右を左へのジレッタ


Information.大変な御手数と思われますが、事情に不案内な方は、まず私自身の11月7日付の下記エントリと、エントリで示したトラバ先ブログの、コメント欄における議論に至るまで、先行情報として御拝読いただければ幸いです。


http://d.hatena.ne.jp/sk-44/20061107

http://d.hatena.ne.jp/sk-44/20061107/1162923824#c1163092393


当該エントリにコメントを寄せてくださっている「しまうま」さんは、トラバ先のコメント欄における議論に参加されていた方です。筆調鋭くトラバ先での「突撃者」を批判していらした。その筆調に私がひいたのは事実ですが、それは別として、大変丁寧な書き込みをこちらにいただき、御礼申し上げます。釣りを意図したわけではむろんありませんが、当該の議論に参加なさっていた方の見解を聞いてみたいと本心から思っていたことは確かなので、感謝します。


そして書き込みを拝読して、考えてしまいました。事実認識においても価値判断においても、こちらのコメ欄でしまうまさんが提示された見解に対して私は一切異論がない。しまうまさんが明白な異議を唱えられたわけでないことは承知していますが、しまうまさんが補足的に指摘された点に対する私の説明が不十分、すなわち言葉足らずだったのだろうと反省しております。たしかに不明瞭なほのめかしで茶にするような書き方をしたのはまずかった。誤解の回避のためにもきっちりと見解追記をさせていただきます。なお新規エントリをもって応答するのは、単純に分量的な理由と、そうするべきコメントに対して適当に「流す」ことなく、トータルな大枠に至る形で包括的に応答したいと考えるからです。何よりもそのほうが刺激的ですから。


僕には彼が、いわゆる「ネットウヨ」の主張をきれいにトレースしているように見えました。つまり彼はそういうサイトに入り浸ってる人なんだなと。「チベットについては何も言わないの?(中国様にはモノが言えないダブスタだな)」とか「違法行為したら捕まって当然」とか嫌韓・嫌中・嫌市民運動サイト・掲示板ではうんざりするくらい目にする論法です。だから厳しい言い方をしました。彼らが夜郎自大的に、自分たちの論理の正しさを信じ込む、という事態に歯止めを掛けたかったからです。君らのロジックは箸にも棒にも掛からない、ということを痛切に感じてもらいたかった。それが反省の種になると思ったからです。


まず真っ先に補足しておくべきは、私は判官贔屓をしているわけではない、ということです。突撃者の非を脇に措くような書き方をしたのは、おそらく実際に打ちのめされているであろう(本当に悪辣な人間なら手強い論駁者が複数現れた段階で撤退する)彼に対して当該議論の当事者でもない私がさらに批判する用もないだろうと判断したためです。彼の開陳した見解に対しては、すごいこと言うなあ、と呆れを通り越して嘆息するのみです。弁護の余地がないことは明白である以上、トラバした人間までがあげつらうのもどうかと思ったということです。彼の弄する論理自体は検討に値しません。というか、あれは論理と言いません。論理が不得意で事実について不案内な人間が論理と事実のようなものをもってして論理的な事実認識の議論を吹っかけるということの無謀を、自戒を込めて私は説きたい。そもそもあれは批判ですらなくて単なる揶揄です。揶揄を批判とどうやら自分でも信じていたようです。ついでに言えば最初に非礼な口調を用いたのも彼なのだから論駁においてDisが付随しても仕方がない。左右の立場以前にいかなる場合であれ、任意の事象に切実にコミットしている人間に対して第三者を自称する人間が半畳を入れるのであれば、それなりの用意と覚悟が必要であって、それをこそ想像力と礼節と呼ぶ、ということに尽きます(追記。当該の議論に関してではないのですが、上記エントリの別所の記述に関しては私にも当てはまるこっちゃないのかこれ、という自戒と反省については後述しています)。


