「文化趣味」というリベラルな反動と俗物

 前項「構造と強度」で採り上げた浦沢宇多田対談。


 私がなぜアタマ痛かったかというと簡単で、前項で詳述したような、
「表層における強度によって持続的緊張感を維持し得る、深層や奥行きを通した「共感」「感情移入」といった心理主義に依存することのない、共同体的な消費にさらされない、「開かれた」表象製造者達」
 である彼らが、そして確信犯的にそのような表象様式を貫いている彼らが、こと顔を合わせると「僕達の心の闇」という深層について「わかるわかる」と頷き合うようにして意気投合してしまうのか、ということなのである。


 「心の闇が支える僕達の表象」という話を表象製造者本人が語ってしまうと、それは読み手達に、表層と深層・意識と無意識・原因と結果、という「遠近法的な物語」を、つまりは心理主義的な解釈装置の発動を許してしまうことになる。
 「作家の魂」だの「子供時代のトラウマ」だのの話になる。
 何よりもそういった、浅薄で通俗的な解釈をこそ、表象レベルにおいては拒否し続けてきたはずの、ふたりなのに。


 まあはっきり言って、歴代の「クリエイター」インタビュアー達も悪い。


 たとえば「ロッキンオンジャパン」のインタビュー。いまだに「アーティストの魂」に寄り添った、どこのカウンセリングかセラピーかというような質疑応答が前ページを埋め尽くしている。
 名物の2万字インタビューは必ず、アーティストの実家の家族構成と「小学生の頃から始まった周囲に対する違和感・疎外感」の話から始まる(笑)。親の離婚・イジメ体験・国籍問題などあればシメたもの、通俗化された中上健次的な、極めて近代的な「情念の物語」がたちどころに作成され構成されるのだった。まるで創作ソフトに掛けたように。
 同誌による宇多田インタビューも同様。自己神聖化が大嫌いな本人は、それでもかわそうとしていたが、結局は「時代に選ばれし天才の個別的な独自の物語」に落とし込まれる。キーワードは「孤独」。インタビュアーの先入観が強すぎるんである。


 まああそこは社長が筋金入りの近代主義者で、「表層と深層」も「原因と結果」も「選ばれし個人の個別的な物語」も「偉大な個性」「唯一の独自性」も、そもそも「才能」「天才」という概念と物語自体も、すべては19世紀フランス的な近代の産物で、天才大好きの渋谷陽一はそれを一切疑わないのだから仕方ないのだが。


 なんというか、発想がスタンダール的なのである。時代が必要とした英雄の、その独自な個別的な物語にこそ、誰もが共感する普遍性が宿り得る、と。
 さかさまの発想だと思うんだが。
 どうしようもない、救い難き愚かで矮小な凡庸性の中にこそ、唯一性と時代精神が宿り得る。そしてそれは一切が、滑稽で通俗的アイロニーでしかない。そういうフローベール型への発想の転回が必要だと思うのだがなあ。


 「赤と黒」のジュリアン・ソレルはナポレオンの自伝を愛読していたが、「退屈な安寧」の中にある第二帝政下、フローベールの時代においてそれはない。
 蓮實重彦閣下が、この華やかで倦怠した時代を舞台にして「フローベールの凡庸な友人」マクシム・デュ・カンを主人公に「凡庸な芸術家の肖像」を完成させたのは、まさしく必然的に当然な行為だった。 


 現代は英雄の時代などで、あるはずがない。
 「時代精神を代表する英雄」をよりにもよってロックだのヒップホップの方面で探すのは、歴史教科書運動におけるエセ司馬史観的な英雄趣味と、たいして変わらない。「文化英雄」などと呼ばれて、激怒しないような奴はロックンローラーギャングスターであるはずがない。


 つまりは、社長譲りの全共闘的な、プチブル的(=中産階級的)スノビズムと文化趣味こそが、あの雑誌の本質なので、それはそれでいいのだが。
 ロックをシニカルでエグゼクティブな金持ちの「反抗」という名の文学趣味に押し上げ正統性を確保し、市民権を獲得し安楽椅子的な「ハイカルチャー」に昇格させた、渋谷陽一の功績というのは存在する。そのためには当然「パンク」などという「クズ」は切り捨てる。
 別に出世の思惑ではない。渋谷陽一の知的で批評的でブルジョワ的でスノッブな、その体質的な嗜好性と価値体系と、それにもとづく教条的でスターリニズム的な選別と純化こそが、ロックを正統的な「気の利いた市民の趣味」に引き上げたのだし「リベラルな文化体制の庇護下における政治的なオルタナティブ」という、フランス的にお気楽な立場をも確保させたのである。


 彼は政治は疑うが「リベラルな文化」そのものは疑わない。その文化が他の誰かの疎外と搾取と収奪によって成り立っているなどとは、思いもしない。それはリベラリズムの本義に反しないのか。
 だからこそお気楽なのだし、正しく「市民社会的」なのだし、そもそも文化趣味的な全共闘世代の「左翼」が言うリベラリズムなど、この程度のモンである。それは「左翼趣味」なのだが。唯物論から叩き込むべし。


 別に渋谷やロッキン・オンに限ったことではない。
 日本のようなかつての「一億総中流」の「市民社会」において「ロック=文化的先鋭」を享受するとは、そもそもスノッブな行為なのである。
 ついでに身もフタもないことを言えば「文化的先鋭」とは、多くミドルクラス以上の人間の目にしか触れないことになっている。「文化左翼」となればなおさらである。
 そして「文化的先鋭」は「市民の趣味」として無害化され脱臭化され、安楽椅子の手慰みとして訓致され、それこそ資本制下の「市民社会」に飼い慣らされる。
 これはまさにかつて三島由紀夫が「文化防衛論」で批判した「文化趣味」なのだが、はっきり言えば、ロッキン・オンに限らない日本の音楽誌、否、のみならず「知的・文化的先鋭」を名乗る「知的・文化的ハイクラスマガジン」のすべてが陥っている「スノビズムの病」なのである。
 当事者に自覚があるのかないのか知らないが。後藤繁雄とか見てると、本当にそう思う。


