Second Answer


id:NakanishiBさん、トラックバックのうえで応答をいただきありがとうございます。そして追記をしていただきありがとうございます。昨日の当初の応答を拝読して「…………」となってしまったことは事実なので。私は、こういった議論というか対話においては、反射的にレスするべきではないと思っているのです。体調不良と年末近くの多忙という物理的条件をさておいても、時間的な間隔(=タイム・ラグ)を多少は設定して緩くオープンかつ理知的にバトルしていくべきであろうと。なぜ私が貴方の応答を一読して困惑したか、読み難いとかいうこと以前に、何よりも論点が整理されていないのです。前半部に私の記述への説明を求める問いが延々と列記されていますが、これは応えておくべきだろうという性質のものもいくつかはありましたから、一応は、ということで全指摘に対する応答草稿を昨夜更けに作成しましたが(昨夜更けには作成できる類のものであったということです)、読み返して、これはあまりに非生産的で論点を一切構成しない燃料投下でしかない、と判断したためテキストエディタに寝かせてあります。


弱ったな、と思っていたところに今日の追記を拝読しまして、ようやく生産的な議論の可能な筋を見出しました。貴方がしきりに言われる「頽落史観」の意味するものをようやく自分なりに了解しました。それが私の見解に対して批判的に機能すると、貴方が言われるその意味もまた。なるほど、一貫してそのことを言っていたのか、とついに納得しました。おおむね誤読ではあるまいという確信があります。なら私も答えようがある。追記におけるサジェスチョンのおかげです。そして、貴方自身もまた、当初の応答について不如意と不十分を感じておられるようなので、よろしければ私への説明開示の要請に関しても、取捨選択のうえ論点も含めて再構成したうえで提示していただければ幸いです。


もし構わないというのであれば、さらなるリライトの手間もあるがゆえに今晩中は無理といえ近日中に当該応答をUPしますが、それをやるとたぶん「頽落史観」をめぐる発展的な議論の可能性も御破産し決裂を帰結するであろうし、やはり不毛なことはしたくないのです。どう申し上げても、あの前半部の大半に関してはそうした応答しかやりようがありません。しかし貴方の見解提示に関して、必要に迫られての私の見解付記を要さない事柄に関しては、もう余計な言及をするつもりはありません。そして現在の貴方の中心的な問題意識に基づく私への批判に対しては、面白くやりあえるかな、と3つのレベルに分けて考えておりましたので、NakanishiBさんが当初の応答に関して御自身で考慮する余地があるらしきことは、嬉しい光明でした。


「頽落史観」をめぐっては闊達で発展的な本気の対話が成立しそうに思われたので、少しばかりやりましょう。しかしそちらに関しましては、私も今現在論点という相互の土俵を模索している状況のため、しばしお待ちください。とまれ光明が見えて、私はホッとしました。そこそこ多忙な単なる自由労働者のブログゆえ、ゆっくりいきましょう。それと「頽落史観」に関しても専門的なジャーゴンを用いず平易な自分の言葉で綴っていただければありがたいです。私もそうするようにします。アクセス解析をしても、当ブログはそうした閲覧者が元来はメインなので。言葉のすれ違いというのはむなしいものです。お互い勝手に翻訳し合うと問題が発生するようですし。私自身もまた、本で読める話を個人的に説かれるのは対話の甲斐がないうえに、最近すっかり学術書とも御無沙汰ですから。宜しく御考慮願います。


そして、本エントリにおいては、id:Apemanさんから前記エントリに書き込んでいただいた大変丁寧なコメントに対して応答させていただきます。これを早急に優先するのはなぜか。Apemanさんの当該コメントにおける詳細な指摘によって、私の11日付&13日付エントリにおける文意上での明白な誤解の存在に気付き、その解除を意図するためです。どうやら私もまた文意不明瞭男であるようです。


