まさか大月隆寛の話がかくも長くなるとは(笑)

 昨日の大月隆寛話、自分で野暮な補足しておきますが、アレは大月に対するリスペクトの「証」であって、私は今後奴がどんなみっともない振る舞いをし続けようとーーそれはし続けるに決まってるのだがーー軽蔑することなく高らかな笑いとともに付いていく、という競馬用語での「負け馬に賭ける」であり個人的マニフェストなのである。それは一種の判官贔屓ではあるが。


 昨日取り上げた新刊もそうだが、大月が日々書き散らしてる文は、いまやそのまま「テクストに即して」読んだら、支離滅裂で感情過多でとうていお話にならない。
 しかし我々は、その論旨混乱感情噴出私怨炸裂の、いかにもいきがってる田舎男が使いそうなエセべらんめえ江戸っ子調(これも重要で、かつて江戸に「おのぼり」してきた田舎の無頼漢がムリヤリ背伸びして使いそうなニセ江戸弁を、その一層輪をかけた田舎臭さも全部わかったうえで、この現代に、あえて使っている、という二重三重に屈折し倒錯した自覚的スタンスを大月は取っている。その厄介なスタンスこそが、あの単に読みづらい奇妙な文体、口調に現れている。やはり一筋縄ではいかない男なのだが、しかしそんな超個人的文脈を、読んで受け止めてくれる読者などまずなく、そして本人そこまでわかってやっている。ほとんど自暴自棄な嫌がらせだが、言葉の向こうにある不定形なサムシングを、読者に伝えようとしてるのだから仕方ない。絹介なお人柄である)のその向こうに、大月隆寛という僧侶めいた名前を持つ男の「個人的な魂」に、そしてその身を焼かれるような七転八倒に、ふと触れてしまうのである。


 だから例の新刊もそうだが、小熊英二をめぐる始末も含めて、内容的には完全に無内容である。
 しかし独特の生理と身体性が刻印された言語配列の=いわばエクリチュールの向こうに、あたかも車谷長吉めいた私小説的な「魂の受難と苦闘」の非意味的な展開(それは決して「物語」を構成しない。「フェイクとしての正統派(それ自体がフェイクであるところの)私小説作家」「偽者としての(それ自体が偽者性を帯びた)三文文士」すなわち「偽者を演じる偽者、という正統」としての車谷もまた、自身と一族の「歴史」を物語化してしまう仕掛けと欲望の、禁欲どころかそれ自体の脱臼を、徹底して行っている。「『私』という怪物的な自意識」という本来的な意味での「私小説」が必ず要請するメタレベルを徹底して通過しているからこそ、彼の作品は悪意に満ちたファルスなのであり、つまり「ロマン」では断じてあり得ず、それゆえに正しく「正統的」な「現代文学」なのである)が、見える人にはオカルティックに視えてしまうのだ。


 「田舎者芝居」「偽者振り」から何からすべて自覚的にやってるところも含めて、実に車谷的である。
 ただし、車谷は「田舎者芝居」「偽者振り」も含めて、自覚的であることそのものに懐疑はなく「フェイクがフェイクを演じて正統となる」という非常にいやらしい所作の構造に対しては一向無自覚なので、大月からすれば唾棄すべき「恥知らず」だろうが。
 自覚的であることそれ自体に対して自覚的であること、偽者の偽者性を恥じ、自分が自分であることに決して居直らないこと、それこそが大月の超個人的な「倫理」である。そして、そんな感性の持ち主が「田舎者」でも「無頼漢」でも「野良犬」でも、あろうはずがないのだが。
 しかしそれは、当然の帰結ではあるが、この世のどこにもない「不可能性」としての「真善美」を欲望する志向の、否定神学的な転倒した裏返しの態度でしかない。拗ね者とも言う。


