土人の楽園

 予定を変更して、本日はトピックを差し換えます。アタマに来ることがあったので。


 昭和天皇崩御直前、自粛ムード真っ只中の日本に、こんな「土人の国」はウンザリだ、と言い放った浅田彰の気持ちが、よくわかる。
 奴は心底、反吐が出る思いだったんだろうな。


 先日の衆院千葉補選、自民の斎藤健を僅差で破り当選した民主の太田和美(26歳)が、かつてキャバクラに勤務していた事実が、話題となっている。
 当選会見で太田はその件について質され、たった2ヶ月の勤務だった、と答えた。
 翌日のワイドショー等でもそのことについて取り沙汰され、さすがにみな、ケシカラン、とは言わんが、私が偶然見た番組における中山秀征のように「たった2ヶ月」だったんだからいいじゃないか、と「たった」の部分を強調して「弁護」というか「堪忍」する姿勢だった。小娘だし、みんな、見逃してやろう、と。


 「2ヶ月」ならいいそうである。なら訊くが、キャバクラ勤務が2年だったらどうなのか、20年勤め上げていたら?そういう人間は「国民の代表」にふさわしくない?


 念のため言っておくが「キャバクラ」は「水商売」ではあるが、事実上においても違法性を有した商売ではない。太田は別に法を侵していたわけではない。
 さらに言えば、現行では「風俗」とて「売春」ではないという名目のもとに、賭け麻雀同様事実上黙認されている。売春を合法化しないのは、あるいは「違法」と定める現行法を貫徹しないのは、掛け麻雀同様、普段は手綱を緩めておいて、いつでも官憲が締められるようにしておくため、常に公権力のコントロール化に置いておくためである。


 続けて言うが、起訴され裁判において有罪が確定しなければ、その人間は「違法行為を行った人間」でも「前科者」でもない。法治国家の大前提である。
 だから当たり前の話だが、性労働者は起訴され有罪が確定しないことには、別に「犯罪者」でも「前科者」でもない。「近代社会」がそう扱うことは、許されない。
 「やましい(過去を持つ)人間」などという発想自体、近代の原理を逸脱している。


 さらに言えば、佐藤孝行中村喜四郎辻元清美がそうであるように、有罪の確定した「前科者」であろうと、刑の執行が終了すれば、国政に参加するのも「議員」となることも自由である。刑の執行が終了した以上は「一般人」だからだ。これも法治国家の大原則である。ちなみに靖国神社の戦犯合祀問題はここに根を発する(中国は人治主義である)が、今はそれは措く。
 ダメ押しするが、女優から国会議員になった方は今まで大勢いらっしゃいましたが、かつての「映画女優」のもっとも「太い」サイドビジネスが何であったか、よもや知らんとは言わせない。 
 

 私が言っているのは、九九レベルの「近代社会」の大前提である。かつての東浩紀の名言を反復すれば、なぜいまさらこんなことを言わねばならないのか!


 しかし現実はそうではない。当選直後の太田にマイクを突きつけて、彼女の「前歴」とそれに対する「自覚」「反省」を質したのは、彼女に「たった2ヶ月(実際の言葉は「ほんのすこしの間勤めただけ」だったが、つまりはこういう意味である)」と言わせたのは、ワイドショーのレポーターではない。立派な「報道記者」のはずである。そしてその「弁明」映像を私が目にしたのは「筑紫哲也NEWS23」であった。
 その「前歴」はワイドショーで取り上げられ「たった2ヶ月」だからいいじゃないか、と「弁護」「堪忍」のつもりで「識者」どもが言い募る。言うまでもないが、その「報道」と「言説」は日本中に配信される。


 まったく不思議なのだが、あれほど差別語問題に敏感なTV局が「たった2ヶ月」だから大目に見よう、などという言説をよく平気で放送できる、ということである。
 つまり、この中山秀征に代表される見解は「イン」であると、大TV局が判断したということだ。
 「職業差別」という言葉は、肉体労働者に対してだけ当てはまり、性労働者・準性労働者に対しては適用されないと、「キャバ嬢」や「ホスト」をバラエティ番組に出し、あまつさえ彼らのドラマまで作り、さらに局関係者がその種の施設を頻繁利用する大TV局は、判断したらしい。完全な、ダブルスタンダードである。
 一種の水商売である彼らは、本職同様、視聴者という「お客様の動向」には敏感だから。


 つまり問題は「法」の外にあり、山本七平のいう「空気」にあるのだ。
 おそろしいことに、世の中には「議員になるのにふさわしくない前職・前歴」というものが、明文化されない法として、存在するらしい。


