Final? Answer


どうも。apesnotmonkeysさんことid:Apemanさんからさらなる突っ込みをいただくとは思っておりませんでした。むろんウェルカムではあります。こちらは勝手に総括して馬鹿ブログに戻るつもりではありました。新聞の論説欄のように両論併記という綺麗な形で落着したことでもあるし、あとは閲覧者にお任せ、とはちと思いましたが、Apemanさんの投げかける問いの内実が私もようやく了解できてはきたので、延長戦突入という気分ですが、今後のためにもその点はやはりはっきり答えておきましょう。私のプライオリティについて。


http://d.hatena.ne.jp/sk-44/20061115/1163609674#c1163657591


Apemanさん、ありがとうございます。以下、当該エントリにおけるApemanさんからの問いに限定して私もお答えしますが、収集つかなくなっても困りますし、Apemanさんが私にレスし問われた内容について、閲覧者への明解を意図するためにもやや乱暴に整理したうえで回答していきます。あくまで整理であって編集を意図したつもりは毛頭ありませんが、もしこの整理は間違っている!と思われましたらApemanさん、御指摘ください。


そして、以下のApemanさんへの応答における、言わずもがなの前提について前口上を少々。


Apemanさんの今回の新規の問いは、あくまで私のテキストと振る舞いにのみ依拠してなされたものです。つまり、事実問題の確認について検討されるべき議論ではない。「事実」は私のそしてApemanさんの(コメ欄での)テキストとして出揃い確定しています。振る舞いもまたWebにおいてはテキストに定着し確定している。事実問題のうえでWeb上の複数のテキストにしか依拠し得ない議論である以上、かかるテキストの妥当性についてApemanさんがもし疑義を表明されているのであれば、少なくとも私自身の記したテキストに関しては、当該テキスト自体のリテラルな文意のみを走査することによって、妥当性の有無を検討していきましょう。閲覧者を混乱させることのないように。私の論点整理において恣意的な操作が介在していると思われるのであれば、そのむね御指摘ください。なお私は本件関連エントリにおいては誤字脱字を除けばテキストを編集しておりません。どなたか魚拓を取っていただいても結構ですが。


ではまず、私が箇条書きにした計3点の「誤解」についての、Apemanさんの見解とそれに対する私の応答。なお、Apemanさんが当該コメントにおいて「あなた」とおっしゃっているので、私も二人称を用いることにします。


誤解1.←「なるほど」誤解であった。しかし。

ただそれでも納得しがたいのは、じゃああなたは、なぜ野原さんのエントリのコメント欄に「直接」書かなかったのだろうか、という点です。


私は野原さんの当該エントリに対して自己エントリのUPと同時にトラックバックを飛ばしていますが。Apemanさんもまたそこからたどって私の当該エントリを目にしたのだと思います。11日付のエントリで、しまうまさんにたいして、

釣りを意図したわけではむろんありませんが、当該の議論に参加なさっていた方の見解を聞いてみたいと本心から思っていたことは確かなので、感謝します。


と記しています。だからしまうまさんのコメントに対して、私なりに丁寧に応答しました。しまうまさんのコメントに異論ない以上「その問題について私はこう考えています」という形の応答にはなりましたが。11日付のエントリを野原さん自身がブクマしてくださっています。野原さんのエントリのコメント欄に書き込まなかったのはなぜか、ということですか。当該議論は収束していました。私は自ブログを持っています。任意の議論に対して異なるフレームや問題意識から長文の見解を綴ろうとしたとき、トラバの上で自ブログに記すことはネット作法として妥当性を欠いていますか。ところでNakanishiBさんもまた自ブログを持っています。率直に申し上げて、このようなことまで貴方に説明しなければならないのでしょうか。私は貴方の当該エントリに関しては(貴方自身によるコメントも含めて)いまもっていかなる異論もないのですが。

「私が個人的にネガティブな感慨を抱いたことは不当でしょうか」と問われるなら、「別に不当とは思わない」とお答えしますが、同時にあなたの
http://d.hatena.ne.jp/sk-44/20061107/1162923824
に「ネガティヴな感慨」を抱いたことがN・Bさんのコメント(および私がそれを容認したこと)の動機であったことも理解していただきたいと思います。


理解していますしまったく不当と思いません。前記エントリで、

むろん私の7日付のエントリが、何よりも内容的妥当性を欠いていた以上、ApemanさんやNakanishiBさんが違和や不快を感じそれを表明することは至極妥当です。


と記しています。


その他の指摘については最重要の論点なので後述。


誤解2.←「違和感を感じます」=文章教室行ってこい。


まったくその通りです。この点ひらに反省しております。


問題は句読点というよりも「日本のセンターに位置する」が「左陣営言説」にかかっているとしか読めない語順だと思います。「日本の左陣営のセンターに位置する言説」なら「誤解」は生じなかったでしょう。


