日曜大工ならぬ日曜美術

 毎週愛聴しているNHK教育の通俗美術番組「新日曜美術館」の司会が、今週から檀ふみに代わって、私は激怒している。


 前任者の「はな」のほうが、イヤミがないだけどれほどマシだったか。
 山根基代さんも勇退してしまった。「美と出会う」の頃からの愛聴者としては悲しいが、管理職になるとはそういうことなのだろう。


 今日の特集はレオナルド。なぜ今頃、と思ったら「ダ・ヴィンチ・コード」の映画化の関連企画らしい。
 おそろしいことに本の内容とリンクさせて「最新のレオナルド像」を「視聴者のみなさんに紹介」していた。


 通俗美術番組はもっと「国民教養のディシプリン」としての自覚と責任をもって、権威主義的で反動的であらねばならない。そう私は考えるが、例のベストセラーに代表される「教養」の大衆化世俗化を、正しく反映しているのが「みなさまのNHK(とくに教育)」かもしれない。


 ルネサンス美術とキリスト教史の知識など、女を口説くときと詐欺をはたらくとき以外、つまり大文字の教養志向の田吾作を魅惑しだまくらかすとき以外、何の役に立つのか。
 その認識は正しい。そしてそれは25年も前に田中康夫が「知のブランド化」「消費される知」すなわち「世俗化してゆく知」として喝破したことであり、事態が徹底化した現在、いくら京極夏彦などが「何かを知ること、勉強することは無条件に楽しいことなのだ」と説き啓蒙したところで、焼け石に水であり、無意味な試みでしかない。


 ひとが勉強をする動機を「知の悦び」にしかないとするのは、あまりにも人間の世俗性すなわち下司な品性を甘く見積もっている。


 消費される知は記号としての「知」すなわち差異を生み出すものでありさえすれば、内容も品質も実体すらも問わない。
 差異こそが重要であり、そもそも=あるいはそれゆえに、教養や文化は、本質において差別的で階級的な、罪深く、ゆえにもっとも人間的なものである。


 この、まさに「差異の記号」「精神的ブランド」としての知。それがデフォルトと化した現代を笑い、嘲笑し、戯画として風刺し、磐石な体制に対してのアナーキーでそれゆえに無力なテロルを仕掛けているのが、人気番組「トリビアの泉」である。
 製作者は知らねど、「知識」を「ものを知ること」を徹底して無化するそのコンセプトは、仕掛人唐沢俊一の、諧謔アイロニーと軽蔑と高笑いに満ちた、一億総プチ知識人社会への、侵犯行為でありテロリズムであり、批評的行為であるに決まっている。
 そもそも批評は侵犯でテロルである。あらねばならない。


 話を戻せば、「新日曜美術館」のゲスト人選は意外に面白い。
 今年に限っても、何の興味もなく凡庸なナポレオンの肖像画家の回を見たら、佐藤亜紀が心底楽しそうに早口で皇帝閣下を語っていたり(「悦ばしき知」という言葉は、こうした光景を目にしたときにこそ、ようやく立ち上がってリアリティを持つ。「ユリイカ」連載の文学講義は本になるのか?)、どうせ凡庸だろうと、無期待に確かゴヤの回を見たら、古井由吉が背広から亀のように薄気味悪く首を伸ばして、不気味な笑みとともに暗黒画家への偏愛を語っていたり、ライブラリーアンコールで手塚治虫が、鳥羽僧正の鳥獣戯画こそ現代マンガの原点だ、などと香ばしいことを語っていたりと、実にカラフルでファニーで、それでいて、佐藤亜紀といえども古井由吉といえども、NHK的な凡庸な落としどころに最終的に包摂されてしまうのが、国民メディアの=あるいは講壇教養というものの、底知れぬ懐の深さを感じさせるのだった。


 今日のゲストもなぜかかわぐちかいじ。レオナルドをマンガ化したからなのだが。
 まあルネサンスの専門家といって、田中英道先生を呼ぶわけにもいくまい。「つくる会」の札付きの。


 かつて荒俣宏は「ニュートン」などの通俗科学雑誌は、通俗であること、一般向けの啓蒙誌でしかないことをきちんと自覚しろ、とキツイことを言った。何よりも、荒俣自身の仕事の性質がそうであり、そしてそのことを彼は厳しく自覚していたからである。
 村上隆が、たまに「新日曜美術館」見ちゃう、というのは、もちろん皮肉で言ってるのである。


 「新日曜美術館」は今年で30周年だという。そして栄えある30年目の新司会は檀ふみ。インテリと大衆の区分が曖昧な、カルチャーセンター大流行の戦後日本、そこに根付いた通俗教養の講壇教養の、これが30年目の帰結だろうか。


 凡庸さに耐えるとは、そういうことである。