長いお返事


前追記:「新規のエントリをようやっと掲示しました、宜しければ御高覧ください。」と前記エントリのコメ欄に記すと切断的に機能してしまいかねないと判断したため、こちらの巻頭にて記させていただきます。多くのコメントを書き込んでくださっている皆さん、そして><さん、本当にありがとうございます!厚く御礼申し上げます。後でまた改めてゆっくりとレスを記させていただきます。現在の私は色々な意味で矢折れ力尽きています。


―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


まずは、音羽理史さん、さらなる返答ありがとうございます、とは心底思うので外交辞令でなく記しておきますが、ええ、色々と。新規のエントリを掲示した後1時間18分で貴方から返事が返ってくるとは思いませんでした。驚いた、というか腰が抜けた。業務連絡のメールではないのだから。私は本件関連エントリについては、こと貴方に対する直接のレスポンスについては、前記エントリも含めて、相当の時間をかけて記し推敲のうえで掲示しているのですが。であるからレスの間隔も空き、かえって読み難くなっているかもしれません。コメントを記していただいた方達への個別的なレスもいまだにできていない(本当に、本当に申し訳ありません)、かつ師走です、どのような年の瀬なのか、と少しばかりは考えますが、それでも費用対効果において自分なりの目途が立ってはいるため(それが自己満足に過ぎないとしても。ブログに「現実的」な費用対効果が存在し得るのか今のところはわかりかねますし)、貴方との「議論もどき」ならぬ「最初から議論を意図しないかりそめの意見交換」を続けているわけですが、貴方の返答は、最初から、ではありましたが、ひたすら切断的かつ拒絶的かつ排他的になっていく。わかりきったことではありました。ですから、行動としての切断は自由、と再三言っております。


とはいえ丹念に記したつもりのエントリに、おそろしく無内容な速攻レスを返されますと、さすがに萎えます。いやマルクスへのテンプレ突っ込みではないですが、価値は労働時間に比例するものとは限りませんよ、労働でないし。とはいえ、はっきり申し上げますが、エントリをちゃんと読んだうえでレスしてくださいましたか?音羽さん。何よりも第一に、貴方に宛てて記したエントリです。遅筆の私は、まる1時間18分使い切っても貴方のレスの文章を記せません。さすがに「脊髄」という言葉が脳裏に浮かびました。言葉を返すに値しないエントリと思うなら、その場でも後でもレスしなければ良い。開示された「意見交換」というのは一義的には印象操作や価値誘導のゲームではないし、貴方がこちらにおけるやりとりをそうとしか捉えていないのであるなら、><さんが記した通り、貴方が取られている行動、というより発言は、すべてが一目瞭然で裏目裏筋です。これも以前と同じことではありますが。


さて貴方の新規の書き込みは、もはや何を記せばよいのかわからなくなる類の、つまりは切断的で拒絶的で無内容なものでした。それはつまり、もはや私と「かりそめの意見交換」を続ける意思が貴方にはない、ということを意味するのであろう、と思われた。sk-44いいかげんにしろ、ということであると。ただ貴方は引かない質であるから、ああした即レスを記したのであろう、それが貴方の意思なのでしょう、と私は受け取っていました。であるなら、私としても書くべきことはひととおり書いた、以降は屋上屋、すでに前記エントリ自体が、以前記したことのリピートだらけの再放送と総集編と補足追記になってしまっている、貴方との「意見交換」の行き先も行き止まりであることが、予想されたことといえ判然と視えた、残念ですが、仕方ない、とは昨昼頃の段階では考えていたのですが。なるほど、了解しました。前口上を終えるに当たって重要な注記を。本エントリにおけるトラックバックは、音羽さんの各ブログにおけるコメ欄での発言、ないしその削除を参照するためのものでありそれに尽きるものであって、各々のブログの管理人氏に対していかなる他意も存在しないこと、ここに明記しておきます。エントリに対する言及もなく、このような事柄のためだけにトラバを送ってしまい、申し訳ありません、お詫び申し上げます。


それと。貴方が私のエントリに対するレスにおいて、自らが反応したい箇所だけに、甚だ部分的かつ限定的に反応して、それ以外は「スルー」する手法を、こちらが咎めても改める気がないこと、よくわかりましたので、私もまた、逐一的に全文引用のうえ対応的な見解を記すという方法を変更します(後期:結局それほど変わらなかった)。実際、返答の記しようもない記述ばかりであって、それは貴方にとってもまた「御意見無用」という明確なノンの意思表示ではあるのでしょう。承知しました。御要望に従います。実際、これ以上貴方に対していかなる言葉を綴ればよいのか、私は途方に暮れています。


真面目な返事は続く - 地を這う難破船


まず最初に。貴方が新規のレスにおいて唯一こだわられた点について。

> 半疑問形にて記したことが誤りであったようです〜

うだうだ言う前に答えてみてくださいよ。貴方のやった批判でしょう。それはどこに行ったんですか?何でぼくの「意図的質問」とやらを問題にする貴方がいちいち議論を置き去りにするんですか?
貴方が根拠を示して批判して、ぼくがそれは事実無根だといったんです。それを貴方が確認不可能だから云々言い出した。だったら初めの根拠はどこにあったんですか、と聞いたんです。難しいことじゃない、それだけなんです。
そこをはっきりさせてください。話をしようとしてないのはぼくじゃなくて、貴方なんですよ。