という指摘もまったくその通り。全面的に非を認めます。ただ。

留保抜きで「朝日・岩波的な価値観は戦後日本社会では、あまりにも長く支配的だった」と語られる場合、それは表面的には右派の言い分とまったく変わらないわけです。朝日・岩波的価値が支配的だったのはごく限られた領域においてでったこと、この事実を忘却ないし隠蔽することによって現在右派的言説は正統性を(あるいは「普遍性へ異議を唱えるもの」という地位を)主張しているわけです。
http://d.hatena.ne.jp/sk-44/20061111/1163239409
においては、「正義の複数的な相対性」という見識が「左陣営言説批判者」の専売特許ではないことが軽視されてはいまいか? ということです。一つのエントリに何もかも書くのは不可能だ、と言われればそれまでですが、sk-44さんが「80年代以降に関して、そして現代についての私の状況的な認識は、おそらくApemanさん同様」だとおっしゃるのならなおのこと、「正義の複数的な相対性」という見識が悪用されている状況に敏感であってもらいたい(そして「公正泥棒」というエントリはその点できわめて無防備に思えた)、ということです。

ということですが、ですから「朝日・岩波的な価値観は戦後日本社会では、あまりにも長く支配的だった」と私は一度も書いていません。記述における大ミスは認めます。だからその箇所がそうとしか読み取れなかったことは事実です。だから自己添削のうえで文意を示しました。しかしその他の箇所でも。

単一の正義の絶対性が公式左翼の表層的な言説(=スローガン)において絶叫されていたと、彼らにとっては意識され実感された時代があったということです。

正義の複数的な相対性を示すことが公式的な左陣営言説へのクリティカルな批判になり得ると意識された時代がつい10数年前まで存在したことはファクト。


注意してそう記しています。上記の箇所でも誤解の余地が文意において(=リテラルに)存在しましたか。「彼ら」とは左翼言論批判者のことです。「公式的な左陣営言説へのクリティカルな批判になり得ると意識された」の主体についても同様です。「そうは読み取れなかった」のであれば申し訳ありません、説明の契機にもなりましたが、これこそ「色眼鏡」でないですか、とは思います。「世の人達は『朝日・岩波的な価値観は戦後日本社会では、あまりにも長く支配的だった』と無前提に信じ込んでいるに違いない」という。少なくとも私は記述において保留しました。ブルデューの主著も竹内洋の当該書もそれを引用した「バックラッシュ!」における宮台真司の議論も私は読んでいます。頭から飛びかけてはいますが。「「正義の複数的な相対性」という見識が悪用されている状況に敏感であってもらいたい」とのことですが、それを承知しているから11日付のエントリを書きました。「ネットウヨ」の批判作法を擁護するようなことをあのエントリで書いた覚えはありません。


7日付「公正泥棒」の当該記述に問題があったことは反省していると再三記しています。だからかかる債務の返済として、こうして馬鹿ブログが議論ブログに変貌しているのです。私なりに責を負ったつもりではあります。


誤解3.←「納得できません」


ということで貴方が提示されている私の記述について検討します。前後も含めて引用します。

Apemanさんの発言に依拠して批判を行うということは、批判対象者が結果的にApemanさんに対して視線を向けてしまうということを意味します。私がよい例でしたが、それはApemanさんの意図せざる誤解を招き得る、というリスクについて認識しておられますか。そういった振る舞いを故人は「他人の褌で相撲を取る」と呼びましたし私は「言説へのフリーライド」と呼んでいます。


いくらなんでもこの箇所まで補足する必要はないか、メインの記述でわかるだろう、と思っていたのですが、ところが貴方の見解は。

これは普通に読めば「Apemanに迷惑かけてるんじゃないのか?」というN・Bさんへのメッセージです。「他人の見解をもって自己の見解を補強するだけであるならまだしも、それにほぼ全面的に依拠して特定他者を批判するその振る舞いへの疑義」を表明したいなら、私に言及することはまったく不要であるはずです。私ではなくて北田暁大であれレイコフであれ同じことですから。したがって、「私は人間関係の話をしているのではありません」という釈明には納得できません。

sk-44さんは明確に私を名指ししたわけです。そして私を「弾除け」に使ってるのじゃないか? とN・Bさんに問うたわけです。私に対して「批判対象者が結果的に(…)視線を向けてしまう」とか私の「意図せざる誤解を招きうる」ということは私が心配すれば(そして不当だと思えばN・Bさんに抗議すれば)よいことであって、sk-44さんに心配していただくことではないと思いますが? 「他人の見解(…)にほぼ全面的に依拠して特定他者を批判するその振る舞いへの疑義」を述べるうえでも「意図せざる誤解を招きうる」云々は不要であるはずです。