http://d.hatena.ne.jp/sk-44/20061113/1163441532#c1163506271


apesnotmonkeysさんことApemanさん、わざわざ再々投稿までしていただき、本当にありがとうございます。Apemanさん達が本気でコミットメントされているような問題について、これ以上私が半畳入れるつもりもありません。体壊したのは知恵熱かも、というのはつまらない冗談ですが。だから今回は空理空論の風呂敷を広げるようなこともなく、Apemanさんが記された見解についてのみ端的な形で限定してレスさせていただきます。なお、以下はApemanさんに対してのレスであって、そして応答中にNakanishiBさんへの批判と取られて仕方のない記述が登場しますが、これはApemanさんへの応答内容の性質上、やむを得ないことです。私はもうこれ以上、前記エントリと同様の論点に基づいてNakanishiBさんを批判したくはない。しかしそれなくしてApemanさんの誤解解除を意図した応答が成立しない以上、やらざるを得ません。むろんまぎれもなく私の見解でありますが、もはや批判自体にNakanishiBさんを貶めるような意図はまったくないことを、御了解ください。


そして、Apemanさんが連投されたコメントにおける計3点のけっこう重大な誤解について箇条書きにしますが、それは単に明解を意図してのことであって、記述方法に他意はありません。なおこれは発言の「本意」「真意」に関する「後出し」ではなくて、明白に当該記述にリテラルに記されている事柄と思います。むろん、それはApemanさんの読解が云々ということではなく、私の記述における不明瞭が問題なのでしょう。しかし、私は事の重大性を考慮した場合は、記述には相当に気を使っているつもりなのです。文意において誤読や誤解の余地があたう限り発生しないように。どうも今回、それが裏目に出たようですが。ということで、以下。


誤解1.

>直接本人に向けて言わない嫌味を普通は陰口と言います。陰口の愉しみというのはありますが

という点についてですが、これはsk-44さんにトラックバックを送り忘れた私の過失に起因するところが大です(その理由についてはすでに釈明した通りです)。これはN・Bさんにはコントロール不可能な事態ですから、彼がsk-44さんの目にとまらないことを想定して「嫌み」を書いたと即断されるのはいかがなものかと。


「彼がsk-44さんの目にとまらないことを想定して「嫌み」を書いたと即断」してはいません。逆です。当該引用を再読ください。


「直接本人に向けて言わない嫌味」を私は陰口と示しました。つまり、直接言うことはないが間接的には本人の目に触れ耳に届くであろうことを意図してなされる嫌味のことです。というか、11日付の当該エントリにおいて。

まさか私がそれを読むことがないと思わなかったはずはないので。


とあえて否定を連ねる形で明記しています。かかる迂遠な表現を用いたのはNakanishiBさんの「未必の故意」性を別の言葉で示すためです。「まさか」「私がそのコメントを読むことがない」と「(帰結を)思わなかったはずはないでしょう」と。私の瑕疵によって目的語を結果的には省略してしまった、甚だわかりにくいほのめかしめいた記述であったことは認めますが、あの段階で直接的かつ断定的な表現を用いることは避けました。すぐ後に。

私も軽口は叩きますが、特定のブロガーに名指しで向けるのであれば予想し得る結果に対して腹を括るでしょう。


とも記しています。つまり「腹括りましたね」ということです。確かに誤解の余地を残した両義的な表現を用いたことは事実ですが、その必要が存在したことを御理解ください。「陰口」という言葉の一般的な用法と相違するでしょうか。確かにそれが誤解発生の主原因のようです。しかし私がかかる表現を用いたくなった理由についても御理解いただきたいです。直接本人に向けて言うことはないが本人が目にするであろうことを予期して本人以外の相手に向けて「嫌味」を述べる、それもWebにおいて……私が個人的にネガティブな感慨を抱いたことは不当でしょうか。Apemanさんは上記リンクでのコメントにおいて

問題はその不快感及びその根拠の表明の「仕方」だからだと思う


とおっしゃっています。「陰口」という表現を用いた私の「不快感の表明の仕方」は妥当性を欠いていましたか。「根拠の表明の仕方」が不十分でしたでしょうか、それについては後述します。ApemanさんのTB失念について含むところは本当にないのです。というか、ApemanさんがエントリをUPした段階で私にTBを飛ばしていたとして、当該エントリのコメ欄が同様の状況であったならば、やはり私は現在と同様の行動を起こしたでしょう。ゆえに、NakanishiBさんが私の目に触れると思ったかどうかということは、こと私の行動に関しては関係がない。私の言動が不当であればsk-44こそ単なる中傷者であると閲覧者に判断されます。「衆愚」とか私は断じて思わないので。


