御報告
ええと、端的に面倒くさくなったのでコメント機能切りました。
そもそも、面識ない人間の掲示板やブログに書き込んだことのない者としては、存在の意味自体がわからなかった。
「俺に『御意見』があるなら、メールで出せばいいじゃない」
そう友人に言ったら、アレはサークルの部室のノートのような「コミュニケーションの場の生成」なのだと、レクチャーされた。
なるほど、私のような怠惰なディスコミュニケーション&デタッチメント人間には、そーゆー「場」への憧れや欲望はない。
たしかにコメント欄が賑わっている「オピニオン」系の人気ブログは、ページの主催者がその種の「ネット上での議論サークル」を創り上げ維持していて、なおかつその侃々諤々を楽しんでいる。
もちろん別にそれはいいのだが、そしてそれは大抵(コメント置いていく人間は基本的に「雑感」を「言いっ放し」なので。むろんそれでいいのだけれど)「議論」が噛み合わないながらも、和気藹々としていて、そのことへのいかなる個人的含意もないのだが、しかし御世辞にも健康体とはいえないこの身で、ネット上に個人的な「議論空間」「コミュニケーション空間」を創り上げ維持するような気力も甲斐性もない。
「ネット作法にまつわるエトセトラ」というのは、正直言って私には鬱陶しいものが多い。その手の話を聞くたびに江戸川乱歩の「鏡地獄」を思い出す。
「選別淘汰や市場原理を前提としない公共空間」の倫理的なバランス維持は、難しかろう。私は一般的に「自浄作用」なるものを信用しない。そして現実には、たとえ「ネット空間」だろうと「選別淘汰」そして「排除」はヒトの必然として貫徹されているのだ。
それを人は「ルール」「作法」という。私は単なる隣組的な「道徳」だと思うがね。「個人的倫理」ではなく。
かつて「便所の落書き」と誤認的に罵倒されたことに象徴されるような、ネットにおける「データベースとして蓄積された顔なき議論」のある種の不毛さの原因、もっと言えば日本のネット空間の窮屈な閉塞性の理由とは、私に言わせれば簡単で、そこが「責任主体」なき「公共空間」だからである。
「固有名」という「個人の顔」なき世界で「公共性」という無署名の「道徳観念」が幅を利かす、以上の構造は明白にファシズムへと直接的に帰結する。それこそが、まさに「無責任の体系」(丸山真男)ですから。
「顔なき者たちの自主的な正義の倫理統制」こそが「匿名空間における公共的ルール制定」だと強弁するのなら「放送禁止歌」的なメディアの「責任主体なき自主規制」を一切笑えませんわな。
もちろん「責任主体」という概念自体がもはやカビの生えた近代のフィクションですが、そーゆーことを言挙げる連中は別に「分裂病者的なありよう」を礼賛し称揚しているわけでもない。むしろ逆だ。
過去現在未来という連続性を内面化した上で貫徹される主体の行動の一貫性、それはむろん「理念型」として設定されたフィクションであるが、そもそも「公共圏」だの「公共性」だのが以上の「虚構概念」の上に仮構されたフィクションに過ぎない。
それは脆弱で空中楼閣的な虚妄のシステムに過ぎず、もはやみながそれを虚構と知り、それゆえシステムの自明性は崩れ、みながシステムにコミットする意欲を失った現在、システムの円滑な運行回転が滞り、システムの存続自体が危機に瀕している以上、もはや「近代概念」なるものは用済みの思想である。以上の指摘は、正しい。
(出所して今テレビ出てますが)戸塚宏的な安直なエッセンシャリズムや身体主義や本能主義や人間主義や「適者生存」「生存本能」だのを一般論化する最悪の通俗ダーウィニズム、(東浩紀の用いる意味とはまったく異なった、字面そのままの)人間動物論などの「身もフタもない」ハシゴ外しでチャブ台返しの反動的言説が廠蕨をきわめるのも、以上の認識に便乗したバックラッシュの一形態と考えれば、わからないでもない。
ついでに言うと、その手の言説と、それを規定する根底理念を一般化するのならば、身体的なものであれ精神的なものであれ行動様式的なものであれセクシュアリティに関するものであれ「本来的でない奇形としての人間」を否定し排除する「ナチ的」な優生思想に、いくら悪意がなかろうと必然的に帰結するのだけれども、そう指摘したところで「それが何か?」と真顔で返されそうでは、ある。
