表象の吸血鬼


昼には出る。時間があまりないし、修正の余地もあるだろう。だが所在の移動により2,3日更新できなくなるかも知れない。簡単にでも記しておきたい。キッチュサブカルの話だ。なお、サブカルチャーにおける表象の話といえペド絡みのチャイルドアビューズに嫌悪感を催す方は、以下は読まず当エントリに関してはスルーしてください。


BLACK LAGOON』のヘンゼルとグレーテルチャウシェスク政権下のルーマニア産。『交響詩篇エウレカセブン』のアネモネポーランドワルシャワ産(作品内ではワルサワだが)。そして『MONSTER』のニナとヨハン=チェコプラハ生産。キッチュサブカルが描く陳腐な東欧の暗部。時の政権の関与の実態など私は知る由もないが、20世紀ヨーロッパの負債としての、歴史的な鬼子たる東欧における児童の性的収奪と搾取は歴とした事実でもある。かかるヨーロッパの負債の成立に、ナチススターリンヴィシー政権、すなわち大戦と圧制と虐殺が大きく関与したことは言うまでもない。そして東欧を直接的な産地とする児童の性的収奪と搾取のネットワークは、ある時期までヨーロッパ全土で回されていた。


私がしたいのは現実の話ではなくキッチュでバナールなサブカルにおけるお寒い表象の政治の話だ。東欧と変態嗜好とチャイルドアビューズの三題噺、ホントにおまえら好きね、と。私も好きだからあげつらう筋などあろうはずもないが。そもそもロリとペドの(実践性の有無以前の)嗜好的な方向性の相違すらもいまだ周知されていない日本はチャイルドアビューズにおける後進国だろう、知的にも現実的にも。喜んでよいやら悲しんでよいやら。


実は『エウレカセブン』のマンガ版を読んで少し驚いた。アニメとの異同やその人脈的な背景などに私は詳しくないし話の本筋でもないが、おそらくマンガ版の製作者の(性的なものには限定されない、広義の意味での)嗜好性によるものであろう。無垢な少年少女のBoy Meets Girlとその少年少女達に対する身体レベルでのグロテスクで性的な暴力性とが、イメージにおいて並存し癒合していた。思春期の少年少女の無垢な恋と彼らの身体に対するグロテスクで性的な暗喩を込めた暴力性との、身体的な位相における引き裂かれた闘争。


それはおそらく原作の世界観自体に包含されていたイメージの可能性であり、その線はアニメ化の際に佐藤大ら製作スタッフによって忌避され故意に無化されたのであろう。少なくとも少年少女への暴力は、身体的で性的なレベルにおいては行使されなかった。それは最低限の暗喩へと縮小された。その判断は正しかったと思うが、どおりでアネモネの来歴と顛末がアニメ版ではわかりづらかったわけだ。アネモネこそが本作のチャイルドアビューズ性を象徴する存在で、だから私は血眼で追っていたのだが。


むろんその線を貫徹すれば「それはアスカだろ」という話になってかかる病的な線のアニメにおける家元がエヴァであることは明白なのだから、かの世界観に同調しないであろう、というかそれに対するアンチを志向していたであろう佐藤大ら製作スタッフが病線の可能性を意図的に掘り下げなかったことは、クレバーな判断ともいえるが、結果的には言わずもがなのチグハグな印象を残した。別にマンガ版がとりわけ病的な作品というわけではない。そもそもそんなに巧くも面白くもない。ただ『エウレカ』という世界観が本来包含していたチャイルドアビューズへの問題意識、アニメ版において故意に捨て置かれた線の、個人体制的な製作に拠るプライベートな再掲示を、中絶した子の臍の緒のように覗くことはできる、というだけだ。


実際「オトナとコドモ」のありうべき関係性をメインテーマに置く『エウレカ』において、アニメ版で力点が置かれたオトナ達の関係描写と比して、マンガ版ではコドモ達の性的な暗喩を込めた関係描写に一切の力点が置かれている。だから私はアネモネの箇所しかちゃんと読んでいなかったりする。デューイとホランドの確執すら、淵源を彼ら兄弟の少年期の関係に遡行させるのみだ。それは両製作者の資質と志向の相違の結果なのだろう。エヴァ的であろうとするかそれを拒否するか。