 それは単なる心情的読解、感情移入でしかないセンチメンタルな「転移」だと?大月の屈折したピュアネスに自己投影してるだけだと?その通り。


 批評文は「論理」だけでは駄目だと、「心理」に裏打ちされなければ人を説得することも感染させることもできはしないと、かつて小林秀雄は京都学派の面々を、というか「論理」派の総帥西田幾多郎を論難したそうだが、論旨の飛躍いささかすさまじく「気合で書いてたんだろ」と柄谷行人に言わしめた小林はともかく、では大月の「批評文」はというと、論理性皆無です。
 しかし圧倒的な「心理」ーー否、この言葉も大月は嫌うだろうからーー「情念」によって裏打ちされていることは、見るものが見ればわかる。それほどに異様な文章です、アレは。


 そもそも大月は、「論理」や「言葉」や「言語」や「思考」への徹底した不信が甚だしく、それらにいかなるものも賭けてはいない。
 しかしそんな学者があるかという話だが、だから「民俗学」なのである。
 そして「論理」や「言葉」や「思考」の隙間にある、それらによって伝えることのできない不分明な何者かーーおそらくは美醜感ーーを、自己が軽蔑する「論理」と「言語」によって伝えねばならない。それこそが大月の抱える根本的なジレンマであり、しかも大月はそれを「アイロニー」として要領よく処理しない。非言語的人間だから。


 それが近年の大月の文章における論理破綻というか無視と、心理ではなく情念・感情過多の主因である。
 これを徴候と呼ぶべきか。本人わかってやってるんだから仕方ない。


 しかし言うまでもなく、これは日本浪漫派の系譜の嫡子としての、言霊審美主義的なロマン主義でもある。言語や論理や思考の外にあるものに、真善美を見出すのだから。
 だからこの場合言葉は、真善美を顧現させる表層の戯れでしかない。
 言葉を意味確定の道具としての「物体」として見ず、言葉に不定形で流動的な「はかなくうつろいやすいもの」としての「美」を見出すというのは、むろん反近代的価値観である。


 そのことと大月の教科書運動へのコミットメントを短絡させるべきではないが、その意味では、あえて「漢意」と「やまとごころ」の本居宣長的な、男性性と女性性の俗流二元論を用いれば、大月が「マッチョ」で「男根的」なはずはないのである。
 あえて言えば、大月はロゴスの体系から排除された「やまとごころ」的な「女々しい」男であるし、本人もわかってるから、雄雄しく振舞ってるに決まってるのだ。


 俗流二元論を敷衍すれば、梶原一騎はきわめて「女性的」な作家だし、対して小池一夫は外見通り「男性的」な作家、そーゆー基本的なことさえわからない人間が多い。
 「男性的」な振る舞いをする男が、自身の「自然」な「男性性」に居直っているのか、それとも「自然」において「男性性」に排除されていると感じるからことさらにそれを希求しているのか、分別する必要があると、中上健次男根主義のセクシストと批判する声が死後にあったと聞くたび思う。
 むろん俗論の範疇に収まる議論ではあるが、彼らの主観的観念において、そのようなファクターがあるリアリティを有していたとは、本人の自意識は別として、これは作品を見れば断定できる。


 念のために付記すれば「男性性」「女性性」とは「理念型」としてのアナロジーであり「ロゴス的な体系」と「それから排除されたもの」の対としての謂いである。柄谷行人からの借用だが。


 私は社会決定論・環境決定論を完全には支持しないが、二元論的なセクシュアリティに関する議論は、すべて俗論の枠内で処理すべきだと考える。「人工性こそが人間の本来性だ」と福田恒存フーコーばりに言い切った者として当然の立場である。
 「男性性」「女性性」など現実の性に敷衍適用した瞬間にお笑い草となる。


 梶原一騎中上健次の一種の「同性志向」を現実のセクシュアリティに対応させて考えるべきではない。それは「文学」の問題を「社会科学」の問題へと(あえて言うが)「矮小化」させる行為だ。
 作家の実人生や私生活をそのままテキスト読解に対応させることが文学研究の御法度となったのはもう大昔のことだが、社会科学の問題は社会科学の位相で「唯物論的」に対処すればよいように、表象の読解という「文学」の問題設定は「文学」の水準で解き明かすべき事柄であり、社会科学の位相やまして作家の現実的な性生活に還元すべきではない。やってもよいがそれは俗論の枠を出るものではない。


