付記


一応、念の為に意思表明だけはしておきます。


apesnotmonkeysさんことApemanさん、私としてはもはや貴方の「質問」に応えるつもりはありません。再三記しているはずですが。貴方の新規コメントを一読して、対応の要をまったく感じなかった、というのが率直なところです。礼儀としてもボールは投げ返しておくべきであろう、とは思いましたのでこうして綴ってはおりますが。もし「続き」があるのでしたらどうぞ御随意になされてください。拝読はさせていただきます。


貴方の新規コメントにおける指摘の中で、私にとって最もクリティカルであったのは、冒頭の「sk-44さんの韜晦」というくだりでした。韜晦、か。そう見えるのですね。自覚がなかった。自覚を促していただいたことには感謝します。ごく簡単に記しますが、私は、任意の事象に対して「○/×」の判断のみを明示するような文章を書く気はないのです。○と×を同時に示す文章を書きたいとつね志向しているのです。


話し言葉とは誰にとっても常にリニア(単線的)ですが、書き言葉はそうではない。言い換えれば、A→B→Cと同一のレベルにあるABCを単線的に開示していくことが話し言葉の限界であるならば、別個のレベルにあるAとBとCを同時に、ABCの関係性や立体的な構造まで含めて提出し得るのが、複線的な記述行為の可能性です。可能性の実現は技術と技巧によって保証されます。レトリックとはニュアンスを伝えるための道具です。ゆえに、可能性のために私は自分なりに真面目に書いている。私は饒舌ではありますが、口が悪いせいもあって話しているうえでは「○/×」的になってしまうことが多くある。その失われた可能性をこそ、文章のうえでは追求しているのです。


「「解釈」に依存しない「文意」ってなんですか?」という貴方の質問に対して私が応えないことには「続き」も展開し得ないであろうとは思うので、その点だけ応えます。ただ、私は貴方との「論戦」自体に対する関心を失っておりますので(貴方というブロガーに対する関心は、また別です)、理論武装も外してあえて無防備かつ雑駁に応えますが、簡単です、上のごとき記述者としては「できうる限り注意深く読解してください」ということに尽きる。むろん記述者が読者に対してそのような注文を付けるべきではないし口に出すべきでもありませんが、そもそも読者が記述者に対して直接「解釈」を突きつけてきたなら記述者本人としてはそう応えるしかない。あるいはそもそも応えない。


一般論として、作家へのインタビューを想起していただければわかりやすいと思いますが、読者の解釈を直接記述者に対して突きつけたなら、記述者は必ず「それは違う」と言います。あるいは口に出すか否かです。村上春樹の「少年カフカ」は「口に出さなかった」典型です。そして読者と記述者が検証作業を行う要がもし存在するのであれば「現物」たる記述自体を参照するしかない。ゆえに、多くの「作家」は読者の「解釈」には直接応えない。記述にすべては尽きている。「真意を明かせ」というのは端的に非礼ですから。なので、解釈を提示されるのは構いません。しかし記述者としては現物にきちんと当たってくださいと申し上げるか応えないか、ふたつにひとつしかない。


と、いうことです。韜晦家としては。