前口上を終えたうえで、しまうまさんが提示してくださった論点について私の見解を記します。しまうまさんの見解にリテラル(=文意的)には全面的に同意しますが、私が考えているフレームは少し異なります。つまり、いわゆる「ネットウヨ」の揶揄テンプレートとしてのクリシェがなぜ再生産されるのか、そして「ネットウヨ」はなぜ市井の市民運動家や左翼的なアクティヴィストのブログを敵視するのか。戦後日本における対左翼言論批判史を眺めないと解けない数式だと、私は個人的に思っている。話は逸れるようですが逸れません。何年か前にジョン・ウォーターズ侯が日本の雑誌の取材を受けた際に、アメリカで跋扈するポリティカル・コレクトネスという風潮についてどう思うか質問されました。ウォーターズ答えて曰く、僕の『ピンク・フラミンゴ』はヒッピー・コレクトネス、すなわちヒッピー的に正しいか否かをめぐる映画なのだ。冗談のオブラートにまぶしてはいますが、彼の発言の批評的な真意とは何か。正義の複数性、正義の相対性を想え、ということ。


小熊英二に言わせると、


この人に聞きたい|マガジン9

日本の保守知識人は本当にレベルが低いですね。彼らがやってきたことは、基本的に「左翼たたき」だけ。進歩派の言うことは理想論だとか、もっと現実を見よとか、常識にかえれとか、それだけですよ。おまけにアンチ左派というだけで、共通の核になる思想は何もない。


ということになるわけですが、事実その通りではあるのですが、私は価値判断においては小熊の見解を支持しない。つまり「本当にレベルが低い」とまでは思わない。戦後保守知識人による左翼言論批判の核心的な要諦とは、正義の複数性や正義の相対性を提示する点にこそあって、そしてそれだけでしかなかったから、現在の観点から見れば評判が悪いしそれも仕方がないのですが、正義の複数性や相対性を提示することが「進歩派の理想論」に対するクリティカルな批判であると、少なくとも彼らが思えたというのは、単一の正義の絶対性が公式左翼の表層的な言説(=スローガン)において絶叫されていたと、彼らにとっては意識され実感された時代があったということです。むろんそれは左翼言論の内部においても問題意識として蓄積され、その軋みの決済として例を挙げれば25年前の文学者の反核声明をめぐって、左翼陣営内部において活発な議論とDis合戦が巻き起こるというようなことは幾度もありました。つまり言わずもがなの当然のことですが、たとえ「左」と概括できたとしても個人の政治的立場とは常に個別的であり、かつそれこそが理想的には健全な状態であるということです。過去においてすらも。


かつて私がつまらぬことを書いた手前もあり、批判する意図はまったくないのですが、たまたま以前目に触れたので。


脱正義 の検索結果 - sugitasyunsukeの日記


呉智英的な「政治」主義が、一体なんだというのだろう。こういう自称リアリストの冷笑が一番ダメで、右も左も上も下も、なし崩しに腐らせるだけだ。


という具合にたとえば呉智英夫子の評判は若い(といっても同世代ですが)リベラルに位置するブロガー(むろん杉田氏については存じ上げている)の方達に大変評判が悪いですし、上記引用の指摘は小熊同様の意味であるいは正しく、現在の観点から彼の言説の80年代90年代的な同時代におけるアクチュアリティとリアリティに想像が及ばないのはやむを得ないことなのですが。というか象徴的な書たる『脱正義論』を10年遅れで今読むのだから推して知るべし、ではあります。


ただし私は夫子のファンなので擁護しますが、呉智英の言論活動の核心にして要諦もまた、単一の絶対的な正義に対して正義の位相の複数性を示し、正義とは相対的なものであることを説く「啓蒙」に尽きていました。当たり前じゃないか。そう思えるのが00年代の言論的地平です。風通しがよくなったのは事実です。風穴を広げたのはネットの一般的普及なき90年代前半における呉や小林よしのりやその影響下にある『宝島30』的な言論の功績であり、また功罪でした。日本における戦後保守言説とは左翼言論批判に多く尽きていて、その要諦とは正義の複数性と相対性の提示であった。その価値と是非はさておき、正義の複数性を示し正義を相対化した言説の影響は、00年代のWebにおいて批判の作法として爆発的に波及し普及した。何を指すかはおわかりと思います。たとえば呉はかつて「差別語狩り」を批判する際に、絶対的な正義の恣意的な運用をこそ批判しました。この批判は正しい。ただしそれは現在「ダブルスタンダード」メソッドという政治的陣営に属する言論を批判し揶揄するテンプレへと廉価普及しました。


