内面化という抽象&共同性

 えっと、浦沢宇多田対談トピックの続きです(新井素子風)。


 話戻りますが、さて、なぜ浦沢と宇多田は「表現者の恍惚と不安」「私達を駆り立てる、内在する闇」などという、絵に描いたような紋切型の話で「わかるわかる」と頷き合うのか。
 表象において周到な「作家」も、素で喋らすと案外無防備で、一応「パブリック」なインタビューならともかく「対談」という「楽屋の世間話」だと、気がユルみまくる、という身もフタもない話は、措く。たぶん一番的を得ているが(実際、この対談、内容的密度は、ありません。話の内容も、それぞれが程度の低いインタビュアー相手に語るクリシェの変奏で、それもお気楽な雑談のぶんだけ、なおさら弛緩してスカスカ。ただふたりのジャンルも世代も違う「天才」が、わかり合った、という証拠物件に過ぎないのです。それはスターバックスでやれ)。


 実際、彼らはともに、インタビューにおいては、もっと周到な、知能犯的な応対と受け答えをする。というか、浦沢も宇多田も、インタビューをナメている。
 浦沢はどの媒体でもオルゴールのように同じ話をする。意味はもはや反復言語と化した語られている内容にはなく「お前らバカに尻尾などつかませるか」という、発語外の嘲笑、よく言えば舌出しだけに、ある。
 宇多田はもうすこし誠実だが、しかし彼女もまた、自身のつたない「おしゃべり」で、何かを代弁し得るなどとは、露ほども思っていない。だから延々と周縁をグルグル回り続けるようなはぐらかしが続く。
 力強く断定する思い込みの強いインタビュアー。全然違う脈絡の話をする宇多田。以下エンドレスで繰り返し。
 もちろん誠実な彼女は、ズラし続けることでしか答えられないと思っているのだ。それは正しいし、気付けよインタビュアー、という話。
 「私にとっては音楽だけが拡声器で、(感染的強度を有した)唯一のコミュニケ−ションツール。その他、すべて凡庸。語れども世間話」そう正直に言ってるじゃないか。


 まあ、彼らの気持ちもわかる。そもそも大概のインタビュアー、というかジャンルプロパーに特化しないお座敷ライターは、まず蓄積が追いつかない。象徴的なケースを憶えている。


 宝島社の「このマンガがすごい!2006」に、かの秋本治のインタビューが乗っていた。「こち亀」です。
 しかしインタビュアーの若造ライターはこの「集英社天皇」にほとんど何も訊けない。格と歴史があまりにも違う。それは淀川長治に「映画秘宝」のライターは何も訊けない。
 インタビュー次第では、歴史的資料ともなり得る証言がいくらでも引っ張り出せたはずが(集英社の意向もあったのか)ページも全然少なく、千歳一遇のチャンスは、かくして不発に終わった。
 「わしズム」における小林よしのりとの同窓対談のほうがよほど中身が濃く「天皇の御言葉」を引き出せていたことは言うまでもない。


 TBSの「ブロードキャスター」に、久保純子が初登板したとき、お祝儀で北野武に突撃インタビューしていた。愚にも付かないお茶の間でNHKな質問の数々に、露骨におざなりにしかし紳士的に答える北野。VTR終了、スタジオ。
 「たけしさんって、とってもシャイな方で……」つまんなかったんだよ!
 

 「北野武にインタビューできる力量のあるライターがいない(俺はした。ゴダールにも、した)」とは蓮實重彦のボヤキである。実際、北野インタビューは、もはや前項の主役、渋谷陽一の独占状態となっている。


 閑話休題


 さて、「自己言及」「文学趣味」「ホンネ」嫌いのふたり、浦沢と宇多田。そんな彼らのあまりに心理主義的な(「魂」的な)紋切型の意気投合は、何に由来するか。


 前項の冒頭、彼らは「表層的」であるがゆえに、その表象的資質において「パブリック」である、と言った。日本共同体的な前提に文脈的に依存しないからだ。
 しかし、彼らは国内において、まごうことなく共同体的な文脈のもとに、受容されている(宇多田の海外進出の不調に関しては、分析を措く)。
 いかなる文脈か。柄谷行人日本近代文学の起源」で提示された、言文一致以来の国民的解釈装置、「精神分析的な物語」である。
 深層と表層の相克的な対応関係によって人間性は規定される……


 そんな日本共同体にあまねく共有されたコードのもとに、彼らの表象は受容されている。
 しかるにそのコードの現代的な主調変奏とは、有り体に言ってしまえば「トラウマという物語」だ。
 その豊かなイマジナリーの国民銀行には、愛も孤独も記憶も死も包摂され貯蓄されている。
 それは「奥行き」の存在しない場所にムリヤリ「奥」というパースぺクティブを付会し、遠近法的に「見通し」をよくするという作為的な行為であリ、「虚偽」の向こうに「真実」を鵜の目鷹の目で発見し見出すという、それ自体冒涜的なまでに虚偽的な読解であり受容である。


