雨の朝(フジの宮崎あおいを観ながら)


http://d.hatena.ne.jp/kurotokage/20061022/1161511135



行きがかりがありまして、個人的な反省もあり静観シフトで行くつもりでした。しかし当該エントリ自体とコメント欄の議論を見ていてどうにもフラストレーションが溜まってきたので、トラバのうえでまったく勝手に補足というか応答します。批判とかではなくて、宮崎あおい20歳の欲望に駆り立てられてのことです。


コメント欄で皆さん指摘されているように、自分が興味の持てない問題を本題の「枕」としてのみ振ったうえで当該問題に拘泥されている人々の一切をひっくるめて批判するのは単純に失礼ではないかと。コミットしないことは勝手だけれどもコミットしている人々にくちばしを入れる意味がわからない、とは糾弾者へのkurotokageさんの言でもあり今の私の貴方への感想でもある。よって、批判を意図するのであれば相手の議論を最低限知ることが礼儀では。言説の理念型を批判したところで仮想問答にしかなり得ず個別の論理には届きません。トラックバックとはそのためにある。批判対象を軽蔑していることは伝わってくるのでその故でしょうが。事の細部に興味のない人間にとって「初めから決着のついている問題」だろうとそうでない者もいるのです。


本題の2ch批判について。まさか匿名実名の議論をされているのですか。kurotokageさんも私も含めて実名や身元を明かしているブロガーは大変少ない。その理由は御自分を省みて御承知でしょう。実名主義の無効性はその一点で証されている。自己の発言によって社会的不利益を被ることからの防波堤として、実社会とWebの分離が企図されている。Web人格とリアル人格などというと人は笑いますが、それこそがインターネットというメディアの勃興期における革命的な理念であり共有された倫理要諦であった。現実の諸関係に拘束された社会的な存在であること自体から離脱することによる、個人の人称性を削除することそのものへの希望。そんな希望が切実に希求されテクノロジーを賭金とした時代もあったのです。kurotokageさんのおっしゃる「アンダーグラウンド」こそが、インターネットの原初期における理念であり可能性でした。youtubeとは、表舞台から排除された先行者の薫陶を受けた悪童達の最後の花火遊びと金儲けでも、あった。


その事を知る者が少なくなったということは、すなわちパソコンの家電化に伴うネットの社会化が加速度的に進行しているということです。それを市民的な成熟と受けとるか社会的文脈に組み込まれた挙句の非先鋭化=頽落と感じるかはその人次第です。そして2chとはネットのアングラ性を知る者たちが創りあげたメディアであった。


2chの最大の特質とは何か。それは「巨大匿名掲示板」であることが第一ではなく、関係者の証言にもあるように「責任主体の意図的な不在」にあります。つまり問題発生時に公的に詰め腹を切る者がいない。社会的なパブリックドメインとなることへの徹底した拒否。そして2chは発足当初から明らかに、故意にそのようなシステムとして構築されていた。システムを構築し維持運営する者たちに、バーデンバーデンの誓いのごときネット=アンダーグラウンドへの誓約と忠誠があったのでしょう。意図された無責任の体系を見事に設計したのです。


腹切り役もなく、一切の公的な契約関係すら不在な無頭の竜であれば先日のmixiのような粛清劇を起こす用もない。いわば米沢嘉博氏の最初からいないコミケのようなものであり、それを意図して志向したのが2chです。だから「「運営されている」という部分にも問題は及ぶ」どころではなくて2chを問うなら運営側を問わなければ意味がない。その現在においては特異なシステムとかつての設計理念を。


利用者の意識は、常に既存のシステムに規定され、設計の変更によって意識もまた変容します。「利用者の倫理」などを言挙げて問う意味が私にはわからない。「一部の人メソッド」を真剣に議論する意味はもっとわからない。そりゃ意識の高いクルマ乗りも程度の低いクルマ乗りもいるでしょう。そして現実として自動車は年間万に及ぶ交通事故死を生み出している。しかしクルマというテクノロジーとシステムのインフラは利用者の内在的な論理以前に、その外部の社会によって存在を規定され要請されている。テクノロジーとシステムとは、常にそういうものです。インターネットとはテクノロジーでありシステムです。内在的な論理以前に外部の機構によって存在を要請されている工学的なインフラに対して「利用者の高い意識が求められる」は正しいですがもはや何も言ったことにはなりません。


そしてパソコンやネットのインフラ化とWeb空間の社会化という現象は、対になっている。記憶のみで書きますが、2000年以前の2chはあたかもネットエリートの溜まり場にして鶴の吹き溜まりのような場所で、敷居は高く殺伐としていて初心者や「厨房」への対応も今よりはるかに厳格でした。オッカナカッタヨ。「祭」の頻発や社会正義らしきものを背負っての糾弾運動の展開は、ネットインフラの整備に基づくWeb空間の社会化と、見事に対応している。しかるにその社会化とはWeb空間独自の社会化ではなく、現実社会に組み込まれ対応した社会化でしかない。だから私は似非社会化と呼びたいが。そのひとつの帰結としてmixiの普及がある。「ねらー」がmixiを敵視するのは故なきことではない。


