公開書簡を受け取って


貴方から、かくも丁寧かつ冷静な返答を改めていただけるとは思ってもいなかった。マイミク切られたら日記読めないなぁ、などと眠りに落ちる頭でぼんやり考えていた私としては、大変驚き、かつ感謝している。厚く御礼申し上げる。私はmixiにまるで熱心ではないが、それでも日々楽しみに読んでいる日記もあるのだ。マイミクの方以外にも。そして、失礼極まるのはまったく私のほうだと、以下の記述を読み返して思う。最初に土下座しておく、御容赦願いたい。


私も前口上を少々。貴方の知的背景を構成する科学哲学や分析哲学経由のプラグマティズムに関して、私はリーダー的な枠組以外はあまり存じ上げない。原典に真面目に当たっているのはローティくらいで、それは人文的な関心に基づく。ただし後出しでなく申し上げれば、貴方のおっしゃっていることについてはほぼ了解しているし同意する。学知の部外者ゆえ用語的にはまったくの「俺解釈」で申し上げれば、事実認識と価値判断の水準の区別と、事実自体の確定作業の手順(=論理)に対して公正性を担保する認識=方法論的合意、という前提的な規則に依拠して「真理」「真実」という言葉を使用しておられることも、わかっているしその態度についてはまったく同意する。すなわちファクトに到達するプロセスへの公正ということ。後出しと疑われるのであれば、証拠を提示する。リンク先のコメント欄における私の発言抜粋だ。断っておくと、当該ブログのmushimoriさん、この件に関してもう私に遺恨はない。必要を感じたための自己引用で他意はない。


http://d.hatena.ne.jp/mushimori/?of=5

状況把握に必要とされる事実認識そしてそのための事実確定作業の問題と、状況に対する倫理判断の問題とは全く別次元にあります。それを混同しないことの倫理という発想は貴方にはないのでしょうか。

そして、倫理判断が個別に異なるからこそ事実の確定とその認識の共有こそが必須であるという倫理について、貴方は同意されないのでしょうか。私は部外者に過ぎませんが、広義のアカデミズムの倫理とはそういうものだし、そもそも一般的に議論が成立するための前提的倫理です。共有され得る倫理とは、常に方法論に対する合意でしかありません。だからこそそれは尊いのです。


ごく簡単にしか述べてはいないが、貴方のおっしゃる認識は、一般的なレベルにおいてなら私も了解している。私は「一切は仮象」だなどとは嘯かない。限定的な実在論を、私もまた支持する。京極夏彦が以前、「科学は万能ではない」「科学では計り得ないものがある」などと言うのであればおまえは飛行機に乗るのをやめろ、飛行機がいかなる歴史的経緯の挙句、幾世紀に渡り累乗的に進歩した科学的認識とそれに依拠した精緻な科学技術の膨大な蓄積の果てに飛んでいると思ってるんだ、それに不信があるなら乗れないだろ、という当たり前のことに人は案外気付ず、科学と科学的認識を懐疑する者が平気で飛行機に乗っている、おかしいだろう、と述べていた。貴方が繰り返しおっしゃっていることとは、そういうことでしょう。


私も同意する。同意するが、京極はその後に続ける。でも人間ってそういうものでそれが面白い、と。たとえば吉本隆明の書いてきたことなど学問的見地からは間違いだらけで触りようもない。田川建三による徹底批判もある。しかし吉本の言説は今でも刺激的で面白い、と私は思うし、吉本が己の言説に賭けたものは、いまでは見えなくなっているのかもしれないとも思う。中沢新一と同じ意味で面白い、のかもしれない。しかし中沢が賭けたものへの認識をおろそかにするべきではないとも、私は思う。


「真理」という言葉と概念の人文領域における使用に関して、私の書き方も挑発的だったと思う。申し訳ない。貴方が具体的な人文文脈における「真理」の敷衍例として具体的に例示されている「システムの公正性への合意的認識」という、世界観としての「任意の事象に対する方法論的な公正性への合意」に関して、私に否のあろうはずもない。なお、私の人文概念とは広義であり、学知的に黙殺されている小林秀雄吉本隆明江藤淳もまた含む。だから人文概念もまた異なるのだろうと思う。ただ「真理」という言葉の人文文脈における使用に関して私が違和感を覚えるのには、後述する理由がある。


そして、以下は、私の語彙と文脈に基づく応答でしかない。おそらく貴方と私の現代社会観や日本社会観に関して、参照している理論的言説や批評的文献自体が、まずまったく異なるのだろうと思う。思想的傾向以前に、関心のレイヤーの問題だと思うが。そして学知的な専門性に関して、言うまでもなく私は貴方ほど通牒もコミットもしてはいない。だから、リージョンコードの調停として「偉い先生方」からの直接的な引用合戦を解除して、一般的な水準に限定して、貴方に応える。