念のため貴方の記述を分解したうえで説明させていただきます。「普通に読めば「Apemanに迷惑かけてるんじゃないのか?」というN・Bさんへのメッセージです。」というのは貴方の受けた印象です。文意はひとつですが印象は個々の読者に拠って分岐します。まして読者が当事者であれば(注:「当事者」が指す意味については後述)。ところで「迷惑」と書いていますか。メッセージって、勘繰りですよ。単なる指摘です。直接的な指摘は伝言行為ではありますが。当該記述のリテラルな文意を「普通に読めば」そうなるか、かかる印象を与え得るかは閲覧者に任せますが、貴方が提示された「普通に読めば」そうなることの根拠について、記述の文意に即した論駁を記させていただきます。貴方の示された根拠は1点。限定して再引用。

「他人の見解をもって自己の見解を補強するだけであるならまだしも、それにほぼ全面的に依拠して特定他者を批判するその振る舞いへの疑義」を表明したいなら、私に言及することはまったく不要であるはずです。私ではなくて北田暁大であれレイコフであれ同じことですから。

sk-44さんは明確に私を名指ししたわけです。

私に対して「批判対象者が結果的に(…)視線を向けてしまう」とか私の「意図せざる誤解を招きうる」ということは私が心配すれば(そして不当だと思えばN・Bさんに抗議すれば)よいことであって、sk-44さんに心配していただくことではないと思いますが? 「他人の見解(…)にほぼ全面的に依拠して特定他者を批判するその振る舞いへの疑義」を述べるうえでも「意図せざる誤解を招きうる」云々は不要であるはずです。


ええ、貴方でなくとも北田暁大であれレイコフであれ同じことですよ。NakanishiBさんが発言の参照と引用と依拠を頻繁に行う対象ということですから。私は当該記述においてNakanishiBさんが貴方のブログの「常連と言っていいコメンテーター」である、ということに言及していますか。当該エントリの別の場所では記しましたが、本編とは別個に貴方のブログ運営方針への質問において付随した情報提示であって、NakanishiBさんへの批判として記された上記引用とはまったく文脈も段落も異なります。NakanishiBさんが貴方のブログの「常連と言っていいコメンテーター」であるという事実を、そしてかかる情報のみを記したこと自体に問題が存在するとは思いません。かつNakanishiBさんへの批判を意図した本編においては一切そう記していないという、閲覧者に対する記述者の分別を御了解ください。端的な事実を記したことまで印象操作と言われたならばたまらない。貴方の疑念に関係する事柄だと思うから余計な再説明を試みているのですが、とまれ文意を厳密に汲み取っていただきたいです。つまり当該記述は、

他者の発言に依拠して批判を行うということは、批判対象者が結果的に当該他者に対して視線を向けてしまうということを意味します。それは当該他者の意図せざる誤解を招き得る、というリスクについて認識しておられますか。そういった振る舞いを故人は「他人の褌で相撲を取る」と呼びましたし私は「言説へのフリーライド」と呼んでいます。


という一般論の一例の提示に過ぎません。任意の「他者」に代入されるのは、貴方でも北田氏でもレイコフでも同じです。北田氏の発言に依拠して他人を批判すれば、批判対象者は北田氏に視線を向けるでしょう、そしてそこで批判対象者の内部に齟齬が発生し得るでしょう、さらに言えば不確実な情報が発信されかねないであろう、私のケースで検証した通りです。この場合北田氏がどう思うかは関係がない。発言主体が他者に依拠して別の他者を批判する際に、齟齬を含んだ不確実な情報自体が発信されるリスクが存在する、かかる事態が一般的に想定され得るからこそ「そういった振る舞い」を「言説へのフリーライド」と私は呼んでおり「言説へのフリーライド」の弊はかかる点にこそある、と私は書いている。


ではなぜ貴方の名を代入したか。当該記述に「私がよい例でしたが」とあるように、私が当事者となったケースにおいて代入されていた「他者」が貴方であったからです。北田氏が代入されていたなら北田氏の名を出したでしょう。一般論として言える問題であり、そして私はかかる批判を受けた当事者ですから。だから指摘しました。そして「私がよい例」と、つまりワン・オブ・ケースでしかないと念を押して明記してあります。そもそも貴方の示された記述の直前に、

たとえばApemanさんと貴方の見解が全面的に一致する、ということはないでしょうしあったとしても特定個人への批判の根拠は自ら構築するものでしょう。かかる批判提示は私に対しても同様でありましたが。


「かかる批判提示は私に対しても同様でありましたが」とワン・オブ・ケースであることが明記されています。ここまで念を押していても貴方がそうおっしゃられるのであれば記述は不十分だったのでしょう。しかし一般論としてではなく明解を意図して具体事例として示したことが瑕疵となりますか。かかる記述が「普通に読めば「Apemanに迷惑かけてるんじゃないのか?」というN・Bさんへのメッセージ」と読み取られ得るか、それこそまったく無関係な閲覧者に委ねましょう。発言を依拠された当人と、依拠されて批判された当人、いわば共に当事者ですから。ということで、リテラルに当該記述の文意に準じたとしても私もまた、貴方の「人間関係の話をしているだろう」という解釈には納得できません。当該記述が不十分で不適切であったと言われるのであれば反省しますし、そして以上の説明が「詭弁だろ」と思われるのであれば、残念です、と記述者としては言うしかありません。しかし文意開示は尽くしたつもりです。