 各種調査と報道によれば、現在の日本は厳しい状況らしい。
 「一億層中流」とはもはや言えない。「市民の資格」を問い「市民」を選別したうえで、「資格ある市民」によってのみ「市民社会」は維持され運営されようとしている。
 それは「制度の維持にコストをかける意思を有する者達」ということだが。


 その是非は措いて、ロックをはじめ「文化的先鋭」を名乗るものたちにはいい時代になったな、と考えたりもしたのだが……
 とうの昔に「政治と文化」を切断していた彼らは、東浩紀も嘆く通り自閉した「文化」というゲットー、いまだにセゾン的なあるいは神保町的な「文化村」の中で、スノビッシュな村祭りを繰り返している。
 まあ「文化趣味」の持ち主にとっては、政治もまた「政治趣味」に過ぎないのだが。オタクをお前らが笑えた筋合いか。


 結局のところ、要するに彼らは「文化的先鋭」ではなく「文化的選良」だった、ということ。というか、おそらく自意識においてこの両者の概念が一致して、等号で結ばれているのでしょう。
 「先鋭=選良」。オタクは「文化的選良」でないから「先鋭」であるはずが、ない、と。……ホントに東浩紀は偉かった。


 どうして先鋭と選良がイコールで結ばれるのか、こんな反動的な認識矛盾があるか、と思うのだが、つまるところ「文化」という神を信じ「文化」という体制を信じ支え合う彼らは、あたかもバチカン的な「リベラルな文化の体制」に庇護された(と信じる)者達である。
 そしてこれは現世利益の問題以上に、信仰の問題である。
 だから敬虔な異端審問官達の血の雨降る内ゲバたるや、この世に「文化」という概念が誕生したときから絶えることはない。だって信仰の問題だから。


 彼らは決して「文化」を疑わない。自己を自我を人間を創造し形成してくれた「文化」という神を、どうして疑い得ようか?
 そして教条的な彼らは「文化」を選別する。「文化の市民社会」の、健全な維持と運営のために。
 「文化」というサーキットを決定する権限は「文化の使徒」たる彼らにある。そして彼らはそのサーキットを維持運営することを懐疑し得ない。
 「文化というサーキット」とは、たとえば末端的にはカルチャーマガジンの誌面であるし、文学賞の選考だって同じことだ。
 上述をもじれば「文化の資格」を問い「文化」を選別したうえで、「資格ある文化」によってのみ「文化の市民社会」は運営される。それは「文化という制度の維持にコストをかける意思を有する者達」によって構成されるのだ。
 文化難民はいっぱいいるんだけどね。


 「リベラルな文化」という「先鋭」による「市民社会」を運営維持する彼らは、「リベラルな文化」という教会的体制に対する無懐疑と従順ぶりによって「選良」という自負を持つ。
 彼らは反体制で無神論者だけれども「リベラルな文化」という体制の犬であり「無神論の文化」という神を信じているから、美術館の宗教画をマチエールのみで語り得る。
 こんな反動的なことがあろうか。誰がどう考えたって、お前らは自分を清貧と信じる俗物だ。陳腐だが、ゴッホの絵が100億円で落札されるわけである。


 「リベラルな文化」を支持する者こそが、あるいは体制服従的で無批判な反動であり、逆説的に俗物でしかない。反権威を標榜する者こそ誰よりも権威主義的であるように。
 このような転倒した側面には、「文化」という元来差別的で選別的な概念が常に持ち得るこの二重性には、気を付けたほうがいい。


 ま、日本という「悪い場所」では、文化も思想も政治もリベラリズムも「趣味」にしかならない。所詮はプチブルの安楽椅子の手慰み。直裁に言えばファッション。
 アクションもアンガージュマンも、すべては「趣味」としてしか消費されない。そして「酔狂」という非難めいた視線が、アッパークラスとロウアークラスから注がれる……
 イラク人質事件におけるバッシングって、そういうことです。
 かつての三島由紀夫の苛立ちが、私にはよ〜くわかる。


 Cocco(こっこ)がかつてああなったのも、椎名林檎が一時期ああなってしまったことに関しても、ロッキンオンジャパンの罪は重いと、私は思う。
 人は相手に語った「自分という物語」を、自ら内面化してしまう。その呪縛のような拘束力の強さこそが「自分語り」の危険性なのである。「語られた自分」なんて1%で、それも全部嘘なのに。
 というか「虚偽と真実」という二元論的発想もまた、近代の産物なのだが。通俗精神分析的な「偽と真」という概念装置が、どれほど多くの人間を拘束し混迷させたか。典型的なダブル・バインドなのである。
 文化趣味の抑圧とそこからの逃走。両名に関して同誌で繰り返されたこの問題系もまた「虚偽と真実」というダブル・バインドの変奏に過ぎない。そして両アーティストは追いつめられていった……


 「文化趣味」の外部にある直接的体験を希求する。
 宮台真司の指摘どおり、そんな三島由紀夫の必死の探求もまた、「偽と真」という単純化された二項対立の果ての、出口のない袋小路だった。二元論の迷妄。
 それを実存において内面化したとき、ダブル・バインドから逃れることはできない。


 「第三の道」はどっちだ?