構造と強度 ドリーム/ナイトメア

 いや、まあね、「インヴィテ−ション」なんて雑誌、読んだ私が悪かったのは知ってる。立ち読みですが。


 モテのファシズム非モテ赤狩り「擬態」ではなく「適応」するため、バックナンバーコンプリートしてた友人がいましたが。
 それも都築響一「TOKYO STYLE」的な室内をデザインしプレゼンテーションするためのオブジェとしてでなく(笑)、キチンと「宮台&中森が語る僕達の80年代」「いま、パリでアツい村上隆のヴィトンショー」などの特集記事を精読して(泣)。自由主義史観始める転向左翼みたいなモンです。
 いま?ファシズム政権下の対独協力を糊塗する親ナチのごとく、全部証拠隠滅したそうです。そして資本主義の犬へと堕落したかに見えましたが、実は2重スパイで、魂の獄中非転向を貫き通しています。西側の女スパイの査察が入る自室の「マルサの女」のような回転式書架の裏には、マルクス・エンゲルス全集のごとく重量級の、ヘンリー・ダーガーな同人誌の数々が……!
 おめでとう(パチパチパチ)。


 巻頭特集でね、浦沢直樹宇多田ヒカルが対談してるわけ。
 いやあ、天才は天才を理解する、ってコワいです。というかイタい。
 テーマ?
 「僕達の才能を支える心の闇と、その商業的展開における方法論」
 というか端的に、
 「僕たちの心の闇」話になってます。
 いや、別に彼ら個々人の、具体的なトラウマの記憶や形象を語っているわけでは、むろんないのだが。というかそれならまだマシなのだが。これについては後述(し損ねた。また今度)。


 ただ、結局のところ「僕達の表層的な才能を垂直的に規定する、深層の根源的な闇」の話と、あとは「個人的な闇をいかにパブリックな=否、日本共同体の、共同的な記憶として再構成し表象するか」「闇とその共同体的表象こそが、ドリーム/ナイトメアとしての共同幻想/共同無意識的な『ポップ』へと開かれ得る」という、スティーブン・キング的な話。


 キングの場合、上の「日本共同体」には「USA共同体」が代入される。そして、アメリカ人の「共同意識/無意識」には、モノにおいてもヒトにおいても、クズとガラクタとトラッシュしか内臓され涵養されてない。
 トラッシュを前提とした共同性。それこそがアメリカの現在における表象類型であり、そしてそれは一国のネーションを超え、世界的な表象類型へと転移し蔓延する。よく言えば普遍化する。


 文化国境の消滅したグローバライゼーションの真っ只中で、もっともアメリカ的な散文的な病の表象は、全世界の共同意識/無意識において「原型」となる。20年前のHIVパニックとは、その先進的な徴候だった。
 明るいドリームのアメリカは、暗いナイトメアのアメリカへと、その広告的相貌を変容させる。もちろんそれは、最初から同じモノ、建国以来のスティグマの、化膿した肉胚に過ぎないことだが。
 そして「ポップ」とは、そのような健全に腐敗した土壌が準備し、花を咲かせるのだ。
 ドリームからナイトメアへと、表象も変質するが、それは花びらの表裏、夜の中で花は輝き、昼日中に腐敗しているのかもしれない。
 そしてメルヴィルもポーもホーソーンも、19世紀アメリカの、オブセッシブにキリスト教的な作家だった。
 1980年代以降、彼らの廉価普及マッドビデオとしての、鬼っ子的な後継者こそがキングだった。建国以来アメリカの「深層」に、水脈のように流れ続ける恐怖と原罪を、徹底して「表層」的に、つまりは現代アメリカ的に表象した作家。
 もっとも現代アメリカ的な作家キングは、まさに無国籍性としての、「世界商品」的なグローバルな作家である。


 半ば妄想的で強迫観念的な「深層」を「表層」の水準で処理し表象すること。
 村上春樹から京極夏彦まで、日本マンガからアニメ、そして「萌え」に至るまで、現在の優秀な「商品」としての表象メディアは、すべてこのキング的な徴候を有する。
 もはやそれはアメリカ的な「症候」ではなく、全世界的な「疾患」「疫病」ですらある。


 そして「優良商品」浦沢はもちろん、近年の宇多田もまさしくこの類の、表現の段階における表層と深層の、ひいては意識と無意識の、流行の言葉で言えば「乖離」した、文化製造者たちなのである。
 そしてその、遠近法的な「深層」を徹底して平面的に「表層」化して表象された、「ドリーム/ナイトメア」そのもののような「空虚な伽藍」としてのメディアこそを「ポップ」「ポップ・アイコン」と呼び、「ポップ的」な表象とは単なる大衆的表現のことではなく、以上のような、化粧を施され花に包まれた女の死体のような表象類型のことを言うのだ。
 花を纏った女は飾られ美しい、しかし女は死んでいる。
 最初からの死物を飾り立てるのではない。生きているものを殺して飾り立てるのである。
 だからこそ荒木経惟の写真は正しくポップなのだし、浅田彰の指摘通り、それは正統の「芸術」ではない。
 でなければ田口賢司の、あんなに非大衆的な小説が「ポップ」であるわけがない。
 そして、そのデンでキングや春樹や京極らの小説に関して言うなら、むろんそれが「文学」であるわけが、ない。
 そしてそれは世界のあるいは世界的欲望/強迫観念の、真に正しい反映である。
 「近代文学の終わり」と、柄谷行人が宣告するわけだ。