ともあれ、記述の文意にのみ依拠していただきたいです。貴方のおっしゃっていることは「解釈」です。テキストしか事実としての根拠を持たない事柄に対しては厳密に文意を走査していただきたいです。ですから記述における文意的かつ論理的な瑕疵に関しては私もまた強く自戒しますし指摘を受ければ大いに反省します。「普通に読めば」というのは「名前を出されている貴方が普通に読めば」です。私は一般論を述べている、と再三前記エントリで記しました。なお。

念のため、「ましてその理由を「面倒なので」の1語で済ませる」ことへの批判は不当だとは思わないことを申し添えます。


了解しました。


さて、中心的な論点についてですが。「雑感」をめぐる、当ブログのコメ欄におけるApemanさんの記述についてです。悪い意味で言っているのではまったくないのですが、Apemanさんは繰り返し繰り返し別の形でただひとつのことを私に問いかけられているのだと、感じました。つまり。

文芸批評家に「お前が小説書いてみろ」とごねる小説家みたいですか? しかし文芸批評家は少なくとも「文学」にはコミットしているわけで、sk-44さんはあのエントリを書くにあたって一体なににコミットしていたのだろうか? というのがさっぱり見えてこないわけです。

そもそも「特定の立場へのコミットメントが無い」ということがありうるとは思っていないので、自らのコミットメントに自覚的かどうか、ということを判断の基準においています。(中略)ではsk-44さんは「公正泥棒」を書くにあたって、どんな色眼鏡をかけておられたのでしょうか?


つまり、sk-44の「色眼鏡」を構成する、コミットメントの対象について言明しろ、ということであると。


批判や追求というよりも、本当に疑問に思ってくださっているようなので、だから応答を決めました。普段であれば日々の更新をもって返答に換えさせていただきます、とかわすのですが、Apemanさんからこれほど真剣に質された以上、その意思に応えるしかありません。あまりこういう所信表明は綴りたくないのですが、やります。


簡単です。上記引用におけるApemanさんの比喩に準じるなら「文学」ではなく「批評」にコミットしている「批評家」ということです。私はけっこう批評マニアなので御託を並べますが、とはいえ私個人の空論でもないことを明記しますが、ちなみに明解を意図しての超乱暴な断定であると認めますが、批評家はまず何よりも「批評」という営みにコミットします。その中でも「文学」という歴史的概念にコミットする批評家は「文芸批評家」となりますが、たとえば書物に限定したとしてもそうではない「書評家」というありようがまた存在します。批評家や書評家は「文学」にコミットしていませんし小説も書きません。「書け」と言われる筋合いでもない。そもそも「批評」を書いています。批評とは己の夢を懐疑的に語ることだ、と故人が述べた意味における広義の「批評」です。


すくなくとも志ある批評家は「文学」にコミットすることがなくとも「批評」という営みに対してはコミットしており、批評家の営みにおけるプライオリティの最上位は「批評行為」それ自体へのコミットメントに対して置かれる。そして「批評行為」それ自体に賭ける力量ある「批評家」を、私は幾人も知っています。名は挙げませんが。つまり彼らの批評は「批評行為の自律性」それ自体に賭けそれにのみ支えられた営為です。そして「批評行為の自律性」を担保するガイドラインは何に拠るか、テキストや言説の内容的妥当性にのみ拠ります。個人的表現の内容的妥当性を構成しジャッジする不可視な基準をこそかつては審美、と呼びました。今でも一部で呼んでいますが。


いやそれこそ批評論のイロハを大上段から年長の方にレクチャーしたいわけではありません。コミットメントの対象の開示を求められたためです。Apemanさんの他の記述を参照しながら進めますと。

「言説の内容的妥当性」とコミットメントをそうきれいさっぱり分離できるものでしょうか? 私は別に「外野は黙ってろ」といった党派的なことを言っているのではありません。あなたの言葉を借りるなら、「相手の心」を動かせない批判は揶揄にしかならないんじゃないでしょうか?(中略)「正しい理屈で論破しても相手の心を動かせない以上勝ったことにはならない」という問題は私自身の問題意識でもあります。つまり純粋に「言説の内容的妥当性」なるものが分離できたとして、その限りではsk-44さんに大きく異論があるわけではないのです。繰返し繰返し「突撃者」の発言を指示するわけじゃないと強調する、その過剰さに引っかかったわけです。