11月11日付の当ブログのエントリにおいて私は「直接言っていただけなかったのはなぜか」と直接にではありませんがNakanishiBさんに問うています。その意思は読み取れると思います。しかるに当初のNakanishiBさんの応答においてはその点への説明がなかった。新規の応答エントリにおいても明記はされていませんが、少なくとも直接私に指摘を行う意思はなかったと判断しました。率直に申し上げて、当該のApemanさんのエントリでのコメントに記されたような内容であるから、つまり「嫌味」でしかなかったからこそ、私に直接向ける意思がなかったのだと判断せざるを得ない。飛躍した断定とは思いません。だからあの新規エントリをUPしました。不当な対応でしょうか。目に触れさせる意図があるなら直接言っていただきたい、間接的な形で「嫌味」を述べる以上は行為の賭金を背負っていただきたい。私の個人的な見解に過ぎません、むろんNakanishiBさんの自由ではありますが、なら私も私の個人的な信条に基づき行動します。ジャッジは閲覧者が下すでしょう。


誤解2.

sk-44さんが当初のエントリに大幅な補足を行なわれた後でなおこのようなことを書くのは、
http://d.hatena.ne.jp/sk-44/20061111
での

>過去の世界的な政治状況の間接的影響下にいまだにある日本のセンターに位置する左陣営言説

といったsk-44さんの現状認識にまったく共感できないからです。それこそ、呉智英の世代がそのような認識をかつて持っていたことについては(留保つきで)理解は出来ますが、80年代に大学時代を送った私にはまったくそのような実感はなく、sk-44さんが一体なにを根拠にそうおっしゃるのかが実感できないわけです。私はむしろ、左派の言説を通じて「普遍性の僭称」を疑うことを知ったからです。別に私の体験を絶対化するつもりはなく、党派的には左派に属する知識人が普遍性を僭称した時期があったことは承知しています。しかしながら、プロフィールによれば私やN・Bさんよりはるかに若いsk-44さんが「日本のセンターに位置する左陣営言説」などと無造作におっしゃることについては、強い違和感を禁じ得ません。


最初意味が汲み取れませんでした、私は事実認識における重大な錯誤を犯していたのか、と。気付きました。当該11日付エントリから関連記述と2点並べて引用します。

戦後日本における特に55年体制下の左右陣営のセンターに位置する言論

過去の世界的な政治状況の間接的影響下にいまだにある日本のセンターに位置する左陣営言説の運用において、現在に至るまで歴史的経緯や内部体制や人脈に依拠した政治的な恣意性が存在することは事実


ええと、了解していただけましたか。これは明白に私が悪い。リテラルにも誤解されて仕方のないことですが、Apemanさんが引用された記述を自己添削します。

過去の世界的な政治状況の間接的影響下にいまだにある日本の(、)センターに位置する左陣営言説の運用において、現在に至るまで歴史的経緯や内部体制や人脈に依拠した政治的な恣意性が存在することは事実


「日本のセンターに位置する左陣営言説」ではありません。「左右陣営の(それぞれの)センターに位置する言論」の左陣営側、のことであって、左陣営言説内部におけるセンターに位置する言説のこと、つまりいわゆる「朝日・岩波的」なメディアのことです。センターというのはアクチュアリティやリアリティとは関係なく通念的な「中心」としてある、ということです。だから「センター」という表現を用いましたし「左陣営言説」と概括することを避けるために限定性を示す表現として「センターに位置する」というエクスキューズを前置し付記しました。


つまりそれ以下の「運用において、現在に至るまで歴史的経緯や内部体制や人脈に依拠した政治的な恣意性が存在することは事実」という記述もいわゆる「朝日・岩波的」な「センター」のみを指す記述であって「左陣営言説」のすべてがそうである、とか左陣営言説が「日本のセンターに位置する」とか過去についても現在についても断じて言ってはいません。Apemanさんが述べられている80年代以降に関して、そして現代についての私の状況的な認識は、おそらくApemanさん同様にその逆です。読点一個の欠落でかくも重大な誤解を招いてしまう。簡潔で凝縮された記述を意図し過ぎたがゆえの私の大ミスですが、決して後付けで補足しているわけでないことは、併記した関連記述と当該エントリの文脈文意を踏まえていただければ了解されると思います。


