長大なレスポンス


最初に。先程、当エントリの決定稿を推敲している最中に自ブログをリロードしたところ、新規コメントが。音羽理史さん、さらなる返答、ありがとうございます。「話にならない人」に勘定されてしまったかと思ってはいたので、嬉しく思っています。いまだ目を通したばかりではありまして、それを受けていくらか原稿を補正していましたが、原則的な変更は加えておりません。なので新規のコメントにおける貴方の返答といささか行き違っている点、申し訳ありません。その点についての対応的な補足も含めて、とまれ、音羽さんに対しては後でゆっくりと返事を記させていただきます。取り急ぎまでに。では本編。


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前記エントリに対して丁寧なコメントを記してくださった皆様、本当にありがとうございます。分量的に長いレスになってしまうと予想され事実その通りになったため、新規エントリとして掲示します。以下は前記エントリに書き込みをしてくださった御三方に対するレスポンスとしてのみ、記します。


文系が記す - 地を這う難破船


まず真っ先に補足というか記しておきます。匿名wさんによるコメントの、

申し訳ない、最後の段落を読み落としておりました。これで〆だったのですね。
まだ続けられるというお返事だったので対話を続けられるおつもりだと勘違いしておりました。


いえ、誤解を与えてしまい申し訳ないのですが、〆とそう明示的に宣言したわけではありません。前記エントリ最後の段落にある、

最初から「話にならない人」と相手を見切ってはならない。途中から見切ることは私もたまにありますが。それは多くお互い様のまた相です。ですから、問題意識の表出方法が問われるのです、ということでしょうか。失礼しました。


という私の記述のゆえでしょうか。匿名wさんのコメントを受けて読み返し、あ、これが音羽さんに対する「見切りました宣言」と受け取られてしまうか、と気が付きました。匿名wさん以外にもそう思われた方は多いのでしょう。私の不備です。申し訳ありません。引用の上記は、音羽さんのことを指して暗に言ったのではなくて、過去のそしてつい最近の別件のことを思い返しながら一般論として記していたのです。「お互い様のまた相」というのは、「見切った側」の個人的な事情が「正しい」とは限らないけれど、とはいえ個人的な「見切る事情」の個人性について非難するべきでもないかなぁ、という私見です。結局のところ、物理的な経済性を前提して、生産的な最適解をネットにおいて限定的に模索しなければならない以上、邂逅と別離にモラルを対置させてもな、ということです。いやこれは誰に対して言っているのでもなく小倉秀夫氏の「受賞」直後の発言を支持しているわけでもなく、単なる私見の表明です。私自身もまた、自らにとっては重要性が了解できない「議論」から最終的にケツまくった前科があったりするもので。


実際、見切る見切らない以前に、いかなる形であろうと、音羽さんが自己に対する批判的言及を含む私のエントリに対して意見表明を行うことは原則として当然自由です。であるので、対話を続けるつもりがないと、明言しているわけではまったくありません。音羽さんの返答を待たずして明言してしまう資格もありません(後注:返答をいただきました。ありがとうございます)。積極的かといえば、記した通り淡々です。音羽さんもまた同様でしょうか。互いに良いことと思います。ヒートするのが最もよくない。主にコメント保存を目的として、当ブログにおける本件関連エントリの魚拓が取られているようですが、私自身は取ってもいません。音羽さんもまた同じことはされないと思いますし、音羽さんの(ドクターさんへの)書き込みに対する批判は、前記エントリにおいて引用の上やりました。あればかりは管理人としても、到底看過できません。匿名wさんがそのように判断されてしまったことはむろん私の記述における落ち度によるものですし、そう判断された方は他にも大勢いると思います。ここにお詫び申し上げます。


