「クズ」であるということ


ヘイトスピーチに反対する会 1.24で逮捕されたAさんへの攻撃について

はてなブックマーク - 子どもを徹底的に追い込もうとする、情けなさ丸出しの「主権回復を目指す会」【資料追加】 - 3羽の雀の日記


いますぐ『ワイルドバンチ』を観るんだ、そこに答えがあるから。――と、伝えたい人々がいたので、書くことにする。むろん、上記リンク先のことではない。私はサム・ペキンパーの感傷は基本的に苦手だが、それでも現在、映画の終幕において長身を折りたたんでひとりたたずむロバート・ライアン演じるソーントンの心持ではある。だからそれこそが感傷であるが。


暴力を批判することとは、行為の形式的な合法性を云々することではない。何度も書いたことだが「立件されない暴力は犯罪ではない」という言明は何も言っていないに等しい。在特会が日本国の法を盾にして行使しているのは「立件されない暴力」そのものである。「だから犯罪化せよ」とは私は言わない。そして、これも以前に書いたが、差別言動に対するもっとも誠実な対応は有形力の行使をもってされる。


明治以来、日本は法治国家であったことなどない――国家の法と暴力装置を盾にして被抑圧者に対する威嚇と存在否定がシュプレヒコールされるこの国では。その威嚇と存在否定を、リテラルな「遵法性」の一点において容認し、しかし軽蔑してみせるこの社会では。「ならず者」を措定するのは国家であるか社会であるか。むろん、その一点において、国家と社会は一致する。少なくともこの日本では。


以下は、kowyoshiさんやarama000さんを批判するものではまったくないと厳にお断りしておくけれど――「修平とデブとその取り巻きたちは、本当にクズ」で「度し難いクソバカ」で「やってる事がひとでなし」かも知れない。しかし「クズ」で「クソバカ」で「ひとでなし」の彼らもまた、逮捕されたその人を「クズ」と措定し、自分たちの行為の「遵法性」を盾にして追い込みをかけている。その、「遵法性を盾にして追い込みをかける」行為とそれに及ぶ心性がクズでクソバカでひとでなしである、とkowyoshiさんやarama000さんが指摘なさっていることは了解している。


しかし、その「遵法性を盾にして追い込みをかける」点にこそ、在特会が、あるいは『主権回復を目指す会』が、歴とした市民運動であることの証左がある。市民は、社会の一員として法を遵守し、そして法を遵守しない暴力上等の「ならず者」の「クズ」に、制裁を加える――市民社会の名において。以前に、在特会は私刑上等リンチ上等であると書いた。その私刑とは、リンチとは、この国の法と社会を背景に、あるいはこの国の法と社会を盾にして、行われるし、彼らはそこに自らの行為の大義を見ている。


「法措定権力様がみてる」からこそ、彼らはあのように振舞える。言い換えるなら、彼らのあのような振舞いを許しているのは、法措定権力様であるところの、国民国家の一員としての市民の視線と、市民をそのように馴致する官憲と、それらが構成するところの社会である。つまり、排外主義的な社会である。外国人参政権反対において彼らが団結し呼号し挙句保守がここぞとばかりに気勢を上げるのは、国民国家の一員としての市民の視線に、すなわち日本の(無自覚な)ナショナリズムの在処としての「市民」の視線に、法措定権力の顕現を見て、それをこそ恃んでいるからだろう。


つまり、彼らの大義を裏書する国民国家の一員としての市民の視線にこそ、排外主義の暴力が存在している。そのような暴力を批判することは、逮捕されたその人の暴力を在特会による有形力の行使と等価に見ることではない。その「等価に見る」場所にこそ、法措定権力様は存在するのだから。法措定権力様に対する「ならず者」の「クズ」の否応なきプロテストを、しかし文字通りの「クズ」であるがゆえに、大義の欠片も存在しないものとして、ペキンパーの幾つかの映画は描き出した。