Apemanさんだけに誤解を与えたのではない、と昨夜気付いたのは、MacacaFuscataさんが御教示くださった、ApemanさんのブログのURLの件です。私は当該の東氏らによる議論の詳細を又聞きでしか知りませんでしたが、それに対してApemanさんが指摘されている(少し長く引用します、すみません)、


http://homepage.mac.com/biogon_21/iblog/B1604743443/C1534355107/E20060330165736/index.html

「朝日・岩波的な価値観」が戦後日本の論壇やアカデミズムで長らく支配的だった、というのはとりあえず是認してもよい。しかしながら、それは自民党的な価値観が戦後日本のリアル・ポリティックスでは長らく(というか変質しつつあるとはいえ今でも)支配的である、ということとセットで評価されねばならないのではないか? 論壇やアカデミズムだけでなく「日本社会」で朝日・岩波的価値観が支配的だったとするのなら、なんで本格的な社会党政権は一度も成立しなかったわけ? 先日とりあげた竹内洋の『丸山眞男の時代』でも使われていたブルデューの枠組みによれば、政治的な象徴資本と知的な象徴資本がトレードオフの関係になるというのは別に日本に固有のことではない。朝日・岩波的な価値観はリアル・ポリティックスという「界」では支配的なもの足りえなかったがゆえに、論壇やアカデミズムでは支配的なもの足りえたのである。


ということはもちろん私も了解し踏まえたうえで当該エントリを記しました。証拠というのではないですが、私は当該エントリにおいて一貫して「公式左翼の表層的な言説」「左翼言論」「左陣営言説」「左右陣営のセンターに位置する言論」と「言論」「言説」と常に限定的に明記しております。つまり当該エントリはあくまでも「言論」「言説」の話に限定された記述です。私は必要を感じれば相当、自分なりに文意には気を配ります。なお余計なことですが、Apemanさんが指摘されたような事柄は東氏らも踏まえていると思います。「踏まえているのなら同時にそのことも指摘してほしい」と東氏らに対してApemanさんは言われているのだと思いますが。


誤解3.

しかし他方で、N・Bさんと私の関係性についてsk-44さんが憶測めいたことをおっしゃるのも正当だとは思えません。具体的には、N・Bさんが私を「弾除け」にしているわけじゃありませんよね? などと問いただしている点です。

つまり、sk-44さんをはじめとする第三者に対しては別として、私に対してはこの話題に関してN・Bさんが私に丸投げすることを正当化するだけの経緯が存在するわけです。そうした事情をご存じないことはまったく無理のないことではありますが、少なくともN・Bさんを私のブログの「常連」と認知しておられる以上、私をダシにしてN・Bさんを批判する前に私の意思を確認してもらいたかったですね。


私ははたして人間関係の話をしただろうか、と13日付の当該記述を参照しました。正確な引用。

よもや、Webの実力ある論客たるApemanさんの提示される見解を、御自身の批判提示の際の「弾除け」とでも思っておられるわけではないですよね。


私は「Apemanさんの提示される見解」を「御自身の批判提示」の際の「弾除け」とでも思っているのですか、とはNakanoshiBさんに対して指摘しました。つまり、他者の見解を自己の批判提示の「弾除け」としているのではないか、とは指摘しました。他人の見解をもって自己の見解を補強するだけであるならまだしも、それにほぼ全面的に依拠して特定他者を批判するその振る舞いへの疑義を、かかる批判を受けた当事者として指摘しました。Apemanさんの名を出したのは、13日付のエントリで検証した通り私が批判(嫌味)を受けたケースがそうであったからです。「Webの実力ある論客たる」という枕詞は不要でした。しかしこれもまた「Webの実力ある論客の提示した見解を」という一般論の一例としての意です。しかし確かに、かかる不適切な修辞が誤解を招いたのでしょう。「Apemanさんに含むところはない」と明記したとはいえ。