わかりました、はっきりさせましょう。物事の筋道を明確にするために、この点に関して私と貴方との間で交わされたやりとりを再度参照します。


文系が記す - 地を這う難破船

貴方は小倉秀夫氏のブログのコメ欄において、自らの(確信犯的な)「暴言」について「公正な論評の自由の権利」と主張していますが、その旨について同意したとして、ならかかる「権利」を他の者が行使する自由も存在します。「馬鹿」「死ね」と相手に向かって直接記す「公正な論評の自由な権利」が存在するのであれば「電波」と記し「キチガイ晒し」とタグを付ける「公正な論評の自由な権利」もまた存在しますしかつ貴方はそれを甘受しなければならない。

語彙の少ない人だな、と言ったことがありますが、別にそのこと自体を批判した覚えはないですね。
問題は論評が公正であるかどうかです。
「生理的」に「馬鹿ポモ死ね」というのは当然公正な論評ではないですし、「精神に異常をきたしてるとしか考えられねえから、ヤケ起こして幼女を襲う前に〜」云々に論評の入る余地があるのかというとそうは思いませんが。


真面目に返事 - 地を這う難破船

「語彙の少ない人だな、と言ったことがありますが、別にそのこと自体を批判した覚えはないですね。」これはmuffdivingさんとの件のことですか。「そのこと自体を批判した覚えはない」のは結構ですが、当該エントリにおける自らのコメントを全削除したうえでそういうことをおっしゃられても困ります。削除は自由です。ただし、検証が不可能な状況に自らがしておいてそのうえで当人が「〜自体を批判した覚えはない」と言って説得力を持ち得ると思いますか。貴方にとって「証拠」とは無意味であり主観的な認識こそが発言においても優先されるのであるから、無問題なのでしょうが。

こっちもそんなこと言われても困るなあ。確かめないと分からないような曖昧な根拠で他人を批判して、それが説得力があるとでも?


そして前記エントリ。

半疑問形にて記したことが誤りであったようです。改めて言い換えます。「検証が不可能な状況に自らがしておいてそのうえで当人が「〜自体を批判した覚えはない」と言ったところで説得力を持ち得ることはありません。」貴方以外の人間を説得し得るものではない、ということです。

うだうだ言う前に答えてみてくださいよ。貴方のやった批判でしょう。それはどこに行ったんですか?何でぼくの「意図的質問」とやらを問題にする貴方がいちいち議論を置き去りにするんですか?
貴方が根拠を示して批判して、ぼくがそれは事実無根だといったんです。それを貴方が確認不可能だから云々言い出した。だったら初めの根拠はどこにあったんですか、と聞いたんです。難しいことじゃない、それだけなんです。


まず最初に。貴方に他人を説得する意思が皆無であることはよくわかりました。それは構いませんが、他人に対して物事を説明する意思すらない、言葉を尽くすという発想がないことは、さすがに長文癖の私も顰蹙しますね。語彙は豊富であるし短くすることは嫌いなのでしょう?悪態を記すときだけ筆が乗るというのも因果な才能です。さておき、既成のコンセンサスに準拠しない位相に立つ、というのはそういうこととは異なる気がしますが。とりあえず、主語と目的語はそのつど明示してください。とりわけ特定の個人を批判する際には。そもそも、コンセンサスに準拠しない、記述された文章にのみ拠るべき、とする貴方が他人のブログのコメント欄に頻繁に「出張」されているのは何故なのですか。コンセンサス以前の問題として、個人ブログのコメ欄とは個人対個人の集合的な「対話」の場として設定されています。再三こちらのコメ欄に書き込まれている貴方のその言が、音羽理史という個人が表明する意見ないし見解としてのみ受け取られ、そう対応されることは当然のことです。コンセンサスに準拠せず記述された文章にのみ拠るべきとするなら、他人のブログのコメ欄という「対話の場」に「出張」してくるべきではない。


コメ欄に書き込むという行為自体が、コミュニケートを前提しかつ志向する行為であって、「コミュニケートの意思」を前提的に勘定されることは当然のことです。でなけりゃ「荒らし」認定されます。少なくとも対外的には、そう受け取られ得る、ということです。おそらくそういった部分で、これまで貴方は方々の「コミュニケートを前提する場」において「誤解」を被ってきたのでしょうが、貴方の認識不足に決定的な落ち度があると、私は考えます。意思的にそう振舞っていたとしても、やはり認識に欠落があったがためにこうして同じことを繰り返していると、私は思いますが。「対話ないしコミュニケートを前提する場」に自らが参加して、そのうえでそれを意思的に志向しない振舞いを説明もなく繰り返したら、それは顰蹙されますよ。前衛アートじゃあるまいし、前衛アートのような計算もないのでしょう。もっとも、貴方は「任意のコミュニケートにおいて前提されるコンセンサス」自体に準拠せずその自明を懐疑する者であるから(それが当該記事における「コード」批判でしょう)、かかる「反語的」な振舞いは当然のことなのでしょうが、であるなら顰蹙は覚悟のうえですね。腹括っていますか。