詭弁でも言葉遊びでもないのです、と前置きしますが「言説の内容的妥当性」にこそコミットメントしているのです、私は。つまり、言説の内容的妥当性こそが最優先の評価基準として私の「色眼鏡」を構成する。はい、むろん色眼鏡です。言説の内容的妥当性が普遍性に依拠し得ない以上、常に自己による審査と他者による審査そして時の審判にさらされ続けなければならない、少なくとも本職の「批評家」はそれを余儀なくされています。精確な情報に依拠し事実の把握を前提することは当然(それは批評家にとって職業倫理です。私にとっても倫理ですが)として、価値判断の水準において、言説の内容的妥当性とは常に、相対的な妥当性のことでしかありません。さらに言えば、価値判断の水準における相対的な妥当性の累積こそが普遍的な妥当性を構成すると信じられた近代が自明性を失うことによって、価値相対主義が蔓延したのが80年代ではありました。しかしながら価値相対主義とは(私の造語ですが)事実相対主義ではない。


「突撃者」の発言を支持しないと繰り返し明記したのはなぜか。彼の当該発言にまったく内容的な妥当性を見出し得なかったためです。理由を改めて記す必要はないと思います、というか、Apemanさんや当該コメ欄における方達と同様の理由です。そしてそのこと(=彼の発言が妥当性を著しく欠くためまったく支持しないこと)を誤解の余地なく明記するためでした。かえって誤解を招いてしまったことは皮肉な帰結でありますが(しかし「過剰さに引っかかった」と申されましても、そうでしたか残念です、としか記述者にとっては言えないこともまた事実です。Apemanさんが「引っかかった」ことと当該記述が文意において妥当性を欠いているかということは、別の問題です。そして後述しますが私は後者に対してのみ留意しているのです。私は7日付エントリの当該記述を幾度も読み返しております。記述の瑣末な瑕疵を指摘されるのは結構ですが、ここまでくるとそれこそ色眼鏡と言わざるを得ません)。理不尽なことを言う人間には理不尽と示す、相手がいかなる「立場」にコミットメントしている人物であれ。むろん個人的な関心の範疇という守備範囲は誰にでも存在しますが、自己の関心の範疇においてはかくあることこそが「言説の内容的妥当性」にのみコミットする人間の振る舞いであり「正義感」でも、ある。ですから。

>ただし私がコメ欄での議論に「コミット」したエントリが「死ぬ死ぬ詐欺」騒動をめぐって2ch批判を行っていたものであったことは、Apemanさんに対していくらかは予断を与えてしまう事柄なのでしょうか。

この点は一切関係ありませんので。


それはよかった。これこそ私の邪推でしたね。「言説の内容的妥当性」に対してのみコミットメントするのです私は、ということを示したかっただけです。なお。

ひとことで言えばsk-44さんの「公正泥棒」というエントリが「お前の立ち居地がはっきりしないじゃないか、という批判に対しては巧妙に予防線を張りつつ、しかしパフォーマティヴには結局立ち位置を明確にせずに行なわれる批判」じゃないかと思えた、ということです。私のそうした印象は、例えば

>正しい理屈で論破しても相手の心を動かせない以上勝ったことにはならない、というクリシェこそ正しい屁理屈に過ぎないので、それは用いない。

という箇所に根拠を持っています。コンスタティヴにはなるほど「正しい理屈で論破しても相手の心を動かせない以上勝ったことにはならない」とは言われていない。しかし本当に「それは用いない」気があるのならこの一文はまったく不要であるはずで、あなたはパフォーマティヴに「正しい理屈で論破しても相手の心を動かせない以上勝ったことにはならない」と語っているわけです。じゃあ「相手の心を」動かす名案があったら教えてよ、と言いたくもなります。


コンスタティブとパフォーマティブをめぐる議論は、かつての東浩紀経由で知っているし踏まえてはいます。御存知かと思いますが、かつての東氏が提示していた問題意識とは、価値相対主義の蔓延によって普遍性を構成せずリテラルな文意の水準において機能しなくなった批評的言説の、現実的な文脈における無効化への危機感に依拠していました。かかる状況下において振り回される「審美」とは「批評」とは現実的な文脈のうえでは無効どころかむしろ有害ですらあると。Apemanさんの問題意識もまた、そこにあるのではないのですか。だからこそ。

正しい理屈で論破しても相手の心を動かせない以上勝ったことにはならない、というクリシェこそ正しい屁理屈に過ぎないので、それは用いない。


という私の記述にこだわられるのだと思います。かかる記述はつまり批評的なレトリック(修辞)です、下手なレトリックであったことは認めますが、と言ったら貴方は気を悪くしますか。ええ、価値相対主義的な状況下において「批評」が用いるレトリックの、現実的な文脈における有害性を東氏もまた説いていました。しかるに修辞とは批評の要諦でもある。私の記述がどうであるかは別として、一般に、レトリックとは、記述に迂回と飛躍と含意と表裏と二重と多義性を込める技法です。たとえば福田和也とかいまだに使いまくりですが。もちろん確信犯として。そしてかかる福田氏の態度は当時の東氏に批判されている。


