孤独のグルメ


おまえどんだけ痛いニュースからネタ引っ張ってきてるんだよ、という突っ込みは耳に痛いのだが、物理的にあまりネット巡回している余裕がない。ちょっと目に付いたので一言、というだけです。


痛いニュース(ノ∀`) : 坂本龍一「食堂で一人食べてる人って不愉快」 - ライブドアブログ


元ソースは以下。しかしこの教授発言の抜粋は見事です。教授の印象最悪。GJ。


ほぼ日刊イトイ新聞-矢野顕子について、坂本龍一くんと話そう。


ブクマが一杯付いていたので驚いた。


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私が真っ先に思ったことは、上記リンク2点のトップに置かれている画像もそうだが、教授こそメディア露出に際して常に、かなりいい具合に小汚い格好しておりますがその点どうなのですか、ということであった。ザンバラの髪切れよ、とか。まあ似合っているしスタイルなのだから別にいいわけです。スタイルを他人からあげつらわれたら不快でしょう?つまりはそれに尽きるわけで「俺のプライヴェートなこだわり」を「うんうんそれわかる」と頷いてくれる同世代の糸井重里に対して無防備に披露している緩い独り言であって、要は後藤繁雄が記しているようないつもの教授節に過ぎないのであるが、それがWebの超人気サイトで公開されてリンクされまくればハレーションを起こすに決まっているわけです。


いや教授は「パブリックな問題だ」といつもの調子で言うかも知れないし教授の問題意識もわかってはいるつもり。問題意識の表出は端的に放言ですが。というか、これは単にきわめて「西欧的」な社会性の捉え方だから。パブリックとプライヴェートを分別して意識の「けじめ」を付けろ、という。かかる問題提起を「いやそれは個人のプライヴェートなこだわりでしかありませんし所詮は趣味の問題に過ぎませんから」と暖簾に腕押しで流され却下されてしまう日本が嫌で教授はNYに渡ったのだろう。昔っから自分はアメリカ的な個人主義のほうが肌に合うと、再三言っていたし。国籍を問わず、いわゆる西欧的な社会性に対して自覚的に同意する人間にとっては多く、公共の場において常に他人に見られている自分、という意識が自己を規定する断面としてある。


以前、塩野七生がローマにて五木寛之と行った対談の中で、自分もゆくゆくは大きなホテルの一室に居を移すかもしれない、ホテルであれば自宅と違って部屋を一歩出たらそこは公共の空間だから、自室以外では常に他人の目を意識しなければならなくなる、無数の他者の視線に対する常なる意識を忘れて、弛緩しただらしない婆さんになるのが嫌なのよ、と例の意気軒昂な調子で語っているのを読んで、塩野が唾棄する弛緩した分別なき人間のひとりとしては、ついていけん、とさすがに引いたものであった。個人主義的な人間ではあるのだが、それ疲れないか、とか思ってしまう私は正しい西欧的社会においては失格者なのであろう。まったく塩野さんらしい、筋金入りだ。言うまでもなく、塩野はずっとローマ在住である。


ところで写真家星野博美のエッセイに、狭い人工的な地域に人間がひしめき合っている香港では、人はトイレの個室でしかひとりになることができない、とあった(『銭湯の女神』(文芸春秋)を参照したが該当記述を検索できない。彼女の別の著作であったろうか?)。つまり香港において人間は他者の視線に常にさらされることがデフォルトであって、それは高邁な理念以前にまったくの物理的かつ唯物的な事情に拠る、と。かくて現代日本の非西欧性よりプライヴェートな個室空間性を言挙げるべき、という話になるのかもしれないが、そんな紋切はどうでもよくて、私は教授の放言に戻ってさらに別のことを考える。

ジャージに近いのは、学生の時に、学生食堂で一人でご飯食べてる人いるわけ。男とかで。きちんと食べてるんだけど、それを見ると僕、すごく不愉快なのね(笑)。(中略)それはやっぱりさ、その、自分の生活みたいなのを、露出させてる感じがするわけ。


だいぶん昔、中崎タツヤの『問題サラリーマン』にて、家族連ればかりのバーベキュー会場に独りでやってきて黙々と肉をがっつくおばさんの「痛さ」を傍から眺めて嗤う男を、義憤に駆られてブン殴る、という話があった。人の生に必然としてつきまとうやるせなさを、手前を棚に上げて「痛い」と嘲笑できるような人間はブン殴れ、と。遅咲きを迎える作者の感覚に裏打ちされた一編であった。


誤解なきよう。坂本龍一が言っていることはそうした文脈に準じた話ではない。繰り返せば、公共空間において自己の私性を無分別に開示するな、という西欧的な社会性という見地に基づいた信条の表明である。ま、放言ではあるが。問題は、教授が指摘しているような振る舞いは、日本においては単に「痛い奴」「淋しい奴」という断罪的観点にしかさらされない、という点にある。女が独りで外食するなんて、とかきょうび口にする人間もよもやいまいが、それと同種の断罪に受け取られかねない。同調圧力、の話。「痛い」「淋しい」というレッテルを一方的に貼られたとき、当人による現状回復は多く困難である。少なくともレッテル貼った人間の意識を転換させることは。


教授がニューヨーカー的に呈してみせる苦言は、日本においては別の文脈から読まれて受け止められてしまい、しかるにハレーションを引き起こす。「だから」教授がまずい、とは思わないが、当該スレ住人の怒りもまた正しい。人は言いたいことを自由に口にする権利があるが、しかるに芸術家たる教授は多く無責任に言いっ放しでもある。発言において意を尽くす、という発想がない人なのだから仕方がない。本人の(誰であれ)限定的かつ近視眼的な日常に由来した、個人の生理的な感性と主観に近接した場所からなされる社会的発言(らしきもの)は、たいてい一般論化するプロセスにおいて無茶な飛躍が介在するうえに、自らの個人的な無知と偏見の補正に対して無防備であるため、たとえ意図された放言であろうと多く失言を結果します。某著名人(私は名も知らなかったが)ブログの炎上も、そういうことだろうな、と強く自戒を込めて思う。


さてもう10年近い昔、当該のマンガを読んで私は中崎タツヤに一生ついていこうと誓い、私が感銘した中崎の感覚に変更なき以上、一応現在もその義理は果たしているのだが、ではなぜ当時の私が喝采したかというと、私もまた「学生食堂で一人でご飯食べてる男」であったからにほかならない。ところで現在の私は外食派ではないのだが、独りで飯を食うことにいかなる問題があろうか。なお教授に対しては「学生食堂で一人でご飯食べてる女」についてどう思うかと小一時間(ry。大学とかには一杯いますよ、現実に。貴方のHateの表明は御勝手ですが、予防線を張ってはいけない。