つまり、そうした認識が整理も明確化も意識化もされない中途半端な状態であるままに、顰蹙的な振舞いを繰り返すから「話のまったく通じないコミュニケートの余地がない相手」という評価を受け、かつそのことを病理学的な禁止用語を用いて蔑視的に表現されてしまうわけです。つまりは誤解ではありますが、誤解を受ける非は明確に貴方の側にある。それが、貴方が確信犯としての「ヒール」ではない、ということです。「コンセンサスという前提と準拠枠なきコミュニケート」を志向されることは構いませんし志あると本心から思いますが、他人のブログのコメ欄においてそれを試みることはやめていただきたい。貴方にとっては「批評的」な「反語」であろうと説明すらなきままになされるそれは対外的には「厨」の「荒らし」に準ずるものでしかありません。貴方は前衛アーティストのごとく「腹を括って」すらいない。こうした私の言葉もまた、貴方にとっては「空気読め」という「コード」ないし「内輪」の側からの抑圧的な干渉に過ぎないのでしょうね。


ひとつだけ、上記と関係があるような気がするくだらない話をします。私はいわゆる「合コン」なるものに現在一切出向きません。声ももはや掛からない、というのが実情ですが。別に男前な非モテ話ではなくて、貴方がWebにおいて繰り返しなさっている振舞いというのは、わざわざ合コンに出向いておきながら「まったく合コンなんかに行って一見楽しそうにうわっつらのおしゃべりしている軽薄な連中の気が知れないよ」と合コンの席で始終言い放っているのと同じこと、という訳です。ええ、それこそ難しいことじゃない、それだけなんです。上記の愚痴に私は同意しますよ、であるから私は合コンに参加しない。つまり、卑近な話で説明が付くことです。貴方が顰蹙を買う理由も。確かに非礼の傲慢のと「説教」することでもなかったですね、よく考えたら。「哲学」もあまり関係がない。多く恣意的で不充分かつ不適当な「翻訳」行為であるがゆえに、アナロジーは最近評判が悪いようですが、わかりやすくはあるし、留意点については織り込み済みであることも明らかであるしと自己フォロー。


とまれ本題。「貴方が根拠を示して批判して、ぼくがそれは事実無根だといった」「それを貴方が確認不可能だから云々言い出した。だったらはじめの根拠はどこにあったんですか。」とのことですが「貴方のやった批判」とは、上記の理由により明確にはわかりかねるのですが、どれの何のことですか。とはいえ私は質問返しで何かを言った気になる趣味はないので、参照したところ、つまり再引用になりますが。

「語彙の少ない人だな、と言ったことがありますが、別にそのこと自体を批判した覚えはないですね。」これはmuffdivingさんとの件のことですか。「そのこと自体を批判した覚えはない」のは結構ですが、当該エントリにおける自らのコメントを全削除したうえでそういうことをおっしゃられても困ります。削除は自由です。ただし、検証が不可能な状況に自らがしておいてそのうえで当人が「〜自体を批判した覚えはない」と言って説得力を持ち得ると思いますか。

こっちもそんなこと言われても困るなあ。確かめないと分からないような曖昧な根拠で他人を批判して、それが説得力があるとでも?


このくだりのことですね。私が「語彙の少ない人だな、と言ったことがありますが、別にそのこと自体を批判した覚えはないですね。」という貴方の言について確認のうえで難じたのは、削除によって参照と確認が不可能になっているといえ、記憶に拠れば『NC-15』の当該エントリのコメ欄において貴方がそのような発言をされた覚えがなかったためです。つまり実際に困っていたのですが、今日(昨日)になって当該エントリに対してトラバを送った先のブログを再確認していたところ、なるほど、と発見しました。当時目にしていたはずですが、さすがに覚えていなかった。以下リンク先のコメ欄から(再度。音羽さんに要請されたがためのソースの参照と提示としてのリンクであり管理人氏に対して他意はありません)。


http://d.hatena.ne.jp/buyobuyo/comment?date=20061015#c

gerling 『この人の語彙の少なさはどうもねえ。
三流大生以外に言うことはないのか、って。』 (2006/10/15 21:34)


「この人」というのは当該のブログの管理人氏がトラバされているmuffdivingさんのことです。あくまでそう言っているのは音羽さんであり、かつ当該エントリを初めて目にされる方のために余計な注釈をしますと、当該の管理人氏がエントリにおいて揶揄ないし批判されている対象はmuffdivingさんや当該エントリのコメンターの方達ではありません。翌日のエントリにおいて補足がなされていますが。


ということで「語彙の少ない人だな、と言ったことがありますが、別にそのこと自体を批判した覚えはないですね。」という貴方の発言については確認のうえ了解しました。リテラルにはおっしゃる通りです。当該の発言について参照ないし確認しないまま「削除した」として論難した点に問題があるのであれば、申し訳ありません。謝ります。私は「対話」の流れからてっきり『NC-15』のコメ欄における話のことであり発言のことであると、思い込んでいたもので。貴方が指摘された点については「根拠」を参照し確認のうえ、貴方に謝罪します。また戻りますが「貴方が根拠を示して批判して、ぼくがそれは事実無根だといった」「それを貴方が確認不可能だから云々言い出した。だったらはじめの根拠はどこにあったんですか。」という発言において貴方が問われていた「私が根拠を示して批判した」とは「「語彙の少ない人だな」という貴方の発言について、私が貴方自らが削除したものと判断して「批判」した」ということであり、貴方は当該の発言については削除していなかったのであるから「事実無根だといった」。貴方自らが当該発言を削除したと私が判断した「はじめの根拠はどこにあったんですか」という意味でよろしいですね。貴方の当該発言の存在について確認しなかったことは繰り返しですがお詫びします。ところで「私のやった批判」はまったくそれにとどまるものではない、というか筋がまるで違いますが。16日付エントリにて記していますが。

