事柄ではない、当該患者の容態をめぐる「医学の専門性」の領域について、ドクターさんの書き込みに対して「貴方はそう思ったのか知りませんが、ぼくはそうは思わなかったし、そう思わなかった人たちをぼくはたくさん知っているし、鳥越俊太郎ですらそう思わなかった。それで貴方たちは誰を説得できたんでしょうか?」と来る。了解。では最後の段階へと移行しましょう。タイムリーな話題でもあるし、本件の関連をそれこそwatchされているような方は既に目を通されているでしょうから、むしろ起こされたテキストの方をリンクのうえ引用します。


はてなブックマーク - YouTube - 視点・論点「まん延するニセ科学」


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そもそも、ゲームのし過ぎを何とかしたいというのは、科学の問題ではなく、しつけの問題だったはずです。子供が四六時中ゲームをして困ると考えるなら、やめるようにきちんと指導するべきでしょう。しつけの根拠を科学に求めようとしてはいけません。

ゲーム脳」がしつけの根拠を科学に求めるものだったのと同様、ここでは、道徳の根拠を自然科学に求めようとしています。それは科学に対して多くを求め過ぎです。

しつけも道徳も、人間が自分の頭で考えなくてはならないことであって、自然科学に教わるものではないはずです。


さて、「ニセ科学」が受け入れられるのは、科学に見えるからです。つまり、ニセ科学を信じる人たちは、科学が嫌いなのでも、科学に不審を抱いているのでもない、むしろ、科学を信頼しているからこそ、信じるわけです。

しかし、仮に、科学者に、『マイナスのイオンは身体にいいのですか』とたずねてみても、そのような単純な二分法では答えてくれないはずです。

『マイナスのイオンといってもいろいろあるので、中には身体にいいものも悪いものもあるでしょうし、身体にいいといっても取りすぎればなにか悪いことも起きるでしょうし、ぶつぶつ……』と、まあ、歯切れの悪い答えしか返ってこないでしょう。

それが科学的な誠実さだからしょうがないのです。


ところが「ニセ科学」は断言してくれます。

(中略)

このように、「ニセ科学」は実に小気味よく、物事に白黒を付けてくれます。この思い切りの良さは、本当の科学には決して期待できないものです。


しかし、パブリックイメージとしての科学は、むしろ、こちらなのかもしれません。『科学とは、様々な問題に対して、曖昧さなく白黒はっきりつけるもの』科学にはそういうイメージが浸透しているのではないでしょうか。

そうだとすると、「ニセ科学」は科学よりも科学らしく見えているのかもしれません。


たしかに、なんでもかんでも単純な二分法で割り切れるなら簡単でしょう。しかし、残念ながら、世界はそれほど単純にはできていません。その単純ではない部分をきちんと考えていくことこそが、重要だったはずです。そして、それを考えるのが、本来の「合理的思考」であり「科学的思考」なのです。二分法は、思考停止に他なりません。


ニセ科学」に限らず、良いのか悪いのかといった二分法的思考で、結論だけを求める風潮が、社会に蔓延しつつあるように思います。そうではなく、私たちは、『合理的な思考のプロセス』、それを大事にするべきなのです。


以上は、まったく貴方の話であり、貴方が当コメ欄においてドクターさんらコメンターの方達に対して繰り返し続けている幾度目かの滑稽の話です。はっきり申し上げますが、貴方が当コメ欄において延々と懲りもせずに開陳されている「医学の専門性」に対する認識とは「ニセ科学」のそれと、内実においても機能においてもまったく同様のものです。多くの「ニセ科学」の信奉者がそうであるように、貴方にも明確な悪意はないのでしょう。とはいえ、貴方が「医学の専門性」に関する根本的に誤っている認識を内的な確信に満ちて堂々と断言したなら、私にとってすら一目瞭然であるのだから大丈夫であろうとは思いますが「そう思わなかった人たちをぼくはたくさん知っているし、鳥越俊太郎ですらそう思わなかった。」と言い切り得る状況が部分的かつ限定的には対外的にも出現し得るのかも知れませんね。もっとも貴方が例示されている人達については単に、先述した個別的な関心の所在とその優先順位の問題として片付く事柄であるとは、思いますが。ですからドクターさんが再三訂正的に指摘をしてくださっているわけです。その旨了解されて、いるわけがないですね。ドクターさんの音羽さんに対する書き込みを引用させていただきます。