 たとえば三島由紀夫に関しても私はこの立場を保持するし、それを現実の作品読解において貫徹したのが、かの名高い橋本治三島由紀夫論である。
 地を這うような、舐めるような「豊饒の海」他の読解と分析。あれほど三島の実人生に依拠しない、それゆえもっとも三島的に明晰な本格的三島論を、私はほかに知らない。


 そもそも言ってみれば、かつて「まんがバカ一代」という名物テキストサイトが指摘していたが、北野武だって本質的には女嫌いで「同性志向」である。しかし彼はもちろん実生活では「おねえちゃん」好きである。
 そこに彼の軍団という「ホモソーシャル集団」における「殿」振りもふまえて、ホモフォビア的な心理規制が云々、という話もできるが、それは何の意味もない「答え合わせ」に過ぎない。


 表象の水準における問題設定には表象読解の水準で対応すべきだし、社会科学的な現実の問題には即物的に社会科学的な智慧で対処する。両者を混同すべきではない。


 だから、社会科学的な現実の問題を表象の水位で「考察」するとか、ましてや「啓蒙」する、つまりは「社会科学」の問題を「文学」的な文脈に置き換え「文学」的に語る、なんて試みにも基本的に賛同できない。


 つまりそのプロセスにおいて、「社会科学」から「文学」へと、文脈の配置転換が作為的であろうがなかろうが必然的に行われていて、もっといえばその「表象の過程」において無数の文脈の切断と単純化が恣意によろうがよるまいが、表象行為という生成と排出のシステムとメカニズムが必然として起動させる整理排除装置によって差配されていて、しかも読者はおろか作者に至るまで、読み、書くことによって表象のシステムを起動させている当事者が案外その動的なメカニズムと、その帰結としての「現実」の形式化説話論化に気付いていなかったりする。


 そもそも「現実」という「運動体」を「止めて」「停止させて」「殺して」しまう営みこそが「表象」「作品化」という過程なのだが。
 「作品」もまた「運動体」ではあるが、それは「作品」としての固有の「運動」であって「現実」にとって「表象」は「死に」「静止した」存在に過ぎない。
 そして「表象」は「現実」を「静止させて」「死体」に変える。
 それが表象処理の本質であり内実である。


 真っ先に思いついたので挙げるが「永遠の仔」とか、その手の無自覚な、作者と読者の共犯関係の例が多すぎるのだ。
 増加する「幼児虐待」の悲惨さを表象によって社会に喚起し啓蒙するというのは、社会的には有意味な行為だが、表象の水準においては表象としての強度が問われる。「文学」の問題というのはそーゆーことである。
 何ですか「ニート文学」って。「ニート」は文学にならないし、「文学」はニートにとって有意味ではありません、上のような構造がある以上。


 そもそも「表象」が「現実」と「直接的に」関係しリンクしコネクトし、クロスすること自体が原理的理論的にはありえない。上記の通り「現実」から切り離すという操作なくして「表象」は成立しないからである。目覚めながら夢を見ることはできない。
 そもそも人は「現実」を「表象的」にしか=「表象」化することによってしか認識し把握することはできない。
 つまり通俗的ラカンの図式を借りれば、我々は目覚めながら「象徴界」という夜の夢を生き、そしてごく稀に「現実界」という眩しい昼が訪れる。
 ぼくたちは夢と現実をクロスオーバーさせて生きていく、と言ったのは数学者の森毅だが、私の認識では、人間は否応なく夢を生きながら、稀なる現実の訪れを待つ。まさしく人間人工論だが。
 まあたとえば糸山秋子は「ブーム」に正しく便乗しただけで、「表象構築」の課題が彼女にとってはすべてであり「現実の問題」に興味などなかろうが。正しい「文学者」の態度である。
 というかこれは「批評空間」における浅田彰テーゼで、だから本人に言わせれば「当然の前提」としての審美に対する態度なのだが。つまりは審美的問題と倫理・政治的問題の厳密なる分別。