E・フロム。彼が無効とは言わない。ただアクチュアルではないと思う。古典医療はむろん現在においても多く有効だが、高度医療の対象患者に対して決定的に有効でない。臓器移植によってしか対応できない症例もある。現代日本を古典医療の対象と見積もるか高度医療の対象と見積もるかで分岐するのだと思う。むろん両者は接合していて境界的で、混在しているという診断結果しかおりようもない。だからフロム的な分析の処方箋は現在も部分的に有効だろう。しかし、フロムが死んだ80年代以降の、高度資本主義化と超情報化に基づく個人の全面的な端末化、そして一国単位の異常な好況の破裂と世界資本主義の覇権におけるボーダレスかつグローバルな情報的価値的侵犯、不可逆な端末化の徹底は、日本においてはあまりにもファクターとして大きい。フロムが告発した当時のヨーロッパと現代の日本は決定的に異なると私は考える。現代の日本を告発するなら、上記のファクター(=高度医療としての分析的な処方箋の必要性)は算入して見積もるべきです。


ファシズムの構造を分析することの批判的価値は現在でも重要です。ただし現代日本におけるファシズムの徴候もしくは蓋然性は、半世紀以上前のヨーロッパとは状況を異にします。これはファクトの問題です。なお固有名詞の乱発合戦はやめますが、私もファシズム分析には別の角度から興味があって、おそらく貴方が省みてもいないような、いわゆる広義の右派的な側面から趣味的に文献を漁ったりもしていました。現代におけるファシズム分析のアクチュアルな側面は、失礼ながら現在から見ていささか素朴なフロムの分析とまったく別の位置に所在しています。ところで、まさか安倍政権のヒトラー化とか、本気で思っていらっしゃるのですか。ナチスドイツに関してかつて趣味的に資料を色々漁った身として述べさせていただくならば、現代日本独自の文脈に基づいたファシズム化ならともかく「ナチスファシズムの再来」などと考えるのはファクトとしてまったくの誤りです。私は安倍首相の実務はともかく施政方針をまったく評価しない者ではありますが。


これは価値的な見積もりの相違でしょうが、安倍の「美しい国」とナチスのスローガンたる「ドイツの森と大地への回帰(資料を引っ張り出せず不正確であることを記す)」は、言葉面は似ていますが二重三重に相違しています。舞台状況的には相違点だらけ。この半世紀間におけるテクノロジーの爆発的な発達とそれによって不可逆な変容を遂げた人間性というファクターへの勘定を、科学者の卵たる貴方は社会分析において捨象してしまっているように見える。なおスローガンと現実的な実務との暫定的な対応関係についても公正に勘定するべきでしょう。安倍憎しではなく。


少なくとも、ファシズム期のヨーロッパと現代日本の状況は、フロムモデルで概括して論じ得るものではない。なお私はフロムの代表的な著作をいくつか通覧した程度ですが(その点を責めないで頂きたい。「○○○を語る上で×××も読んでないのか」合戦をやったら互いにキリがない。関心のフレームが異なるのだから。広義の右派的なファシズム研究者に貴方は興味もないでしょう)、それは全共闘世代ど真ん中の親父の学生時代の蔵書として実家に全集があったためです。フロムの論説とは日本においてそのような文脈で受容され掲揚されていました。これは印象操作ではなくファクトです。


というのは、おそらく、貴方と私とで人間観や自由観がそもそも決定的に異なるのだろうな、と考えるので。この件を分節するといよいよ長くなるので乱暴を覚悟のうえで簡潔に申しますが、貴方の人文的な人間観自由観社会観世界観は、あまりにも68年的(それも通俗化された)です。時が止まっている、などとはむろん言いません。それは常に立ち返るべき至高の原則かもしれない。しかし私は68年的な思想は、もはや現代の日本においては古典医療の範疇でしかないと考える。是非以前に現実として、現代の日本は高度医療としての分析的な処方箋を必要としている。古典医療が高度医療より水準が低いとは言わない。ただ患者の容態を前提として用途が異なる。


疎外に関しての話もまとめてしますが、私は自由や人間の本来性というのは、いわゆる統制的な理念としてしか働かないと考える。実現は不可能であるが現状への根源的批判として機能する超越的な装置でありバランサー。それをあるいは最良の意味での理想と言い、倫理はそこから生まれる。だから理想を描くのはよきことだがそれを実現できると思ってはならないし、倫理を抱くことは素晴らしいことだが倫理的な社会を真に築き得ると思ってはならない。ナチスドイツもまた人間の本来性を称揚し倫理的な社会を築こうとしました。