「反近代主義」「反講壇的人間主義」のハシゴ外しはそこまでいってしまい、しかも浅薄に通俗化大衆化してしまった。呉智英が冷笑的に「あえて」絶叫していた犬儒的シニシズムとは、こういう文脈単純化の果ての「イン」「アウト」といった二元論的原理主義ではなかったはずだが。もはや呉智英は、何ら「危険な思想家」ではない。
「あるべき人間の姿」を「健康な身体性」「種としての生存本能」に依拠して規定し、逸脱者を「排除」し「矯正」する。戸塚宏の知的に貧困な認識体系を「日本軍国主義的」と非難するよりも、その「価値観」「理念」「方法論」のナチスとの類似性を指摘したほうが正確だと思うし、その手の無自覚な言説的立場にダメージを与え得るとも思うが。
「徴兵制」「軍隊式」などと、身体論と接続させて公言するバカが跋扈するこの世の中では。
ちなみに宮台真司の「徴兵OK!」という放言は近代の基本理念としての「公共財としての国家へのコミットメント」という古典的な社会契約の文脈から説かれており、上記のバカ言説とは違う。
もっとも宮台自身がきわめて身体論的な人であり、それゆえに受けかねない文脈的誤解の蓋然性を東浩紀が対談で指摘している。
ちなみに何年も前から戸塚校長の支援者は数多おり、収監前から支援集会まで開かれている。立川談志や山本夏彦といった「反動の重鎮」達もかつて彼への支持を「良識の転倒」を目的として公言していた。私は「固有名」としての彼らの贔屓ではあるが。つまり戸塚と戸塚的理念は決して本人が言うような「弾圧された少数派」などではもはやない。
これもまた「戦後民主主義的」な「リベラルな講壇的近代主義」の失効と崩壊が、引き起こした反動的徴候なのだろう。
それでも「人間の『人間的な、あまりに人間的な』尊厳」を規定する「真正の近代主義」を維持するために、私達は虚構にあえてコミットし、虚構を信じた振りをして、一貫して虚構の言葉を語り、虚構の舞台で虚構を演じ貫徹し続ける。
そんな福田恒存的で森鷗外の「かのように」のような「古典的で真正の人間主義」という前提的な拘束は、それを「通過」し「超克」するためにもまずは「徹底化」されねばならないと、フーコー的な人間人工論者の私は今でも思っているが。
インドや第三世界は多様で、そこには人間の真実があるよ、などというタワけた言い草に、やはり私は断じてコミットできない。
ブログの話に戻るが、「コメントでの発言」の公共性と私信性の中間的な性質、これが気になっていた。つまりその発言は、私信であると同時にパフォーマンスでもある。自分で応答してもそう思う。どっちやねん、という話である。
個人的趣味でしかないが「パフォーマンスとして私信を綴る」という振る舞い自体、私はどうも好きになれない。
「公共性」と「私性」の無自覚的で曖昧な混同こそが、ネットやブログにおける「表現」や「対話」の特性であり魅力でもある。それはわかるしだからこれほど「日記」が流行る。私も「日々のつれづれ」「今日買った本」でも書き流そうかと最近思っている。
しかし人間は劇場の舞台で日々演技しているのだけれども「観衆という第三者を意識して、私的な言語を綴る」というのは端的にダブル・バインドに陥ると思う。というか、かつての菊地成孔の日記がまさにそうだった。
その「非対称な他者」とのコミュニケーションにおける必然的な「二重拘束性」とそれが招来する「自意識の罠」こそが「宿命」としての「人間性の本質」であると、小林秀雄を経て喝破したのが福田恒存なのだが。
しかし「二重拘束」や自己言及的な「自意識の罠」に対して、一貫して「無関心」をあえて「故意に」装う「愚直な直球性」こそが、粋でスタイリッシュな「痩せ我慢」的振る舞いである=と「理論的には近代を清算して通過したはずの」ポストモダンのイデーは要請するのだ、そう私は勝手に決め付けている。
ドストエフスキーは素晴らしいけれど、もはやそれを安易に反復することが「文学的」な所作として昇華されるわけでもなんでもない。アイロニーゼロで愚直にその「反復的所作」としての「自意識の劇」を信じ込んで演ってるのが、いっとき批判された辻仁成や柳美里だったのだが。
