「刑務所の中」と「失踪日記」

 先日、友人とたまたま花輪和一の「刑務所の中」の話になった。そのちょっと前、某マンガレビューサイトの「炎上」騒動から、吾妻ひでお失踪日記」の話になった。
 このとき、別に話柄に関連はない。


 しかし思った。
 あの異端の大家の両「実録」作は、彼らと無関係な思想界でいま話題のトピック、
 =「降りることによる安らかな解放と、その代償」を描いているのではないか。


 彼らが降りているのは、社会的なものの抑圧からではない。感覚の極北を行く異端作家は、意識においては、そんなものからすでに降りている。失踪前から吾妻はタガの外れた精神酩酊だったし、逮捕前から花輪は常軌を逸したガンキチだった。


 彼らがおそらく「無意識の虚偽」によって、世の外へと跳躍してまで降りたかったのは、自己という抑圧、自己の意識の抑圧、事故の過剰に異端的な感性の抑圧からだろう。


 菊地成孔アルバート・アイラーを引き合いに出して述べる「正気からのフリー」。
 だが最初からアイラーだった彼らが求めたのは「狂気からのフリー」だった。


 菊地の独特な表現をさらに援用すれば、フリーを求めたアイラーは、おそらく意図的に鈴に至った。だが花輪吾妻は始めから鈴だった。そして彼らは自分という鈴が鳴らす、無意識の音色に、あるいは意識の音色に、嫌気が差したのではないか。フリーマンゆえの動物的本能によって。


 しかし自分自身が鈴であるなら、果てまで逃げ、いかなる法を超えようと、自己に付随するその稀有な音色は付いて回り、耳から離れることはない。それも、鈴自身の内部で反響し増幅されて。


 彼らは外的状況を矯正したいのではない。
 外部を移動させることによって、内部の徹底的転換を求めたのだ。


 そして矯正すべき外部の目盛りを、異邦人の彼を一貫して排除してきた社会の側に、まるで一眼国のような=そして彼もまた一つ目の片輪にすぎない人間どもの世界に、振る気がなかったとしたら?


 自己という牢獄からの、自由への逃走。そしてそれは、世の法の外にいる自分の、そのまた法の外に出る行為。他者はむろん自己にさえも賭けない、虚無へとチップを投げ込む、究極の投企。


 世の束縛を出て己の我執を出て、しかしそれは単なる離脱あるいは自己からの切断、かくなるよう不作為的に外的状況の蓋然性を高めた果ての訪れの受容=その結果だから、むろん解脱などではない。
 「社会」ではなく世を降りて自己を降りて、それはつまり世界からも世界を受容する解釈装置としての認識からも降りるのだから、宮崎哲弥的な仏教もあるいは宮台真司の議論もまた、関係ない。


 自己は不可避的に自己である。その「自己」という、人間の最後の拘束を無化したら?


 「交換不可能な自己」からの脱出=そして「密室としての個」の開放。
 リンクフリーとなった感覚の身体は、共有地(コモンズ)として平面化する。


 自己という固有の視線=認識。その「安全装置」の解除の後に、網膜はオートマティックに何を映して、それでもなお恣意性によって操作されるはずのフレームは、はたして何を切り取るのか。


 その答えは……やはり宮台とリンクする。
 中平卓馬の近作を御覧あれ。


 そして、「刑務所の中」以降の、「失踪日記」以降の、両巨匠作品を御覧あれ。


 両作品に通低して流れる安逸感。あれは外部のシステムから降りたものの安逸ではない。自己内部のシステムからすらも降りた者の眺め得る、眩暈的に鮮烈で退屈な、定常的な光景なのである。
 だから結局のところ、彼らは決定的に決壊してしまっている。
 以前の作風どころではない。常時開放となった水晶体が感光装置が、自動書記のように、現実あるいは非現実を印画紙に焼き付けていくだけのことである。


 彼ら自身がそうなる結果を不作為的に求めた。そして蓋然性上昇の装置として機能し得たのが、外的状況の転換とその飽和、すなわち「退屈な非日常」つまりは「死に至る病」である。


 外傷が緩慢化することによって、化膿し、人は死に至るのである。
 そして植物人間としての再生の契機が、あるいは幸か不幸か訪れる。
 ただし植物人間は死なない。先述のアイラーだけではない、ジャズもロックも、鈴になろうとして鈴を求めた連中は多く早世した。
 鳴らなくなった鈴は、自らを打ち鳴らして傷つけず、ただただ鑑賞物として美しい。骨董となることが快事か悲劇か。すくなくとも愛好家として永く楽しめる。


 花輪は極端な無意識過剰型で、吾妻は極端な意識過剰型だった。今は?
 無意識も意識も、綺麗に消尽され、対極のふたりは人間の果てで、無生命のふたつの球根のように、近接している。


 実際は過酷だったろうなどと言っても意味がない。私はふたりの人間性の話ではなく、作家性の話をしている。人間性については書けないし知らない。
 「花輪和一」「吾妻ひでお」という、メディアにおけるイニシャルの話を、そもそもトピックすべてにおいてだが、私はしている。
 彼らがそう描いた以上、提出された作品を受け取るべきで、詮索は無意味だしどのみち解らない。というか知ったこっちゃない。重ねて言うが、私は常にイニシャルの話をしている。
 そもそも「実録」(笑)というのは、元祖「仁義なき戦い」から、虚構性のメタ装置としてしか機能しないもの。だから(笑)なのだ。笠原和夫は確信犯だった。


 ちなみに「失踪日記」と同時期に一部で話題になった、黒咲一人の「55歳の地図」の評判がしゅるしゅるとしぼんでいったのは、上記のような、複雑な構造が存在しなかったからです。ただの脱俗と煩悩のシーソーゲーム。それは似て非なるよね。