かつ貴方は先方に対して、周知のことですしmuffdivingさんも一部再掲示されているし気が滅入るのでもう引用しませんが、何を言ったかお忘れですか。そして貴方は事後一切を削除したのです。


以上。そちらに対する貴方の返答についても拝読しましたし了解はしました。貴方が「語彙の少ない人だな、と言ったことがありますが、別にそのこと自体を批判した覚えはないですね。」と他人事のように言い出したため多少面食らいはしました。今、事実認識における行き違いが解けたがため、私の誤判断についての謝罪と共に「はっきりさせて」(=明示的にインフォして)おりますが、私が一貫して「批判」しているのは言うまでもなくそのことではない。私は「根拠を示して批判した」のではありません。「根拠の不在について削除した当事者を批判した」のであり、かつ『NC-15』のコメ欄における貴方の振る舞いについて代表事例として論難している。別の方のブログエントリにて貴方が記した事柄の話を持ち出されたところで、貴方が『NC-15』のコメ欄において記された数々の発言および「受賞」後にそれら「根拠」自体を貴方が一切削除したこととは、関係のない別個の話です。かかる矮小化と瑣末化は、恣意によるものか無自覚であるのか、もはやわかりかねますが。


「私のやった批判」とは上記引用にて示されている事柄であって、対する貴方の「語彙の少ない人だな、と言ったことがありますが、別にそのこと自体を批判した覚えはないですね。」という発言は、恣意的な「文脈における問題のすり替え」すなわち矮小化と瑣末化であると判断されてやむを得ないものではあると、私は考えます。「反語」人間でしかない貴方に「根拠」提示の概念も意思も発想もまた能力もなく、「反証」概念もまた存在しないことは、改めてよくわかりました。それと、貴方の癖は相変わらずであるなと呆れましたが、第三者的な他人のブログのコメ欄で、自らが揉めた別のブロガーに対する「批判的感想」を(当のブロガーが読むことを前提して)記すことは、単純に迷惑なのでやめたほうがよいです。少なくとも私のブログではやめてほしいですね。


貴方がこちらのコメ欄にて「銭の亡者」「そいつら」「いっときゃいいってもんじゃないでしょう」と(私に対して)罵った方が前記エントリのコメ欄に書き込んでくださっていますが(本当に、ありがとうございます。後できちんとレスさせていただきます)、それが一切ないことであるかのように貴方は更なる新規コメントをドクターさんに向けてなのか、確信に満ちた断定口調にて、その下に続けて書き込まれたうえ、かつ><さんの再三に及ぶ懇切丁寧なサジェスチョンに対してまったく論外の捨て台詞を残されていますが、管理人として腹を立てる気にもならず呆れ果てていることは、伝えておきます。単なる言いっ放しで終わるならともかく、よく実名からはてなidに至るまで人称を明確化させたうえで、同一のコメ欄に再三その調子で書き込めますね。自らのプライドだか面子にのみ執拗に拘泥することが、あげく内なる誇りはともかく対外的に面子の暴落を結果することが、はたして「哲学」的な言説発信の態度であるのか私はわかりかねるのですが。「コミュニケートの既成のコンセンサスに意思的に準拠しない」ことと、単に無神経で無分別であることとは、まったく異なります。それと、この件でブクマのホッテントリを再探索していたところ、気が付いたのですが(こちらも各々の管理人の方達に対する他意はありません。当時も楽しませていただきました)。


pal-9999の日記


音羽さん=gerlingさんによるコメントが削除されています。


2006-11-26


同じく、複数のコメントがすべて削除され、のち管理人氏によって復元されています。私の記憶違いないし勘違いであったら申し訳ないのですが、数日前、私が気が付いた段階では、まだ復元されていなかった気がするのですが。それだけですけれど(追記:単なる呟きです。不躾な書き方になってしまっている点、気を悪くされたら申し訳ありません>>管理人氏)。


削除されたコメントの内容については問いません。ブクマコメント等にも記録され、現在でもほぼ確認可能であるから。音羽さんの気持ち自体は、これだけ「考察」してきた者としては、わからないでもない。とはいえ。「自身にとって都合が悪い自らの発言は削除し、そうでないものは残し、そのうえで自己の『公正』を主張する」と対外的に判断されてやむを得ない振舞いではあります。コメ欄にて知らせてくださった方がいましたが(わざわざ(取っていただいて&知らせていただいて)ありがとうございます。感謝します)、やはり私も別個に一連の魚拓を取っておきます、後で。申し上げますと、自らの発言を事後的に削除することを頻繁に、かつ現在進行形で繰り返す人間の発言が対外的に軽いものとして、言い換えれば信頼性を担保しないものとして受け取られ扱われることは、これは当然のことです。それでいて「書かれたこと、それがすべてだ。」と見得を切られましても、いや貴方にとっては本心なのでしょうが、やはり外部に対して説得的に機能するスタンスではありません。


