村上春樹の世界観


 「海辺のカフカ」刊行時、著者と読者のネットにおける応答を編纂した「少年カフカ」。
大概の読者は村上春樹のコメントしか読まなかったろうが、アレは読者の肉声が面白いのである。
 シニカルでかつ誠実な作者自身が書いてるが、あたかも企業の消費者テストのごとく、分厚い紙の束に均等に並べられ、集められた、膨大なサイレントマジョリティの、ごく一部、しかし機械的かつ平均的に摘出された、ハルキストたちの実像。


 「アンダーグラウンド」で、そして「神の子供たちはみな踊る」で春樹自身が意図した、あたかも無作為に抽出され並置されたサンプルたちの群れ、残酷なまでに「神」の下で、等しく災厄を通過し、死の影をわずかに自らの中で濃くした者達、しかし彼らの「影」との対面、そしてそれとの順応(!)には、崇高なまでの個別性が刻印されている……それは春樹作品の一貫したテーマであり、春樹にとっての「個人の尊厳」とは、まさにそのような、屈折した形をとってしか掲げられないものなのだ。


 シニカルで、誠実な態度である。これは「苦難を乗り越えてこそ、人間は輝く」といった話では無論ない。生と死との、此岸と彼岸との、日常と非日常との、闘争の果てに到達しうる「個」に捧げるリスペクトである。そして重要なのは、この闘争は決して弁証法的に行われるわけではないという点。弁証法からは唯物論しか導き得ない。
 春樹の世界観において、生と死は、此岸と彼岸は、日常と非日常は、切断され断絶している。両者は決して関係性を構成しない。それはつまり、「こちらの世界」と「あちらの世界」である。
 オカルトの話ではない。オカルトは一種の唯物論である。


 このいかなる接点すらも持たない、全き無関係のふたつの世界に生きながらにして引き裂かれているのが現代のすべての人間であり、そして我々が普段見ない振りをしている「あちらの世界」は、なんらかの事件を契機として、日常の亀裂から我々の前に顧現し、やがて亀裂は塞がれるが、「あちらの何か」は、それを目撃し、体験してしまった人を侵食し続る。
 彼の身体は日常を生きながらも「こちら」と「あちら」の二重性を生き、半分はすでに「あちら」にいるのだ。


 その事態は、すべての現代人が内包するものであり、神=偶然の見えざる手によって選ばれ(!)、その二重性に直面してしまった、もう戻れない人達の、受難の劇。
 我々がみな不全感を抱え、すでに壊れているのも、死に誘引されるのも、ふたつの世界を生きる、その必然的なメカニズムによるものである。


 そして、だからこそ彼らは=私達は、その二重性に持ちこたえて、「こちら側」を=日常を此岸を生を選択し、踏みとどまり続けなければならない。そこにこそ、私達の生の意味が宿り、壊れた人間達の尊厳の奪還があり、受難からの回復(救済ではない)があり、地を這う人間達の、天を仰ぎながら天を希求しない、地を踏みしめた崇高が、ある。


 天の光にさらされながら、暗い地を生きること=こちら側を選択し、選択し続けること。それこそが、孤高の単独者、村上春樹の倫理であり、彼が顕揚する「個であること」であり、かつて岡崎京子が提示した「平坦な戦場」に対する、作家の回答だった。


 続きはまたの機会に。本題は別にあったのだが、逸れた。