瓦礫のあとで

 宮台真司の人生相談連載じゃないが、ゴールまでなかなか到達しないので、とりあえず独り言を続けます。


 繰り返すが=
 山田詠美が「SEXを知らない人間は野蛮だ」と言った。
 彼女が言っているのは、他者との関係性における人間の成熟の問題であって、「性」という「人間の根源性を規定する本質的な奥義」に到達し経験し得ない輩は赤子同然の未熟児だ、などと主張しているわけでは全然ない。


 前項で述べた通り、その程度の低俗フロイディズムにして浅薄疎外論なら、私は鼻も引っ掛けない。
 表層と深層、外面と本質、人工と野蛮、その手の二元論にも、その対立を利用した心理主義的(文学的?)な弁証法にも、もはや意味などない。
 というか、25年も前に、蓮実重彦閣下が展開した「表層批評」こそ、その手のくだらん二元論=深層還元論への、まさしく明確な「アンチテーゼ」否、軽蔑と冷笑であったではないか。


 蓮実閣下の漱石論など、ほとんど香具師か結婚詐欺師の口調である。
 江藤淳に代表される心理主義的=無意識還元論的な漱石への読みを嘲笑うかのように、徹頭徹尾胡散臭く漱石を「表層的」に読んでいく。牽強付会とも言いますが、しかしそれは江藤淳らの「ナイーブでセンシティブな」読みも所詮は、お前らの自己投影的な牽強付会に過ぎないだろう、という狡猾な悪意に満ちた、閣下の軽蔑の微笑みの身振りなのだ。


 そう、エセ貴族は「自己」の直接表出などしない。「自己」とは、徹底して表層的なフェティシズムと振る舞いと手つきと語り口を通して、あくまで「表層」「外面」としてしか投射されない。そしてそれは内的反映ですらなく、まさしくプロジェクターの投影のような幻影に過ぎない(閣下のいくつかの著書の巻頭には、ただ一言「シャドー」と記されている)。
 そもそもすべては平面的であり、遠近法的な「奥行き」など「目覚めた土人」の後知恵に過ぎない。結局のところ(むろん蓮実自身も含めた)我々エセ貴族、いかがわしい「ニセ伯爵」(淀川長治)でしかない土人たちは「目覚める前」の眠りにくるまれ、夢を反芻し反復し続けるしかない……
 そのもっとも直截なアナロジーにして、体験反復装置こそが、映画館の暗闇である。


 この蓮実ロジックは、あるいは「日本近代文学の起源」で柄谷行人が指摘した事柄でもあり、そして「構造と力」「逃走論」で浅田彰が挑発的にフリッパントにブチ上げたマニフェストでもあり、つまりは80年代のポストモダニズムを切り開いた大きな思想的転回でもあった。


 そして結局のところ彼らの明察通り、「土人の国」日本においてポストモダンとプレモダンはメビウスの輪のように接続し円環を描いているのだった。
 「市民社会」に耐えられない「土人」達が、機構化された高度消費社会で繰り広げる、表層的な眠りと夢と幻影の戯れ……
 ガルシア=マルケスの「百年の孤独」である。大友克洋の「AKiRA」「童夢」である。
 そして私達は胎児となって、外圧としてのグローバライゼーションの只中で「近代の超克」をオートマティックに成し遂げてしまった、完全機構としての自動社会という羊水の中で丸まって眠り、踊り続ける。
 なぜ踊るのか。超近代社会という、母親の心がわかって、おそろしいから。=「ドグラマグラ」。


 「批評空間」グループが、そして宮台真司らが、90年代において、否、90年代になってすらも「近代の徹底」を課題としたのは、悲しいが故なきことではない。
 しかしすべては徒労に終わる。


 00年代。
 「批評空間」が終焉し柄谷はNAMを立ち上げ、挫折する。
 宮台は亜細亜主義の旗を振り始める。
 蓮実は東大総長退任後「老いの手遊び」のごとくスノビズムを強めていく。


 結局のところ、あまりにも悲しい再帰にして反復、あるいは反動だが、00年代において、またしても彼らは「近代の超克」を志向した。そしてそれは徹底して選別的なエリート涵養の試みだった。
 元来近代的でブルジョワ的なインテリである彼らは、自らの土人性、ひいては日本人(=非西欧人)の土人性に拘泥することをやめてしまった。それは決して言説的な身振りなどではなく、彼らの実存にそして身体に帰着する、深刻な問題だったはずなのだが。
 そしてそんな、イデオローグ達の実存と身体にすら根差した、土着的なアイロニーこそが、日本におけるポストモダニズムと、その、それ自体アイロニカルな、ファッション的な徹底消費を用意したのだが。


 一度来たポストモダニズムは、20年を経て、より政治化ししかし排他的に内閉した過激な形で再帰する。そしてそれは、3度目の「近代の超克」である。しかし現在、再帰したポストモダンは、あるいは退行的な単なるベタに過ぎない。
 なぜなら元祖ポストモダニズムは理念的には「近代の超克」であったが、実態においては、そして浅田や柄谷や蓮実ら聡明なイデオローグ(聡明でないイデオローグも山ほどいた)の真意は、実質的な「近代の無化」という絶対的な停止状況と、それに対抗する理論的展開そして実践に過ぎなかった。


 しかし現在彼らが説いているのは、マジで「近代の超克」である。
 そして彼らは、その滑稽さを自覚している。
 それはとんでもない反動なのか、あるいは新時代への投企なのか。