つまり、歴史的経緯に準拠しても、戦後日本における特に55年体制下の左右陣営のセンターに位置する言論には、現実的な諸大国の政治的影響とそれに対する構成員の意志的なコミットメントが関与していました。「ヒモ付き」という観測が発生するのも事実問題はさておき無理もない風景ではあった。そしてたとえば朝日のような左陣営のセンターを自負するメディアやそれにコミットメントするメンバーの言説が多く、単一の正義を絶対化しなおかつそれを恣意的に運用するという振る舞いを、無自覚か故意は別として示してきたことは、たとえば文学者による反核声明問題における喧々諤々、すなわち左陣営内部からの批判を鑑みてもわかるように歴史的な事実です。


その「ダブルスタンダード」以前の、言説におけるアンフェアと矛盾をこそ一貫して戦略的に「冷笑」し批判してきたのが、たとえば呉智英らです(なお呉は朝日文庫から自著を刊行した際に、朝日新聞社のフェアネスに対して感謝と敬意を述べてもいます)。冷笑を用いた所以は正義の複数的な相対性を説くための目的と方法の一致としてあります。そして批判対象のセクト性を言挙げる以前に、呉やたとえば小谷野敦らその影響下にある論者の一貫した批判対象とは、フェアネスをアンフェアに(=恣意的に)謳い上げる言説、ということに尽きる。さらにそれを1語で要約すれば、非政治的な議論を政治的に操作するな、ということであり、その象徴としてのポリティカル・コレクトネス批判へと行き着く。


しかし、彼らは当然非政治的な議論自体の内容について、まさしくフェアに検討を行いますが、廉価再生版の模倣者は具体的な言説や議論の内容的妥当性をオープンかつ理知的に検討することなく、批判対象のアンフェア性、すなわち政治性のみを批判し揶揄し攻撃します。だからダブスタメソッドが機能するし、そしてそれこそがいわゆる「立ち位置批判」を生みます。立ち位置批判は批判対象の全称命題化を自動的に前提します。


当然のことですが、過去の世界的な政治状況の間接的影響下にいまだにある日本のセンターに位置する左陣営言説の運用において、現在に至るまで歴史的経緯や内部体制や人脈に依拠した政治的な恣意性が存在することは事実ですし、その欺瞞を個別的な事例に即して指摘しあるいは批判することは肝要ですが、その理屈をそのまんま個別的な市民運動家やましてやWeb上の個人ブロガーに向けるのは、端的に筋違いですし無茶苦茶です。市民運動やWebにおける個別的なアクティヴィストの00年代におけるそれ以前との現実的な連続性や非連続性についてなど、了解も分別もまるでなされていないようです。要は、構造問題の文節的検討を放棄し全称命題化を前提して概括的に考えるからそういう始末になる。この2006年に、自己を左翼として規定し行動&発信するあらゆる人間が中国政府に意志的ないし政治的にコミットメントしているなどというのは、とんでもない話なのですが。


自分で答えを記しますが、なぜかくも無条件に市民運動家を嫌悪するのかと彼らに問えば、返ってくるのは「わかっているくせに」という嗤いです。翻訳すれば「一見非政治的(=普遍主義的)な正論を吐くおまえらだって所詮は政治的な人間だろ」ということです。最良の意味では、単一的な普遍的正義など存在しない、というこれまた正論になりますが、現実的には、戦後の左陣営言説批判者が示した「正義の複数的な相対性」という見識が「単なるホンネ主義」という最悪の形で簒奪された皮肉な帰結を示してしまっている。つまり「汝自身の卑しい性根を問え」という「あらゆる人間」の全称命題化を前提した言説の動機批判に行き着くわけです。かかる無敵の批判精神と、動機批判という最強のメソッドにおいては、言説個別の内容的妥当性は検討されない。