とまれ、またも再引用ですが、「語彙の少ない人だな〜」という貴方の当該の発言において、ごく部分的に対応的に引用されている私の記述とは、一節として再掲するなら。

貴方は小倉秀夫氏のブログのコメ欄において、自らの(確信犯的な)「暴言」について「公正な論評の自由の権利」と主張していますが、その旨について同意したとして、ならかかる「権利」を他の者が行使する自由も存在します。「馬鹿」「死ね」と相手に向かって直接記す「公正な論評の自由な権利」が存在するのであれば「電波」と記し「キチガイ晒し」とタグを付ける「公正な論評の自由な権利」もまた存在しますしかつ貴方はそれを甘受しなければならない。


というものですが、こちらに対して貴方が記された異議については了解しております。「問題は論評が公正であるかどうかです。」続けて、貴方が前記エントリにて最初に記したコメントから対応引用。

>そしてこれも記した通り、自己記述の削除について貴方が主張される主観的な正当性については了解しました。

貴方の考える「客観的」な正当性というのはなんなんでしょうか?ブログにそんなものが成立したことがあるんでしょうか?

>「公正」とは貴方が個人的かつ超越的に決定するものではない、誰であろうと、対外的かつ相対的に判断されるものです。

知ったことではないのです、そんなことは。貴方は言ってるのは空気読めってだけに過ぎない。
正当性というのは、空気が決めるものでもないのです。それはぼくの賭け金なのです。


音羽さん、誤解なさっています。以下は、それこそ「文系」の、いわゆる「価値相対主義者」である私個人による、誤っているかも知れない私見であると断りますが、私はブログでなかろうと前提として「客観的な正当性」が存在するとは、言わないし思わない。少なくとも価値観の領域においては。そういうことではない。「主観的な正当性」とは、sakimiさんが的確に評されているように、Webにおける卑俗な(しかし卓抜な)表現を用いれば「脳内」の話でしかなく、個人の脳内に尽きるものでしかないのです。いわゆる「客観的な実在」と対置させて「脳内」を貶めているのではこの場合はない。言うまでもなく、再三記した通り多く主観的かつ観念的な人間である私個人は「脳内」であること、またそれに尽きることを批判ないし軽侮するものではまったくない。「確信犯」同様「脳内」という言葉自体に私はネガティブな意味を一切付随させて用いてはいない。その旨、明記しておきます。


また、個人の脳内に尽きる話や評や「論」や価値基準を個人が公的に表明することも、たとえその表明において他への裁断的な非難ないし悪罵が混じっていたとしても、現行の法の範囲内に在るなら原則的には自由である、あるいは多少法の範囲を逸脱していようとも、当事者間個人間で個別的に解決し得る領域に属するものであるなら、少なくともWebにおいては無問題、とする立場を取ると、訊かれたなら答えます(というのも音羽さんは「死ね」と平気で記す方であるので)。むろん前提として、かかる「自由」を誰もが持ち合わせ行使し得る、ということです。言論の自由、というやつでしょうか。拡大解釈であるかも知れませんが。むろん私が「多少法の範囲を逸脱」する言辞を用いている、ということではありません。


ですから、私は上記引用において貴方がおっしゃっていることを原則的には認めるし(認める、というのはこの場合、ことさらに対立的な異論を個別的に提出する気はない、ということです)、「知ったことではない」で構わないとも、思いますよ。また「自己記事の削除について貴方が主張される主観的な正当性については了解しました。」という記述についても、べつだん反語や皮肉や嫌味ではなく、本当に「了解しました。」ということです。あえてそう皮肉のごとく強調的に記したのは、そうした事柄と在り様について貴方が認識しているのか疑わしかったがためです。認識されたうえでそう言い切るのであれば、それは一向構いません、御自由に、と思います、悪い意味はなく。


私が前記エントリにて記したのは、こういった事柄です。主観であれ観念であれ感性であれその個人における個人的な正当性であれ、脳内は脳内で構わないし、そのままパブリッシュしたって構わない。ただそれは、前提として他に対して非説得的にしか機能しないし、社会は説得と説得という概念を規定する価値体系に準拠して成立している。かかる価値体系に準拠せず非説得的であることを前提してパブリッシュするならそれで構わないのです。非説得的なパブリッシュが共感や同意を得ることはないなどとは、原理的にも無数の例証によってもまったく言えない。かかる共感や同意が一概にくだらないものであるとは、私個人は断じて言わないし思わない。ただ一連の自己記事に対する貴方自身の反応を鑑みるに、そうした事柄自体が認識されてはいないのかな、と思えました。

貴方の主観的な「非礼と傲慢」に関する説教など本当にどうでもいいことです。ぼくへの論評などぼくは問題にしない。勝手にすれば良い。
ただ、貴方が事実を問題にしないのかもしれないけれども、ぼくは事実のみを問題にしているのです。シム宇宙だろうと(気になってたんだけどあの人は多分fwoじゃなくて、fw0ですよ)NC-15だろうと、2ころだろうと変わらないのです。馬鹿に一分の理もあるものか。
ぼくにとって問題になることなどそれだけなのです。ぼくがどう思われようとそんなことも関係ない。