一般的に言って、特定個人を批判する際に(たとえば「最悪の『サブカル保守』」という)レッテル的な断定的表現を用いたうえでそのような記述も見解もリテラルには記されていないブログエントリへのリンクを1言の補足すらなく示すのみで済ませるという振る舞いは、批判の手続きとしてはまずいと判断され得るでしょう。ましてその理由を「面倒なので」の1語で済ませるというのは。Apemanさんの話ではなく一般論です。さらに言えばNakanishiBさんの振る舞いを一般的な観点で見たならば、という限定された話です。リンクされ見解提示において依拠された当事者が看過なさるのは結構ですが、少なくともそうした形での批判(というか嫌味)を受けた当事者にはかかる振る舞い自体の問題を他のケースに及んで指摘する資格があると、私は思いますが。自分が名指されて「嫌味」を言われなければわざわざこんなことをしていない、そうした事情くらいは御理解していただきたいです。


「少なくともN・Bさんを私のブログの「常連」と認知しておられる以上、私をダシにしてN・Bさんを批判する前に私の意思を確認してもらいたかった」とおっしゃっていますが、繰り返しますが私は人間関係の話をしているのではありません。もし喧嘩腰に聞こえたら申し訳ないですが、Apemanさんの提示された見解をダシにして私への批判(嫌味)を示された方に「(Apemanさんに限ったことでなく)他者の見解を頻繁にダシにしたうえで特定個人を批判している」こと自体の難を指摘する際に、Apemanさんの意思を確認する必要がありますか。かかる難の指摘は不当な行為ですか。私は当事者です。なお「常連」と記したのは(最近のエントリに限ってリサーチしても)頻繁に書き込まれていることを確認したためで、それ以上の、たとえば人間関係を前提しての意味ではありません。


おそらくかかる誤解を与えた原因のひとつに、MacacaFuscataさんのコメントに対する私のレスの内容が影響しているのだと思います。


http://d.hatena.ne.jp/sk-44/20061111/1163239409#c

MacacaFuscataさんはNakanishiBさんと実際にもお付き合いがあるようですが、本日UPした新規エントリに関しては、NakanishiBさん個人への応答としてのみ記したものであり、MacacaFuscataさんも含めたその他の方への批判や疑義を意図したものではまったくありません。むろんapesnotmonkeysさんに対しても。


NakanishiBさんがすぐ後で否定されていますが、私がかかる誤判断をしてしまったのは、

直接名前を出されているわけではないのですが、なんだか私に対しても言われているような気がしてしまうので一言。

私やNakanishiBさんが一時期「サブカル保守」にかぶれながら結局はそこから離れたのは(後略)


という記述を見ての単なる早とちりです。早とちりするほうがおかしい、と判断されてしまうことですか。私のマイミクにはNGOの運動にコミットメントされている方もいますが、左翼と自己規定するアクティヴィストのmixiや実社会における交流は、なかなか活発に思えます。たとえば(実は政治的なイベントの際などに幾度か足を踏み入れているのですが)「あかね」もそういった交流の場として機能しています。むろん否のあろうはずもありません。(結局は「ネット上」に限定されてのことでしたが)少なくともおふたりは交流があるのだろうと判断し、かつ当該のNakanishiBさんへの批判と指摘はMacacaFuscataさん(MacacaFuscataさんはコメ欄でApemanさんのブログエントリへのURLを示しておられたけれども、そちらに含むところはない、と記す必要もありました)や、さらに発端となったApemanさんのブログによくコメントをされているような方達にまで向けられたものではない、ということを記すためにも念のため補足した次第です。誤解を受けてやむを得ない憶測過剰な振る舞いでしょうか。


誤解に関する釈明は以上です。むろん私の記述能力に難があるのが問題ですが、ためになされたわけではまったくない誤解に対してすら精確な釈明を意図すればこれほどの労力と記述を要します。Apemanさんに申し上げることではないですが、NakanishiBさんの「誤解」に対する私の不快が不当とはまったく思いません。


