スティーヴンズ執事の黄昏


前回のエントリに寄せられた大変丁寧なコメントに対するレスを綴っていたらおそろしく長くなりました。物理的理由によりやむを得ず新規エントリとしてアップします。なお、これは前回のエントリへの個人的責任感に基づく補足的見解の開示であって、kurotokageさんへの反論等ではないことをあらかじめ明記します。


kurotokageさん、mushimoriさん。まさか御二方からここまで丁寧なコメントをいただけるとは思っていなかったので、私はいま感動しております。厚く御礼申し上げます。以下、御二方のコメントに対して私なりの追加見解を記させていただきます。


>>kurotokageさん

私はコミットしていなければ口を出すべきでないと主張していません。当事者性について追求していたのはmushimoriさんで、私はそれに関してはそれほど重要視していません。

その通りでした。kurotokageさんの記述にそう解釈し得る表現はありません。私の先入観に基づく誤読でした。仮想問答を私もやっておりました。ここにお詫び申し上げます。申し訳ありません。


ただそのうえで申し上げるなら、イラク人質事件に関して反戦運動にコミットメントしていたkurotokageさんはおそらく御承知であるように、任意の事象に際して関心の濃淡によって見える位相がまるで異なる、ということはいくらでも有り得ます。関心の濃淡には常に内的必然性が介在します。その必然性とは個別的でだからこそ濃淡の位相も複数存在し、関心のレイヤーは無数に存在します。個別性を捨象して概括的に判断する超越的な関心の位相は存在しないと、リピートになっちまいますが私は個人的には思います。


つまり、糾弾者(バッシャー)を批判するために提出した問題を論じる際に、当該問題へのコミットメント一切を断罪しているのでは、と感じたということです。バッシングの構造への関心という位相にのみ立って、問題自体の個別性と問題への関心の有り方の多様性を、すべて捨象して概括的に論じておられるのでは、と。倫理を論じるというのは、確かにそういうことですが。「匿名だから捨象し概括して論じても構わない」という姿勢には、後述しますが私は異論があります。もちろん私もそういうことをやってしまいます。個別的な関心の複数的な位相を並置し相対化する視点という、認識の公正は忘れるべきではないと、自戒を込めて思います。


そして唐沢俊一もM2も言ったことですが、イラクの人質へのバッシング自体は2chや政府中枢とまったく接点を持たない市井の人々、いわゆるサイレントマジョリティの暗黙の非難を何よりも大きな背景としていました。当時私の身近な周囲でいくらでも感じたことです。そのことの是非は措きますが、事実としてあの攻撃の背景を2chと政府与党の「偏向」にのみ帰するべきではない。ただ一点、2chが個人あるいは家族・職場・友人知人飲み屋単位の名も声もなき暗黙の非難を一挙に集約する工学的集票装置として「行動する裏世論」とやらを形成する機能を果たしたことは、ファクターとして何よりも大きい。結果として政府与党もその尻馬に乗りました。なお自作自演説については明白に2ch起源であったことは付記しますし、それが意図された悪意の介在の証明となることは言うまでもない。


この現象が何を意味するか、2chが現実社会を露骨に増幅して反映する工学的装置=インフラシステムとして根付いたということです。Webと社会が限りなく近接し近似となったということです。パブリックなフィルターによって不可視化されていた、社会に潜在する膨大な無名の感情を即座に集約し増幅して反映する「裏世論の形成装置」が完成し、かくして2chは社会的に完結したということです。Webの社会化は2chの社会化をも加速度的に推進した。2chのアンダーグラウンドなフィルタリング機能はとうの昔に失効しています。フィルタリングが無効化した無人システムの、機能としての端末的な前景化と、その結果としての爆発的普及および厨房の大量流入は、社会的機能が敷設される過程における必然としての恒常的リスクです。


めでたく社会的インフラ=パブリックメディアとして、そして利便機能・集票装置として認知され普及して膨大な数の利用者によって有効活用されている現在、2chがアンダーグラウンドであったのはいまや遥か昔の御伽噺。mixi画像流出騒動など鑑みるに、そもそもアンダーグラウンドと意識している利用者が現在どれほどいるのか。皮肉な帰結ですが、結果的に2chはパブリックドメインとして大成してしまいました。


Webと実社会の、2chと現実の位相の差異を了解しない厨房、あるいはその差異を確信犯的に侵犯するエージェント達の跳梁跋扈こそが、突撃を生み宣伝糾弾含めた社会的運動を生み「工作員乙」という言葉を生み、つい最近のアルファを多数巻き込んだはてな界隈の騒動へと帰結しました。むろん、現実社会もまたWebへと介入し商魂たくましくまたは政治的意図をもって「工作」を繰り広げている事実を忘れてはならない。両者の様相は対称で、つまりどっちもどっちです。