医学的な立場から見ると些細な事ではないんだが・・・。『些細な事』に対してどのように対応するかは人それぞれですが、その対応の中に看過しえない内容が含まれていたという訳です。
説得する気はないけれども、誤解を招く表現はやめて欲しいという考えを理解して欲しいという気持ちです。


前記エントリのコメ欄にてドクターさんが最初に書き込まれたこの言、明確に貴方に対する苦情と抗議を意味していること、了解しているわけがないですね。呆れ果てているがため指摘する気にもなりませんが「些細なこと」と言い放った同じ口が「まあ日本の医学会というなら」などとよくもほざけるものであるとは思います。「医学の専門性」の領域における指摘に関しては、私はまったくの素人であるため、現状「静観」してくださっている方に事後委ねざるを得ませんが、ドクターさんがオブラートに包んだごく穏健な言葉で何を貴方に伝えたかったのか、それこそ私の口から私流に「代弁」しておきましょう。医学の論文の専門のと手前がその価値を知りも認めもしない価値的な語句を弄してあたかも真理であるかのように医学に論文に専門性にまつわる誤情報を垂れ流すのは甚だ迷惑であり有害でしかないからヤメろ、貴方のカタる医学の話など誰も信じやしないであろうが念の為、ということです。


はっきり申し上げますが、管理人としても、貴方が医学をカタって専門性を科学(のそれもよりにもよって医学)を冒涜するかのような誤情報を無自覚といえ延々と垂れ流すのは各方面に対する迷惑と侮辱と冒涜をしか意味しないので即座にやめていただきたい。迷惑と有害をしか意味しない主観的な誤情報、そういうのを一般的にも毒電波と呼びます。やはりmuffdivingさんによる形容は、比喩的には妥当であったと、いま私は思います。貴方は医学を語るに不適格どころか最悪の人間であることをすでに散々「証明」してしまっています。貴方がやっていることは、明確に医学のカタりであり毒電波という甚だ悪質な誤情報の発信です。迷惑と有害性を鑑みたとき、悪質という判断しか下しようがありません。付記しますと、ドクターさんは以上の理由から「医学の専門性」に属する話については当然厳密性を要求しておりますが(そして貴方に対しては絶望したようですが)、例の件自体についてはごく穏当ですなわち妥当なことしか言ってはおりません。私の方が「心無い」ことをよほど言っています。そうした方に対して最大級の非礼をもって対応する貴方には、やはり発言者というか人間の区別が付いていないのであるなと、つくづく「納得」した次第です。


繰り返しますが、貴方の一連の発言に対して業腹とする人々の所在について、理解しておられますか。記してきた通り、かかる怒りはまったく妥当なものです。であるから管理人がこうして睡眠を削って長文によりフォローする羽目と相成る。「ぼくを個人的に嫌いな人たちがネットで騒いだところでぼくには別にどうということもない。」とのことですが、貴方は現在進行形の事態について根本的に読み違えている。貴方を「個人的に」嫌いなわけではなくて、端的に貴方の発言に対して当然の反感を抱いた、貴方を「第三者として」嫌うことになる人達を貴方は今なお増やしまくっている。それもまた、いわゆるサイレントマジョリティではあります。


私は、貴方がいわゆる「トンデモさん」であるとは思いません。そもそも貴方は外部の何物かを「盲信」する類の人間では、確かにない。貴方の価値的な認識と倫理的な判断自体は、パブリッシュを前提しなければ私は問題とする類のものではありません。パブリッシュを前提するから、ひいてはパブリッシュの際に「医学」「論文」「専門」といった価値的な概念を根本的に無知なまま恣意的に利用する、つまりはカタるから、ニセ科学と同様の発言として帰結するのです。一般論として、倫理的ないし価値的な領域におけるごく個人的な問題設定は、それこそいわゆる人文の範疇において処理するべきであるし、人文の範疇に限定してパブリッシュを図るべきです。なぜ知りもせず興味もない科学の話を貴方のもっぱら「人文的(というか観念的)」な問題意識に無理に接合させるのですか。かつ畑違いの「専門家」に対して幾度も無謀に噛み付く。『シム宇宙』でもこちらでも。


個人的な倫理観と価値観に準拠する内的であるがゆえに超越的な確信のゆえの振舞いですか。そういうのを、越権といい専横といい僭越と呼ぶのです、つまりは甚だしい非礼と傲慢の相です。これは「説教」ではなく単なる「事実の指摘」です。つまりは、菊池先生の発言を拳々服膺してくださいということです。菊池先生がおっしゃっていることは物事の原理原則の話です。貴方はコンセンサス以前に、物事の原理原則に対する横紙破りを行っている、それがニセ科学と同様の傍迷惑と有害性を結果しているということです。繰り返しますが、上記引用の一切は、ドクターさんや><さんに対する貴方の一連の発言にまったく当てはまる事柄です。貴方が話されている「医学」とは、「ニセ医学」の謂いでしかありません。貴方の認識と意図がどうであれ、結果的には、貴方はド素人の分際で「医学の専門性」をカタって誤情報を垂れ流す以外のことは何もしていない。