そこに宿る感傷は、ウィリアム・ホールデンの、ロバート・ライアンの、ウォーレン・オーツの、あるいはジェイソン・ロバーズやジェームズ・コバーンの、深く疲労をにじませた表情が示すように、「やりきれない」ものとして表される。そのやりきれなさとは、国民国家と一致するものとしてある市民社会における寄る辺なき者たちのやりきれなさそのものだろう。


その「やりきれない」場所から示される暴力に対する苦い認識は、後にクリント・イーストウッドが精緻に描き出したように、市民社会の場所から示されるものでは決してない。それが、あるいは感傷に過ぎないことも、ペキンパーはわかっていただろうし、だからイーストウッドは映画の中で死んでみせる。大きな御世話の極みだが、逮捕されたその人に、私は『グラン・トリノ』を観てほしいと思うが、しかしそれもまた、10代から遠く離れた年齢の者の感傷でしかないだろう。


何が言いたいかというと、有形力の行使を必ずしも歓迎しない私は、だからこそ、逮捕されたその人をこそ、無条件に支持する、ということ。「壁と卵」ということではない。卵は、卵であるがゆえに、自他を暴力によって毀損する、だから、法措定権力様としてある壁は、私たちを包摂するものとして存在する――ということとして法治国家は合意されている。斯様な構造それ自体にこそ宿るやりきれなさが、人を有形力の行使へと向かわせる。暴動は、この国でも起こっている。


「やりきれなさ」に対する感傷などという「文学的」な話はどうでも宜しい。しかし、その構造自体に存するやりきれなさは、フィクションの話ではなく、現実の話であり、現在形の話であり、逮捕された人があり、歴とした市民団体から「遵法的な」追い込みをかけられている人がある。


誰かをクズと措定することも、クズに対して有形力の行使をもって対応することや国家の暴力装置をもって処することを傍から妥当と見なすことも、結構だが、しかし私が思うに、それはたぶん、構造自体に存するやりきれなさから目を切っている点において、在特会と裏腹である。「やりきれなさ」を否応なく孕む構造それ自体に対する批判的な認識が、「クズ」に対する切断よりも、よほど私たちには必要なのだと思うし、そしてそれこそが、逮捕されたその人の側に立つということなのだと思う。あるいは「観客席」にある、パンとサーカスに一喜一憂する「ローマ市民」である私たちには。


感傷の問題ではなく、「やりきれなさ」に対する応答として、有形力の行使の結果逮捕され、その後も歴とした市民団体から「遵法的な」追い込みをかけられている人があるとき、私はその人の側に立ちたいと思う。パンとサーカスに一喜一憂する「ローマ市民」であることの問題をこそ可視化させるために、私は1月24日、その人が逮捕されたその日に、街頭に立っていたのだから。そして、パンとサーカスに一喜一憂する「ローマ市民」であることを拒否して、その人はその日、在特会と直接向かい合ったのだから。有形力の行使の結果「クズ」「ならず者」と見なされ、歴とした市民団体から「遵法的な」追い込みをかけられているその人は。


「クズ」だからこそ、「ならず者」だからこそ、国民国家の法措定権力様の視線を恃んで被抑圧者に対する威嚇と存在否定をシュプレヒコールする「善良な市民」に対して、有形力の行使をもって誠実に対応する筋合が、ある。あるいは、「クズ」であろうと、なかろうと。「ならず者」であろうと、なかろうと。実際のところ、問題が誠実さの有無であるならば、それこそが、もっとも誠実な対応である。自身の不誠実について『ワイルドバンチ』終幕におけるソーントンの心持でいる私自身のそれは、単なる「文学的」な感傷であり、それこそが不誠実の極みであるにせよ。


「クズ」であろうと、なかろうと、「ならず者」であろうと、なかろうと、問題が誠実さの有無であるならば、誠実とは、「クズ」上等「ならず者」上等で、「ローマ市民」を殴りつけることである。在特会のような「クズ」の「クソバカ」の「ひとでなし」が引き起こすサーカスに一喜一憂する「ローマ市民」であることは、不誠実の極みである。「やりきれなさ」への私自身の感傷に対する反省としても。