そして、Apemanさんに連投いただいたコメントにおけるその他の見解について。


まず、私が質問させていただいた点についての丁寧な御返答ありがとうございます。あの箇所は蛇足であったと、いささか後悔していたためかくも詳細な解答をいただいたこと、感謝しております。内容了解しました。基本的には異論ありません。もともと越権的な問いであったなと自省しています。そして、このことははっきりと明記しますが。

GoogleのキャッシュだとかWeb魚拓のようなものがある現在、削除することは必ずしも解決策にはなりませんので、当該発言をそのまま残していることがパフォーマティヴにその発言の追認することであると受けとめられかねないような場合を除いては、私から積極的に削除することはないと思います(当事者から要請があったという経験がないので、当事者からそのような要求があればケース・バイ・ケースで考えます)。


Apemanさんがおっしゃられるまで、削除要請など頭の片隅にも浮かびませんでした。本当に。たかがWeb上での嫌味です。削除に該当するような名誉毀損が成立しているなどとつゆ思っていません。私は厨房ではないし、そのような言論抹殺的な発想にはまったく与しません。発言者の判明している違法性を含まない発言は末永く残してあるいは晒して閲覧者のジャッジを仰ぐのが筋でしょう。だからこれはNakanishiBさんのことではあるのですが、発言撤回と軽々しく口にする人間がわからない。行動は撤回できません。だから何を言おうと結構、ただし私もエントリの掲示によって対応します、ということです。そして私は人というか発言を見て応えます、ということです。Apemanさんにあのようなことをあえて伺ったのは、別になにがしかを意図したつもりはなく、Apemanさんが展開される議論をいくらか拝読していた身としては、本当に不可解と思えたためです。その点に関する説明についても、了解しました。ありがとうございます。


最後に。「雑感」を書かれた意図についてですが。まずこの点について。これも誤解なのかはわからないのですが。

別に、既成の党派としての左右どちらかにコミットしろということではなく、「逮捕された当人が逮捕相当の危険人物だったからじゃねーの?」と語る人物に対して対応するという営みにコミットしていないのに、「突撃者」には賛同しないというエクスキューズがあるのがかえって不可解です。「逮捕された当人が逮捕相当の危険人物だったからじゃねーの?」という発言の妥当性そのものについていかなるコミットメントも行なわない、というのならまだ分かるのです。しかし「逮捕された当人が逮捕相当の危険人物だったからじゃねーの?」を不当だと思うのなら、その発言の批判者を批判する前にsk-44さんが見本をみせてくれればいいじゃないですか。


7日付のエントリの冒頭で記した野原さんのエントリについて、成城トランスカレッジからのリンクをたどって知ったと明記しました。私が多少遅れて拝読したときにはコメント欄での議論が完全に収束した後でした。そのコメ欄での議論について自分なりの論評をUPしましたが、評の内容的妥当性とは別に、収束した事態について事後的に評するべきではないということですか。


もし「突撃者」の書き込みのみが記された時点に立ち会っていたらどうしていたか、仮定の話である以上わかりません。ただ私も他人のブログのコメ欄において(私にとっては)理不尽な意見が開陳されていた際に介入したことは幾度かあります。関連エントリまでUPしたことも。改めてリンクはしませんが、つい先月のエントリとトラバをたどれば了解されることです。ただし私がコメ欄での議論に「コミット」したエントリが「死ぬ死ぬ詐欺」騒動をめぐって2ch批判を行っていたものであったことは、Apemanさんに対していくらかは予断を与えてしまう事柄なのでしょうか。「2ちゃんねらーネット右翼」とエントリの表題に掲げる「人物に対して対応するという営みにコミット」したことは、あります。当該議論の妥当性を検討することないままに、そうした私の振る舞いが何事かを意味しますか。

「突撃者の見解には与しないとかいいながら、結局は問題にコミットしない立場からコミットする者を揶揄してるだけじゃないの?」と思えた

>記述方法の不手際に関しては、結局のところ、左右いずれかに肩入れしていると判断されたくなかったという理由が大きいです。リスク対策とか以前に、本心としてそうなので。

