「人間主義」の終わり

 前項の補足。
 藤本由香里「愛情評論」の副題は「「家族」をめぐる物語」である。
 だから評論家は、あるいは「家族」というコンセプトを通して、映画を小説をマンガを読んでいく。そして、映画も小説もマンガもまとめて読むということは、内容のレベルにおいて、もっと言えば主題のレベルのみを摘出して、評しているということである。


 その強引さは、意識的でさえあれば悪いことではない。
 藤本氏は自身が編集した「男流文学論」に対して批評家達が寄せた、小説の方法論・形式性への無視、作品という多面的な運動体に対してワントピックのみで切っていく手法の乱暴さ、といった指摘に対して、論点の恣意的なずらしであり、当該書は純粋な批評を意図したものではなく、いわばテクハラの政治的告発なのだ、あんたらの指摘は承知の上だ、と反論している。
 いわば確信犯である。


 それは構わない。政治的社会的文脈意識の欠落したプロパーのフェティッシュには、私もうんざりしている。
 上記の文芸批評家らはまだいい。「近代文学」だから。サブカルチャーの分野においては、その盲目盲愛ぶりたるや、「電波男」の超論理ぶりに如実である。


 余談だが、オタク論をめぐる東浩紀唐沢俊一の、ある種象徴的な対立は、この単純な図式に回収される。政治的社会的文脈から強引に読みきるか、政治性社会性を排除した、ジャンル固有の文脈に、トリヴィアルに寄り添うか。
 「リトルボーイ」展をめぐる、村上隆に対する反撥もまた、この図式に収まる。


 どちらが反動的な態度なのか、その「立場」を「選択」するその行為こそが、当人の実存的な選択である。旗幟鮮明。決断主義とは、そういうことである。
 そして結局のところ、「決断」すること、態度表明することにおいて、いかなる人も行動も、政治性から自由ではない。すべては政治に絡めとられている。
 かつて東がニート問題に関して述べた、選択しないこともまた、選択しないことを選択しているのだ、という命題は、それを指している。


 「電波男」を読むと、政治を忌避し続けてきたオタクの、政治的未熟さをつくづく痛感する。
 有効な「政治的闘争の書」(岡田斗司夫)が、現実の政治的状況と的確にコネクトしているか、政治的に高いポテンシャルを有するか、政治性に対して勤勉か、そもそも理論的に緻密か明晰か、といえば、かの「我が闘争」を参照するまでもない。


 大概の人間は「電波男」を、「マイン・ケンプ」と同様に、因業で凡庸な私小説として読んでいる。だから「あとがき」こそが大事、という岡田の指摘は正しい。
 前項であげた「東京タワー」も「一族再会」もそうだが、もはや人は誰も「個人の物語」にしか感銘を受けず、その「個人の物語」の凡庸さこそが「共感」という普遍性へと開かれうる。


 そこにおいて「個人」に自他は存在しない。誰もがひとつの、ユングなら「集合的無意識」とでも妄想したような、物語ですらない「記憶」へと、溶け合っていく。
 もちろんナルシスティックなマスターベーションで、人はそれを普通「癒し」という。
 それに一億人が耽っている。
 本邦でユングが流行るはずである。


 「記憶」として共有され「みなの資産」として活用されるためにも、「物語」はでき得る限り陳腐で通俗であるほうがいい。それは豊かでふくよかな、豊饒たる「記号」である。
 「記号」である限りにおいて、豊饒であることが要求される。


 だから、審美的倫理的質的水準を別にすれば、「東京タワー」も「世界の中心で、愛を叫ぶ」も、そのベストセラーの構造は、まったく同じである。だから部数などどうでもよい。


 そう、問題は、審美的倫理的質的水準である。


 「愛情評論」において藤本氏は天童荒太永遠の仔」を取り上げる。
 そして作品の掲げる主題のみを摘出しスポットを当て、すくなくとも批判してはいない。
 というかそもそも「愛情評論」全編を通して、倫理はともかく、作品の審美的質的水準に関しては、ほとんど問われていない。