 つまるところ以上の「徴候」は、極めて近代以降の、すなわちポストモダン的な表象の変容形態である。


 余談ふたつ。80年代に、否、まさしく20年前の85年前後を境にして、キングと同様に、上記の表象類型の典型例のような、もっともアメリカ的な作家、「世界商品」的映画作家スピルバーグもまた、明るい夢から暗い夢へ、ドリームからナイトメアへと、表象差配の変容を遂げている。


 宇多田と比べて浜崎あゆみの場合は、愚直なまでに、否、愚鈍なまでに、近代的な表象のクリシェを反復している。
 彼女の表現において、表層と深層は、意識と無意識は、「乖離」も「分裂」もせず、直結している。つまり遠近法的な奥行きがある。だからこそ近代的(=フロイト的)に古典的な、トラウマの物語が成立する。トラウマの物語を求める、欲望の需要に呼応して。
 それはマイケル・ジャクソンをめぐる悲劇と、構造的には同じことなのだが。


 宇多田は物語を拒否するシンガーである。彼女の(特に近年の)歌は物語を構成せず、物語に還元されない。それはもはや単なる、精神と音楽と身体の、作用反作用でしかない。
 つまりは(物語を呼び込む)「奥行き」がなく、また必要としないということであり、それはすなわち、平面的で表層的な強度の、その圧倒性だけで「保つ」つまり「立体的で垂直的な緊張感を維持できる」ということなのである。


 浦沢直樹が物語作家だなどというのは、嘘とは言わんが詐欺である。
 あんなに反物語的な物語作家を、日本において私はほかに知らない。
 だからこそ彼は、物語の物語性に対して、残酷なまでに徹底して批評的であり、実際、ああも白々しく抜け抜けと偽造品としての「物語」を反復することによって「物語」の解体を、事実上行っている。
 洗練された華麗なまでの「規定構造」の再帰反復=トレースは、その反復行為から反復対象の「規定構造」に至るまで、結果的に一切を無化させ空転させてしまう。
 本物以上に綺麗に精巧に作られた贋金が、流通する既存の悪貨を無化させ鉄屑に変えてしまうのに似て。
 内部における規則を貫徹することによって、人間的な事実性によって支えられた意匠の構造は、人為的で虚構的な規則の露呈によって=すなわちその贋金性によって、内部から自己崩壊する。
 浦沢は悪質な確信犯に、むろん決まっている。


 菊地成孔も言うが、音楽とは構造と強度である。小説もマンガも映画も演劇も美術も、現代の表象表現は、理念的にはみなその原理に貫徹されている。内容も奥行きも深層も問わない。それが、モダニズム以後の表象における課題である。


 いい加減ディーバの歌声に「悲しみ」を見たり、マンガの「主題」を詮索したりするのは、そういうセンチメンタリズム=心理主義的読解は、やめるべきだ。
 我々はインド象の「内面」など考察しないだろう。なぜ人間ならそれがあると思える?犬猫ならあるか?イルカなら?「かわいそうなぞう」?だからそれを心理主義と呼ぶんだよ!
 検察の口頭弁論における「動機論証」じゃないんだから。あれは近代の法理念が規定するフィクションです。何かあると作家の幼児期はては肛門期(笑・フロイト)に至るまで遡行するのはやめましょう。


 そもそも「共同意識/無意識」的な「ドリーム/ナイトメア」を、個人性に帰納させ「作家性」に回収してしまうのは、正しいことではない。「村上春樹には構造しかない」と柄谷行人が言ったのは、そういうことである。
 問われているのは、村上春樹という作家の=ましては個人の、人格などではないのだ。ノンイニシャルな、名前を失くした、個人の身体を作品の中心性から排除することによって、否定神学的に「無記名の個人性」を署名した「近代以後」の作家だから。
 その洗練された空っぽの容器にこそ、共同意識と無意識が、ドリームとナイトメアが、共同体の形而上的欲望が、流れ込む。そして形式性と方法論としてのみ組織された作家の身体性が、それらの(決してイデアではない)イマジナールを機構的に構築して表象する。 


 そして、たとえば浦沢直樹荒木経惟も、以上のような、無意識において形式化と構造性が繰り込まれ、形式化の過程と構造性に身体性が繰り込まれた「現代の」作家達である。
 その、構造のみに特化した作家性こそが、表象に「内面」や「人間性」を超えた強度を与える。呼び込み得る。


 表層的な表象において問われるのは、構造と強度、その充実である。
 その他の「奥行き」を表示する要素一切は、捨象され、禁欲されている。
 ついでに言えば「萌え」の表象とは、端的に禁欲的(笑)なまでにこの様式性に忠実である。その畸形的なまでにラジカルな自己形式化による生成。東浩紀が言う通り、もっとも現代的な表象である所以である。
 そして、それはもはや、近代的理念を背景として発生した概念である「表現」と呼べるような代物ではない。ポストモダニズムに習って「表象」と呼ぶべきだろう。私が「表現」と言わず「表象」を用いる所以だ。


 フラットな表層性の時間的な持続と遅延の中でこそ「開かれた作品」の強度は垂直的に屹立するのだ。


 トピックの続きは明日かまたいずれ。