明記しておくと、これは「ネットウヨ」の全称命題化を前提した話でもないし左右を区別した話でもありません。ある種の批判構造の話です。私は以前(というか先月)「2ちゃんねらーネット右翼」という表題をエントリに掲げて「ねらー」批判をされた方と複数のコメント欄で議論というか対話というか最終的に喧嘩してともあれ一応の握手に至ったことがあります。「2ちゃんねらーネット右翼」というのは端的に事実として間違いです。全称命題化を前提して「性根を問う」という動機批判に依拠して議論を展開するからそうなる。別に当人への私的な悪感情はありません、ただ今でもその点に関する私の見解は変わらない。そして「ためにする批判」を繰り広げる人間というのは左右を問わずどこにでも分布するのだなと確認した次第です。


事実と論理と価値判断とそれらに基づく問題の分節化という議論展開における階梯を一切省みないで根拠もなく、対象の人間性のみを前提とした断罪をもってなされる批判を、ためにする批判と呼びます。批判対象を全称命題化して動機批判という議論内容以前の前提にのみ依拠しない限りは成立し得ない批判です。つまり必然的に議論自体がネグレクトされ批判対象はどこにも存在しなくなりDisはただ空を切る。批判対象を全称命題化するのは、全称命題化された任意の存在が単に批判者個人にとって気に食わないからです。「気に食わない」から出発する議論が空疎な議論でないはずがない。批判者が内部に見識としての根拠を持たないためです。見識としての根拠をこそ覚悟といい、見識によって規定された他者の個別的な覚悟への意識をこそ礼節と呼びます。


まとめます。正義の複数的な相対性を示すことが公式的な左陣営言説へのクリティカルな批判になり得ると意識された時代がつい10数年前まで存在したことはファクト。そして当時数多の論者によって示された「正義の相対的な複数性」に、魅入られたリアル厨房が大勢いたこともまた、体験的な事実。そして私もまた価値相対主義者になった。うへえ80年代ですか、ではありますが。しかし現在のWebにおいてかかる認識は左右問わず常識化しいまさらそうした視点に基づく批判自体にアクチュアリティはありません、本当にありがとうございましたもファクト。しかるに「正義の相対的な複数性」という見識の実質を中抜きしたメソッドとしての批判作法がいわゆる「ネットウヨ」的な左陣営批判において普及し定着してしまった。私もそうしたDisを2chスレで見ている分には大いに楽しいが、その論法でブロガーに突撃するのはちと。かくて呉智英夫子が自ら名乗った「犬儒派」とは似ても似つかぬシニシズムがWebに蔓延する。そもそも呉智英さんは(「全共闘的」とも言えるとはいえ)何よりもまずモラリストかつスタイリストであって、その故にこそ逆説を吐き続けているという屈折に唯一的な真髄があるのだから。現在のWeb上における「ネットウヨ」的な事態は80年代90年代の言説状況の間接的でありながらもしかし強い影響下にある、でFA。


だから、以下はあくまでしまうまさんに応えての大きな御世話な私見に過ぎませんが、その種のなんともはやな頭の痛い誤解に基づくDisを避けるためには「正義の相対的な複数性」を前提として認識したうえで任意の正義の旗幟に個人の見識と判断に基づいて立ち行動し発信している、という言わずもがなの自明の当然について仕方なくも説明するしかないのかも知れない、とは思います。あるいは普遍主義を志向するのならその見識のフェアネスこそをオープンに示して(オープンでないというのではなく、ハナからアンフェアを勘繰る色眼鏡な人間があまりにも多いということです)。つまり、左翼と自己規定する個人アクティヴィストであろうと、朝日マンセーな立場や見識を有するような人間はブロゴスフィアにおいてはきわめて少数でしかないという事実さえも批判者に周知されていないという嘆かわしい現状が存在する以上は。チベット問題を個人ブロガーに持ち出すというのは、そういうことでしょう、残念ながら。というか、左翼を名乗ることと朝日の論調や政治的立場にコミットすることは、論理的に当然分岐し得るわけです。「サヨク」とやらを全称命題化しない以上は。