 かくしてきわめて反物語的なマンガ家とシンガーが紡いだ「反物語」は、真正で正統な「昔ながらの」古典的な「物語」として、フィジカルではなくメンタルな「古典的感動」とともに迎えられ、消費され消耗され消尽されるのだった。
 逆説は順接として読み換えられ、読者による「内面化」とともに再組織される。
 これもまた「市民社会」による「作品・作家」の、「文学趣味・文化趣味」的な訓致の一例。


 この手の表象読解、否、全的な世界観の体系をこそ「心理主義」もっと言えば「心情主義」(丸山真男)と呼ぶ。
 かくて「心理主義的」に大衆に受容され訓致された表象者は=「逆説」が「順接」としてしか機能しなくなる「悪い場所」の表象者達は、「心理」と「趣味」の順接の氾濫下において、表象の行為的実践から一時的に離脱し、個人の浦沢と宇多田に戻ったとき、言語的・概念的な免疫がないばかりに、容易にあるいは不用意に心理主義的言辞を用い、「自己」さえも分析(!)し解剖してみせる。一見ソフィスティケイトされた手つきで。


 その自己撞着的で謎解きめいた「マザー・グース」かリップバーン・ヴィンクルの回想のような過去遡及・深層遡及は、起きながら悪い夢を見続けるようなもので、さらにその夢日記を夢の中で付けるようなもので、ヘタすりゃむろん伊丹十三のような始末になるが、もちろん彼らはそこまでオブセッシブでもない。
 そもそも言語を操作するレベルにおいて、人間は初期設定的に巧妙な安全装置を仕掛けている。
 言語とは抽象化・普遍化・構造化・体系化等の自動的な操作によって、一回性の存在として生起する直接性を、事後的な概念として加工し再構成しまさしく訓致して、端的に無人称の「言語」として抽象空間で物質的に記号処理する、純粋表象という安全装置である。


 浦沢宇多田の「心の闇」語りも同様。あらゆる表出は(それを規定すると信じられている)下部構造と連動し得ず、表層という安全な回路を円環的に巡回し続けるだけだ。もちろん彼らは言語によっては、ありもしない「深層」になどたどり着けはしない。


 言語はその抽象性ゆえに、かえって規律的で拘束的で開放的で交通的な「開かれた不自由」としての平面投射的な機能を有する。
 「閉じられた自由」という非言語的で具象的な、垂直測量的な機能からはもっとも遠い。


 言語とは元来「表層」的なメディアであり、「意識」の装置で概念構成のパズルでしかない。
 非言語のみが、仮構された「下部構造」=「深層」「無意識」へのリンクという幻影を、つかのま可視化させる。


 「言霊」などと言ったのは、いつのことだったか。言語は唯一的な宝石から、機能的な精密機器へと、解体され変容を遂げた。それはきわめてシステマティックな記号の構造体だが、機器の精密性を保証するのは、使用者の物質的かつ唯物論的な言語記号の確定志向によっているのだ。


 突出した、環国境的で交通的でパブリックな表象者が、日本共同体的な心理主義の搦め手に個人の位相においてむなしくも無自覚に掌握される。


 それでも表層的強度によって直立し得たはずの表象は、一千万読者の共同体的前提という文脈に依存した読解によって「内面化(=「具象」の恣意的な加工・変容・再構成による「抽象化」)」され、その「内面化(=「抽象化」された「具象」)」された「みんなの心の中にある作品とその想い出」という「共同体的表象」へと変容を遂げてしまう。
 これほとんどロマン主義である。だってどこにもないんだから、そんな「抽象」は。個々人の頭にすらない。「みんなの頭」に、まさしく「共同体的表象」という(これまたありもしない)「中心性」の顧現として立ち現れるのだ。


 そして「共同体的表象」こそが「パブリックな表現」である、というとてつもない転倒の接続が必然的に、心理主義者の内面野郎どもによって流布され「一般化」される。
 繰り返すが、その「抽象」の実体はどこにもない。


 逆説が順接になるのも、具象が抽象に加工・再構成されるのも、表層を深層の水準において「内面的」に読むのも、そして「パブリック」と「共同体的」が順接し一致し幸せな結婚式を挙げられるのも、みんなみんな「悪い場所」の風土性ゆえかしら!


 柳田國男でも読もう。世の中「ないーぶ」で「せんしてぃぶ」な奴ばっかりだ!