ただこれは「意見交換」としての「対話」ではあるかも知れませんが、議論を志向しない者と議論の不得意な者(こちらが私)がやっている以上「議論」の体をあえて避けてはいるので、発展の道筋が見え難いな、とは思っていますし、音羽さんが「自分を云々されることは心外であり業腹」と思うこと自体はこれは当然のことではある、とは考えますので、「見切る事情」は音羽さんの側には存在している、ということで、どうなるやら、とは思ったりしています。やはり私が長大な前記エントリを掲示した最大の動機とは、音羽さんのコメントを放置するわけにもいくまい、ということであり(音羽さんは私に対しては露骨に批判的であるわけではない・後注:批判をいただきました。後日レスしますが私の当該エントリの文章に関しては筆者としてはおっしゃる通りです。汗顔の至り)、音羽さんの書き込みに対する関係各所の無言の不快を背中に感じたためでもあります。そうした不快はまったく妥当であるため、管理人として科学にてんで疎い身分ながら、私のなし得る範囲で批判しました。それこそ「専門家」が見たなら音羽さんの書き込みはむろんのこと私のそれに対する批判もまた失笑ものでしょう。ポパーもちゃんと読み込んではいない者が自然科学を云々してはイカンな、と自省することしきりでありますが、前記エントリを訂正する代わりに説明と反省としてこちらの新規エントリを記しています。結局、批判の要諦とは、医学ないし自然科学に対する認識の瑕疵について指摘するというよりは(それは五十歩百歩であったりする)、音羽さんの非礼の構造を指摘する点にこそあった、ということです。正直なところ、音羽さんの書き込みに対して不穏な空気が漂っていたがため、実際コメンターに対する甚だしい非礼が存在した以上、管理人の責としてとことん、という体で論難しました。コメ欄においてどなたかが即時的に揶揄としてあるいはDisとしてごく短い文によって批判したところで(音羽さんのタフネス自体は尊敬に値する)荒れ模様になることは明白であったため、「正常化」を意図するためにも根本的にやりました。むろん、ドクターさんに対する再三の非礼については、私もまた業腹でありました。


前口上でした。まず、通りすがりさん。

オマニーの記事もsk-44さんの言うとおり「当事者性が欠落したままにつまらない詮索をあれこれとするべきではない」ですね。自分もそれには同意します。
ただ、その記事といい、色々なブログのコメントのやりとりを見ていて、読み手に共感を持たせる書き方が苦手なんだなと思ってます。(まあ非礼なコメントは問題外ですがw)
共感が得られない、反感を買う、それらにはそれらの理由があるはずなのですが、大体そういう人は、それが何故だか分からないからまた繰り返しちゃうんですね。


さくらちゃんの件に関する音羽さんの見解はそれに尽きています。ただその延長線上に音羽さん個人の問題意識が所在していて、そこに至るまで射程を伸ばし展開を試みた結果として、「祭」としての告発運動批判ひいては2ch批判があり、さらには記事後半部のデリダを引用しての「議論」がある。音羽さんは、少なくとも「哲学」に関しては真面目に取り組んでいるのであろうと、私個人は思います。そして、当該の記事においてもまた「読み手に共感を持たせる書き方」ができないのはなぜか、と言えば、ひとつには音羽さん自身がそれを望んでいる部分がなきにしもあらず、というところがあります。これはtodeskingさんのブログにおいて繰り広げられたこととあるいは関連する(音羽さんにとっては不快な一件でしょうし、またその点については私も部分的には共感するがため、リンクはしません)のですが、ものすごく粗雑かつ簡単に言って、音羽さんには(通念的かつ公約数的に記せば)「コミュニケーションの不可能性」という問題意識がある。


muffdivingさんはそうした問題意識に対して「自分で繋げることが要求される」と思うが(その意思を持っていないだろう)、と指摘されているけれども、なんというか、それこそデリダ等いわゆる「哲学」の領域においてはこうした問題設定が要請されるものではあって、音羽さんはいわゆる「哲学」に準拠した話をしている。あえて「理解」「共感」を拒絶する態度をもって音羽さんは振舞いかつ「記事」を記しているのであって、いやそれは「記者」としてどうなのか、と思う人はあろうが私は言わないし、結果として理解されず共感されず、ということは、御本人にとってはあるいは本望なのでしょう。音羽さんのタフネスもそこに由来する。いやそんな人はコメ欄に再三来ないでくれ、と思われる人があるのはその通りです。