 それは先述の通り確信犯だから別にいい。
 問題は倫理的水準である。
 親から癒しがたいトラウマを負った子供達、その傷は、数十年後に彼らを殺人へ、破滅へ、と導く。大昔から繰り返されてきた幼児虐待は、今も彼らの周辺で、否、日本中で頻発する。それでも彼らは、この実りなき社会の中で、拭えない欠損を抱えて、大いなる絶望とかすかな希望とともに、それでも生を選択する……もはや誰もがみな壊れているのだ……


 で、人は、感動して、癒される。


 運命的に致命的な欠損を抱えた人間達の、絶望の中における彷徨、そして生への選択。


 そういう物語を愚直に、莫大なエネルギーと感情を投下して作品化し、人に感銘を与えるのは=あるいは感銘を受けるのは、倫理的なことなのか。


 私たちは誰だって致命的に傷つき、欠損を抱えている。そう、確かに壊れている。
 その「記憶」を表象し、宗教的な物語に変換して販売するのは、あるいは消費するのは、はたして倫理的な行いなのか?
 私には、残酷で非倫理的なこととしか思えない。
 社会における需要と供給。それはよい。ひとは宗教を必要とし消費する。
 しかし、意識が認識が、あまりにも欠如している。


 前項で述べた、佐藤亜紀による吉本ばななへの指摘とは、そういうことである。
 そして佐藤氏は、審美的質的水準においても、ばなな作品を問題なしとしない、とする。
 小説プロパー達の冷笑も、故なきことではない。


 私は村上春樹の贔屓だが、彼に対して柄谷行人らが下した批判の妥当性を認める。
 他者のいない世界における内省、自分の内部と=内面的な欠損とのみ「真摯に」向かい合ったうえでの倫理とは、果たして倫理なのか?
 「自分の頭の中にしかないものに責任を取るとは、無責任の別名である」(柄谷行人


 「東京タワー」の倫理的水準を保証するのは、あれが「母親」という「他者」との物語であり、内部の欠損に焦点を当てなかったためである。
 作品中で示唆される血縁の話ではない。「他者」との唯一的な関係性の中で、自分がいかに行動するか。それを母親との関わりにおいて、決して対幻想的な閉域に収まらないものとして書き得たこと、それこそがリリーの傑出した力量でありセンスであり、品性である。
 「他者」との関係性においてのみ、倫理は宿る。


 ユング的に言えば「原型」としての「記憶」を贖う、宗教的な「物語」=いや「構造」は、現代においていっそう深刻に必要とされる。
 「構造」の中には「あなたの物語」が宿る。
 そしてそれは単なるマスターベーションで、倫理的な行為であるわけが、ない。


 しかし自慰なくして人は生きていけない。


 私は、その地点から始まるのが、真の人間主義だと思っている。
 ちなみに根本敬の仕事はそこから始まる。
 彼の人間肯定とは、そういうことである。


 巨大消費社会は感情をトラウマを欠損を惨劇を慟哭を供給し消費する。
 「物語」という器に=「構造」に乗せて。
 それは正しく人間的な営為だが、倫理からもっとも遠い。
 人間的であることと倫理的であることは対立項であり、人間を倫理的にすることこそが社会化だなどと嘯いていられたのは、もはや遠い昔。
 感情と記憶を坩堝に溶かして陳腐に凡庸に再構成し、「資産」として再分配する巨大消費社会と、そのあまりに「人間的」な帰結こそ、私達が要請したものだからである。


 倫理を取るか人間を取るか、これこそ決断主義的な「選択」である。
 藤本氏の視点はあまりにミクロ的で、「ひとりの子供の慟哭」に固定した、安易な人間主義に拘束されている。
 それが意識的な「決断」のうえになされたとは、とうてい思えない。
 「人間」というものをア・プリオリに規定し、そしてそれを肯定している。
 それが装置だとは考えない、懐疑しない、そのナイーブさはやはり、安易な人間主義というしかない。


 希望など、まさしく「構造的」に存在しない。
 終わりの終わりをいかに耐え忍ぶか。


 「人間」は、もはや破産している。
 精神的外傷と=それが紡ぐ記憶と感情に頼った「人間再興」など、60年前の再帰的な反復に過ぎない。=戦争という国民的、あるいは世界的記憶。
 その再帰性さえ忘却した。くだらん無意味、徒労だ。


 そんなことを考えている私は、人間のいない世界を、いつもどこかで夢見てる。
 人間の絶滅した地上こそ、もっとも倫理的だ。そうも言えるんじゃない?