私が思うのは、Web空間の(似非)社会化は本当に歓迎すべきですか、ということ。だから匿名実名論争や行為への責任云々という話が起こる。おそらくkurotokageさんが問われているのは、実名匿名ではなく、Webにおける責任主体の確立であり、他と区別され得る固有の人称性という倫理でしょう。それは行為と主体の一致という、私達の現実社会を構成する倫理です。行為はその主体に帰結し、行為の結果は主体に対して決済される。


現実社会とWeb空間を、構成理念において一致させることは果たして是か。はてなに代表されるブロゴスフィアとやらは、Web総体を構成する無軌道なプラグマティックスの、局所的なローカルルールに過ぎない。はてな的なローカルルールを2ch的ローカルルールに適用して裁断する姿勢が私にはわからない。現にmixiのローカルルールすらどれほどの人が守っているのか。本名で登録してますか。そして並立したローカルルールの棲み分けをこそ、ゾーニングの知恵と言います。めったに見ないという2chの設計規則に対してわざわざ越権してまで批判する意図がわからない。「ねらー」による炎上の非難されるべき点とは、それがブロガーのルールに対する越権行為だからです。Disは2chの挨拶といえ、その規則を知らないもしくは共有しない者もいる。


書き込みにおける「画面の中と外という当該行為におけるある種の物理的乖離」があることの価値と弊をどのように見積もるか。「人ごみの中から石を投げつける行為」を存在させ得る弊と「人ごみ」自体の価値。人ごみにまぎれること、匿名であることの換え難い価値を、kurotokageさんも自分の日常から測り得ると思う。内部告発のリスクは何によって守られるか。Webが匿名空間であったことの価値、その可能性に賭けた者達の理念が現在のネットインフラを築き、その成果がたとえばmixi等によって簒奪された。それは世の流れです。しかしかつての誓いを記憶するその末裔達が設計した2chもまた、Webの社会化の加速を受け、完全な匿名性のその撤廃に至りました。IPによる人称の確定はもはや2chのルールに組み込まれた。


そして、ネットがそうであるように2chもまた、テクノロジーに支えられたシステムです。システムは内在的な論理にのみは拠らず外部の機構の要請によって敷設されている。kurotokageさんがおっしゃっている2chの悪弊は、2chというシステムのインフラ化と社会化を因としている。日常的なメディアの端末と化したということです。かつての2chはそれは、エリートでもあったけれど社会的にはドヨゴレの便所飯でした。その倒錯が「ねらー」の美しき作法を生んだ。端末としての2chのカジュアル化と拡大→厨房の大量流入→事件発生→社会的な前景化という不可逆な流れこそが、現在の状況を生み出している。


だから、端末として普及したメディアを招来した外部の社会的な機構に至るまでフレームに入れないことには、2ch論は成立しません。少なくとも北田暁大はそこまでやりました。学者と比べてどうということではなく、そうしないと批判したことにならないということです。利用者批判は結構ですが、たとえばROMのみの利用者と書き込みを行う利用者との区別をされたうえで論じておられますか。両者は分岐しています。私も含めた前者の総数を考えれば、2chの端末性はすぐ了解されると思いますが。「自分は知らない」ならそもそも論じる理由がわからない。問題とはそれを問題として採用した者によってのみ存在します。


以下はまったくの私見ですが。ある一点において行為の評価の一切を決定する最終審級などというものは、私はないと思いますよ。下部構造がそれぞれてんでばらばらに無軌道かつ勝手に動き回ったその累積からしか、上部構造は形成されないと私は考える。上部構造は下部構造に影響を与え両者は連関するけれども、下部構造における個々のセルの無軌道かつ勝手な活動こそが上部機構を構成すると、愛と希望を込めて私は信じるよ。kurotokageさん達は2chを勝手に批判するし、私はそれに勝手にくちばしを入れる。募金運動を糾弾する者達は勝手に突撃するし、募金運動を検証する者は勝手に検証する。そしてそれをkurotokageさん達は批判して、また私がくちばしを入れる、勝手に。世界はそんなちっぽけなセル共の勝手な活動の総体としてしか形成されないし回転もしない。その一切を総括し個々の個別的なセクターを捨象し得る評価の最終審級など、存在しないと私は思うし、それが人類の知恵じゃないかと。


一個の事象には複雑な背景が錯綜している。それはてんでばらばらな因子の縒り合わされた縄としてある。その個々の解決を一本化し得る筋などないからこそ、複雑な背景を構成する因子を個別的に解きほぐさねばならない。分節化の必要性は、最終審級の不在を前提として、下部構造を構成するセル共のプラグマティックスを尊重し凝視する者にのみ了解される。プラグマティックスを理論化の際に捨象することと、その際にプラグマティックスを尊重することは両立し得るし、それを知る者こそが賢人だと私は思ったりする。私はこの社会をプラグマティックスとしてのみ、捉える。見得を切れば、それが私の倫理ですよ。


そういえば昔、当馬鹿ブログも2chに貼られたことがあった。私はコメントに対してもプラグマティックスで対処する適当人間であることは付記しますが、万々一多様な突っ込みがあれば感謝申し上げます。kurotokageさんと読んでいるならmushimoriさんへ。ハンドルと一緒といえはてなidを明記しなかったのは、復旧したばかりの自ブログの方ではチンコに綽名を付けるとか脳味噌のレーシックとか気の狂った話しか書いてなかったからです。御清聴どうも。明日からまた犬の漫才師に戻る。