「愛情評論」の家族論
重要なことを手短に書くのは好きではない。しかし私は眠い。饒舌は口先だけで沢山だ、簡潔に書かなきゃ読まん、と莫逆の友に唐家旋のごとく厳命された。
そして重要なトピックだからこそ、まずは要諦を示すべきだ、ということもある。
山本夏彦大人の爪の垢、飲むべし。
藤本由香里「愛情評論」読む。
生真面目な本。萩尾望都の名短編についての小論、完全に同意。
三原順作品の価値と愛読者が受け取る重いリアリティ、言語によって分節されると飲み込める。
吉本ばななの初期作品に関する、これほど「日常的」で率直で的確な評価を、私はほかに知らない。
私は(初期に限定しても)、たとえばばななに対して佐藤亜紀が限定的にくだした「ネガ」からの、裏焼きされた判断に同意する。
そして文中で藤本氏が述べる通り「日常性の思想」を有した作家を=死や諸行無常を前提とした、いわば否定神学的な日常性の輝きを、静かに穏やかに(しかしそれは「末期の眼」ですらなく、あるいは「彼岸の眼」的な視線で)肯定する小説家を、藤本氏はあくまでも愚直に「ポジ」の側面から切り取っていく。
断念の中での日常性。あざといまでに意図的な非日常性の中から立ち上がる、真に尊い日常性。常に一回性のものでしかない、そしてそれを演じるものたちが自覚するはかなき日常、そしてその賛歌=そんな初期ばななの主題を、藤本氏は力強く肯定する立場から、まさしく愚直な作家を高く評価する。
佐藤亜紀に代表される、シニカルで冷笑的な、小説プロパー達の「値踏み」に抗するかのように。
では佐藤氏と藤本氏は違うことを言っているのか?彼女達が見ているばなな作品の要諦はまったく異なるのか?
否。先述したように、結局は同じことを、裏と表からそれぞれ見ているに過ぎない。それがネガとポジ。つまり、初期ばなな作品の中心主題は、読者の価値観によって、180度異なった感想を抱かせるのだ。
それほどの、あるいは踏み絵である。熱狂的なファンと、排除の態度を示す人とに二分されるのは、故なきことではない。
そしてそれはつまり、佐藤氏も藤本氏もまた、自分の価値観を賭金として、旗幟を鮮明にしているのだ。佐藤氏のような、喧嘩上等の確信犯的で挑発的な書き手はともかく、決してそうではない藤本氏に、そこまで旗幟鮮明にさせた、その賭金とは何か。
「愛情評論」は、雑誌等に連載された短文集である。しかし実際には、一冊通して、背骨のように太いコンセプトが貫かれている。その限りにおいて、当然のことだが、決して機械的に編まれた雑文集ではない。
マイルストーンのように置かれたばなな論で、すでに大きな伏線は張られている。
そのコンセプトとは=巻末に置かれた書下ろし長文「家族の現在」。
評論家は、大意、こう述べている。否、提案している。
乱暴な要約であることは承知だ。
家族は、宿命ではなく、選ぶことができる。
誤解なきよう野暮な自己開示をすれば、私は、公団育ちの都市核家族で育った20代である。しかし、ため息とともに思った。あまりにも諦念が足りない。
初期ばなな作品には、血縁のない者同士が、あえて家族を、あるいは擬似家族的な=しかし共同体的ではない希薄で濃密な関係性を形成する話が、頻出する。
唐突だが、藤本氏は、江藤淳の「一族再会」を、どう読んだのか。
あれは単なる家系自慢ではない。不条理で無意味な偶然性の中で、それでも虚しく受け継がれてゆく、空虚だが、しかしそれゆえに絶対的なものの話である。
受け継がれるのは、かつて福田和也が師の追悼文で引用したように、誇りであり、怒りであり、断念であり、それらすべての総体だ。
そして=藤本氏は「血縁」にこだわり、それこそが人を束縛し拘束するのだと述べるが、血縁など不条理で無意味な偶然性の中の、縮減されたひとつの意味的装置に過ぎない。
江藤淳が誇りを怒りを断念を受け継いだのは、「一族」からでも「血統」からでもない。彼はそれをわかりやすく縮減して、意味としての祖父達に血に象徴させたのだ。
だからこそあの本は、普遍性を有してカノンとなった。
リリー・フランキーの「東京タワー」だって、そういう本ではないのか。
あれがベストセラーになったのは日本人の保守性反動性ゆえか。
自分が決して選び得ないものの象徴として、家族がある。
それを受け止めて、いかに乗り切っていくか。
私の家族観だ。それともこういう態度は反動か。因果論的な宿命論か。
本書は家族論の様相を呈している。しかるに藤本氏は、本書においては一切肉親関係含めた来歴を語っていない。それは正しいし私は支持する。
家族論には個別しかなく一般論などない。それはわかるがしかし、公共メディアにおいて、まず自己の来歴から家族論恋愛論を語る奴を、そこから始めないと人を説得しうる論を構築できない奴を、「特権的な」来歴で人を黙らせる奴を、トラウマ開陳をひとくさり始める奴を、私は信用しない。カミングアウトの意義はむろん理解するが、私は採らない。
だから「私の個別的な事情」を、私は語らない。
「男流文学論」の編者の藤本氏は、フェミニストと世間では受け取られているはずだ。
不勉強な私はマジで訊きたいのだが、フェミニストは、否、「愛情評論」著者の藤本氏は、小津安二郎の映画を、どう評価しているのだろうか。
私は小津のあまりよい鑑賞者ではないが、成瀬巳喜男はよく見た。
そこに繰り返し繰り返し描かれるのは、「稲妻」に象徴される、まさに「選べない存在」としての家族と、その桎梏だった。しかし成瀬は、それらすべてをひっくるめて、必ずしもネガティブに書いてはいない。
むろん時代の文脈はある。
フェミニストが、否、「愛情評論」の著者藤本由香里が、成瀬をどう評価するかあるいは否定するか。
それもまた、私は訊いてみたい。