サクセスの秘密

 タイトルは中原昌也の「パンクな」対談集より。「J文学」の絶頂期、あのころの河出書房は血迷っていた。今もだが。
 とりあえず、河出別冊の安野モヨコ特集、あれやめてください。安野ファンの知人が読んで、やっぱりマンガ批評なんてクソだ、と憤慨してました。島田一志と「ロックな」ライターが戦犯だ、と告げといた。「マンガ愛」は了解しました。ライブドアじゃないんだから、批評全体の底値を暴落させないでください。


 枕はさておき、眠いので、お気楽な話します。


 木村拓哉のトップスター性、その謎を解く鍵は彼の主演ドラマにある。


 月9。日曜劇場。それらでこの数年木村が演じる役柄は、ほぼ一貫して「ちゃんとした普通のアンちゃん」でしかない。ほかならぬ木村が演っているからみな気付かないけれども。
 検事・パイロット・アイスホッケー選手・レーサー、特殊な職業の役柄だからこそなおさら、木村は常に、主観的には、そしてきわめて意識的に「普通の男」として彼らを捉え、そう演じきっている。
 だから演者が木村でないと思えば、彼らは「普通のアンちゃん」でしかない、そしてそれを演るのが、天性の二枚目にして気取り屋、木村だからこそ、ああもカッコいいのである。


 推測だが、木村は、実際のところ内的主観性においては、自分自身のことを「ちゃんとしてる普通のアンちゃん」としか思ってないのではなかろうか。そしてそれは「スター」であることよりもよほど、彼にとっては価値あることである。
 それは、あるいはおそろしくズレた認識である。客観性がないと言えるかもしれない。
 しかし私は断言するが、彼の価値認識は正しい。それはむろん「スター木村」にとってもだ。


 実際に本人が語っているであろう、彼のエッセイにおいても、木村は「アンちゃんの自意識」の目線から「アンちゃんの日常」を語り続けている。それがあるいは作為的な告白であろうと、彼が望む自己像とは、そんな「アンちゃん」であることが、わかる。もちろんそれは「スター」であることと両立する。


 かつて「日刊イトイ新聞」で、木村が匿名で書いていたというコラム。彼は「波乗り兄ちゃん」というシークレットネームを名乗っていた。
 初めてファンの公然で性体験を認めたジャニタレは、彼だと言われている。
 かの事務所のアイドル達がいまや坊主もヒゲも解禁となった、この昨今ではもうみな忘れているだろうが、「男性アイドル」が「普通のアンちゃん」としての自己を主張することが、当時どれほど困難だったか。しかし彼は押し通し、見事に「アンちゃん」として、そしてそれゆえにトップスターとなった。


 だから彼が演じる役柄は常に、彼自身と=そしてその自画像と、あるいはほとんど一致する。
 検事だろうとパイロットだろうとアイスホッケー選手だろうとレーサーだろうと、彼らは内的実存・自己認識において「普通のアンちゃん」でしかなく、しかし彼らの「個」的な価値基準と行動には、まぎれもない「個」である木村本人の価値観と行動基準がそのまんまというほど強く投影され、だからこそ彼らは、内発的に「自然」に、むろん木村がそうであるような「ちゃんとした」アンちゃんとして、ふいごの先の熱したガラスのように内面に至るまで丹念に生命を吹き込まれる。
 そして彼らはその結果として必然的に「自立の思想」とでも言うべきモラリスティックな色調を帯びる。


 むろん、「(それも木村並みに)ちゃんとした」「アンちゃん」は、まして「個として自立したモラリスティックなアンちゃん」は、今日びにおいては「普通のアンちゃん」であるはずがなく「カッコいいアンちゃん」なのである。
 しかし木村は、「カッコいいアンちゃん」とは「ちゃんとした」「『普通』のアンちゃん」だと信じる、いまどき珍しい古風な男なのだ。個も自立もモラルさえも「ちゃんとする」の一語の中に含まれる。


 だから木村の演じる「アンちゃん」達は、(ありえないような設定や脚本でありながら)決して作り物や操り人形には見えない、内発的な手作りの生の鼓動を感じさせるのだった。
 巷間言われる、木村の「自然」で「リアル」な演技とは、そういうことである。


 もちろん木村は本質的に芝居がかった男だが、上記の仕掛けが、それを郷ひろみ的なギャグに転倒させることなく、浅野忠信的な「自然」「リアル」とは違った、生身の息吹のようなメリハリへと変えている。
 やはり浅野は映画的な俳優で、木村はTV的な俳優だ。念のために言うが、この場合映画とTVに優劣はなく、ただ彼らの媒体適性の話をしている。