しかしレトリックを多用する福田氏の態度とは「審美」に規定されていて、正統な「批評家」としてそれは正しい。個人から出発した批評とは審美に規定されるものです。というか、個人と審美と批評は常に共にある。かかる個人的審美に規定された言説の「内容的妥当性」とは、記述自体の内部にしか存在しない。記述自体によってしか批評の内容的妥当性は構成されません。だから記述に一切を賭ける批評家とは、言説の内容的妥当性のみを精査し検討する者でもある。ゆえに、本来批評家とは立場を超越して言説の内容的妥当性にのみコミットメントする存在です。むろんかかる態度とコミットメントの、現実的な文脈における無効性とさらなる有害性をこそ東浩紀は説いていたのですが。たとえば「批評家」浅田彰に対しても。そして浅田氏は福田氏に対して、政治的判断のうえでは同意しないが審美判断においては多く同意する、と述べています。審美に規定された「批評家」とはそういうものです。


しかるに問題は、記述の審美的な妥当性に対してのみコミットした批評に対して、現実的な文脈においては無効であるどころか有害だ、と指摘したところで、はたして「批評」の構成論理にとっては根本的な批判となり得るか。記述自体の内在的な自律性に規定された言説に対して現実的な文脈における帰結から批判を加える行為は妥当であれ、さて審美という記述の自律的な運動に対して変容を迫り得るか。以上が整理と明解を意図して単純化された乱暴かつ粗雑な図式であることは御了解ください。Apemanさんが即座に想起されるであろう(特に戦前期の)事例について私は踏まえたうえでかかる原則論をいまさら展開しております。


「「特定の立場へのコミットメントが無い」ということがありうるとは思っていない」とApemanさんはおっしゃっています。私の見解は少し違います。「特定の立場へのコミットメントよりも言説の内容的妥当性自体へのコミットメントを優先する人間もいる」と思っています。私がそうした人間だから。むろん「特定の立場にコミットメントする人間」が「言説の内容的妥当性」を優先していない、ということではありません。そうではなくて「特定の立場にコミットメントすること」を意識のレベルであえて解除したうえで「言説の内容的妥当性」という旗幟にのみ立つ、という人間もいるということです。勝手に無手勝流でやるしかない、と私は思っています。むろん勝手に無手勝流でやることのリスクを背負って。格好をつけて言えば、ストリートワイズ、ということです。つまりは複数存在する旗幟に対する優先順位の問題です。私の信条たる是々非々とはかかる旗幟に基づくし、内容的妥当性に依拠することによって是々非々という認識は形成される。それこそが私の「正義」=「正しい義」です。以上で7日付のエントリにおける、

記述方法の不手際に関しては、結局のところ、左右いずれかに肩入れしていると判断されたくなかったという理由が大きいです。リスク対策とか以前に、本心としてそうなので。


という説明における「本心」そして不可視であった私のコミットメントの対象=旗幟であり「立場」についての具体的な開示を終わります。しかし当該記述に対する貴方の指摘は「などとおっしゃっている点も気になります。」とのことですが、「気になります」は構いませんが、貴方の個人的な感慨と印象に過ぎません。むろん記すことは自由ですが、Apemanさんがそのような「印象の表明」に過ぎないようなことを公開の場でおっしゃられるとは思わなかった。しかし、だからこそ私はかくも詳細にレスポンスしました。本来「そうですか、承っておきます」で済む問いに対してここまで意を尽くしたのは、ひとえに貴方が本気でその点を疑問に思っておられるのだろうと私が認識したためです。だから私なりの誠意を最大限示しました。


以上の見解に対して異議がおありでしょうが、私はApemanさんがおよそ指摘するであろう事柄を承知したうえでかかる「立場」を取っている。なぜ「およそ指摘するであろう事柄を承知」できるか、前述したように、結局のところApemanさんはひとつのことを形を変えて繰り返し私に問い、ある決定的な違和感についてのみ幾度も私に対して表明しているためです。であったからこそ、本気で疑問に思っているのなら答えるべきだろう、と趣味ではない所信表明の開示までいたしました。sk-44の「言説の内容」ではなく「立場」に問題がある、と指摘されるのは構いませんが、私はそういうことを他人に振りかざす人間がわからない。以上開示した私の「立場」からは妥当とも思わない。


名前は出しませんが、ひとつだけ、言説へのフリーライドを私もやります。「読者に示す最高の誠意は、相手のことを考えず、自分の投げたいと思う球を投げることだ」と言った方がいました。間違えてほしくはないのですが「読者に示す最高の誠意」として述べているのです。つまり、最低の読者ではなく最高の読者を想定して己の信じる球を投げろ。むろん最高の読者とはおそるべき読者です。そして、かかる「誠意」に同意する人間に対して「言説の効果に関する議論」を説いたところで、承りました、としか説かれた側は応えようがないのです。言うまでもなく、Apemanさんも含めたおそるべき読者に対する債務をピッチャーは負うことになります。これがたとえ理想論としても、高いレベルで考えないと仕方がないとも思います。「ブログを気持ちよくやろうとすることの内実」を問うておられた方がいましたが、これで答えになりますでしょうか。書いていて死ぬほど恥ずかしいのですが。

