「出版評論」への批判的指摘(1)

 「退屈は最悪の罪である」スタンリー・キューブリック


 新宿歌舞伎町韓国人街、かのトークライブハウス「ロフトプラスワン」の支店「ネイキッドロフト」。
 本日(日付変わってもう昨夜だが)のイベント「出版評論トークpart2」。
 予定されていた岡田斗司夫の出演がキャンセルになったことを知っていて出かけたのは、友人と待ち合わせたこともあるが、何よりも代打で席亭を務めた、唐沢俊一の日記に頻繁にその名が出没し、ここのところ立て続けに行われた岡田の「プチクリ」販促トークショーに、毎回スタッフとして影のように寄り添い同行していたバーバラ・アスカこと「出版評論家」大内明日香という人物に、興味を抱いたからだ。
 

 某社の編集(事情があるそうで匿名)との「現場における企画会議」を模したトークと雑談で構成された後半は、まだしもだったが、前半の同編集との「出版評論」談義たるや、惨澹。
 タダ酒だったら帰っていたろう。楽しそうで何よりだった、演者が。


 大内明日香の「出版評論」とは何か?
 出版物を「単なる商品」として、出版事業を「単なるビジネス」として、出版社を「単なる製造業者」としてフレームインし、「文化事業」という関係者と読者達のお題目な幻想に「経済性」という即物的で殺伐とした観点から突っ込みと喝を入れるという「批評活動」、らしい。


 否、そもそもすでに出版業界はそのように「製造流通商売(=メーカーと取次・小売店)」として「一般化」し「平常化」しているという、誰も疑う余地のない冷厳な「事実」を突きつけ、関係者や読者らおためごかしの「文化の幻想共同体」を生きるみなさんに、現実認識と覚醒とソロバン勘定を迫る、末端(本人が自分でそう言ってる)業界人の自虐的な試み、であるらしい。


 いまさらナニ言ってるんだ、ともう10年近くも前に藤脇邦夫の「出版幻想論」「出版現実論」を読んでいた私は思う。
 謎本ブーム、松本人志「遺書」のダブルミリオン、「文化事業」の実存危機が関係者らによって号令のごとく叫ばれていた時代だった。
 土田世紀編集王」の連載開始も、同時期である。表層的な水準において掲げられたテーマは、作家性と商業主義の対立と葛藤、つまりは、「文化」と「商売」の対立と葛藤である。
 のちに「BSマンガ夜話」で、現実に横たわる複雑な問題を、表象する過程における象徴化・単純化・通俗化の弊という「俗情との結託」として指摘され論難されたその問題設定は、しかしすでに「スピリッツ」で長期連載化をなし得るほど、マスにおいて浸透し受容され、共有されていたのだ。


 藤脇の著書は、そんな時代風潮を敏感に察知し、出版が所詮は産業であることを自覚しろ、と一種の言説的安全圏から「既存の出版界」を「挑発」する「あたかも黒船来航のような」「問題の書」というパブリシティを持って公刊されたのだった。
 それぞれの序文を、白夜書房末井昭幻冬社見城徹が書いている。
 当時の出版界において、両者は明らかに周縁的な傍流に位置しており、しかしそれゆえにカウンターとしての自負を持ち、鼻息も荒かった。10年後、その営業的躍進の成果が、しかし書籍供給の志向において多様性やオルタナティブを切り開かなかったことこそが「商業主義的(=ビジネスライクな)出版社」の安全装置的な「設定限界」では、あった。


 版元は太田出版。ちなみに「出版幻想論」にはかつての同社編集、赤田祐一が掘り当てた「磯野家の謎」という空前の鉱脈に、便乗謎本を片端から投げたデータハウス社長と藤脇との「身もフタもないリアリスティックな」対談も収録されている。
 そして同書の「言説的安全圏」性についての批判も、当時すでにいくつかの場所でなされている。
 ちなみに「出版現実論」には、大変貴重で重要な渋谷陽一のロングインタビューが掲載されている。「ロッキン・オン」の創業社長としての「文化商売の成功者」渋谷の「文化事業」における経営哲学が、まことに忌憚なく吐露されている。


 さらに言えば「文化的制度」に依存した、経済性の優先しない奇妙な商売としての「文化」を「経済性」の観点から冷徹に勘定し断罪するという試みなら、これまた10年以上前に、あの蓮實重彦が文芸誌の掲載作品に対して行っている。
 その「批評」は当時の「宝島30」で対談していた、無名時代の町山智浩柳下毅一郎が取り上げているほどだ、映画対談なのに。
 つまり、蓮實がそれをやったということは、業界内ではそれなりにセンセーションとなったのだ。なぜか?


 当時はなお、蓮實に象徴される「商業主義に侵攻されない聖域としての文化」が、なお「文化志向者」達の観念においては、絶滅せず生き残っていたからである。当の宝島社においてもまた。
 だからこそ謎本や「遺書」のブームに「心ある」出版人達は本気でマユをひそめ、藤脇の主張もまた「クリティカルな批判」として、表面上はかろうじて機能し得た。
 そして蓮實の試みも「批評」として受け取られる余地があったわけだ。


 もちろん、現物に当たればわかるが、「ポストモダンブーム」という高度資本主義的な「差異」の消費現象を厭々通過していた蓮實はハナッから「お遊び」として、逆説ですらない単なるナンセンスな皮肉として、現代の「日本文学」ひいては「文化商売」「文化趣味」とやらを、嘲笑してみせているのである、鼻の先で。
 「経済性」の観点から「文化」を審査し断罪するという行為が、いかなる批評や批判としても成立し得ないお笑い草だということを、蓮實は当然心得ていた。


 ちなみに、現在もその論法の段平を大マジで振り回して、本気で「文化商売」「文化趣味」を批判しているつもりなのが、大塚英志である。大塚のシリアスな動機と切迫した問題意識は、理解できるが。
 もはや蓮實や柄谷行人浅田彰ら、かつての「文化英雄」達が、文学どころか「差異」を構成し組織するあらゆる「文化商売」「文化趣味」を、見放し一顧だにしないこの現状では。
 文化の裾野が広ければ広いほど、頂点も高くなるということを、大衆文化嫌いの彼らは忘れてらっしゃる。もちろん彼らは「頂点」を構成する「文化」「文学」「芸術」が、単独的に存在している、いた、という史観を、蓮實の映画偏愛を除けば、故意に貫徹している。
 その振る舞いはむろん彼らが自認する通り、反動的でドグマティックな政治的態度である。そしてその断定的認識は、誤りとも言い切れない。


 大衆文化好きの京極夏彦が、バイアスのかかった偏向的見解を書いてるが、江戸末期の膨大な浮世絵文化の裾野があったから、そのピラミッドの頂点として他律的葛飾北斎の天才は生まれたのではない。
 北斎の天才は、本質的にはいかなる文化的社会的フレームやコンテクストからも逸脱し無関係な、真空的な突然変異的単独性として内発的に発現したものである。
 夏目漱石もそうであった、というのが柄谷の見解である。これを彼は自立的で単独的な「平常な場所」から生まれる文学、と呼んだ。
 北斎の自意識的実際的な職人としての側面を、京極は強調するが、むろん北斎は畸形的な偉大な芸術家である。それを決定するのは現代のコンテクストだが、フォルムとしての審美的強度と単独性・自律性において、クソと味噌は分別されなければならない。十把一絡げにすべきではない。


 当該イベントに関する本格的な批判的指摘は翌日の次項(2)で述べる。昨日の告知をまたもネグッてしまい、申し訳ない。陳謝。