「Webに莫大な金脈が眠っている」のであればネイティブのコミュニティなど瞬く間に駆逐されゴールドラッシュのあげく治安維持の名のもとで銃ぶらさげた保安官に統制され管理された人工的な西部の街が完成するのは必然。youtubeも買収され大粛清の最中。つまり、めでたくWebは社会的に均され標準化されました。一家に一台普及するとはそういうことで、ビル・ゲイツは世界のエスタブリッシュメントです。Google総務省が仕切る官僚的な権益入れ食いの釣堀において、イリーガルな情報山師の暗躍する余地などもはやなくなりつつある。Webの住人はWebを欲望せず社会を欲望するようになりました。それを成熟と呼ぶか頽落と呼ぶかは、その人次第です。なんかR・ホワイティングの「東京アンダーワールド」を思い出してしまいました。どのみち、時代は戻りません。


kurotokageさんが匿名実名の議論をされているわけでないことはわかっていました。ただ、そう誤解される余地があるだろうとは思ったので。以下は単なる私見です。御自身のブログのコメント欄で署名責任の段階論を述べていらっしゃいましたが、記述行為もしくは投票行為自体に反映される意思の署名性という発想は、ないものでしょうか。古代ギリシャの陶片投票ではないけれど。記述は、記述者の意思における人称性を必ず構成します。記述行為自体に意思的な署名性が宿るということです。その回避し得ない意思の署名性への撹乱と人為的匿名性の導入手段として数多のコピペがあり、2chカキコの洗練されたテンプレ性がある。


たとえば最近「祭」でも使用されるwikiシステム、その本家wikiを紐解けば瞭然ですが、匿名の集約は個々の記述いやそれ以前に個別的なコミットメントの意思としての署名性を、決して一括的に概括し得ません。匿名性が個別性を捨象してよい原則論理になり得るとは、私は思わない。無記名投票は匿名なれど投票主体の個別的な意思を反映しその集約として民意がある。それを「類」化して処理することこそが、世論調査や統計の最大の弊害です。


為念。以上は私自身の見解について、kurotokageさんのコメントを受けて行った補足であり、反論等ではありません。kurotokageさん、失礼しました。


>>mushimoriさん

まず、拙文を読んでいただいたうえに、丁寧な感想まで記していただき、本当にありがとうございます。心底驚きました。

ネットの(sk-44さんの言い方に従えば)似非社会化は避けられないでしょうね。

今までのネット空間の方が異常、というか特殊だったのであって、この社会化(という語彙を当てはめるのは僕は若干不満ですが)してきている状態が本来の姿だったんだと言ってたと思いましたが、多分その通りだと思うんですね。ネット特有のローカルルールも「匿名性」は一般にも要請が大きいでしょうから残っていくとしても、あとはどんどん「現実社会」の反映されたものになっていくんじゃないかと思います。

ええ、そう思います。現実認識としてはそれ以外ないだろうと。繰り返されてきた歴史です。その加速化もいよいよ昂進していくでしょう。価値判断の水準でいかなる態度をとってみせようとも、現実の流れは変わらない。ネットのアンダーグラウンドにどっぷりコミットしていたわけではない私もまた『日の名残り』の執事のようにベル・エポック(=良き時代)をしんみりと思い返しながら、諦観の笑みと共に削除されかねないyoutubeを保存しまくっています。ブロゴスフィアで見出され飛躍する才能も「祭」で再起不能なほどに傷付く誰かもあるでしょう。不可逆な変化の収支決算は、私も含めた個人のバイアスを算入して計るべきではない。

最終的な決定の審級が存在しないというのは、まあ特に日本ではそうだと思いますが、そんなに割り切ってしまっていいものかなあという疑問はあります。それとインフラに規定される部分の大きさは否定できませんが、やはり個々人間の相互作用にもう少し重きを置くべきではないか、そのときに「勝手な活動」ではなくて、もう少し意識的なものが必要なのではないか、というのが僕の私見です。

ええ、たぶん私の考え方は日本的であまりにも楽天的なのだと思います。mushimoriさんはそのように考えるでしょうし、それはまさしく(他意はなくリテラルな意味で)文化的背景の相違というもので、私も異論はありません。mushimoriさんのおっしゃっている見解の選択肢は常に私の意識の視野に計上されていて、その妥当性をかつて個人的に検討して充分に承知したうえで、私は別の見解を前回のエントリでは選択しました。だから数日前のエントリではちゃっかりと「ヒューマンファクターが常にはらむ不可知な誤差」について与太話として語ったりしています。

静観するつもりでも語らずにはいられない姿が少し微笑ましいなと思いました

ええまったく。私も馬鹿で修行が足りません。某所では最終的にお互い感情的になって終わってしまい汗顔の至りですが、こうして再度応答を交わせて本当によかったと思います。御礼申し上げます。なお、mushimoriさんのブログの10月23日付のエントリ(というか掲示されている過去に至るすべてのエントリ)、拝読しています。一連の事態を、普遍的な領域にまで止揚された議論として提示されていると感じました。見事な総括と思いますし、知的な決着を付けられたのだとわかりました。私がそう判じたことだけは伝えておきます。では、失礼します。


今度こそ、きっと次エントリから犬の漫才師に戻ります。わん。