>しかし批判を意図されるのであれば、せめて言説の内容的妥当性にのみ依拠してほしいと私は思います。発言者のスタンスや言説の効果を言挙げされることは、少なくとも私個人は本意でありません。

発言は発言者の意図を超えて効果を発揮してしまう以上、「本意でありません」とおっしゃられても…。


では、言い換えます。そのようなことは承知しています。その点について指摘されるのも批判なさるのも結構至極です。妥当な行為ですし、感謝も歓迎もいたします。しかしそれは私自身の信条に対してはクリティカルどころかなんら有効な批判として機能しません。そのこともまた踏まえたうえで指摘される程度には個人の信念を尊重していただきたい。指摘は自由です。「発言の効果」は事後的にしか判断できません。その帰結に対する事後的な指摘を受けることはむろん発言者の債務の一環ですが、書く段階で考えろ、と他人に説かれる筋合いのものではありません。というか、考えていないと思っているのですか。どのみち発言の債務は発言者が負うのです。そもそも私は存じ上げないのですが、当該の「公正泥棒」をリンクしあるいは当該記述を引用したうえでいわゆる「サヨク」に対してネガティブな記述をされている方がおられるのですか。いや2chでも構いませんが。


Apemanさん達が不快を感じられた点についてはこうしてApemanさんの問いに答えることによって債務を負っています。ですから「当該問題に対してコミットメントしている者達に不快感を与えた」ことについては認めますし責を負いますが「事実上(あるいは結果的に)右派を支援する」と(思ったとして)指摘されたところで私は対応の余地がない。そうですか承りました、としか言えません。それこそ「支援した結果」であるURLを示すべきであり、あるいは「右派を支援する」と厳密な文意のうえで読み取り得る当該記述を示してください。「事実上」ではなく文意を走査したうえで。


たとえば、私が「対面で出くわした」「不愉快な『運動家』」について記した記述は「右派を支援」しているという文意を構成しているか、否です。「右派に理がある」とは一言も記していません。上に記したように、一応私は閲覧者を信頼しているのです。当該記述のリテラルな文意において誤情報や明白な虚偽や認識違いや妥当性を著しく欠く発言を記したつもりはないのですが、というかそれなら野原さんのエントリにトラバした以上即座に指摘されていたことでしょう。かつ、Apemanさんが適切な指摘を記したエントリに対して、私は自らトラバしています。自衛官官舎ビラまきの件については過誤を認めました。その点に関してはNakanishBさんに感謝しています。


つまり、コンスタティブとパフォーマティブをめぐる議論を踏まえたうえで、あえて批評倫理に沿って勝手にやっている人間に対してかかる角度から指摘したところで、承りました、としか本人は言えない、ということです。言説の効果以前に発言者をこそ信頼していただきたい。貴方は私に対して不信のみを抱いているわけではないからこそこうして長文の書き込みをしてくださっているのでしょう。感謝します。私もそうであるからこそこうして大長文のレスポンスを貴方に記しているのです。

例えば、「公正泥棒」は野原さんおよびコメント投稿者の方々の「言説の内容的妥当性にのみ依拠」して書かれたものではないと思いますが、いかがですか? 別に無限の責任を負えと主張しているわけではなく、かなり限られた文脈での「効果」を問題にしていることはお分かりいただけると思いますが、どうでしょうか。


ええ、最後に情けない補足をしましょう。「公正泥棒」の当該記述はゆえに内容的妥当性を著しく欠くものでした。そして内容的妥当性の欠如を招来させたのが、私自身の「特定の立場にコミットメントする人間」に対する色眼鏡にあったことは、歴とした事実です。そのことを認めます。「正義」の旗幟の複数性に対して、私の旗幟は越権していた。その反省こそが11日のエントリを記させ、現在へと至っているわけです。ですからApemanさんによる指摘も批判も不快感もすべてまったく妥当であると、再三記しています。責を負っていないつもりはありません、ただし私は自身の発言の内容的妥当性に対してのみ、自らでは責任を負いたい。しかし御指摘をいただくことはむろんウェルカムですし承らせていただきます。今回の件は、私自身、大変勉強にもなったし自らの不明もまた思い知りましたし、自身の色眼鏡の性質にも気付きました。文章教室に通わなければいけないことも。


最後の最後に。

じゃあ「相手の心を」動かす名案があったら教えてよ、と言いたくもなります。

あなたの言葉を借りるなら、「相手の心」を動かせない批判は揶揄にしかならないんじゃないでしょうか? 