 なら訊くが、今回の千葉補選で斎藤の応援に参戦して公衆の面前で土下座していた、予算委員長まで務め上げた元議員の浜田幸一という方がいらっしゃいましたが、彼の前歴は、全国民の周知の事実である。
 ほかにも斎藤の応援として「元ニート」と(事実はさておき)公言する、太田と同齢の26歳の新人議員がいたが、ニートってつまり無職のことである。


 ヤの字よりも無職よりも、元キャバ嬢という「水商売」の「準性労働」経験者は、議員になるにはケシカラン「前歴」であり「前科」の主であるらしい。
 「性労働者」はむろんのこと「準性労働者」もまた、ヤの字や無職以下の存在であると、サイレントマジョリティは判定しているようだ。
 そーゆー人物は「我々国民」の代表となるには倫理的検討が必要であり、検討した結果「たった2ヶ月」だったからいいじゃないか、と「寛恕」される。高卒の、なかなか健気な小娘だし「2ヶ月」なら、まだ汚れきっていない、と。


 つまり「我々国民」の中には、性労働者も準性労働者も、アレフ信者同様、含まれていない「山人」であるらしい。
 今は亡きサイードはかつて、ハーバーマスの「良識ある市民達の自由な対話と合意」によって形成される「市民社会」という理念の「良識ある市民」の中に我々パレスチナ人は含まれておらず、よって「市民社会」はパレスチナ人を排除することによって成立している、と言った。
 「私達市民社会」は「私達」の恣意によって「市民」を選別し「市民でない存在」を排除することによって、成立している。これはローティ的な「誰を人間と認めるか」というラディカルな問題系と直結する。
 インビジブルな「山人」が「市民社会」に参加するには「市民」達の「我々の仲間とするか否か」という審判を仰がねばならない。「たった2ヶ月」だからよし、と「寛恕」されて。


 賭けてもいいが、今後太田が不倫騒動でも起こした暁には「これだからやはり元キャバ嬢は」という「見解」が噴出するに決まっている。
 念のため言っておくが、姦通罪のない現行法下において、不倫は別に違法行為ではない。フランスの元大統領ミッテランに50人の愛人がいたのは有名な話である。
 「結婚」という「制度」を維持する側に立つ、と表明している議員が私生活においてそれを侵犯したなら、多少は倫理的な問題になるかもしれないが。しかし、それは決して政治的な問題ではない。
 選挙区制度下の議員が信任を託されているのは、地元の有権者からである。私は、山崎拓が変態でも、別にいいと思う。選挙民もそう思ったのだろう。
 さらに言うなら、太田は「たった1年」とはいえ、地元の県会議員も勤めている。
 日本は「1年間の県会議員経験」よりも「2ヶ月間のキャバ嬢経験」のほうが、よりクローズアップされ問われる国らしい。
 「県会議員時代に何をやったか」よりも「キャバ嬢時代に何人のオヤジに甘い声を出し、金を貢がせたか」のほうが。
 まことに謹厳な、矯風会的発想でなによりである。


 私は別に太田の贔屓ではない。自民党を支持するはずもないが、斎藤健に議員になってほしいとは、なんとなく思っていた。
 太田の「前歴」をリークしたのは自民の選対本部だろうが、しかし民主の側だって、斎藤の経歴を「超エリート」と逆喧伝し「小泉の勝ち組政治の勝ち馬に乗る、弱者の痛みがわからないエリート野郎」とネガったのだからお互い様である。
 選挙でそーゆーことをやるのは別にいい。「報道番組」が「全国配信」しないかぎりは。当選早々記者が「言質」を取り「2ヶ月ならやむなし」などと全国放送で「我々市民」の「公的見解」が発表されない限りは。
 野中広務の「出自」を、もはや周知の事実となった今に至るまで大手メディアが取り上げないのは、抗議や糾弾云々以前に、良くも悪しくも「礼節」と「近代の原理への貞節」ゆえだと、私は思っていたが。
 会見で太田は、大意、自分の「前歴」が「負の刻印」となるはずがない、と言った。もちろんその通り。「議員」として当然備えるべき認識である。その認識を身をもって証せ。


 私は松沢呉一のシンパではない。「セックスワーカーの権利擁護」云々にも、別に特別の関心はない。そもそもカネを払おうが払うまいが、女遊びに大した関心がない。
 私はただ、丸山真男並みにベタで愚直な、近代の原則のイロハを説いてるだけなのだが。
 もっとも、私とてあまり喜ばしい「前歴」の主ではない。


 自分はメンヘラーの女とは付き合えない、といった人間がいた。
 自分に危害が及ぶかもしれない、というのがその理由である。
 この場合の危害とは、肉体的なものを指し、危害を加える当事者を「メンヘル女」だと規定している。
 別に彼は過去に「メンヘル女」からそのような肉体的な「こっぴどい目」に遭った訳ではない。というか、「メンへラー」との直接接触は、その人生においてほとんどなかったと推測される。彼に「迷惑」をかけた「メンヘラー」はいたが、彼はそーゆー「存在」の絶対数を、大抵の人間がそうであるように知らず、ゆえに分別化や蓋然性の議論などできようはずもない。そもそも「精神病理」への知識もない。ワンサンプルが全体化しちゃうのである。
 そして彼がなぜそう言ったかというと、私が当時心を病んだ女に惚れていたからである。