「観念」の領域から一歩も出ていない、と私は音羽さんについて記したけれども、音羽さんにとってはあくまで「哲学」の領域から物事を論評していくことは当然であって、その意味では確信犯でもあるし、それは「哲学」的には正しい態度かも知れない。観念領域から一歩も出ないままに社会的な事象を論評すること自体は悪いことではないけれども、そうして発された言説が社会的な文脈において機能するであろうか、あるいはそうした行為は社会的なコミットメントと言えるのだろうか、とは思います。自覚しているのであれば構いませんが。当該の記事も、半ばは「共感ないし繋がり」に対する「不協和音」を意図して掲示されたものでもあって、todeskingさんのブログにおいても記されていましたが「ここまで伝わらないものなのだろうか」という2つ目の記事における記述について「あれはレトリックです」と音羽さんが述べているのも別に詭弁ではなく半ば本意ではあって、あくまで半分は、と断りますが「伝わらないこと」を前提しかつそのこと自体に批評的な意図を込めて「記事」を投稿しているのです。伝わらないことによって発生する「共感と繋がり」に対する「不協和音」それ自体を半ばは目的として記事を掲示している以上「共感を得られない、反感を買う」こと事態は音羽さんにとっては半ば「想定の範囲内」ではあります。である以上、前提として「同意」された共通の基盤(音羽さんの表現を用いればコード)の存在にある程度は準拠してなされる「議論」に意義を認めず価値を置かないことも音羽さんにとっては当然の事柄であって、自己記事への「ひと言」欄における批判に対して省みない、というのが言い過ぎであるならば、相互検討的な議論への自らの参加による展開に対して関心を払わなかったのもまた、それが理由。2ch云々と方便を用いず、最初から「自分には相互検討的な議論など有意義なものであるとは思えない」と表明するべきであった、と皮肉でなく本当に思いますが。別に「バッシング」されたから応じなかったのではなくて、最初からそうした価値観を持っているのだから。


かかる事柄を踏まえず(いや無理もないと言えなくもないですが)「コミュニケーション」に関して音羽さんの「不明」を揶揄したtodeskingさんは、それは悪い。音羽さんが本気で反応するのも当然のことです。本人の土俵であり、音羽さんにとってtodeskingさんの指摘している事柄は「自明」であったのだから。それを「こんなことすらわかってない奴」呼ばわりされたら猛抗議して当然ですし、名誉に関わる事柄であるからエントリを消せと迫ったのも、無理筋ではありますが、気持ちとしてはわからないではない。つまりそもそもの問題として、こうした音羽さんの「意図」を誰も読み取れず、かつ本人もそれで構わないとしている点こそが無数の軋轢を生んでいるのですが。ただ当該エントリにおいても窺えた事柄であり、かつこれは誰であれそうですが、音羽さんの想定の外部とは無数に存在し、そのひとつとして音羽さんが勘定してはいない反感の所在について、私は前記エントリにて記しました。そしてむろん、通りすがりさんの言われる通り非礼自体はそれと別問題として論外です。いや論外と裁断的には申しませんが、私のブログではなさらないでいただきたい、ということです。リスクヘッジの観点からも、言葉の非礼が荒れを呼びかねない以上注意するしかない。「哲学」以前の問題として。


であるから、通りすがりさんが言われるところの、音羽さんが「共感を得られず反感を買う」ことを繰り返すのは、確信犯的な部分が半分、本人も想定していない部分が半分、といったところでしょうか。私は本人の「想定外」の部分について言挙げてきたつもりです。「想定外」の領域にはたとえばごく単純に「謙虚さ」に欠けている、ということがあります。自己の問題意識に接触しない事柄に関しては、(つまり自らの不案内な分野についての)いかに有益な助言であろうと一方的に排斥してしまう。自らの意見を絶対善と思っているかは別として、これはmuffdivingさんの指摘する通りです。そうであるなら、他人様のブログに「出張」しなければよいのに、とはさすがに思います。「謙虚さ」に欠けるとはどういったことか、別に「ネット内輪」的な抑圧の言辞ではなくて、単なる方便として内実も知らず信じてもいないのに「専門家」「専門性」という概念を振り回す、かつ実際にその言葉に応えて「専門家」が丁重に応対すれば露骨な非礼で返す、最初から方便でしかないから「専門家」ないし「専門性」に対して敬意を払う気などない、それでいながら「専門家」「専門性」とあたかも信じているかのように連発する。そうした態度は、「専門家」「専門性」という概念の所属する価値観に対する侮辱であり専横であり傲慢でしょう。ただこのことについてもまた、音羽さんにはそうする必然があって。


