難儀な人の無茶修行

 神田三省堂大月隆寛の新著(とはいえ2004年刊行)「全身民俗学者」を、相変わらずだなあ、と苦笑しながら立ち読みしてたら、後書きにはお家芸の暴露話。


 同書は新曜社で刊行の企画が進められていたが、大月は同社刊行の小熊英二「民主と愛国」を読み、その内容に、ではなく、小熊本人の研究執筆姿勢に、大月毎度お馴染みの、福田和也にも宮台真司にも大塚英志にもどうしようもなく感じた「学者優等生バカ」的違和感、否、不快感を抱き、書評で率直真摯にそう書いた。


 そしたら新曜社社長激怒。我が社のドル箱にして生命線にして歩く広告塔にして看板作家の小熊先生に、チンピラまがいの因縁付けてキズモノにするたあ何事だ!
 かくしてチンピラの久方振りの本格評論集は、流産したのでした。大月のほうが年齢もキャリアも上ですけど。
 それ一部始終全部書いてます。


 まったく、相変わらずだなあ、この人は。


 本人の名誉のために書いておくが、もちろん大月の目的は「暴露」そのものにはなく、いわく言いがたい、おそらく本人にも把握しきれていない、ある微妙な感情と問題意識にあって、それを伝えたいがために、わざわざ露悪的に「暴露話」をインターフェイスとして用いているのである。


 昔っからだが、この人、含羞と羞恥心が強すぎるのである。韜晦の過剰さは、宿敵大塚英志以上だ。それでもってこの韜晦家は、狡猾な大塚と違って「本心」があまりにも見え過ぎて、だから彼の「敵」達の目にすら、憎めない男、として映ってしまう。
 そしてそのことを、本人も自覚してるのだ。
 だから大月の「乱暴者」で「パブリックエネミー」な振る舞いは、周囲の応答と受容を前提とした、コミュニケーション的な甘えとして読み手が受け取り得ることも、たしかである。


 たとえば大月よりひとまわり以上年少の更科修一郎というオタク系批評家もまた、業界の「パブリックエネミー」であることを自認しているが、しかし彼の振る舞いは彼自身の、性格的なディスコミュニケーション性に依拠している。
 だから更科は、自分が他人に理解されたいとは、本気でこれっぽっちも思っていない。


 「時代遅れの男」である大月は、あまりにもコミュニケーションを求めている。理解されたくない振る舞いを通じて、理解されたがっている。好きな女のコの気を引きたくて意地悪をする「乱暴者」の男子のように。
 で、以上全部、バレバレであるし、そして大月の個人的な問題意識の切実性もまた「敵」の「リベラル」な「知識人」達は「理解してやっている」のだ。


 言うまでもないが、大月は「生理的」「体質的」に当然「左翼」である。ただ大月は「恥知らず」が反吐が出るほどキライなだけで、その大月が唾棄する「恥知らず」性が「学者優等生バカ」に宿るため、連中が彼の仮想敵となるのである。


 そして彼の放つ弾そのものは、あまりに見当違いなため、あさっての方向に飛び相手にハナから命中しない。しかし大月の過剰でシリアスな「想い」と「魂」だけは、たとえ「敵」だろうと「恥を知るリベラルインテリ」には伝わるのだ。
 で、大月は全部それわかって、盲滅法に死に球投げてるのである。


 むろんこれは、きわめて心情的で情念的な「右翼」的な作法であり流儀だ。しかし奇妙なことに、投げつける「想い」「魂」そのものは「左翼」的なリベラルな理念に貫かれている。それは決して「不合理」なものではない。そうでなければ「左翼知識人」達が受け取るはずがない。


 「リベラル」な「理念」=「魂」を心情的情念的に投げつける。左翼的「実感」を右翼的にアジテートする。この捩れた倒錯と屈折と逆接こそが、大月の一見したわかりにくさであり、無理解と軽蔑にさらされる欠点でもあり、そして難解な醍醐味でもある。


 吉本隆明について宮台真司が述べたように、言説そのままでは到底読めないが、著者の特異な人格と個性に由来する言説の、実存的必然に至るまで勘定に入れて考察すると、これはとてつもなく興味深い。大月は吉本同様、全実存かけて=彼の好きな肉体言語で言えばカラダ張って、言論活動してるからである。


 カラダを張るのは絶対に右翼だが、しかし彼は「左翼的思想」の持ち主なのである。だからこそ本人の内的分裂も、ハタから見ていて痛ましいほど甚だしいのだ。
 それはただの「心情左翼」じゃないか、と言われたら返す言葉はないが。


 「暴露話」の続き。大月に刊行断念を告げた新曜社の担当編集は、小熊英二の担当でもあった。「マジメな、いいヒト」と、大意、大月は言う。そりゃマジメないいヒトだろう。大月と小熊の担当、同時にクリアするんだから。しかし大月のヘソマガリな撥ねっ返りのせいで、板挟みの末「血統書付き」ではない「野良犬」を切る始末に。
 その担当が困惑の表情とともに、しかしキッパリと大月に言う。