 郷ひろみは、そしてかつての男性アイドル達は、自分自身を「普通のアンちゃん」だなどと、つゆ思わなかったし、自ら進んで「童貞貴公子」的な自画像をプレゼンテーションしていった。
 その自己規定と戦略は現在、トップランナー郷を筆頭に数多のケースにおいて破綻をきたしている。死屍累々。老いと成熟はおそろしい。そして「郷ひろみ」というパブリックネームを背負い続ける50代の人生は、もっとおそろしい…… 


 自身を「普通のアンちゃん」だと信じる「華」のある男が「ちゃんとした普通のカッコいいアンちゃん」を心底から内発的に演じきることで「現代のスーパースター」となる。
 現代では、瞳に星が浮かぶような「貴公子」ではなく「ちゃんとした普通のカッコいいアンちゃん」こそがまさしく「HERO(ヒーロー)」となり得るのだ。すべては天性の「華」あってのことだが。
 しかし言うまでもないが、木村拓哉がツラで「HERO」に「スーパースター」になったわけでは、断じてない。


 「華」のある男が「普通の男」を演じてこそ「等身大のHERO」は生まれる。
 言い換えれば、「華」のある二枚目は、自分の「華」や顔立ちなど気にも掛けない、自意識においてルックスのことなど消去しきっている「普通の男」を演じないと「等身大のHERO」はおろか「等身大の人間」にすら、なれないのだ。


 木村拓哉は、おそらく意識さえすることなく、常にそうしている。たぶん彼は自分の顔の造作のことなど、気にも掛けていないだろう。
 彼にとって「カッコよさ」とは、振る舞いと言動を通じてしか現れない。だから彼の芝居は、些細な身体的あるいは表情的所作において、過剰なまでに意識的である。そして彼のその認識もまた、正しい。


 つまり「二枚目」はなおさら「普通の男」を演じなければならない。さもなくばリアリティから浮遊し逸脱するのだ。
 「二枚目」が「二枚目」を演じるとどうなるか?藤木直人になる。
 完全な「非在」としての「絵に描いたような二枚目」。「ありえないもの」としての二枚目。
 要するに、滑稽なギャグでパロディでしかない。しかも本人無自覚である。
 きっとこいつ「二枚目としての自分」に確信を持って、疑いなく生きてきたんだろうなあ。木村拓哉と正反対、表情から視線から笑い方から何から、一挙手一投足がすべて、自身の二枚目性にフラットに意識的である。だからそれはお笑いなのだが。そのくせ木村のような過剰な気取りも気障もなく、自画像に安住したフラットな脱力自然体。
 その末路が現在放映中の「ギャルサー」なのだが、しかし本人は無葛藤だろう。


 アノ番組には思うところあるが、今は措く。しかし「女王の教室」といい、宮藤官九郎の不発ドラマ(私はクドカン作品で一番好きだが)「僕の魔法使い」といい、あの枠はなかなかチャレンジャブルでは、ある。というか堤幸彦の「金田一」以来、キワモノドラマばかりやってるが。あとドラマ初お披露目の鈴木えみの体形は、ほとんど人工人形だったが。何食ってんだ。


 ちなみにこの「二枚目」が「(絵に描いたような)二枚目」を演じるというパロディを「僕は模造人間」のごとく、意識的に自覚的に演じているつもりなのが、及川光博である。
 だからドラマでも映画でも、セルフパロディのような役柄ばかり演じている。というか、端的に狙い通りセルフパロディなのだが。
 要求される「演技」がセルフパロディ。コンセプトが「セルフパロディ」。まさに「僕は模造人間」である。
 というか島田雅彦自身が「(絵に描いたような)二枚目」を意識的に自覚的に演じる「二枚目」であり「(絵に描いたような)インテリ」を意識的に自覚的に演じる「インテリ」という、まさしく「コンセプトセルフパロディ」の人、なのだが。要するにひねくれている自分に喜んでいるひねくれ者。


 しかし及川光博の悲劇は、たまにドラマで「普通の男」を演ると「二枚目性」がいずこかへと消え失せて地味なスーツに埋もれ「ただ顔が二枚目なだけ」の「単なるひと山いくらの、フツーの、否、有象無象のアンちゃん」でしかなくなってしまうということにある。
 「王子」やってるときには気付かれなかったが、決定的に「華」がないんである。たぶん本質的に。ツラが平板にいいだけで。
 ということは、後は「セルフパロディ」の永劫反復と徹底消費しか、つまり「国民的オモチャ」「アーティストのつもりのお座敷芸者」への果敢な退却的道程しか、もはや彼には残されていない……
 「華」の有無は、大きい。それをこそ人は「天分」と呼ぶのかもしれない。


 追記。かつて町山広美は、自分が興味を持つのは「キムタク」という現象にであって「木村拓哉」という固有名にではない、といって「キムタク」について語った。
 反時代的な私は、現象になど興味はない。何であろうと。