まず最初に。音羽さん以外にも同様の事柄が「気になって」いた方は大変多いと思うので記しておきますと、はてなのテンプレートを借りている当ブログのデザインにおける、設定された字体のフォーマットに拠ると、半角小文字のアルファベットのo(オー)と、半角英数の0(ゼロ)とが、ほぼまったく同じ外観で表示されます。であるからfw0さんのハンドルの0(ゼロ)については、私は正しく記しています。とはいえこれはブログの字体のフォーマットに理由があり無理もないことであって、私も気にかかってはいたため、音羽さんの指摘に感謝します。


「ぼくがどう思われようとそんなことも関係ない。」立派な宣言と思います。皮肉でなく本当に。一般論として、言辞の尻が最後まで取れるのであれば、という条件が付きますが。つまりは吐が試される、ということです。それは貴方に任せます。「ぼくは事実のみを問題にしているのです。」コメント欄の方達が呆れておりますし、まったく無理からぬことですが、少なくとも私は、わかっているつもりです。貴方がおっしゃっていることの意味が。貴方が問題にしているのは「事実」ではなくて「事実の不在」でしかない。「事実の不在」について「反語」をもって示すことしか、貴方は一貫してなし得てはいないし、できてもいない。なぜできないか。貴方が問題とする「事実」とはいわば「真」のことであるから。「真を前提として事実の不在について反語をもって示している」。貴方が問題にしてきたこと、今なお問題にしていることの一切です。


貴方にとって「事実」と「真」とは等号で結ばれ得る。その際の真とは、貴方にとっての主観的な真でしかない、と記せば貴方は不本意でしょうね。では伺いますが、貴方はなぜ自ら「事実」を求めそれに準拠しようとせず、それでいながら他人が自ら求め提示しそれに準拠する「事実」をただ超越的な位相から断定的に批判、いや否定し却下し続けるのですか。その断定的な否定を担保するものが「正当性」という貴方個人の賭金でしょう。だからそれはあくまで「脳内」の話です。脳内と知って賭けるのであれば構いません。前提的なコンセンサスとされた「既成事項」としての「事実」を全面的に拒否するからその不在のみを主張する。いわゆる「事実」とは、前提事項として機能するコンセンサスを形成するために「根拠」として追求されるものではあるから、貴方がその不在のみを主張することは当然ではありますが。


貴方が「事実の不在」としてのみ問題にしている(括弧付きの)「事実」とは、決して前提とされるコンセンサスを形成することのない、つまり部分的かつ限定的な了解事項としてすら他と共有されることはなくそうあってはならない、前提的な根拠としては機能し得ない「語り得ない」「事実」のことである、と。かかる発想を「否定神学」というのかよくはわかりかねますが、申し上げますと、無数の唯物的ないし人的なファクターが輻輳して介在し繁雑に関連している社会的な現実の相、つまりは現実的な諸関係の渦中においてはそうした超越的かつ特権的な位相とそれにのみ準拠した密度なき言説など、多く夢想的な「哲学ごっこ」でしかなく、公的に表明したところで、貴方同様の感性ないし知的倫理的関心を持たない外部からは「そういう考え方もあるだろうね」と受け取られる程度のものでしかありません。いわんや他への概括的な非難が記されていたのであるなら、批判を受けたところで筋道としても当然の帰結としか言えない。指摘され尽くした事柄ではありますが。


個人の数だけ「主観的な真」とは存在します。「脳内」とは部分的には共通的でありながらも原則として個別的です。肝要なことは、自らの観念領域感性の領域、「主観的な真」すなわち脳内について、前提的な了解事項として、つまりはコンセンサスとして他と共有し得る領域ないし地平について部分的かつ限定的に模索しようと志向し試みる意思です。原則的かつ原理的に、前提なくして他人と話はできない。前提とは個別的なコンセンサスによって個別的に決定されます。コンセンサスとは文脈拘束的でもある一方、個別的でもあって、ふたりの人間の相互性においても形成され得るものです。たとえかかる「ふたり」の間に形成された前提としてのコンセンサスがいかに「トンデモ」なものであろうと、コンセンサスという前提あってそれに準拠する限り、かかる「ふたり」の間には部分的かつ限定的にであれ話(=対話)は成立し得る。


貴方は最初からそうした事柄の一切を認識化もしないままに「御意見無用」で拒絶のうえ否定しているから、この往復的なやりとりもまた「議論」ではなく「対話」ですらなく「かりそめの意見交換」であることすら危うい。そのような、「対話」を最初から拒絶する「書かれたこと、それがすべて」である貴方が、なぜかくも再三、他人のブログのコメ欄に「出張」しては繰り返しレスを記すのか、認識の未整理と非明確のゆえなのでしょう。