 私がかつて当ブログで藤本由香里「愛情評論」に文句言ったのも、この問題が関係する。


 意図的に、表象から「社会科学的問題」を摘出し啓蒙的な考察を加えることも、「意図的に」という括弧に括っていることを(文中で明示していないのはフェアでないと思うが。それとも自分の読者はそーゆーことに気付かない、「脱構築」という概念など知らない、作家が指示したテーマに沿って作品を「物語」として読んでいればよい、というような「ナイーブな」人達だと、顧客設定しているなら別だが。彼女は上野千鶴子の薫陶を受けてるはずだが、自分を「廉価普及版」と心得ているのだろうか)自覚しており、少なくとも一冊の書籍を通して自ら設定した括弧から一歩も出ないという自己拘束を厳守しているのならば(たとえば蓮實重彦「小説から遠く離れて」のように)別に問題はない。


 (しかし、やはりそのことを言明はすべきだろう。「私は表象を政治的に読んでいます。だからマンガも映画も小説も、それも文学的作品もエンターテイメント的作品も、一冊の本において同じ切り口で語れるのです。倫理的に読んでいるわけですらありません。読解に倫理的判断を導入するなら、メディアの形式性の差異とそれらが個別に要請する倫理性の位相についても、言及しなければならないからです。社会的問題の言説的な喚起と啓蒙のために表象をその位相からのみ取り上げ読みきっています。しかし媒体の形式性や表象それ自体の虚構性・文脈整理性という位相を完全に捨象したそれは表象読解とは何の関係もありません」と。たとえば上野や小倉千賀子はそうしている。蓮實は前掲書で自らの悪質性を公言している。
 しかし同書における藤本の語り口は、悪い意味で、それこそ沢木耕太郎的な意味での「文学性」を纏ってしまっていて、言い換えるなら、センチメンタルで情緒的な口調で、たとえば自らの「悪質性」を、おそらく自身に対してもごまかしてしまっている。
 たかが表象について口さがなく語るのは、どんなに褒めちぎろうと結局は悪質な行為である。著者自身の「悪質性」についてつまびらかにすると、離れていきかねない読者が、藤本のメインカスタマーらしい。
 ちなみにかつて菊地成孔が、俺だけでなく顧客まで罵るとは何事だ、と某商業誌レビューを逆罵倒していたが、そのレビューのくだらなさはさておき、菊地当人のケースにおいて顕著なように、モノカキで言えば、著者と読者が鏡像的な共犯関係に陥る作家は多い。「共同幻想・対幻想を築いている」とは言わないし思わないが、商業的要請に関係なく、顧客の欲望(「ニーズ」では決してない)に応えることを「コール&レスポンス」と考え、そこに安住もしくは菊地のように突進してしまう書き手は多い。勝手にエゴイスティックに逃げようとする者のほうが私は好きだが、さて菊地の場合は?日記の更新停止が、コール&レスポンスの自動加算化による青天井の悲劇を、証している)


 だが、表象を現実の水準で語ることは、言い換えれば、形而上を形而下の位相において語ることは、そもそも可能なのだろうか?


 以上の記述で明らかだろうが、私は無理だと考える。そもそも形而下の世界において存在しない問題系を可視化するために、人は形而上的世界を仮構したのだ。
 ラカンが「象徴界」と呼んだ、「意味」を実定し構成するロゴスによって。
 「はじめに言葉ありき」数千年前から西欧を貫徹する原理である。
 だから形而上的世界とはことの初めから、形而下という地上と切断された空中の伽藍なのである。
 地上を離脱し飛翔するラピュタのような、即物的で動物的で身体的な「現実」のどこにも存在しない、可視化された不可視世界。


