「書評家」という犬(わんこ)

 かつて福田和也が「作家の値打ち」で現役作家100人を100点満点で採点して一覧化した際に、船戸与一を最低の「測定不能」とし、付記されたコメントもたかだか1〜2行、甚だ冷淡に斬り捨てていたことについて、その年の「このミステリーがすごい!」の匿名座談会の面々が論難、というか糾弾大会していたことには笑った。
 いわく、作家が精魂込めて書き上げた作品を、仮にも批評家が全否定するのなら、あたうかぎり長く書いて根拠を精細に示せ、それが作家に対する礼儀だ、と。


 そもそもあの仕事の「無礼」な「邪道性」は本人が一番確信犯的にわかっていて、そのうえで言うなら、あれほどに「正統的」な「批評家」の仕事は他にない。
 何を評価し、何を否定するか。誰を認め、誰を認めないか。「批評家」としての自身の価値基準・評価基準の「旗幟」を、その偏向性まで織り込んだうえで鮮明にすること。それこそが「公共性」に資するということ。「審美と倫理における価値観のモノサシ」を、専門的受容者としての個人的歴史を賭けて「公共的に」提示すること。
 村上春樹石原慎太郎を「福田和也」という署名のもとに「批評的枠組み」において評価すること。丸谷才一船戸与一(的なるもの)を同様の方法論下で否定すること。


 92年刊行の「マリ・クレール」で、浅田彰がその日本における徹底的な欠如を愚痴っていた「自立した批評がクリアすべき仕事の最低限の線」を、福田はあえて愚直に、それこそパフォーマティブに示して見せたのだ。
 そしてそれは、92年に浅田が映画批評家ポーリン・ケイルを引き合いに出して、その日本における不在を嘆いた「もっとも初歩的で基本的な、正統的な批評の最低線の達成水準」を、日本という「液状地盤」においてかろうじて、スキャンダラスな宣伝効果の力で何とか打ち立てたのである。


 あの「売れそうな」本が飛鳥新社からしか出なかったことにも、留意すべきだろう。つまり福田の暴力的な試みは決して「イン」でも「大名勝負」でもない、リスキーな賭けだったのだ。そもそも保坂和志が言っているように「高得点」を「付けてもらった」からといって、作家が喜ぶわけでも何でもない。同書を含む福田への村上春樹の反応はない。


 そして、その「正統的」で「異端的」な試みにおいて何よりも必須用件であったのは、故ポーリン・ケイルがそうであったように、そしてアメリカではマイケル・ムーアに至るまでデフォルトとしてそうであるように、「固有名」という「署名」の存在だ。
 「福田和也」という「署名」を表紙に記し、「福田和也」という「固有名」の名において審判を裁定を下すこと。露骨なまでに党派的に、審美と倫理における「イン」と「アウト」の分別を、商業的基準を徹底排除して「審美的・倫理的基準」のもとに厳密に遂行していくこと。そして「点数」で示された、あまりにも直截な「審美的・倫理的判断」のひとつひとつが「固有名」としての批評家の全存在を投じた「賭け」であること。


 その非自明性・非客観性、恣意性と皮膜一枚で隔てられた「無を前提とした」不確定の中にしか、その「美的倫理的判断」の確定の蓋然性はなく、その確定如何によって「価値判断」の「公共性」は事後的に現れる。
 それが「批評」という投企的営為の不確実な実質であり、そしてその危うい不断の営みを実践的に遂行し蓄積し、し続けることによってしか「文学」「批評」「批評家」そして「倫理」「審美」といった既成の唯物的経済的な自明性に一切担保されない概念的存在の、その「自立性」「公共性」は証されず、守られさえもしない。


 そして「審美」「倫理」の位相に関して「旗幟」「党派性」を鮮明にするということは当然「政治性」に関する選択的判断さえも意味する。これは「文壇政治」「業界内政治」の風向きと旗色を伺うという意味では断じてない。そーゆーのは「下司の勘繰り」(浅田彰)という。
 批判はあろうが、この点を混同する輩にその資格はない。「政治と文学」という問題設定は、あるいは現在機能し得ないだろうが、しかしその成立過程をも含めた、歴史的文脈を忘却するべきではない。福田の批評的原点は、フランスのファシスト作家研究である。


 で、そんな福田の「固有名」に基づく「悪質で政治的な、ためにする」「採点批評」を「そのミス」の「匿名批評子」の皆さんが、その「批評家としての姿勢」を「倫理的観点」から論難し批判するというのは、片腹痛い、というやつである。笑止。
 おまえら自分で言ってることわかってるか。とゆーか、自分のツラ鏡で見たことあるのか。