しまうまさん、とまれ以上です。見解補足の契機を与えていただきありがとうございました。


・追記


上記のエントリを書き終えた段階で、11月7日付の当該エントリに対して「雑感」という形で見解を提示されているブログを発見して、しかもそれがApemanさんだったので驚きました。別館のほうは度々拝読したことがあるのですが、本館は閲覧もずいぶんと御無沙汰でした。トラックバックがこちらに届いていなかったので昨夜遅くまで気付きませんでした。まったく的確かつ妥当な指摘です。ありがとうございます。


http://homepage.mac.com/biogon_21/iblog/B1604743443/C1534355107/E20061108181813/index.html


私の懸念は的中していたようです。当該記述に関しても真面目に書くべきだったろうと反省しています。後出しと言われても仕方がないのですが、Apemanさんの述べている見解に私は同意していますし、当該エントリに関してApemanさん同様の印象をもたれる方が大勢いるであろうと遅まきながら気付いたので、真面目な補足としてのトータルな見解を追記しました。もし宜しければこの長文エントリに至るまで御覧頂いたうえで判断してくだされば幸いです。


それと、これは反論や喧嘩腰とかそういうふうに受け取らないでほしい、あくまで説明の責の一環としてです、と非生産的な議論の嫌いな私は前置きしますが、Apemanさんの当該エントリにて複数回コメントをされているN・Bさん。御意見承りました。私の当該エントリに対する批判的な指摘と疑義を表明したものと受け取りました。むろん大いに歓迎し感謝しますが、それをApemanさんのブログのコメント欄で複数目にするというのは、いささか転倒した事態と感じはしました。「俺に絡めよ」メソッドとかではなく、コメント欄およびトラバは開放しております、応答できるかはさておき、エントリで提示された任意の見解に対して突っ込みも含めた複数のフレームすら異なる見解が追記されリンクされていく点こそがブログの面白さと私は思うので。まして疑義があるなら直接質問していただきたかった。丁寧に答えかねる質問が存在することは事実ですが。というか、N・Bさんはid:NakanishiBさんとして御自身のはてなダイアリーを持っていらして、そちらでは精確な文章を綴り、体重の乗った議論を展開しておられる。しかし率直に言って、当該のコメントに関してはN・Bさんの文意自体を汲み取れない部分が複数ありました。他人の緩い文章を難じ得る筋合いなど私にはないですが。汲み取れた部分に関して、以下勝手に応答します。

>根本的に想像力とそれに基づく礼節に欠けていると思うよ私は。
 と、『自衛官の官舎にイラク反戦ビラ投函した人達』を批判してらっしゃるのですから、さぞかしApema nさん達の経験に想像力を働かせて論理的にその正当性を否定した上で書かれているのでしょう


「さぞかし」以前と以後の繋がりが端的にわからないのですが「Apemanさん達の経験に想像力を働かせて論理的にその正当性を否定した上で書かれている」ようなことはありません。というか文章がよくわからない。私も悪文ですが、私が汲み取り得た限りの意味においては、言い切れることなので言い切りますが誤読です。下手な揶揄でなく批判を意図されているのなら直球でお願いします。

半分近くが、彼自身の法の「本質論」で占められているのだからほんとはそちらがメインなのかもしれません。


事実です。つまり、こうして今反省しています。

近年、「左」にそれが集中的に向けられ歯止めがなくなっているというのがこちらの危機感(動機) の核にあるのは理解なさっているようですが、まさかこちらがその原因を考えていないとどうして憶測できるのやら。そう考えてみたときには。
>「憶測」に過ぎないことを知りつつ「逮捕された当人が逮捕相当の危険人物だったからじゃねーの?」と書くことで自らの目的は達成される
 と同じような言説に思えますね。(2ちゃんと一部の有名人が煽った) 自己責任論と本質はあまり変わっていないようです。