フロムの理論が根本的に反証されたことがあったかは知りません。人文理論を科学哲学的に処理し過ぎていると感じます。そもそもフロイトの理論があるいはラカンの理論が科学哲学的に証明されあるいは反証されたか寡聞にして知りません。いわんやジジェクにおいてをや。だからラカンソーカルにDisられたのでしたか。しかるに精神分析は1世紀に及ぶ歴史を蓄積し、ときに最先端の現代思想的な理論を提示してきました。人文理論とは概してそういうものです。ましてフロムです。人文理論を科学哲学的に扱うことのリスクを承知していますか。だから人文において「真理」という言辞を弄するのは危険なのです。言葉は悪いですが「科学者は最悪の哲学を選びがちである」と言ったのはアルチュセールでした。貴方を中傷しているのではなく、アルチュセールが喝破した弊の構造が、貴方の人文的な記述に散見されるということです。柄谷のNAMに関しては、高度な理論の現実的な実践における無残な敗北の例として示したのみです。近代国家を現実的に捨象し得ないものとする柄谷は少なからずマルチチュードに批判的でした。


国籍。貴方がおっしゃる権力性の背後に所在する数多の構造的問題について、私は存じ上げている。むろん「知っている」だけのことにいかなる意味もない。伺いたいのは、なぜ日本の話を殊更に避けるのか、ということです。ネグリ・ハートの理論が、現実的に日本においては直接的な運用が難しい、と感じておられるのですか。米国の「支配階級に属さない」メキシコの労働者や先住民族に当たる存在を、日本において見出せますか。沖縄やアイヌの構造的現実については御存知ですよね。私が示した日本独自の大衆観をめぐる丸山モデルと吉本モデルの相克は、貴方の関心の蚊帳の外のようだが、大衆論における西欧と日本(アジア)の風土的相違性は幾度も記したはずです。さてその件に関する返答がない。


アメリカの黒人差別や先住民差別の問題にコミットしたがる日本人は、まず国内における歴史的な支配構造に組み込まれたやりきれない差別問題に目を向けろ、遠くの国のデオドラントされた綺麗事でなく足元の現実を見ろ、と言った方がいました。自らが立つドメスティックな場所への逃避的な無知と無関心が一番悪い、と。ええ。私はその人が指したような、あえて言いますが趣味的なカルスタポスコロ野郎の能天気には本気で腹を立てている。日本のその種の深刻な問題に対して、貴方はまったく関心がないのか。だからメキシコの労働者が支配階級に属さないなどと日本で言っていられるのか。米国のアフォーマティブ・アクションの光と影と、光と影をひっくるめたその尊さについて、知っておられるのか。野中広務の生について水平社宣言の換え難き理念的な価値について、京都に暮らしていた貴方はどれほど考えておられるのか。私はまず国内のちっぽけで、ドメスティックで、かつ歴史的構造的な、可視的な当事者の存在する話から始める。それすらも貴方は、ナショナリズムと呼ぶのか。貴方の言う「大衆」とは御自身で認める通り理念型でしかない。そして、理念型として吉本の提示したモデルに遥かに劣ると私は考える。誰の理論から拝借した理念型なのか、私は確定し得ないが。


大衆の顔が見えていない、とは私も言い過ぎました。陳謝する。むろん私にも大衆の顔は見えていないし、私は大衆の顔を知っている、と嘯く輩にロクな奴はいない。それが似非知識人であればなおのこと。だから大衆を思想的な原型として定義すること自体がもはや無為で無効な観念操作であると、私は思うけれども。言わずもがな、私は常識のレベルでマイノリティー差別を児童労働を嫌悪しますし、そして自由労働者の私は、むろん即物的な観点からも下流社会を構成する大衆の一部です。貴方が持ち合わせている(皮肉でなく)最良のノーブレス・オブリージュを私は持ち合わせない。mixi利用者はいまだ1,000万人に満たない。残る1億2,000万人はmixiユーザーにとってはインビジブルです。その不可視に対していかなる見識をもっているのか、いやそれ以前に不可視の領域に目を向ける「アクション」を起こしているのか。数日前のエントリで記しましたが、Webの社会空間化の帰結としてmixiが登場し普及しました。それにコミットしている人はWebにおいても社会的であることを志向する「意識の高い」人達かもしれない。私は乗れないが。その外部に所在する1億2,000万のサイレントマジョリティに対して貴方はいかなる見解をもっておられるのか。「社会的な意識が高い」ことを無前提で是とするか、この点でも貴方と分岐するのであろう。そして、最後に我がママンの話。


私がなぜ脱力したのか。それは、貴方は読まれていると思うが当ブログの前エントリの記述に関係する。分節していけばキリがないのでおそろしく乱暴かつ簡単に述べる。個々のやり直せない生に裏打ちされた、信念や人間観としての個人的なバイアスこそが、個別的な価値観(の歪み)を構成する。個別的な個々のバイアスをメタレヴェルに置く「普遍」としての公正な方法論への歴史的な合意こそが、貴方が賭ける科学哲学の「正しさ」なのだと思う(つくづく「俺解釈」ですまない)。私も同意する。ただ、さ。