 ……小熊さんにこの件について話したら、大月さんの本を出してもらって構わない、って言ってました。


 当然、大月怒髪天。なるほど、マジメないいヒトである。
 しかし大月は、たぶんわかっているのだろうが、読み違えている。
 小熊もまた、大月の「理念的な魂」を、その屈折し倒錯した表出を「理解してやっている」のだ。
 すくなくとも、大月はそこらのサンシタ「言論人」どもとは違う。噛み付き吠えて回る「野良犬」ではあるが、腐肉を漁る「ハイエナ」ではない。その文脈もわからない「スター思想史家」ではあるまい。


 そして、だからこそなおさら、大月は癪に障りその逆鱗に触れるのである。
 理解されたくない振る舞いを通じて理解されたがっている人間が、理解されるとまた激怒する、というメカニズムは、難解というかなんというか、難儀な男である。全部自分で蒔いた種だが。


 自分の「想い」を共有するはずの人間の、その「共有」の仕方の「誤差」や「差異」が無性に気に障り難癖を付け、その違和感と不満は堆積する難癖の挙句に一気に火がつき「オマエは敵」という「(大月テーゼにおける)追放除名処分」へと、毎度のごとく回収される。ホントは「味方」のはずなのに。
 「俺のオンナに勝手に手を出すな」ってことなのだろうか。大月の「オンナ」とは何か、一語で指すのは甚だ困難である。これまでの文脈で読み取ってほしい。それほど複雑な人物なのだ、彼は。複雑すぎて一本気でバカに見えるくらいの。


 大月の「狂犬」的な八方罵倒の動機って、近親憎悪なのではないか、といつも思う。
 もっと言えば、自らの「知識人」的欺瞞性・偽善性に対する憎悪と「知識人(というより真正学者・学問)」の純粋性への理想・憧憬と。言うまでもないが、両ファクターは相円環している。メビウスの輪のように。


 そして両ファクターは所詮、大月の「心情倫理」的なバイアスによって前景化された、インビジブルイデアルな問題設定に過ぎない、とハタからは言い切れる。要するに超個人的な倫理問題に過ぎない。
 だから普遍的な問題系として「止揚」することはできないし、大月もそれはわかっていて「みんなの問題」として「止揚」する気などさらさらなく「超個人的な理不尽な八つ当たり」を、そうとわかっていて四方八方にブン投げている。
 だから彼以外の人間が、彼の倫理性禁欲性と、その一見不可解な攻撃衝動とを規定しているリアリティを解することは、ほぼ不可能に近い。


 「学者」「知識人」であることに居直れる人間と、居直れない人間。前者は慶應SFCの助教授を務め、後者は「下野」していまや風来坊。
 どちらを採るか?それを私が判定することになど、何の意味もない。
 ただひとつ言える。小熊の態度も大月の態度も、そして彼らの行動や選択も、彼ら自身の「知識人的」実存を賭けた、決断であり投企である。舌先三寸でまとめるなら、その審判と裁定は歴史が下す。「民主と愛国」のように。立花隆天皇と東大」のように。


 ちなみに、新曜社からリジェクトされた大月の「出版企画」は、漂流の末あの夏目書房が拾い上げ「全身民俗学者」として無事陽の目を見ることになった。かくしてそれを私が2年遅れで読む。
 しかし、小熊英二御用達の出版社(小谷野敦も本格評論をいくつか出してるが)から「大東亜戦争肯定論」を開巻とする「林房雄コレクション」を復刊した出版社への移籍とは、なんとも大月らしい「フーテン渡世」否「学問渡世」である。


 しかし、福田和也についてもほとほと思うけれども、出版社がリジェクトしてるのはわかるが、もっとアカデミックな著作を出してくれ。
 福田に「奇妙な廃墟」以上の著作は、ない。そして大月の「無法松の影」をベストと信じる私は、つくづくそう思う。


 あの人は「学問」という、彼言うところの「軽薄な虚業」に対して、人並み外れて真摯で純粋な「生涯門前の小僧」なのである。でもそれは「恥ずかしいこと」「恥知らずなこと」だから、必死になって韜晦する、で、その辺に対して屈折がない、羞恥心の足りない「お勉強野郎」が目に付くと癇に障って、説教して罵倒して「殴るぞ」と口走る。
 そーゆー「自己への貞節」に謹厳な人であり、モラリストなのである。


 ちなみに「無法松の影」の文庫版解説は、斉藤美奈子が書いている。
 ホラね、ちゃんと、理解する人は「理解してあげている」んです。
 それもまた、大月の憤激の火種となるだろうが。
 まことに、大儀な人。


 (追記。「出版評論」批判の続編は、数日中にアップする予定。昨日の「突発事故」のおかげで「1日休み」となりモチベーションが落ちたのだが、一応「実名」挙げての批判なので、言説的「惨澹」の中身については書かねばなるまい。自己拘束として)