むろん理解しています。その点について私の非に基づく説明不足があったので補足しました。「原因を考えていない」とは思っていません。というか「左の人達は」などという全称命題化に対して言うまでもなく私は慎重です。しかしそう読み取られ得る不用意で挑発的でカテゴリー的な書き方をしたことは事実です。だから自分の責として補足を行っています。「そう考えてみたときには」以降に関しては明白に誤解です。「そう考えて」はいないので。「左に落ち度がある」と私は言っていませんが、誤解を招く書き方をしたのは事実なので追記を加えました。上記の通りです。「なぜ市民運動家を無条件で嫌悪するのか、叩く以前に素で聞いてみたくはならないのだろうか」という当該エントリにおける記述の本意については上記の長文記述で尽くされていると思います。それと、これはApemanさんに対してですが「手を差し伸べ合う」はあのコメ欄に限らず状況を見るに理想論と承知して書きました。「手を差し伸べる」などという啓蒙的な言辞を私も、まして他人に一方的かつ勝手に呼びかける際に用いたくはなかったからです。記述方法の不手際に関しては、結局のところ、左右いずれかに肩入れしていると判断されたくなかったという理由が大きいです。リスク対策とか以前に、本心としてそうなので。

それ気持ちよくやるブログなんですかね。


嫌味というか揶揄にマジレスしても仕方がないのですが、私の当該発言も嫌味のように受け取られかねない点があるのは事実なので答えますと、私の本心ですよ、当該発言は。以上。以前にヘタ打って更新やめていた時期があることへの反省が大きいですが。

全ベての落ち度があると決め付けられた「突撃者」はいい面の皮です。

「突撃者」をあれほど否定できるのですから。


これは本当に単にお聞きしたいのですが「突撃者」に関する上記に示した私の見解に対して異議があるということなのでしょうか。彼の態度に「すべての落ち度」がなく彼の発言に「否定できる」点が「あれほど」は見当たらない、ということですか。まさか「おまえが言うな」ではないですよね。上記記述を読んでいただければ瞭然ですが、私はそういうスタンスを取らない。というか、ここまで引用してきた文章を個別的に追ってきて改めて気付きましたが「本気」ではないわけですよね。


N・Bさんとしては、アンタの記述は揶揄でしかないと自分は受け取ったから自分もApemanさんに向けた形での揶揄で返している、でFAでしょうか。まさか私がそれを読むことがないと思わなかったはずはないので。それは別によいのですが、なら私もそうでしかないものに対して真面目に応答するべきではなかったとちと後悔。私も軽口は叩きますが、特定のブロガーに名指しで向けるのであれば予想し得る結果に対して腹を括るでしょう。そして、N・Bさんのように当該記述を揶揄と受け止める方も多くいるとは思います、そしてその責は果たしたつもりです。批判ありきでなされた批判に応答するのは萎えるものです。「突撃者」と呼んだことに揶揄的な意味はなく、捨てハンかは知りませんがネガティブなイメージが決定的に付着してしまったハンドルをことさら連呼するのは本人を思えばどうか、と自粛したためで、かつほかに1語での呼びようがなかったためです。武士の情けのようなものでしかないしそれが僭越であることは知っていますが。


そして、N・Bさんが提示された最も重要な論点であろう自衛官官舎ビラ投函をめぐる「断じて法的に断罪されるべきではないが、根本的に想像力とそれに基づく礼節に欠けていると思うよ私は」という私の記述に関してです。私が応答を決めたのはこの点に関しては貴方の指摘をシリアスに受け止め、かつ結果的に反省と自己批判に至ったからです。自らによる、他者の名誉に関する過誤については明記すべきと強く思いました。まず。

これ、「末端の自衛隊員に言わずに政府に言えよ」みたいな声をよく聞きましたけど、それってアイヒマンを免罪する論理ですよね。私は現場を観てないから「礼節」云々については判断保留しますけど、自衛隊員(やその家族)を自律した意思決定の主体と見なすなら、彼らに対する働きかけをする人々がいるのは当然でしょう。


というApamenさんの極めて妥当で正当な見解に対して、

なるほど、その前提が欠けていたのですねあのエントリーは。自律できない人を保護してあげるともとれると。


いやそんなことは一言も言っていませんし前提が欠けてもいません。私の知らぬ場所での一方的な想定問答も大概にしてください。当然前提した上で私なりの異なるフレームに拠って記しました。フレームの妥当性に疑義があることは承知しており後述します。そもそも「末端の自衛隊員に言わずに政府に言えよ」とか私は考えてみたこともない。末端って事実としても口に出すものですか。後述の説明で了解していただけるか甚だこころもとないのですが、私の見解はまったくその逆です。端的に言って、自分が具体的に働きかける他者に対しての意識と態度という覚悟の問題でしかない、しかしそれゆえにこそ一般化して検討し得ない個人倫理にのみ依拠して彼らを批判していた、その不当に気が付いたということです。その点についての反省をいま記しておりますが、だからN・Bさんの解釈は話がさかさまで、上記引用のような受け取られ方をされあまつさえ多くの閲覧者を抱え信頼されるブログに確定事項のごとく記されてはたまらない。だからこうして縷々綴っております。Apemanさんも、