 マスレベルにおける「近代」のインストールを、「市民社会」の構築と維持を、彼らは完全に放棄した。後に残るは、選別を通過した、市民たる資格を維持し得る「市民」達による、まるで古代ギリシャのような市民社会
 圧倒的多数の土人と奴隷が支えるピラミッドの上で、「対話」し芸術を語り合う「市民」達。これは制度の話ではない。理念的な話である。制度は後から追い着くかもしれないが。
 そしてまさしく、これはベタな現代西欧の「市民社会」の反復でありパロディである。
 そして彼らは、ベタな「近代知識人」として、自らに刻印された土人性を、すました顔をしながら、しかし痛みとともに拭い去るのだ。
 

 終焉の後で何ができるのか。
 小熊英二の「民主と愛国」を読むと、痛ましいほどにわかる。
 すべては反復されている。繰り返すごとに、ベタで滑稽なギャグとして。 
 誰もが傷まみれなのだ。
 日本という、文明も文化も芸術も知性も貴族性すらも贋物となりパロディとなる土人の地、「悪い場所」に生れ落ちたインテリ達=知的文化的資本を持てる者達は皆。
 貴族はニセ貴族となり、インテリはエセインテリとなり、芸術家はゲージツ家となる。
 そしてその自覚から、誰もが逃れられない。
 そんな状況で文化選良達が、機能性を実効性を=すなわち有用性を果たし得ようか?


 その状況下において、ニセ放蕩貴族を自ら名乗るエセ反動の福田和也は安泰だし、ハナッからエセ近代主義者を自任し、エセインテリに居直る、そしておそらく自意識においても葛藤のない中沢新一は、太平楽を決め込んでいるのだ。
 自身の文化的選良性を、故意にメタ化通俗化して、あたかも土人を善導する宣教師のようなふるまいで道化を演じ、エセ通人、エセ審美主義者を気取リ抜ければいい。=福田。
 あるいは、近代などすべて虚構だと、近代を徹底的に無化し、メタレベルに貶めればいいと、心の底から信じているならいい。=中沢。


 要するに、福田も中沢も、「近代」をまったく信じていないし、信じようと心理的コストを投下する気もまるでない。
 そもそもブルジョワ子弟である彼らにとっては、最初から、自己の基底にプリセットされているものに、なぜわざわざ維持コストを掛けねばならないのか、そう考えるだろう。
 前提としてあるものに対しては、反発し挑発しテロルを仕掛けなければならない。しかしそれは自己の基底として存在しているのだから、個人的に揺らぐということはない。
 中沢も福田も、結局のところ、自分が近代というお釈迦様の掌から決して出られないことを、自覚して遊んでいる。だが……


 「近代」を身体の基底に仕込まれプリセットされていなかった、90年代の若者達は、中沢を読んでその脆弱な価値体系を揺るがされ、ある連中はオウムへ行った。これはやはり、中沢の罪である。
 近代をナメてはいけない。もはやそれは個々人において、前提として心理的基底として、ない。インテリがサボったあげくの、土人の国の瓦礫の山の後始末である。
 「近代」の内面化がインストールが「先進国」の人間のOSにおいてなされなくなったとき、「近代」というソフトの欠落したまま「近代人」達が稼動し始めたとき、「近代」という理念は崩壊し、その理念を支える事実性もまた、崩壊する。後は瓦礫の山が残るばかり……
 瓦礫の山の再構築=近代の徹底、というか再近代化。
 そんなもん誰もやりたがらないに、そりゃ決まってる。


 そんなことは、誰もが百も承知だ。
 根本敬は叫ぶ。「でも、やるんだよ!」


 私は最近、ハイデッガーのあの悪名高いコミットメントのことを、賭けとしての跳躍を、投企の実践を、その是非を、よく考える。
 人が何かを賭けて跳んだとき、その着地点や結果ではない、その軌跡としての「動線」こそが、後世の教訓になるのではないか。
 ドン・キホーテがひとり風車に立ち向かったのは、むろんいかなる意味でも無意味な行為だ。結果?彼は半死人になる。
 しかしその、滑稽極まる光景を見て、ドルネシアは誇りを取り戻す。
 これを「表出」という。


 まさしく歴史の狡知だが、セルバンテスは一切を完全に嘲笑的に書いている。しかし現在の私達がリテラルにそれを読むと……
 騎士道物語という「贋物」が氾濫する贋物の時代。嘲笑される妄想家の老人の、徹頭徹尾無意味な戦い。今ならさしずめ、妄想幻魔大戦
 しかし老人を嘲笑う人々も、老人同様、目クソ鼻クソの贋物にすぎない。ドルネシアも同様のアバズレだ。
 しかし……狂った老人の、滑稽な風車への突撃こそが、ただひとりドルネシアにとってだけ「真」だった。
 むろん突撃後も、老人はただの気狂いにすぎず、彼は贋物のままである。そして彼は惨めに死ぬ。しかしドルネシアだけが、その特攻の瞬間の「表出」を、受け取り得たのだ……!


 セルバンテスの書いた絶望の物語が、あるいは現在の我々にとって、希望の福音の物語になるのかもしれない。
 中世以来の贋物まみれのこの世界。「真」は「本物」は、リアクションなき無意味なアクションの渦中において、確率論的に虚数的にしか、顧現し得ない。
 その蓋然性をこそ、いかにして高め得るか。その課題が問われている。


 もちろんこれは「近代」の外にある考え方である。近代を逸脱しあるいは無化した、神学的発想。
 福田和也のデビュー作「奇妙な廃墟」も、そして近年の宮台真司も、こうした問題系を一貫して扱っている。上述通り、福田が近代を基底に置いた「反近代」の知識人であるのは、当然のことである。そして宮台が福田が「右翼」の「右翼性」に言及するのもまた、当然のことなのだった。
 ラディカルな知識人の混迷は深い。