などとおっしゃっている点も気になります。

noharaさんのところでコメントした方々や私のように、特定の立場へのコミットメントを明らかにしてネット上で発言する者にしばしば向けられる、「自称中立だが事実上右派を支援するコメント」に通じるものを(当初のエントリには)感じたからです。


承りました。括ってしまうわけではなく、私個人が体験的に感じた印象とその解釈でしかないと断りますが、ほぼ内容的に同様の見解をNakanishiBさんもおっしゃっていますし、私がコメ欄に介入した当該ブログの管理人氏も繰り返し示されていました。NakanishiBさんの言葉でいう「言説の効果に関する議論」のことと思われますが、承りました、としか言えません。当該ブログの管理人氏は「死ぬ死ぬ詐欺」騒動に関して、募金もしていないのに救う会を批判する人間の気が知れない、という意味のことを記されていました。私はそうではないと思いましたしそう当該のコメ欄に記しました。「問題にコミットしない立場からコミットする者を揶揄してるだけじゃないの?」とApemanさんはおっしゃっていますが、これはそれこそ批判や揶揄を意図するものではなく本当に伺いたいのですが、かかる「立場」にあっても「揶揄」でなく「批判」なら了解できる、とは考えておられるのですか。批判と揶揄は言説の内容的妥当性に拠って分岐すると私は思います。これは事実として間違っていたらおっしゃってください、Apemanさんは「特定の立場へのコミットメントの有無」を判断の基準のひとつに置かれていませんか。


そのことが、こう言っては大変失礼ですがある種の「色眼鏡」として機能してはいませんか、というのは、私の大きな落ち度は別として、Apemanさんによる上記3点の「誤解」に関して、たとえ些細でありながらも「色眼鏡」が機能してはいなかったか、と釈明を綴っていて私は感じてしまったからです。むろん私も含めてそのことから人は逃れ得ません。Apemanさんが注意深く文意を読み取ろうとされる方であることもわかります。以上の感想もまた私の色眼鏡なのでしょう。人は互いに色眼鏡を通して相手を見る。色眼鏡を外そうとする努力の営みはあっても。


かかる判断基準に嘴を挟むつもりは毛頭ありません。ただ「コミットメント自体の有無」と「言説の効果に関する議論」について、私自身がWeb上で直接教示されるのは幾度目だろうか、とは思ってしまいます。幾度も教示されかかる問題意識や議論の所在について承知したうえで、私は現在のスタンスを取っているのです。もちろんApemanさんやほかの方が私のようなスタンスに違和感や不快感を覚えそれを表明されることは構いません。しかし批判を意図されるのであれば、せめて言説の内容的妥当性にのみ依拠してほしいと私は思います。発言者のスタンスや言説の効果を言挙げされることは、少なくとも私個人は本意でありません。むろん私の7日付のエントリが、何よりも内容的妥当性を欠いていた以上、ApemanさんやNakanishiBさんが違和や不快を感じそれを表明することは至極妥当です。だから私もApemanさんやしまうまさんの指摘に対しては同意したうえで反省し、NakanishiBさんの指摘の一部に関して自己批判を行い、そのうえでNakanishiBさんの批判(嫌味)の内容的妥当性について当事者として指摘したのです。私の中では筋が通っている。いや妥当性を欠く言動だ、とApemanさんや閲覧者が受け止めるかはわかりません。


ゆえにこの点に関しては私の価値観のうえでは異論がありますが、かかるApemanさんの判断と見識自体に対しては、受け止める価値のあるものと思います。そしてこの種の認識的な相違は、議論をもって贖えないことであろうな、と個人的には思います。これは断定ではなく人生において多くの人間との対話や衝突や葛藤を経たうえでのひとつの経験的な認識です。こういう点がロマン派的なのかはよくわかりませんが、少なくとも、異なる認識への敬意を忘れないようにはしよう、とつね思っています。Apemanさんとかかる応答を交わせたことは、私の中では本件に関するひとつの総括となりました。私はまた多く犬の漫才師に戻ることでしょう。そしてNakanishiBさんが私の認識を貫く刃を喉元に突きつけるクリティカルな批判をこそ、楽しみにしています。そのときは全力で応えます。