可視的な劇場空間の死(野坂昭如の『真夜中のマリア』と『てろてろ』を読んでいる)


池袋の新文芸坐は、10周目のフェリーニオールナイトなどよりも、ヤコベッティナイトでも開催してください。モンドの狂宴。『食人族』はともかく『グレートハンティング』とか、アレは狭い自室で独りで見るものではありません。イタリア〜ンな作法と、サーカス的な受容を前提するメディアです。見世物小屋の犬娘とWin-Winで対峙したら鬱になるでしょう。まあ、小型TVで英BBCプラネットアース』のミニマルな環境映像的洗練を眺めてさえいれば、暴力的なリビドーの枯れきった(あるいはソフトランディングさせた)今の私は満足なわけですが。


真面目な話、現代のモンド映像(というか広義の怪奇譚的なもの全般)はミニマルな個人単位の密室的受容と、そのWebにおけるインタラクティブなコミュニケートを前提として設計され展開されているのだろうな。黒沢清の『回路』とはかかる「日常」/「非日常」あるいは「こちら」/「あちら」の差異を失った無境界な状況における「感染としての侵犯の現実化」を先駆的にアイデアとした。


なるほど『ブレア・ウィッチ』も『ノロイ』も劇場で観る必要を感じなかったし、だから『放送禁止』が話題になるのであろうし。怪奇譚(=怪談)とホラーとスプラッタはそれぞれ違うしね。受容形態も。だから「怪談会」という「場」に現代的な怪談受容のコミュニケートを集約して限定する、言い換えればWeb的な怪談受容のコミュニケートを実地調査の専門家的な立場から無視黙殺するのは、是非以前に現実として無理筋ではないかと思う、木原さん(知り合いでもなんでもない)。『新耳袋』のメディア展開の成功を支えているファクターとは何であるか。「怪談会」という身体的で対面的なコミュニケーションの限定性(=限界性)に基づく濃度の維持という信念については、承知しているけれども。


Win-Winとは対面的であることで、覗くことと向き合うことは異なる。しかし覗き屋を軽蔑することは、Webを否定することと同義でもある。コミュニケートの段階的な限定性と切断性を、Webで維持することが要求されていたからSNSは急成長した。Win-Winは社会的関係における不変の前提だから。その是非をいかに見積もるか。無人称の膨大な覗き屋の存在を前提とする空間は、社会的な空間ではない。少なくとも、近代社会の枠組みにおいては。Webの急速な市民社会化は、成熟ではなくシステムの可能性に対するバックラッシュだと、私はどうしても思う。


性的な処理メディアは別として、ミニマルな個人単位の密室的受容を前提とする現代のモンド映像から、ヤコベッティ的な、見世物小屋の犬娘性は排除されている。それは規制を因とするものではなく、受容環境の変化に拠っている。群集を覗き屋へと変換し可視的に集約する劇場的な空間は、もはや現実において要請されていない。犬娘がいるから見世物小屋が要請されたのではなく、見世物小屋という装置的な空間を形成するために、犬娘がでっちあげられる。その空間的な装置を要請したのは、民衆の覗き屋性を対面的かつ可視的に集約したうえで、非社会的領域に(地理的にも)隔離して社会的文脈に回収する機能的な余白の、ガバナンスにおける益を熟知する社会自体であった。


フェリーニのヨーロッパ的な世界観とは、民衆が覗き屋として人称的に機能する、近代市民社会のその枠内に設定される機能的な余白への信頼を前提としていた。フェリーニがTVをDisったのは故なきことではない。テレビジョンとはヨーロッパ的に希求され合意されていた市民社会性を破壊するテクノロジーのインフラである。覗き屋としての民衆が、市民社会を構成する同一の民衆と、Win-Win的な側面における不可視と可視(=匿名性と署名性)として乖離したとき「大衆の反逆」とやらが始まる。


インテリが名指す現代の「衆愚」とは、社会的諸関係において対面的に存在する、市民社会を構成する一員である自己と、非社会的で超法規的な覗き屋である自己とが乖離した、乖離への意識すらなき無節操で非倫理的な、不可視で覆面的な無人称の大衆のことである。Webにおける匿名実名問題が「社会的な意識の高い」人々から蒸し返され提起され続けるのもこれと関係する。広義の「ネットイナゴ」とは、かかるWeb上の無人称の「衆愚」をこそDisる言葉。是非は措く。市民社会を構成する民衆と同一の覗き屋としての民衆が直接的な対面性を前提として乖離することなく一致し、可視的な民衆の表裏の側面が総体として近代社会を担保していた、古きよき倫理的で人称的な時代は終わった。


それはWeb以前にテレビジョンのインフラ普及に拠っていた。社会的諸関係によって規定された主体としての自己からたやすく乖離した、無人称で非倫理的な「ネットイナゴ」の跋扈とは、個人における覗き屋がプライベートな密室に隔離されたうえで、匿名的な存在として一堂に会し得る人工的な環境の変容に基づく。環境の変容は個人の意識を容易に変容させる。1人1台のテレビジョン設置によって個々のプライベートな密室に隔離された内なる不可視の覗き屋が、さらなるWebインフラの端末的な普及によって膨大な個人として覆面かつ無人称のまま一堂に会し得る環境の敷設により、可視的に前景化し社会的に全面化したその帰結こそがはてな界隈で名指される「ネットイナゴ」の大量発生であって、単に匿名性の弊と括って軽蔑すれば済むものではない。


市民社会を構成する自己と覗き屋としての自己、内なる両者を対面的=人称的に調停し統合する社会的な内的作業こそが近代的な主体を生みカント的な個人の倫理を形成し、法と侵犯という図式を調達した。社会から要請されたのりしろ(=余白)として、不可視の危険性を集約的に可視化し無害化する装置として、見世物小屋は近代においても社会に包摂されていた。対面性を有した超法規的な空間(=社会的機能としての逸脱性の集約装置)の消滅は、個人における社会的な自己と覗き屋としての自己を、パブリックとプライベート(=社会性と内心=可視と不可視)という他領域に分割統治したうえで不可視の領域を社会ならざる個人にのみ負わせ、ゆえに両者の統合論理としての主体的な倫理も、不可視の是認と肯定に基づく社会的文脈からの切断により外部機構から要請されない以上、その対外的な必要を結果的に失った。差別意識は勝手だがそれを顔に出すな、と。


そしてプライベートな覗き屋として不可視の領域に放逐された自己が、無人称な多数性においてパブリックな領域に可視的な「力」を行使し得る現実的な環境と実践的な方法論が敷設されたとき、Webにおいて名指された「衆愚」が形成される。それはヨーロッパ的な市民社会の予期しなかったありうべきでない様相であり結末であったが、かかる状況は御覧の通り不可逆であり、そして私の心境は複雑である。とまれはてな2chの対立構図にあちらこちらで出くわして、ブログに復帰したばかりの私は驚いたのだった。