 だから当然の話、ロゴスとは文字とは本来、非人間的で非感覚的で非感情的な、人工的で物質的で記号的な形而上的存在である。だから決して「自然」ではなく、それゆえに論理を体系を堅固に構成し構築する。
 言語は論理は人間や人間性から離脱し切断された「非人間的存在」であり、ゆえに人間の「人工化」を促進し、結果として現在に至る「人工性」を規定する大原理であり、だからこそ人間は感覚や感情といった不定形で不分明な「人間性」に捉われることなく、明晰に言語を自在に操作することが可能である……理念的・原理的には。
 非人間的な言語を操るのは、同語反復だが、人間的な人間なのである。


 最悪な例。
 知人の女が私に言った。もっと携帯メール、アナタも顔文字とか入れてくれると文章のニュアンスが暖かくなって、気持ちが伝わって私は嬉しいんだけどなー。


 文字だろ!?それも液晶の!


 友人に話したら、そーゆー唯物論的見解は「オンナ心」と相容れない、と言われた。


 別に性別のことはいい。言語を操作するのは人間だから、当然「操作」という訳にはいかず、本来そーゆーものとは無縁、というか切断し決別し形式化するための可視概念だったはずの言語が、感覚や感情といった「人間性」を、もっと言えば「身体性」や「体臭」を必然的に帯び纏ってしまう。直接的に身体的な発語音声言語ならなおさらのことである。


 だから人はその種の身体性を切断するため、文字を発明して紙に文を書き、やがて液晶にキーボードで定型化された機械文字を打ち込む。それはひとえに視覚言語から身体性を切断する過程の営みである。
 ちなみにその種の「人工化」に怒ってる最右翼が前衛書家の石川九楊ワープロの普及を日夜嘆いてる。超単純に要約すれば、文字にまつわる文化と身体性が失われる、と。


 しかし歴史はままならず、定型文の指示まで完備して人工化の極限まで行き着いた携帯メールにおいて「顔文字使わないとニュアンスの温かみが出ない」などという転倒きわまる要求が飛び出すとは!しかもその顔文字もまた、定型として完備された記号に過ぎないのである。
 でもこの事実聞いても九楊先生の悲憤慷慨は深まるだけだろう。


 これをバックラッシュ(=反動)と言わずして何と言おうか!そして歴史的な意味の照会においてかくなる現象は、はたして「人間性への回帰」と言えるのかそれとも「原始人への退行」なのか?私は断固後者を採るが。


 ついでに言えば、現在の「身体回帰」「身体論」ブームもまた、このバックラッシュ的な風潮に呼応している。浅田彰が、斉藤孝とそれに代表される身体主義をクソミソに言っていたのが象徴的だった。反近代的な反動。プレモダンへの退行願望。その裁断は正しい。


 私は人類史の観点からも(笑)「心情言語」が嫌いだが、世の中みな「記号的」な「心情言語」を使用し乱発しまくっていて、そんでもってそのほうが「人間的」であるらしい。
 人間は人間であることをやめるために、ここまで歴史と意識とシステムとテクノロジーを発展前進させてきたのだと、私は勝手に思っていたが。


 藤本由香里のような「心情言語」による「人間的な批評」を、私が容れられない所以である。「批評的なエッセイ」として読むならよいし、私は批評性を含むエッセイは好きだが。
 念のために言うが、男のエッセイストも数多いる。藤本の性別を鑑みたのではない。


 かつて柄谷行人東浩紀がその仕事においてあれほど、日本的風土を逸脱した徹底的な形式化への欲望を志向したのも、師・上野千鶴子があらゆる理論・言説を政治的権力関係の只中におけるヘゲモニーをめぐる争闘と規定した理由も、藤本は御存知のはずだが。それをふまえたうえで選び取ったスタンスなのか。
 しかし、江藤淳の晩年を、私達は知っている。教訓としなければならない。


 「人間主義の終わり」を、自覚し喧伝しているのは、ごく一部の「インテリさん」だけらしい。彼らははたしてHAPPY FEWなのか否か。


 大脱線したが、ここからアクロバティックに大月に繋がるハズ。後日に続く、かも。