直接的には当時いろいろネットで見かけた議論を念頭において書きましたが。

と補足しています。それはN・Bさんの一方的な断定であって私の見解ではない。


確かに私の感覚からも失礼なことはありそうですが、はっきりと(不当と思われる逮捕を受けた) 個人を名指しする以上はきちんとした論拠をお持ちだと思います。

以下、強い自省を込めて。


まず、疑義があるなら直接訊いてください。答えるべきと判断したら答えます。そして、彼らに対する逮捕や法的処罰の不当性に関して私は言わずもがなの大前提として明記している、そのうえで彼らの行動について私個人が「〜と思う」とあくまで個人的な私見であることを示したうえで見解を述べることは前者とは別個の問題です。問題の分節化を私は常に意図します。そして、ロジカルかつ原則的にはApemanさんのおっしゃる通りです。だから礼節なんぞという一般化不能な概念については「保留」するしかない、というか論じられない。卑怯な飛び道具を用いたことを認めます。


石投げられるか知れませんが、論理を放棄した独り言であると認めたうえで以下を記します。イラク自衛隊派遣が検討から決定へと至る段階において自衛官の官舎にイラク反戦ビラを投函するという行為自体に、私はどうあっても違和感を拭えない。強いて言うなら非礼であると思う。価値観を異にする他者への具体的な働きかけに際して、その非礼を承知したうえであえて一線を越え行動に移したか否か。いくつもの体験を経て手痛い目にもあった挙句に私が学んだ倫理です。だからこれは個人的に揺るがない。それを礼節などと気障に言語化するべきではなかったしそれを用いて任意の他者を批判するべきでもなかったとは、いまにして思う。それこそ非礼ですね。普遍主義者でない私は、価値相対的な人間なのだから。明白な私の過ちです。故にいま、彼ら個人に対してその非礼をはっきりと陳謝することを明記します。他者という彼岸への節度と節度を前提とした敬意を知ることの社会性という感覚が私には抜き難くある。だからこそ、私の当該記述は私自身によって批判されるべきでしょう。訂正ではなく批判を。思ったことを不用意に口に出すということの債務について忘れていた我が不手際への自戒の三里塚として。


おそらく、N・Bさんが私に対して抱かれている感想はこうでしょう。「で?一方的にジャッジしたつもりでアンタは高見の見物かよ」――そのように思っておられる方がほかにも大勢いるであろうこと、当該のエントリにおける私の茶にしたような態度と説明不足に明らかに非があることを了解し反省したため、真面目に上記見解を大幅に追記しました。長くなりました。N・Bさん、頼まれてもいないのに詳細な応答を加えたのは貴方に含むところがあるわけでも印象操作を感じたためでもなく、応えるべき批判と疑義ではあると、週末の夜更けに書く長文のランナーズハイがてら思ったためです。殊更に論駁しているつもりはなく、私なりの見解補足の一環として、です。だから自ブログのエントリに貴方のコメントを引用したうえで記しています。少なくとも、貴方による「自衛官官舎ビラ投函」に関する私への指摘と疑義に対して応答する過程において、自らの不用意で杜撰な放言について再検討のうえ自省し、結果的に自分の内なる一線を明確化することができたことは、私にとっては大きな収穫でした。切に感謝申し上げます。


追追記。というか、N・BさんことNakanishiBさんのブログのプロフィール欄を見て驚愕しております……以前フラッと立ち寄ったきりの「あかね」で1度だけずいぶん長く話したことのあるあの人だ……いやだからどうということも別にないのですが、世間は狭いと思いました。それだけです。はい。ただ印象は判然と、変わりましたよ。