暴力的な世界の渦中における少年少女の恋を描いたとき、無垢なコドモ達の関係は必ず性的な暴力の暗喩を帯びる。これはエヴァといわず最終兵器彼女といわず、もうガンダム来宮崎駿以来の御約束である。『戦闘美少女の精神分析』における斉藤環の指摘もこれに拠る。それはヘンリー・ダーガーと相性がいい。私は富野作品に通牒しているとは言い難いが、宮崎駿の場合、近作の『ハウル』に至るまで一貫してかかる常識的にはストレンジネスな世界観への偏執を作家は貫き続けている。


ゲド戦記』の原作にはかかる世界観との親和性が無数に見出されるにも関わらず(それを西欧的なル=グウィンは幼児的な日本における誤読と言うだろうが)、宮崎吾朗はその点を熟知せず、単なる出来の悪いコドモの、世界との調停としての成熟物語に仕上げてしまった。ンな「お文学」は実写でやってくれ。そこに失敗の大きな因がある。壊れた世界と壊れた人間との調停などそもそもありえない。それこそが非西欧的な日本のキッチュサブカルにおけるデフォルトの世界観なんだが。ま、是非は別にして。


アスカしかりレイしかりアネモネしかり「ちせ」しかり。性的に収奪される少女の悲惨は実に美しい。『BLACK LAGOON』においてかかる悲惨はまた同時に真面目な顔で告発されてもいるが、言うのも野暮だが、通して見れば、ふざけてるのか、というようなデスなゴスのパロディ譚である。デスとゴスとチャイルドアビューズ、という三題噺もまた好事家どもは大好きだ。この場合、悲痛な顔で現実のチャイルドアビューズを非難しておけば、デスとゴスに萌えることは免罪される。だってフィクションだし絵と文だし。何か?――ここに最大の問題とやらが所在する。


デスでゴスなチャイルドアビューズにまつわる表象は常に両義的である。性的に収奪される現実の少女は悲惨だが、フィクションにおいて性的に収奪される少女は美しい。そして両者は受容する側の脳内において、常にリンクし弁証法的な妄想を生産し続ける。その現実への侵犯を論じることに私は関心がない。ただデスでゴスなチャイルドアビューズのフィクションが「絵や文」であるからということで、規制されるのは論外といえ、嫌悪する者を説き伏せることは困難であろうな、と以上のことから思う。表象の暴力というのはあるし、何であれ性的に収奪される少女の悲惨が美しい、というグロテスクかつ間接暴力的な嗜好を唾棄する者があることは、まあ無理もない。名指しで罵られれば、なら貴様はどんな御立派なオナニーしてるんだ、と言いたくなりもするが。逆ギレか。


脱線するが、その種の公式論者に訊いてみたいのは、互いに認め合い尊敬しあえる対等な男女間の恋愛とSEXとか、この世に存在すると本当に思っているのか、ということ。可能性の話でなく。確かにアニメ版の『エウレカ』とは、かかるカップリング幻想とその延長にある価値観を信じる者達が描いた世界であって、だから私は根本的に乗れなかった。前提として、あらゆる人間は対他的に非対称です。断念としての非対称性の是認からしか、関係性は構築されません。佐藤大らは、人間の本来的な共通性とやらを原型化してポジティブに共生を謳い上げてしまっている。シリーズ通して見ていて、ユングかよ!とたまげたことが幾度かありました。なんせ最終的にレントンエウレカはこの世の果てでひとつに融合するのだから。共生と共存は異なる。スカブコーラルとの調停だのセカンドサマーオブラブだのと夢想するのは勝手ですが、ジョンが聞いたら怒るよ。その点では、エヴァ庵野のほうが関係性の不可能性に対してよほど馬鹿誠実ではあった。


悲惨を嫌悪し、そして嫌悪すべき悲惨こそが美しく愉しい、かかる両義的な感性は、人によっては外道の二枚舌の詭弁としか映らない。だが貴方が責め立てる「卑劣」な二枚舌という融通無碍な二枚腰は、大ヨーロッパのカトリシズムが育んだ複雑な人間性の裏技的な真髄であることも、また事実だったりする。背広を着た畜生の、高度に洗練された文明的な人間性とは、たいていろくでもない腐臭を放っている。高級ホテルの白便器のように。


補記。読めば了解されると思うが、私は自戒を込めて書いている。この種の件に関して誰を告発する権利も非難する資格も、私にあろうはずもない。「各人の事情」は最大限尊重されるべきに、そりゃ決まっている。