 これはネットにおける「匿名・実名論争」とは、全然、質が違う。
 「プロ」だから、ということではない。「審美」に「倫理」に「(むろん「ミステリー」も含む)文学」に対する、そして何よりも「批評」に対する、徹底した歴史的文脈意識の欠如と不在、ということなのである。
 おまえら無知無学無教養のうえ何も考えねぇでモノ言ってるな、ということである。
 「文学」「批評」にまつわる歴史的文脈とーーその無残な切断こそが福田に要請した危機感と必然が、あのリスキーな本を記しめたその動機が、まったく容喙できていないらしいのである。本来、名のある「批評家」であるらしき「匿名」の皆さんは。まことにたいした御明察。


 さすが出版社の御下命あればいくらでも新刊広告に「珠玉の名作」「今年最大の収穫」「感涙を抑えられなかった」などと名コピーを書き散らし、それで食ってる「業界内政治」と「商業的基準」に翻弄される奴隷の皆さんの、素晴らしい「批評の自立性」への見識でいらっしゃること。


 「誠実な作家の苦労と努力」への敬意を払え、などとおっしゃる「批評家」の見識って、いったい何なのですかね。「作家へのリスペクト」という「抑圧」へのカウンターとしての反逆的言説を、一貫して吐いてきた福田の「敵」って、御同業にいたのですね。福田は同業と認めてないでしょうけど。
 「現存作家が全員死んでも俺は困らない」とまで言わしめた福田の「無礼な反逆」の「文脈的動機」が「現実的条件という絶対的な拘束からの、批評と思考の『単独的』自立」にあることなど、荻窪での(笑)夜毎の「痛飲」にアクティブな「プロパー批評家」の皆さんには想像も付かないようで。


 福田が船戸与一を「測定不能」と一行で斬り捨てたのは、その手の粘着質で心情癒着的な「『作家の情熱と労力と誠意』と向き合え!」という一種の「心情言語による拘束と訓致」から、たえず自らをずらし続け、逸れ続けるという「文脈的前提をふまえた作為」であり作戦なのだが。オマエの土俵には乗らない、という。
 作家への「共感」「敬意」「礼儀」「同志的感情」「愛」などあえて排除して、くだらなければひとことで斬り捨てる。
 そもそもあの本の主眼は「批評家の旗幟鮮明」としての「数値という、心情を一切排した非言語的記号的で即物的な表象」による「固有名的な価値判断・価値基準の表明」に尽きるのだからそれでよいのだ。そしてかくなる過剰に「切断的」な方法論を福田に採用させた「文脈的要請」とは「批評の自立」にあって……ということまで言わねばならんのか。


 ついでに言えば、当該匿名対談で、福田の「政治的動機」を「当然の前提」として話を進めているのだが、そしてそれは「石原慎太郎へのリップサービス」と「文壇業界のヘゲモニー奪取」という紋切型が、暗黙にしかしモロバレに示されているのだが。
 「ちゆ12歳」が北朝鮮に対して投げた言葉を引用すれば。
 おまえらの価値観でモノを言わないでください。


 福田の石原評価に賛否と毀誉褒貶はあろうが、その「文脈的必然」は福田の発言と問題意識を追っていれば了解可能だろう。そもそも「石原的なるものを受け入れるか否か」言い換えれば「石原という毒を喰うか否か」という、あるいは根源的でアクチュアルな問題設定と、その問題系をめぐる思考の喚起、それらに対する個々人の決断的な態度表明を「政治的な戦略」として福田は迫り、精神的運動の停止した退屈な現状を攪拌している。
 また、福田とは異なるが、ある意味ではきわめて近接した「プリミティブな」「精神分析的」文脈から、斎藤環も「作家」石原慎太郎への肯定的評価と偏愛を表明している。斎藤の公式サイトに置かれた、斎藤による石原インタビューは必見である。
 斎藤自身の「政治的」立場からすれば、石原にコミットするのはいかなる「現実的」利得ももたらさない。まあ斎藤の審美的趣味は少々特殊というかビョーキなのだが、つまり「作家」石原の問題とその魅力は「現実」の外にあるということだ。当然のことだが。


 文壇のヘゲモニーに関して言えば、たしかに「作家の値打ち」刊行以後、およそ福田はそれを掌中に納めたが、しかし私に言わせれば、それは当然の務めを果たしたからである。
 現役作家に関する、クソと味噌のーー体系的かつ鳥瞰的で、誤解の余地を膨大に積み残すくらいに「乱暴」で明快な、歴史的文脈に基づいた分別。その程度の「最低限の勤め」すら、文壇においてさえも誰も果たさなかったのだ。


 さて、それでは「文壇外の批評家達」は?