ごく簡単に言って、音羽さんがその「意図」において一貫して行い続けていることとは、ある種の「自明性」(と音羽さんが思う事柄)に対して「それは自明ですか?」と問い続けている、一切はそれに尽きる。「反語」とはそうしたことであるし、繰り返される「意図的質問」における「意図」とは、最終解としてはそれであるのでしょう。自明の自明性を問うための、自明性の「無謬」を撃つ(追記:=「誤謬」の所在を示してみせる)ためにのみなされる、問い。自明の自明性を問うている以上、自らが相手の自明に乗ってはならない。であるから「根拠」の自明については問うが、自らが別なる「根拠」を示す意思はない。なぜなら「根拠」自体の自明性に対する疑を問うているのだから。「自明性」に準拠する者達の「自明」を問うこと。「自明性」の「非自明性」について、かつそのことに無自覚な者達について、指摘してみせること。かかる「自明」が「ネットの内輪」の「自明」であろうと「根拠」の「自明」であろうと、あるいは「専門家」の「専門性」の自明であろうと。こうした行為は音羽さんにとってはおそらく「哲学」の領域にある問題設定として、「自明性」に対する「哲学的懐疑」の実践としてその正当が付与されているのでしょう。つまり、音羽さんにとっては「ネットの内輪」とは「根拠」とは「専門性」とは「専門家」とは(それに準拠する者達にとって)「自明」なものであろうという(追記:前提的な)認識がなされているのでしょう、と。


そしてさくらちゃんの件に関して音羽さんが一貫して表明していた(ないし表明しようとしていた)スタンスとは、有り体に言ってしまえば「瑣末な医学のことより生身のさくらちゃんのことを考えろ(ましてや金銭をめぐる事情など二の次三の次)」でありました。であるから「『当事者性』の欠落した瑣末な医学の話」に関するインフォないしサジェスチョンなど、どれだけ懇切丁寧であろうが音羽さんはまったく求めていない。こうした「見識」というか見解を、それも当てつけめいた間接的な形でぶつけられて「医療の専門家」が困惑しないはずがないのですが……ですからそれが甚だしい非礼であるし、そもそも最初に直接的に言うべきであると。ただし、「死ぬ死ぬ詐欺」の件に関してこう考える/考えた人間は音羽さんに限らないのです。前記エントリにおいて記した事柄ですが。困ったこと、とは私個人は思います。


匿名wさん。

私の真意は管理人氏がお返事に書いて下さった内容とは違うのですが、ここに書くのも野暮なのでもし機会があればまた後日コメントさせていただきたく思います。


申し訳ありません。12日付エントリのコメ欄において、匿名wさんの丁寧な書き込みに対していささかいいかげんな形で、はぐらかすように答えてしまったことを認めます。謝罪します。エントリUPによって疲れていた、というのは言い訳になりません。ただ、御本人がこちらを読み、かつエントリにおいて批判的に言及している以上、コメンターに応答する形で音羽さん個人を(それが事実であれ)貶めるような事柄を記すことは、私の姿勢としては能う限り避けたいと思っていたということ、御理解いただければ幸いです。匿名wさんが音羽さんを貶めていたということではまったくありません。とまれ、12日付エントリに寄せられた匿名wさんのコメントに対して再度答え直します。


「壁」の向こうの風景 - 地を這う難破船

(前略)もう既に彼はあろうことか「実名で」これだけの恥をさらしていて、過去の「議論もどき」の内容から再起の可能性が薄いことは十分知れ渡っているのですから、放っておいてフェードアウトするのを待てばよいのではありませんか。(下のトラックバックでも「公開リンチ」と揶揄されていますし…。)


繰り返しますがおっしゃる通りです。事実として。匿名wさんの真意の所在については本当にわかりかねるのですが、リカバリーなきまま現在の態度を音羽さんが繰り返せば、少なくともいわゆる「ネットの内輪」において音羽さんの言説は単に無力となっていくでしょう。「ネットの内輪」など音羽さんは知ったことではないでしょうが、少なくとも「ネットの内輪」からは「フェードアウト」していく、ということです。いまだに対応する人間の気が知れない、というようなコメントも、私に直接対するものではないですが、いくつか目にしました。私がギャラリーでも同じことを思うでしょう。というか、以前再三記した通り、関わり合う気はなかったし、今もありません。音羽さんもまたそうした人でしょう。そういうところは嫌いではない。むやみな非礼さえはたらかなければ、という条件付きではありますが。もはや、いつ打ち切ったところで私に不評は立たないでしょう。むろん私が「正しく」「説得的」であったからでも「論破」したからでもありません。相手が音羽さんだから、です。