管理人の私が詳細に指摘できるほど詳しくないのをよいことに、というやつですが、音羽さん、いわゆる広義の「人文」領域に属する限定的な話、たとえば倫理的ないし価値的な領域にある話であるなら聞きますし応えようのあることであれば応えます。ですが、個人的な倫理や価値の領域と科学の専門性の領域とを勝手に接合した「ニセ科学」を結果するしかない話は、もう私も含めて誰も聞く耳を持たないので自粛していただきたい。かくも私が「説明」したうえでその「マズさ」を理解していただけたのであるなら。そうした振舞いは意図なくとも「普遍性の恣意的な簒奪」としか受け取りようのないものです。簡単に言い換えるなら、貴方の「脳内」の話を普遍的とされる科学によって補強し担保しようとする発想自体が、人類の知の財産に対する犯罪です。貴方の「脳内」にのみ準拠して科学の何たるかを語るな、ということです。勉強してください、とドクターさんが再三述べられている所以です。科学において恣意性こそが御法度であることくらいは大学生ならわかるでしょう。ドクターさんに代わる心ある人はもう金輪際現れないであろうことは私が保証します。


最後に、私は科学哲学には甚だ不案内なのですけれど。貴方が当該の記事において指摘し批判したものとは「彼らのパラダイム」の所在であった。「告発運動のパラダイム」としてもよいですが。ですから「死ぬ死ぬ詐欺」というコピーによって代表的に表象される、貴方が言うところの「彼らのパラダイム」の所在については、私も多く認めるものであるし、それに対する貴方の倫理的/価値的な位相に拠る批判についても、全面的に同意はしかねるものの、大筋ではことさらな異論を示すつもりはないし「認め」ます。とはいえ、一般論として、任意のパラダイムに対して任意のパラダイムをもって「批判」したところで、口の悪い友人の言を借りるなら「宗教論争」にしかなりません。


そう、貴方が「彼らのパラダイム」を批判するに際して準拠しているものとは、結局は貴方自らの個人的な「価値的なパラダイム」でしかない。「例証」はこれまで無数に示してきました。貴方個人の、自らの実名開示に対する「非社会的」な自負も含まれる。いわゆる人文領域における「パラダイム」概念とは主に価値的なそれのことです。すなわちその相克とは常に価値的ないしその延長にある倫理的なそれの相となる。任意の価値的なパラダイムに対して貴方は個人の価値的なパラダイムをもって批判を意図した。それは「宗教論争」への帰着をしか多く結果しない。つまるところは不毛な決裂です。そして貴方が準拠した価値的なパラダイムとは貴方個人のそれでしかなかったがゆえに「貴方はぼく個人対多勢みたいな構図の立て方をするけれども、それは違う。」と貴方は記すのでしょう。少なくとも現在「個人対多勢」などというフレームワークでは誰も、とは言いませんが、少なくとも私は考えてはいない。


結論的に申し上げるなら、自己の個人性にのみ基づいた価値的なパラダイム以外にも、他への批判に際しての準拠枠を便宜的であれ実際的にも有し明示した方がよい、さもなければそもそも誰も説明すらなきままに貴方が提示する「宗教論争」的な「パラダイム批判」の前提的な枠組(らしきもの)を「理解」してはくれません、少なくとも自己の「言説」自体については「理解」を得たいといくばくかは望むのであるなら。つまりは、二分法的で結論的であるとしか取り得ない、概括的な頭ごなしの「道徳的」な全面否定を、検討に値する「批判」として受け取る人はあまりいない、ということです。それすら「たいした問題じゃない」「些細なことに過ぎない」すなわち「それで構わない」と申されるのであれば、結構です、何も言いません。ただし同様の不毛の繰り返しに、付き合う人は減っていくことでしょう。自明の理でありかつ当然の事柄です。「人生は短い。有意義な人間関係を築きたいものである。」と本音のところでは誰でも思い、Webにて口にしたなら顰蹙を買うが黙って行動に移す分には誰も咎め得るものではない、ということですね。さらなる長文、失礼いたしました。