以上縷々述べた私自身の「立場」から僭越ながら私見を述べますと、内容的に妥当な言説は、相手の心を動かし得ると信じるしかないでしょう。Apemanさんが論理的な分節や内容的妥当性をまったく考慮しない悪質な相手と議論をされてきたことは存じ上げています。しかしWebにおける議論の特質とは、相手に向けつつも無言の観衆のために言葉を綴り得る点にあって、それこそが最終的なフェアネスとバランスを担保し、理不尽な意見は淘汰される。「相手」とは閲覧者という観衆です。そして最終的に「正義」は勝つ、とはそういうことです。内容的妥当性という「正義」の旗幟に立つ、私の「立場」から信念を吐露すれば、そうなります。


以上を本件に関する私の総括とします。Apemanさん、納得いかれませんでしょうね。異議を唱えていただくことはむろんウェルカムですが、私はいささか徒労感を覚えておりますので、もう一度現時点での論点を整理します。おそらくApemanさんが論駁を要するであろう点はまず「誤解3」に関する私の再説明に対してでしょう。「やはり納得できません」とおっしゃられるでしょうか。表明されるのはむろん妥当な行為ですが、これ以上検討するべき論点や記述がその件に関して存在しますか。記述の更なる細部に至る印象を排した文意の検討をさらに重ねるべきですか。屋上屋は目に見えていますし、私の主張は尽きています。端的に不毛な議論です。ここまで説明してなお「納得できません」と言われるなら私は貴方個人を納得させることは諦めざるを得ません。残念です、と言うのみです。閲覧者の判断を仰ぎます。


そして、具体的に開示した私の「立場」についてですが、貴方がそれに対して違和や異論を表明されることはいかなる問題もありませんし閲覧者に対しては両論併記的に機能するでしょうが、内容的妥当性をこそ最優先する私は「立場=スタンス」それ自体の是非など論じ合えるとは思いません。リテラルな記述内容自体に限定して準拠し得ない議論だからです。価値相対主義者として述べるなら、あらゆる「立場=旗幟」は妥当でしょう。ただしかかる「立場」から事実や論理を考慮しない理不尽な発言が飛び出したなら、発言内容自体の妥当性に限定した形で相互に闊達に指摘がなされるべきです、原則的には。記述内容自体(=文意)に限定して準拠せず旗幟の相違を相互検討する行為に私は与しない。前記エントリの末尾に記した「議論をもって贖い得ない認識的な相違」とはかかる彼我のことです。続けて。

異なる認識への敬意を忘れないようにはしよう、とつね思っています。


と私は明記しています。単なる〆の外交辞令のようにしか、Apemanさんには受け取れませんでしたか。なお、sk-44の示した批評図式やそれをめぐる状況論はあまりに単純化されすぎている!とか杜撰だ!とかいつの時代の話だ!という突っ込みは甘んじて受けまくりますが、Apemanさんに私のコミットメントを理解していただくために採用した甚だ公式的な図式に過ぎず、断じて私の批評観や批評論がそれに尽きるものではないことを御理解ください。本筋ではないし、かかる議論は別のセクターに移行します。私個人の記述指針の(これでも)簡単な説明に過ぎませんので。


Apemanさんの問いに応じて私は趣味ではないにも関わらず旗幟を鮮明にしかつ所信表明を詳細に開示しました。ほかならぬ貴方の真剣な問いであったからです。貴方の「本気」は引用していてつくづくわかりました。だから応じました。しかし、かかる旗幟の内実に関するさらなる説明要求に対して、屋上屋を架してまで私が応じるべき債務が存在するとは思えません。私も前記エントリで貴方に、貴方の旗幟についていくつか確認しました。返答ありがとうございます。そして貴方の求めに応じて私もまた旗幟を開示しました。これ以上(私は貴方に対して問うつもりがありませんので)私の旗幟の内実に対する検討を続けたところで屋上屋どころか不毛なループへの突入をしか意味しません。記述の文意的な妥当性のみに限定して準拠することの困難な議論であるうえ、あらゆる旗幟は妥当であると私が思っている以上。厳密な文意において記述自体に問題が存在しているのであれば、別です。それこそ突っ込みを入れていただきたい。


つまり、当該記述の文意における内容的妥当性の検討とは別個に、私が今回開示した「スタンス=立場=旗幟」に対して批判を意図されるのであれば、私の予期し得ない論点や角度やフレームや問題意識を用いて批判していただきたいのです。さもなくば私としては応えようがないということです。「言説の効果に関する議論」を承知したうえで、私はあえて勝手にやっているのです。勝手にやることのリスクを負って。


とまれ、こっ恥ずかしい所信表明までしてしまいました。私はもはや本懐を遂げたつもりでおります。Apemanさん、幾度も来訪のうえきわめて有益で生産的な突っ込み(いやむろん批判と指摘のことです)を入れまくってくださり、ありがとうございます。というか、Apemanさんとやりあう日が来るとは思っていなかった。切に、厚く御礼申し上げます。