 その人は、自分がポリティカルコレクトに抵触するような偏見を抱いているとは思っていない。悪意もない。自分を一般的な感性の持ち主だと思っている。
 なぜなら彼は、ごく当たり前のことのように、みんなもそう思うでしょ、といった調子で、軽く、そう言ったのだ。自分の身の安全は守らなきゃいけない、と。
 そうだろうな、それが「一般的な感性」って奴だろう、と私は思う。


 別に「差別」とか「差別者」とか言っているのではない。「内心」の糾弾には、何の意味もないというのが私の立場であり、最近の「反差別運動」のセオリーである。私は誰かを断罪するためにブログを書いてるのではない。


 私が問題にしたいのは、上のような「言明」を「当たり前のこと」として人にさせる、そして事実それが「当たり前のこと」として通用してしまう「一般的な感性」という「空気」である。


 糸山秋子のデビュー作「イッツ・オンリー・トーク」に次のような独白がある。本が手元になく正確な引用ではないが。
 「精神病院に1年もいれば、友達なんてみんな逃げていくものだ」。
 私がここで思うのは、逃げていった「友達」が、おそらくいかなる心の痛みもないままにそうした、できたのであろうということである。
 だってそんなの「当たり前」でしょ、「普通」そうするだろう、と。
 精神病院に1年もいるような奴と絶縁するのは当たり前。それが「一般的な感性」として通用する。


 上述のクソ報道も、そういうことである。
 「たった2ヶ月だから大目に見よう」。こうした「差別発言」「差別報道」も「一般的な感性」という見地においては「イン」なのだ。
 「土方」「パンパン」という単語が飛び出すのは「アウト」でも。
 亀井静香(あの人の出身は周知の通り広島である)が、子供の頃親しみ交流した「流浪の乞食」について、本当に親愛の情を込めて語るのは「アウト」でも。
 それは「朝ズバ!」での光景だったが、亀井に執拗に訂正を求めるTBSの解説委員に比べて、呵呵大笑して済ませたみのもんたは偉かった。もちろん私は亀井など嫌いだが。
 マスメディアのみなさんは、近代の原理よりも「一般的な感性」に準拠なさるようで。
 お客様は神様、きっとそれが「ジャーナリズムの公共性」を保証するのでしょう。それは「公共性」ではなく「共同性」ですがね。
 田吾作どものムラの立て看板として頑張ってください。「お尋ね者」のお触れとか、よく書かれてますよね。「お上」が指定した。


 「普通のいい人」「普通の人間」が一番恐ろしいと、かつて岡田斗司夫は言った。
 ここで言う「普通の人間」とは、自分の悪意を自覚せず、自分が「イン」であると平気で思い込み、自分のことを「一般的な感性」の持ち主である「普通の人間」と自己規定できるような連中のことである。
 自分のことを「まとも」で「正常」だなどと思える人間は、みんな気狂いだ、とリリー・フランキーは書いた。
 「一般的な感性」というのが、インビジブルな差別を再生産する(「イン」と「アウト」という)選別と排除のシステムであることに気付けないのが「普通の人間」であるらしい。


 だから私は、私の前で「常識」だの「社会性」だの「普通そうでしょ」だのと、何の考えもナシに口走る人間を、信用しない。頼むから、こちらの同意を前提としてしゃべるな。
 「一般的な感性」というコードに準拠し依存してしゃべるから、100%の同意がこの世に存在すると思っている。「〜ですよね?」相手がそこで訊いているのは、YESかNOだけであるらしい。
 驚くほど価値観の幅が狭くて、しかもそのことに気付かず、そこに自足して、世の中みんなそうであると思っていて、そのくせ自分は見聞が広いと思っている人間って、本当に多いのである。


 「偏見」や「差別意識」を抱くのはしょうがない。私の書いてることもたぶん偏見まみれだろう。「バカ」に対する差別意識がお前はないかと問われれば、ご明察、と答えるしかない。
 しかし自分の「偏見」や「差別意識」=ひいては「悪意」を自覚し懐疑し検証し、し続ける態度は、必要である。これは丸山真男が死ぬまでクリシェのごとく執拗に説き啓蒙し続けた「近代的意識の基礎中の基礎」なんだが。
 まったく、なぜいまさらこんなことを言わねばならないのか!


 「土人の国」のお祭りは、いまだに続いているみたいである。