昔、橋本治が記した言葉ですが「ひとりなら妄想、ふたりなら真理」という名言を、貴方には伝えたい。注釈するなら、個人の脳内に所在する主観観念感性の領域について、たったひとりであれ他なる個人と共有し合意に至ったなら、それはすでに個人の脳内にとどまるものではない、共有されたプライベートオピニオンとは部分的かつ限定的にパブリックの領域に所在する、天動説から地動説へ、その転換的かつ転回的な価値、ひいては「脳内」を他と分かち合うことの価値、という認識の凝縮的かつキャッチーなコピーです。彼は現在でも根本的には同じことを言い続けていますが。「主観的な真」「主観的な正当性」の他との部分的な共有ないし共通とその集合的な地平を模索しないことには、前提的なコンセンサスの不在により、他と話すらできなくなるがため、必要に迫られて大半の人はそれを模索することを志向し是としている、ということです。Webでなかろうと。「公正」という概念はそうした集合的な営為の延長に所在するがために、対外的な関係性の内部において相対的に決定されることからは誰も離脱し得ない、「主観的な真」「主観的な正当性」の超越性ないし特権性とは、個人の個人性においてしか担保されない、なら当然、他なる個人が個人性においてそれを省みないことも自由、ということです。


ゆえに多くの人は、少なくとも価値的な領域においては、前提的なコンセンサスを形成し得ない、「根拠」として機能しない「事実」よりも、前提としてのコンセンサスを形成するために用いられる(概念的に規定された)「根拠」としての「事実」を追求するのです、便宜上、いや便宜という言葉が悪ければ実際上。かかる「事実」とは常に暫定的かつ部分的かつ限定的であって限界も有し原則として不確実ではありますが、実際的な要請に基づきおよそ確定的な前提としてコンセンサスの形成に際し調達されます。一義に要請されるのは、任意の事象に際する暫定的な合意と了解の形成であり、何よりも意思の疎通と対話の進行であるから。そして、貴方はそうした事柄の一切に半畳を入れようと意思されている、と。結構なことですよ、ただ貴方はこうした枠組ないし構図について、十全に認識なさっていますか。


いささか評判の悪い、いわゆる「価値相対主義者」として私見を述べるなら、価値的な領域においては言説における超越的かつ特権的な「最終審級」の位相など存在しないと、私個人は思っています。個人の個人性における絶対およびそれに規定された価値とは、外部との関係性の相、すなわち現実的な諸関係の只中においては、常に無限に相対化されていくものです。自らを小さき存在と繰り返し呼ぶアルファブロガーとされる方がおられますが、そういった意味合いであるのだろうと、私は勝手に考えています。おそらく貴方は「言説における超越的かつ特権的な位相」の所在を、あくまで個人として信じ、それにのみ拠って言説を発信しているのでしょう。それは貴方にとっての個人性に準拠した倫理判断であり、価値判断であって、いわゆる「価値相対主義者」でない(そのこと自体はまったく無問題です)貴方にとって、自らの倫理判断と価値判断とは、貴方の個人性の位相においては「絶対」ではあるのでしょう(貴方の一連の言動はそうとしか受け取り得ない)、個人性に準拠した「絶対」的な価値とそれをめぐる判断を躊躇も気兼ねもすることなく堂々と公的に表明することは、正当な行為であるのでしょう。


構いませんが、自明の事柄について指摘するなら、自らの脳内にのみ依拠して超越的な価値的/倫理的批判を他に向けて連ねたところで「それは貴方の脳内だね」と言われてしまえば論駁ないし反駁の余地はなく、個人性にのみ担保された内なる特権的な位相とは対外的には無効をしか多く意味しない、ということです。かかる見取図も枠組もなく、認識が未整理のうえに非明確であるから、貴方自身はそれを仕方がないこととは思わず、方々のブログに「出張」のうえ不毛なレスを繰り返し続ける、現在もなお。そう、であるからこそ、多く言語的存在たる人間は、たとえ限定的で時にバグの混入した不完全なものであろうとも、共有され得る暫定解としての前提の成立を求めて他に対する「説得」を試みる。個別的な「脳内」の、方法論における人類単位の総合的な共有と個別的な同意ないし了解へと至らんとする試行的な営為の持続を、普遍への志向と呼ぶのであろうと、私は思っています。誤っているのかも知れませんが。


繰り返しますが、事実とは根拠とは前提とは公正とは正当性とはコンセンサスとは、常に暫定解であって、暫定解の限界について大半の人間は勘定しています。かかる暫定解としての一切は貴方の個人性に準拠した「真」とそぐわず相違するため、かつ貴方がそのことを自ら明確に認識していないがゆえに説明しようとしないため、同一の言葉と語句をめぐってまったく異なる概念についての話が繰り広げられ結果、話はまるで通じない。まさしくコード違い、ですね。相互検討的な準拠枠に則らんと志向する人間と脳内の準拠枠にのみ則る人間とでは、話が成立しません。言うまでもなく一般的な意味における社会とは相互検討的な準拠枠をシステムにおいて前提する価値的な空間です。つまり、ブクマのコメントを引用させていただくなら、私の立場から「考察」したところ、貴方がおっしゃっていることの一切とは一貫して個人性にのみ準拠するイデアルな「真理」の範疇に属する話でしかなく、多くそれは現実的な諸関係とは対応し得ない関係にあり、かつ「批評」からも最も遠く(「チラシの裏」を私は認めるけれど「チラシの裏」は「批評」ではないと自戒を込めて思う)、むろんイデアルな「真理」の証明など不可能であることは本人がよくわかっていることであるから、ゆえに貴方は任意の事象について延々と「真理の不在」をのみ「指摘」し続ける。事実について根拠について前提について公正についてコンセンサスについてetc.意味のある行為と、貴方は思っているのでしょうね。御自由ですよ。それに付き合わない自由もまた保障されていますから。


