村上春樹と「アンダーグラウンド」


 「少年カフカ」の話の続き。あえてデータサンプルの統計値として羅列されたハルキスト達は、村上春樹の意図通り、それゆえにこそヒューマンな個別性を各々放ち輝きだす……はずが、結局それは一周回って、より残酷で均質的な、無個性の統計値へと変換されてしまっている。


 ただただ同一の墓標が等間隔に並ぶ、名前を個別性を喪った者達の、冷たい無名墓地。
 それは極言すれば、収容所の犠牲者達の名簿一覧と、それらに添付された膨大な量のモノクロームスナップすら想起させる。


 春樹の意図は失敗したのか?否。それは彼の意図せざる、いや未必の故意によって意図したはずの、この上なく効果的な作為である。
 非ヒューマンな手法によって浮かび上がるヒューマンな作用の、そのどうしようもない非人間的な帰結。
 ここまで手の込んだことを、メディアを大々的に駆使して、それでいながらマスに真意を知られぬように遂行しなければ、春樹の意図は成就しない。
 だいたい村上春樹が、ヒューマンな、人間主義的な作家であるはずが、ないではないか。


 そして「アンダーグラウンド」とは、現実の凄惨な事件に以上の方法を適用し「加工」した、作家の、もっとも作家らしさが現れた「作品」である。
 現実の惨劇に作家の方法論を適用して「止揚」し、虚構として構築する。そこにこそ「世界」が「真理」が、そして「世界の真理」が宿る。
 それはかつて三島由紀夫の見た夢であり現実であり、あらゆる偉大な作家の視た、夢であり現実であった。


 「少年カフカ」誌上で、「アンダーグラウンド」に言及してツッコんできた医大生に対して作家は、大意、あの事件はデリケートな問題だから言及も慎重にしてくれ、軽はずみに扱うな、といわば「叱って」いた。


 たしかに医大生の問いは浅薄だったが、しかし現実の惨劇を一冊の本にしてしまうことが、そもそもひどく不謹慎なのだ。たとえどう取り扱おうとも。
 「アウシュビッツの後で詩を書くことは野蛮だ」とは、そういうことではないのか。
 現実を表象することは野蛮なことであり、それをやってしまう作家は、ゆえに等しく野蛮だ。そもそも現実を表象することができると、そしてそのことによって社会を啓発できると思うこと自体が、作家の誇大妄想ではないのか。
 だからこそ、作家とは美しい。
 サンチョ=パンサでしかない私達は、現実というドルネシアに恋するドンキホーテに憧れているのだ。


 「アンダーグラウンド」として結実した作品は、11年前のあの日の現実よりは「軽い」。それは悪いことではない。
 表象するとは、二次情報に変換し加工するとはそういうことである。「重み」を知る立場から、「軽み」を非難するのは正しいことではない。


 「軽く」なった二次情報はそれゆえにこそメディア上を流通し「大衆のオモチャ」になる。そしてだからこそ無二の悲劇は「悲劇」という物語として=そう、記号としてみなに共有される。
 「国民の記憶」とは、そういうことである。コード。


 こうして現実の惨劇は、情報化社会の中で、共同体の説話となる。それでも語り継がれることは、記録されることは、よいことに違いない。
 記号を流通させて「みなが考え続けなければならない問題」(それは無論その通り)として風化させず維持し続けている、ケタ外れな「物語ること」の技量を持ったその張本人が=メディアの寵児が、メディアの症候に文句をつけても仕方がないとは、思う。