その観点から見て明らかに「正しくない」価値観にも、下部的な規定構造としての個々の切ない生があるんだよ。「正しくない」価値観を構成する個人的なバイアス(という歪み)の、その唯一的な個人性こそが公正性の観点から見て間違っていようと何よりも尊く愛しい、とは思わないのかな。私は性的嗜好において著しく偏向した人間で、そのこととは直接関係なく件の言葉を聞いた。ああそうだろうな、と愛しく笑うさ。書かないが、ママンの個人的な背景を私は知っている。それを尊重する。個人の価値観を「正しい」観点から批判することは、彼や彼女のかけがえのない生の背景を「正しさ」でもって踏みにじることになるんだよ。昔さんざんやった挙句に知ったよ私は、それは最悪の傲慢だと。


個人的なバイアスをメタ領域に置くという「公正な方法論」に誰もが合意しているわけではない。合意させることが善と私は思わない。吉本の言説とは「公正な方法論」の外部にある大衆の尊さに賭ける営為だったよ。離れて暮らすが私はママンとそれなりに仲がいい。確かに同居しているときは苛々もしたが、いまとなっては知的な上下などという僭越な発想があろうはずもない。福祉についてママンに訊けば彼女にとっては日常的な面白過ぎる話が山ほど飛び出す。だから私は底辺福祉の悲惨極まる現実を知っている。貴方の言う、時に知識人でもある大衆とは、そういうことでしょう。それが同性愛を認めないから、彼女の50数年の大衆的人生を踏みにじってまで「正しく」指摘せよと?私もまた理性を信じる者だが、現実的な諸関係においてそれを盲信するのは傲慢というものだ。その種のノーブレス・オブリージュ尊いかも知れないが、あいにく私は持ち合わせない。「方法論的な公正」という認識は社会の全体性を決して包摂し得ないし、それは世界の十分条件をしか構成しないと、私は考える。そして「公正な方法論」は、個人すらもまた包摂し得ない。


…………………………!


ここまで書いてきて、まったく皮肉でなく、改めて思った。なるほど貴方は生粋の近代主義者だ。「方法論的な公正」が社会の全体性に到達し得ると信じているし、「公正な方法論」が個人を包摂し得る可能性に全身で賭けている。皮肉でない。それは、至高の魂だと思う。本心から。ここまで長文を綴ってきて、貴方という人間が、個人的にだいぶんわかった気がする。「真理」という言葉をあえて使う訳も。それだけ賭けているのか、方法論的な公正性に。改めて、その姿勢にリスペクトを捧げる。


私が「真理」という言葉に違和感を持つのは、生粋の相対主義者だからだが、それは「方法論的な公正性」をも相対化してしまう。その代価として、私はいかなる「非公正な」価値観や意見に対しても、その規定構造にまで遡行して一定の敬意を払ったうえで、相対的に面白がってみる。「非公正な」価値観や意見の背景的な固有性を概括化することはフェアじゃないと私は思う。それは、貴方はお嫌いだろうが10年前に『トンデモ本の世界』という書が教えてくれた姿勢だった。なるほど、貴方のフェアネスと私のフェアネスはやはり食い違うらしい。ただし、貴方は違うだろうが私は、貴方が賭けている「方法論的な公正性」という最良の近代的認識が規定したフェアネスに対して敬意を払っていることは、明記しておく。我が相対主義の要諦にして自己倫理とは、いかなる価値観にも発言者の個人性を前提して敬意を払う、ということなのだから。


以上、貴方の丁寧な応答に対して、私もまた完結しているよう記した1アンサーに過ぎない。もともと私が悪い、その責任から改めて応答したとはいえ、お互い日常生活の負担になりかけているようだし、さらなる返答を強制するものではまったくない。少なくとも、最後まで綴ってみて、貴方への敬意を新たにしたのは自分でも驚きだった。貴方がおっしゃる通り、対話は相互理解への契機を切り開き得る。貴方とガチな対話ができてよかった。「私に対する貴方の理解は間違っている」と思われるかも知れない、というかそうだろうが、御容赦を願いたい。私は納得してしまったのだから。最後に、貴方の公開書簡の結語だけでも転載させていただく。貴方への認識を更新した結果、その一節に感銘したからだ。非公開のmixi日記の文章ゆえ、ごく一部といえ無断転載するべきではないのだろうが、その点是非とも御容赦願いたい。それでは失礼する。このような失礼極まる長文に付き合っていただいて、切に感謝申し上げる。

「万人に与えられた良識」というデカルトの考えは、「あらゆる人」がもつ重要な権利、「理性的であることができる権利」の宣言だと思います。