 「このミス」でお祭り的にランキングやるのは大いに結構、しかし投票してるのは多く「批評家」だが、「価値評価」の責任分散こそが「公正」を帰結し「正統性」を担保するなどと、よもや思っているわけではあるまいな。
 絞首刑のボタンって、5人の刑務官が同時に押すんですって。
 その「結果的な妥当性」はさておき、あの種の「民主的」な「価値評価」に、誰も懐疑を抱かないのだろうか。仮にも「批評家」が。「お祭り」だからよい?「商業的な価値基準」に基づく宣伝に大々的に利用されているが?「商業的な価値基準」と「自立した批評性」は転倒した関係性にあるのではないのか。


 「文壇」という名の「純文学業界」で投票による「民主的」ランキングだの、ありえなかろう。やはり多く無形のヘゲモニーを握った「固有名」や、あるいは「無名性の母集団」による、強権的で独裁的で暗黙的な「空気」による「評価の専制」が敷かれている。それを福田は「サロン」と嘯くが。
 むろんその悪弊は、文学賞の選考や数多の作家の追放によって周知のごとく証されている。村上春樹を「文壇主流」の「批評的フレーム」に填め直した=奪還したのは、覇権を柄谷行人から「禅譲」された福田和也だった。当然春樹は知らぬ顔だが。


 しかし福田和也との対談で北方謙三が愚痴ったように、多くのミステリー批評家の「業界政治性」って何なのか。文脈間の闘争への意識的な理念も作為さえもない、脊髄反射的な「反応」としての場当たり的な、歴史的コンテクストに規定された一貫性無き「評価」「批評」って。
 プロパー性って内輪モメに対する「火事と喧嘩は江戸の華」ってことなのか。それはある意味正しいが。


 たとえば北方謙三の優れた仕事に関して、私は「作家の値打ち」によって蒙を啓かれた。ああ、私が無知だったのだ。しかし問題は、プロパーによる批評がゲットーの外に届き得ないことにある。福田がかつて謳った「シェイク」とは、異文脈間の互換性の促進という、現代の知的・文化的空間における必須命題の命名だった。


 北方は対談で福田に面と向かって言っている。俺は船戸が測定不能とは思わない、と。福田は北方にあたうかぎり応答している。
 「固有名の署名のもとで価値評価を下す」ということは「単独的な価値基準に関する異文脈へのーーつまり「他者」へのーー応答責任を負わされる」ということだ。そこには互換性への意識が、まず何よりも要請される。
 福田は言った、批判反論ウェルカム、批評家は度胸だ、と。そして北方が福田に嘆いたのは、批評家どものヘタレ振り=言い換えれば「他者」という異文脈への意識の欠如という、自覚なき閉鎖性だった。それは「商業的基準」に正しく依拠した人気作家にして、ミステリー業界の異邦人、北方謙三だからこそ、持ち得た見識だったのだ。


 「SIGHT」別冊の書評特集で、2005年の総括として、その年のベストセラー小説を評する対談というのを、北上次郎大森望が毎年恒例でやっている。リリー・フランキーの「東京タワー」も当然、俎上にのぼっているのだが、北上次郎=この「本の雑誌」の創刊者にして編集長は、この対談の瞬間まで、なんとリリー・フランキーの名前すら知らなかった。
「全然知らないです。どういう人なんですか?」


 かくして2005年の末に「ベテラン名書評家」に「リリー・フランキーという人がどーゆー人か」という命題について、経歴から現状に至るまで「お洒落系サブカル文化人というか」などという涙ぐましい説明まで入れて、一所懸命レクチャーする大森望
 まあ呉智英が言ってるが「本の雑誌」は北上に至るまで編集部の誰ひとりとして吉田満の「戦艦大和の最後」の書題すら知らなかった、という「伝説」を持つ「業界一の書評誌」とはいえ……ね。


 近松秋江について得々と語る北上次郎に関して、かつて福田和也が吐き捨てた語録モンの名言。
「犬にロマネコンティ飲ませてもわからねえ」


 さもありなん。犬。