たとえば島田雅彦や町田康の「フリッパントな」語り口は、19世紀ロシア的なる、あるいは近代日本的なる「自意識の地獄」に対する、すくなくとも文体の水準における意図的な「脱臼」であり「脱構築」なのだ。
あと「熱量」の問題もあって。
結局「コメントを付ける」って「対話の要請」とか「議論に対応する意見表明」とかではなくて、端的に「アクション」「パフォーマンス」なのだな、と。もっと言うなら犬のマーキング。
「アクション」も「パフォーマンス」も一向結構で、私もその類なのだろうが、人の店間借りしてやるな、とは思う。それこそが、かつてコメント欄における菊地成孔氏への応答で私が問題とした「固有名(イニシャル)へのタダ乗り」なのだが。
念のため付記しておくと「固有名」とは「有名性」に限らずそれを意味しないし「匿名」だろうと別に分別しない。要するに、ある「署名」すなわち「イニシャルとしてのサイン」のことであり、内容的差異によって識別可能な「固有の顔」のこと、近代的文脈で言えば「主体性」の別名である。
私は物質的経済的な生産性だの有用性だのには内面的にコミットしないが「知的・文化的な建設性と、それへの志向」には敬意を払う。それはつまり「無駄という建設性」の謂いなのだが。
自分がコミットしている領域と価値観に関して建設的でないこと=つまり「無駄の建設」に寄与しないことに関して、つい余命勘算したくなる身で労力を割く気には、到底なれない。そもそもが、いかなる物質的・精神的利益にも還元されないコスト外の行為である。
つまり初めから「コスト」の外部にいる人間にとって「コスト」の交換条件とは定常的で実数的な「意味」にはなく、まさしく「強度」という虚数にしか存在し得ない。
だから「取引」においては「モチベーション」の勘定が優先権を握る。
私も私的には経験がないからこそ一般論として思うが、面識のない相手に瓶詰通信的に「便箋」を綴り投げるという「いささかもパブリックでもパフォーマンスでさえもない、あるいは対幻想的な超個人的な」行為は、やはり尊いだろう。その「強度」に換算され得るモチベーションの内圧において。
「と学会」の山本弘が書いているが、サイト毎日閲覧する人と、コミケまではるばる同人誌買いに来る人とは、やはりその熱量が違うのだ。
奥崎謙三や川西杏がアレで今なお一部からリスペクトを捧げられているのは、その「不条理な叫び」=いかなる「大義」にも客観的には回収、否、縮減され矮小化され得ない超個人的なモチベーションの強靭さによる。
そもそも、長文で言いたいことがあるならブログ開けばいいじゃない、タダで、私でもやれるくらい簡単なんだから、と「固有名へのタダ乗り」を疑問視していた私は思う。コメント欄に書いたことなので、もう読めませんが。
むろん私も含めて「ブログで『菊地成孔』について言及する」という行為自体が「固有名へのタダ乗り」だ。だから菊地が果敢に実践してネット各所に波風立ててきたその営みは「安全地帯からの『俺』へのタダ乗りは許さん、運賃を=リスクを払え」という個人倫理に駆動されたアクションだった。
で、それは臨界を迎えた。
「欲望の代理人」「実存の代理人」を求めてはならないだろう。匿名でも何でもよろしいが「プライヴェート・オピニオン」があるのなら勝手に委託せず「自分の店」で売りましょう。コミケ的に(笑)。
トラックバックの「交通」性はまだわからんでもないのだが。
以下、どうでもいい方は飛ばしてください。降りかかる火の粉は払わにゃならん、とはかつての小林信彦の口癖でしたが、こーゆー面倒はもう懲り懲りだ。一応「応答責任」果たしますがね。「意図的に応えないこと」も含めて「応答」なのだけれど。しかし「表層批評宣言」の後書きじゃないが、これだけの「アクション」を現に私に引き起こしたのだから「荒らし」の目的は達成されたのだろう。
見知らぬ人間の感情の後始末は私の任ではない。
しかし予測はしてたが、初めてやってきた「荒らし」の方、どうせコピペで引っ張ったのでしょうが、福田和也というのは「ナショナリスト」からも嫌われていたのですね。まあ「虚妄を虚妄として愛せ」という保田與重郎を通過した迂遠なる立場は、屈折と屈託なき早漏的な「愛国者」にとっては不敬千万の大罪なのでしょうが。