つまり、こうした事情のことはちょっと考えてはいました。真意のわからぬままに記しますが、匿名wさんの最初のコメントの意図を(略した前半部まで含めて)私は「もはや音羽さんの評判は底値であるし、叩くにあるいは揶揄するにこれほど安易な相手はいないのであるから、このうえさらにあえて舞台に引っ張り出して批判する必要があるのでしょうか」と読みました(間違っていたら申し訳ありません。御指摘いただければ幸いです)。同意します。本当に。私は音羽さんの「受賞」の狂騒の直後(11月末)から音羽さんに関していくつもエントリを掲示しています。匿名wさんがそれらを読まれているのかわかりませんが、私は音羽さんを「無条件で叩く」ことも「揶揄する」こともしなかったつもりです。そうされた方を批判するものではない。これも記しましたが、(ましてトラブルの当事者であれば)至極当然と思うし揶揄についても読んで楽しみもした、ただ、これはいわゆる音羽さんが言うところの「ネガティブキャンペーン」に対する感慨とも通じるし「死ぬ死ぬ詐欺」の件に少しばかり行き合った者としての屈託もある。あの当時「告発運動」を自ブログにおいて批判することは相当な覚悟を要したし、「受賞」の直後に音羽さんについて部分的かつ限定的にでも肯定的に言及することの難しい空気が所在した。であるから小倉秀夫氏がそうせざるを得なかった切実な感情について理解はしますが、記したことですがあれでは「何も救ってない」。「死ぬ死ぬ詐欺」告発運動の批判など特にそうですが、「今であれば」誰でも言えることというのはあるものです。私も含めて、ではありますが。


私は、比喩的な意味においても音羽さんは「キチガイ」「電波」ではないと思います。であるからこうして、関連エントリのURLを2ch掲示してくださった(好意的なコメント、感謝しています)方によるフレーズを引用すれば「分析&解説」としての言及を幾度もしているのです。むろん音羽さんの狼藉をコメ欄において被り、「死ね」だの「豚野郎」だの「虫けら」だの「クズ」だのという「暴言」を直接向けられた方達がそう評するのは当然のことです。そして音羽さんは実際に、そう取られて仕方のない振る舞いを続けている。これも記しましたが別に肩を持っているわけではない、ただ物事の実態的な区別についてインフォしたかったというだけのことです。たとえば、音羽さんの「常套手段」としての「根拠」の提示を求め続ける「意図的質問」の非礼な内実について「分析&解説」し、付き合ったところで消耗と不快をしか結果しかないからまともに対応するべきではないとインフォし、もはやそうした手法は「問題意識」の表明手段としては無効ですし、誰に対しても通用しませんよ、と音羽さんに対して、悪い言葉を用いれば、引導を渡したかった。不毛な軋轢とディスコミュニケーションを繰り返さないために。私は相手が音羽さんでなかろうと「意図的質問」の類を嫌うし、それを用いる人間は音羽さん以外にもいくらもいます。状況に違和を感じていた、たまたま、なにがしかを知っていると考える者がその知っている事柄について(私見と断って)幾度かインフォした、それに対して当事者が反応した、かくして行きがかり、ということに過ぎません。


そして、これはあるいは御本人に対しては失礼な言い方ではありますが、音羽さんの年齢はリカバリーを蓋然し得るものです。非礼にせよ「謙虚さ」を知らないことにせよ、指摘される瑕疵は年齢を考えればやむを得ないものでもあると、私には言えます。その点においてリテラルには、小倉秀夫氏の判断には同意しないものでもない、とも記しました。「彼の正義感というのは、一般社会においてはそんなに不快に思われる類のものではない」という小倉氏の言に関しても、小倉氏にそのつもりはないのでしょうが、私は上記ならびに前記エントリにおいて記した事柄から、アイロニカルには、同意します。音羽さんと同年齢同世代の方達を軽視しているつもりはない、ただ個人の恥ずかしい事情を記すなら、私が音羽さんの年齢の頃にはひたすら痛くかつ精神的にグランドゼロではあった。ネットはともかくリアルにおいて。私がバカで未熟であっただけであるのかも知れませんが、当時がブログ時代でなくてよかったと、心から思います。ですから私個人の単なる感慨とやらに属する事柄でしかありませんし、一般化し得るものでは到底ありません、ただ、なぜ音羽さんにsk-44は対応しているのかという疑問が存在するのであれば、つまらない個人史がいくらか影響してはいる、と答えるということです。そして、以下についてですが。

