Good&Bad Education


http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/845707.html

スクールによると、男性は8月25日に入所。うつ病と診断されており、合宿所で父親とともに生活していたという。


鬱病患者を戸塚校長に預ける……それなんて八甲田山雪中行軍?校長に言うことは何もないが、まあゲーム脳よりも戸塚宏の脳幹理論を誰か世の親に信頼される思春期心理の専門家が批判するべきだろうとは思うが触りたくもなかろう斉藤環も。しかし親。無知は犯罪だなとつくづく思う。真光源の悲惨な事件について聞いたときも同じことを思った。


その道を真剣に志す友人もいる、また彼から到底一知半解にとどまらない見識をレクチャーされ続けてきた手前、カルトとかインチキとかそういう言葉で非難する気はないが、正統医療と非正統医療の決定的な相違と各療法の蓋然的な分岐とその帰結について、誰よりもシリアスであったはずの当事者たる両親は、認識していたのだろうか。最終的には施療者個人の経験則にのみ規定される非正統医療においては、AをBすればCになる、という普遍的な代入式がまったく成立しない。正統医療なら常に代入式が成立するわけではむろんないが、普遍に準拠しない非正統医療は定式が成立し得ないことを前提とする。出目次第、とまでは言わぬが重篤疾患への治療行為におけるリスクは正統医療の比でないこと言うまでもない。そして出目への信頼を担保しリスクを軽減するのは、ひとえに施療者個人の資質と資質を保証する背景的な経験則にのみ由来し帰着する。資質に多く人格的な特異性やカリスマが付随してしまうこともまた、言うまでもないことである。


そこまで承知したうえで、貴方は子供を非正統医療の手に預けているのか、いたのか。問うことは酷だしいずれ痛ましい非劇であることは違いない。ただこの種の事態に出くわすたびに、誰に向けたらよいものか、私の腹は無性に収まらなくなる。親の無知が子を殺す、それも、何よりも愛する我が子の苦痛を軽減してやるためにこそと、藁にもすがる思いで取った行動の結果として。


トラバ先では鬱病なんて甘えた怠け者の仮病で気合が足らんという類のコメントが散見される。即座に別コメントで突っ込まれてもいるが。いまだに日常生活においても耳にする見解ではある。その種の意見を開陳する人が職業的な精神科医というわけでもなかろうし、だから別に馬鹿とは思わないが、土人神話論理であるなとは思う。いや神話論理にも理はありますがね、20年前に先進各国を席巻した、HIV感染は性的に乱脈な連中の自業自得だ、という論調との類似に気付いているのだろうか。先進国におけるHIV感染者に性的乱脈者が一定数含まれ、また彼らの性的な乱脈こそが結果的にHIV感染を招いたとして、一切を概括して全称命題化できるものでは到底ない。全称命題化して論じるその背景には偏見としての恣意が介在し、結果的に差別を喚起するものでしかない、という批判は当時も今も該当するだろう。


投薬治療は心的疾患への対処として普遍的な正統性を確保している。正統医療を否定していることへの自覚がかかる見解を開陳する者にはあるのだろうか。そしてそれに対する反論を当事者が述べたとたんに、それこそを甘えた怠け者の言い訳として受け取るのだからDisった本人は揺るがず、当事者の立つ瀬はさらになくなる。


その是非を言挙げる気もないが、利根川進が昔言っていた。人喰い村出身の賢い土人の若者が村を出て高度な西欧医学を修め、故郷に戻って村人達の治療に尽くす、村人達は若者に感謝し、その西欧的な聡明と近代的な医療技術を自分達もまた学ぼうと、彼を殺してその脳味噌を皆で分けて喰った。非科学的思考というのはそういうことでしかない、と。まあ利根川博士だからそう言うのだが、かかる意味で現実に無知は人を殺すし無知はそれに支配される者をもまた救わぬし無知は世界を前進させないし、だからこそ知の正統に賭け正統性に付随する歴史的な重責を担う者からトンデモや土人の無知は軽蔑される。


西欧において歴史的に形成された知の正統を土人達に叩き込む抑圧的なディシプリンこそが、Educationと呼ばれる西欧的教育の本質であって、だから徳育だの教育再生だのという現政権のスローガンは捩れている。ただしその捩れには一定の妥当性を有する必然がある。近代先進国の制度的な教育改革とは、西欧的なEducationの再試行と徹底以外にソリュージョンの道筋は付かないと思うが、西欧近代的な教育の非西欧国における国家規模での実施という分裂した困難について私は承知している。近代化の過程において、外部から導入され標準化された西欧的な自我と、望まれ得る国民的でナショナルな自我とが分岐したとき、Educationの実施面においてのみその制度的な調整が図られかくて現場に皺寄せがいく、その暫定解こそがいわゆる愛国教育であり、それは日本だけの事情ではない。日本は西欧のいわば教育植民地だから、ここにきて反作用が噴出するのも無理はない。


ただかかる反作用が非西欧的、いや土人的な無知へと帰結し回帰するのであれば、知の正統というヘゲモニーを握る西欧の植民地主義者とその国内における走狗どもからの軽蔑は避け難い。正統が正統である理由、正典が正典としてある根拠は、アジアの片隅の島国においても歴然たる可視として存在する。いや、こんな理屈はどうでもよいからとりあえず中島らも藤臣柊子でも読んでほしい。鬱病への理解と配慮などという徳育は後回し、まず何よりもリアルな現場の情報知の共有と周知という正しいEducationを。