私は「文学」と「批評」の話をしてたのですがね。あと「いかがわしい奴」と自称する人間の「いかがわしさ」を「暴いて」も意味ないです。そもそも近代以降の日本の文芸批評家に、いかがわしくない奴なんてひとりもいませんよ。本家フランス以来「文芸批評」ってそーゆー鵺のような面妖なもんです、構造的に。福田はその正統な(笑)後継者。
奴が「慶応の教授」とか「学者」とか、誰が信じて読んでいると?「大衆的読者」に何の関係もない。そもそも本人が自認してないでしょう。宮崎哲弥同様、愚直に「メディア芸者」を務めてますよ。「知と文化と批評」の大衆レベルにおける最低水準のインフラ維持のために。
あと中西輝政と福田は別の人間で、思想的立場も違いますが。「つくる会」の面々の思想的立場が各々違うように。その手の陳腐な人間関係に問題の複数的な位相をイデオロギッシュに縮減し矮小化させる「文脈の単純化」をこそ、私は早漏的発想と呼んでいる。
学者に「学者らしさ」を要求する「正義感」は御勝手ですが、私は中沢新一すら面白いと思うのでね。彼、かなりエラくなってますが「真理の塔」を追われるべきだと?
私は「と学会」の贔屓だけれども、彼らの思想的立場もそれぞれまた違って、その中で山本会長の、あまりに「実証至上主義的」な「インビジブルな文脈的政治性に対して素朴すぎる」「中立的科学真理主義」には異論なしとしない。科学者は最悪の哲学を選びがちである、とはアルチュセールの言葉。むろんその「非党派性」「公正性」という「立場」「姿勢」に大きな意義はあったし、今もある。「神は沈黙せず」には感動したし。
しかし本人これ読むのかしら。
ともあれ、戸締りはちゃんとしよう、と。こーゆー労力の浪費を減らすために。
好き勝手を真面目に言い続けるために。
複数性の「コミュニケーション」は難しい。もはやカウンターの回転などどうでもいい。
そもそもが、現実の人間関係においても怠惰な無感動無感情人間である。
結局、私は東浩紀の言うような「郵便的誤配」を自覚はできても、留意まではできない。
浅田彰の「頑固な」実存的方法論を採用するしかあるまい。発信者と受信者の非対称性を前提とした、単独的な投企としての一方向的瓶詰通信。
先日、私が日々愛読し閲覧していた有名テキストサイトの書き手と会って話した。ファンのいわば押しかけである。
私がブログを開設する直前のことで、その影響まことに大きかりし人だった。
結果、見事にお互いの非対称性が露出し、美しいまでに「出会い損ね」た。
まあ私も甚だ未熟で舞い上がっていたうえに、一方的な思い入れだけ喋っていたような恥ずかしい記憶が散々にあるので、向こうは困惑どころか迷惑だったろう。スミマセン。
つまり、そーゆーことである。人間は「かつて多大な影響を受けた相手」とだろうと、実際には出会い損ね、出会い損ね続けるのがデフォルトなのだ。膨大な「出会い損ね」の中に、唯一的な「出会い」がわずかに点在するが、それもいずれはまた「出会い損ね」というスレ違いの中へと結果的に回収されていく。
自分と意見が完全に一致する人間など、いないというのが私の大前提。
その人もまことに「切断的」な姿勢で、膨大な個人的批評日記を日々執拗に書き綴っている。他人など眼中にないかのごとく、己の個人的な「感覚」と「思考」に賭けて。
一応「私的な」会話の引用だが、本人特定してないからいいだろう。
「読者のこと考えてアレ書いてますか?」という甚だ無礼で不躾な(スミマセン)、しかし確信をもって訊いた(よりにもよって)初対面の私の問いに、相手は「大勢の不特定多数の視線にさらされているという緊張感だけは、維持しています」と答えた。つまりそれは遠回しの回答だった。当然だが。むろん私は悪い意味で訊いたわけではない。
その人もメルアドのみ公開している。
その線で行こうと、私も決めました。またしても「影響」を、アリガトウゴザイマス。
以上、御報告まで。
いままでコメントくださった少数の方、これは社交辞令でも何でもなく、ありがとうございます。