さて、エントリ拝読したのですが、読んでいてこれは違うのではないかと思った点があったので、これから登場されるであろう音羽氏への確認の意図も含めてコメントさせていただきます。

このエントリでは中盤のかなりの部分を音羽氏の 論文およびそこに書かれる数字 に対する認識の誤りについて割かれており、絶対的な数字はないということを記述しておられます。
ですがおそらく音羽氏の認識はそういう次元の問題ではなく、
「論文に統計情報として掲載されている内容は、少なくとも今回の議論の対象であるさくらちゃんのデータは含まない(まだ結果の出ていない事象であるから当然)」
「よってさくらちゃんという個のデータとして検討する余地なし」
「一方、さくらちゃんを診た医師の言葉はさくらちゃんという個について直接言及するものであるから十分信用できる」
というものなのではないでしょうか。
つまり、統計は統計であって現実の例の平均に過ぎないから個別の事例に対して何の意味も持たない、と。
とりあえずこれが音羽氏の認識と一致するかのお答えを頂きたいので、それまでこのコメントの是非については保留していただきたく存じます。


上述したように、私は「〆ます」と明示的に表明してはおりません。ですからこちらは削除せずに改めてエントリ内に掲示します。クリティカルかつ的確な指摘と思ったためです。後出しになりますが、私が気付いた前記エントリの致命傷の内には匿名wさんの指摘によって気付かされた事柄も含まれています。こうした方の指摘をいただけることは、本当に有難いことです。「〆ます宣言」と誤解されてしまうような書き方をしてしまった点、申し訳ありません。そして、匿名wさんの御要望に従って、この点、音羽さんによる返答の以前に私がなにがしかを記すことは保留させていただきます。こうした点に関する、音羽さんの認識については私も御本人の言葉を通じて純粋に伺いたいです(後注:確かに、その要があったといえ「代弁」は品がないと思ってはいます。音羽さん御自身が自らの認識そのものを表明されることこそが最善解であることは言うまでもありません)。とまれ、匿名wさんの問いについて、まずこちらに掲示します。共に「音羽さんの認識においては」という指摘としての検討であって、もう散々私が勝手にやってしまったことといえ「音羽さんの認識」についての確認なきままこれ以上欠席裁判を続けるわけにもいかないとは、思っています。


最後に、ドクターさん。心のこもった御返事を真っ先に記してくださり、本当に、ありがとうございました。私もまた、ドクターさんが書き込んでくださったことによってこの件に自分が関わったことの意義をいくばくかは感じましたし、ドクターさんの御返事を読んで救われました。音羽さんは、確信犯なのですが、とにかく場をネガティブにする方なので……

あなたの文章が全てが真ではないにせよ、


申し訳ありません。その点についても不甲斐なくて。不案内ゆえ無茶苦茶なことをきっと書いていると思います。ひどい「代弁人」であると認めます。ただ、音羽さんの非礼の構造的な実態についてはとことん指摘したつもりです。もう本人が繰り返せないように。繰り返したところで少なくともこちらのエントリを閲覧した方達は一切相手にしないことでしょう。muffdivingさんがリンクしてくださったおかげで、音羽さんに関心を持つほぼ全員がこちらに一応は目を通してくださったことでしょう。たぶん、音羽さんが非礼極まる「意図的質問」を繰り返す背景には、自らの「意図」に自身ではいくらか気が付いていない、ということが、やはりあります。少なくとも、本人が気が付いてくれたのであれば、私のかかる長文もすこしは甲斐があったのかな、とは思います。すべては行きがかりではあります。


と、いうことです。コメントをくださった皆様、本当にありがとうございました。音羽さんが登場し再三コメントしてもなお、コメ欄が荒れなかったこと、管理人として嬉しく思います。そして念押しの後注、音羽さん、貴方の新規コメントに対する応答はまた後日別個に記しますので、少しくお待ちください。いまだわずかに話がし得る余地があるのではないかと、私は思っていますので。


追記:当エントリにおいて使用されている「哲学」とはあくまで括弧付きの表現です。