そして、かかる貴方の倫理判断と価値的な裁断とは何であるか。もはや言わずもがなでありますが。

> 現在の貴方に対して「ポジティブな関心」を持つ人間の存在について、貴方はいかなる筋道によって見出しておられるのですか。

ぼくはあの下品な人たちの言ってることが嘘八百だと分かってもらえたならそれでいいのです。ぼくが見える範囲などせこいことは言わない。言ってしまえば、文章に関心を持ってくれれば良いのであってぼく自身に関心など持つ必要はないのです。


「あの下品な人たち」というのが、例の告発運動の主体的な当事者達のことと気が付くのにしばし時間がかかりました。つまり、(追記:てっきり)muffdivingさん達のことを指しているのかと。とはいえ貴方にとっては、同じことなのでしょう。甚だ失礼なことを伺いますが、とはいえ貴方はその数倍する失礼をこちらのコメ欄において現在進行形で他のコメンターの方に対してなさっているので気兼ねすることなく伺いますが、貴方には人間の区別が付いているのですか。貴方の個人性に準拠した倫理判断と価値的裁断という「特権的な位相」の前では、現実的な諸関係における物事の分別など一切は「瑣末」な事柄でしかないのでしょうが、とはいえ分別以前の他人の区別すらつかないまま盲滅法に非難を投げまくり暴言(もう括弧で括ることもやめました)を吐きまくっていれば、それは顰蹙され方々に敵を作るでしょう。その結果が例の「受賞」騒ぎです。「ネガティブキャンペーン」の存在をごく限定的かつ部分的といえ認めていた自分が嫌になってきました。「あの下品な人たち」と一挙概括して一刀両断ですか、もはや知りません。

>では、これは本当に回答を求めての質問ですが、いったいどこに貼ってあったら「良いように」とられると思いますか。

ぼくが価値誘導的に振舞えば、簡単でしょう。

> 貴方の「暴言」とは、いわゆる「ネット内輪」に通じていない人間が目にしたなら引きまくる類のものばかりです。

その前に、わざわざそんなところ見ないでしょう。


そうですか、健闘を祈ります、としか言えません。「簡単でしょう。」「わざわざそんなところ見ないでしょう。」案外、貴方の言う通りであるのかも知れませんね。オーマイニュースの読者も含めたあらゆるWebの住人とはその程度に分別以前の区別すらつかない文盲なのであろうし、watchの意思やあるいは「悪意」なき、小倉秀夫氏が言うところの「普通の人」としてのオーマイニュースの読者はmuffdivingさんのブログなど読まない人達なのでしょうし、記者としての貴方の実名で検索をかけたりはなさらないのでしょう、知りませんが、貴方の確信に従いましょう。貴方にとっては確信であるのだから「強弁」とするのは正しくないのでしょうが、対外的にはそう受け取られてしかるべき発言です。断絶が在ります、縷々綴ってきたそびえる高き壁の所在が。

> 少なくとも上の判断については貴方もまた認めますね。

いいえ。そもそも英論文は国外に入ってないこともあるって、言ったはずですがね。


「いいえ。」というのは「認めない」ということですね。つまり「ドクター氏のような、医学に関して少なくとも一般より知識をお持ちの方(文献探索に関する正確な知識から医者かどうかは不明ながら、知識がありそうだとはわかりますよ)」という><さんの記述に対して。再三の明白なドクターさんに対する侮辱を意味する発言ですが、貴方の強弁と対外的に受け取り得るものは多く貴方にとっては内的な確信以外の何物でもないのであるから、御意見無用、ということで、もはや何も言いません。

> 記した通り私は貴方があえて実名でコメントしてくださっていることを嬉しく思うからできることなら言いたくはありませんでしたが〜

確認できないから云々なんて言うなら確認すればいいじゃないですか。ぼくが音羽理史かどうかわからない、そんなこと当たり前じゃないですか。だからこそ、ぼくは確認可能性を担保にしているのです。


簡潔な回答ゆえ意味をいささか汲み取りかねるのですが、このことに関して貴方が本気で怒っていることはわかりました。意味を汲み取りかねはするものの、私個人は、この言についてはちょっと納得(説得ではない)しました。自己の実名公開に関しては貴方はきっちり帰結を見据えて腹を括っているということですね。貴方にとっては確信であるのでしょうし、これについては私は強弁とは申しません。結局、問題は、貴方が自らの実名公開を最大の担保として言説を発信していること、やはりその点でしょう。自らの実名公開に関しては貴方に個人としての個人性においては引くところがない点、了解しました。とはいえ私や七誌さんが指摘したのはそういった事柄ではないのですが、措きます。そうした貴方については、私個人は認めます。以上とりあえずの返事として。失礼しました。結局全文逐一引用してしまいました。