叶えられた願いと叶えられなかった願い


誰かの願いが叶うころ、あの子が泣いてるよ - A Road to Code from Sign.

国家による管理売春の問題点 - A Road to Code from Sign.

http://d.hatena.ne.jp/naoya_fujita/20080627

彼女作らせろって


件のシンポジウムには足を運んでいないし、今更ではあるけれども、誰かが増山麗奈という美術家について改めてインフォするだろうと思っていたらそういうことにもならなかったし、少し。


「弱者男性」という概念は新鮮ではあった。その指し示すところが必ずしもマイノリティではないから。男性であるところの尊厳を奪われた男性は社会が手当するべき弱者である、そして現在の日本において男性であるところの尊厳を社会的に奪われた男性はあまりに多い。斯様な基点に立脚する議論は前提的条件において性すなわちSEXの問題を含む。男性であるところの尊厳を奪われた男性に対して社会が手当するときその手当にSEXが含まれることは妥当解である。


むろん、男性から男性であるところの尊厳を奪ったのはSEXの差異に限らない。成人男性においては、職業地位収入ひいては社会的価値の差異においてSEXの差異が付随した。それを指して本田透氏は恋愛資本主義と呼んだ。社会が手当することに対する社会的な合意の形成が前提とされるとき、赤木智弘氏が命名したところの「弱者男性」は決して数においてマイノリティではない。世代問題と見なされる所以でもある。すなわち、それはひとつの権利闘争としてある。さしずめ加藤智大は理性の狡知においては格好の鉄砲玉であった。


マスターベーションしながら死んでいただければ」と言った著名なフェミニストがいたが、まったく洒落でなく、マスターベーションしながら死ぬだろう自分に絶望している、男性としての尊厳を奪われた男性がこの社会には膨大に存在している。その誰しもが二次元において欲求を解消しうるわけでもないし、まして二次元において尊厳を維持しうるものでもない。


自分が自分であることを自分ひとりで肯定できれば尊厳はそこに存するというのは正論であるが無意味である。そうであるなら私たちは社会に対してはたらきかける必要を持たない。松浦寿輝の小説の主人公のように現実世界を生きていけば宜しい。無理だが。そして松浦寿輝の小説の主人公は尊厳を持ち合わせないし気にも留めない。尊厳とは社会的現実において他律的に規定される概念だから。ヴィクトール・エミール・フランクルは尊敬すべきだがそのことはアウシュヴィッツにおいて人間でない存在が生かされたり殺されたりしていたことを否定するものではない。


言うまでもなく男性の男性であるところの尊厳とはSEXの問題と関係する。社会的現実がそのように規定している。女性の欠如でなく性行為の欠如において男性としての尊厳は奪われる。性行為において対象として付随するのが女性である。そのように認識する男性が現に膨大にある。そして、万国の労働者が連帯して立ち上がることが今後永久にないとき、所与の社会的現実を生存の条件として権利闘争を要求する発想はあって然るべきだろう。所与の社会的現実において為される人間の権利闘争とはすなわち有形無形の尊厳の手当の要求であってそれ以外ではない。


所与の社会的現実において性行為が人間の尊厳を規定する資源であるとき、その分配の公正すなわち再配分を要求する発想はありうる。人間の尊厳を規定する資源としてある性行為を市場原理に委ねることに対するオルタナティブとして。なお市場原理に委ねるということは経済すなわち価格としての価値の問題とするということである。社会主義国的な国家配給制を構想するとき、一個の女性/男性の配給と性行為の配給は相違する。


そもそも、人間の尊厳を規定する資源としてある性行為を一個の女性/男性の配給として公平配分する社会的制度としてかつて見合いなるものがあった。背景に生殖が存することは言うまでもない。むろん非正規雇用などという生殖不適合者に人間の尊厳を規定する資源としてある性行為をまして一個の女性/男性において配給する世間など昔も今もない。非正規雇用に人間の尊厳を調達してやる必要などなかったし公平な社会的手当を付する必要もなかった。何しろ彼らは「好きでそうしている」のだから。これまでは。


然りて現在。「弱者男性」が公平な社会的手当において尊厳を要求する権利闘争が活発化している。「公平な社会的手当」の項目に尊厳を規定する資源としてある性行為の配分が明記されることは順当な帰結である。社会的合意において「一個の女性/男性」として配分することないなら無問題也。性行為は自由である、慰安婦の存した昔も今も。「自由な性行為」に対する経済的優遇ないし社会的尊敬が付随するべく制度設計することには検討の余地あるだろう。慰安婦の昔から日本はそれを民間にアウトソーシングしてきた。私事たる性行為に国家が直接介入することは論理的に無理筋であるからして民間の意識変化と具体的な取組が欠かせない(棒読み)。テクニカルに検討の余地は幾らも存するが、SEXの再配分は必ずしも不可能な命題ではない。性行為や身体そのものを値付において安く考える発想と安く買い叩く発想は相乗りしている。

と同時に、現代の格差、貧困論の隆盛が、完全に80年代までの知的成果をぶち壊しにしたのだなという感慨もある。左翼であることと知的であることがイコールだった時代、特に新左翼の登場以降は、確かに「弱者探し」がメインテーマになっていたし、「誰が本当の弱者であるか」を巡る闘争だって存在した。けれど、殴られた自分は、もっと弱い誰かを殴る資格を有するなどとは、恥ずかしくて誰も言えなかった。まして、80年代の小難しい方のフェミニズムの最大の成果は、こうした「すべてを男の性欲の問題に回収する」言説の乱暴さを糾弾したところにあったはずではないのか。


自由意思に基づく売春は否定できないし、それが商業化されているのも単なる事実だ。その昔、Coccoがとある雑誌のインタビューで、米軍基地に性風俗がない以上、沖縄県民をレイプする米兵が出てくるのは必然だというようなことを答えていたりもした。けれど、それとこれとは話が違う。自己責任論にどれだけ問題があるとしても、ここで言及されている彼らが、国家の任務で強制的に性から隔離されている兵士ではない、単に周囲との比較でモテないと鬱屈している人間である以上、そのことを他者に責任を帰する余地はないはずだ。こんな身勝手な物言いが平気でまかり通るというなら、私は今すぐ自己責任論者に鞍替えしたっていい。誰がお前らのケツなど拭くか。


反論になってしまうけれども。記しておられるような「80年代までの知的成果」に対してうんこ投げ付けているのではないでしょうか。新左翼丸山眞男にうんこ投げ付けたように。現在繰り広げられている議論においては団塊世代に該当する新左翼もまた丸山の同類に映るのでしょう。世界同時革命の果たされないまま倫理的な議論を繰り広げているところに。問題は男の性欲ではなくて、男性の男性であるところの尊厳です。「恥ずかしい」とかどうでも宜しくて、「殴られた自分は、もっと弱い誰かを殴る資格を有する」ではなく、「殴るので宜しく」という話。誰もケツ拭いてくれなどと頼んでいない、政治的にかつ社会的に加えて私的に、拭かせるので宜しく、という話。


私の尊厳と貴方の尊厳は別の話である。人は誰しも自己の尊厳の獲得において合意しうるわけではない。自己の尊厳の獲得において人類社会は合意しうるものではない。万国の労働者は連帯も団結もしないし立ち上がらないし世界同時革命は起きない。自分がそうするつもりもない。尊厳の獲得において性行為が条件としてあるとき、自分のケツを誰かに拭かせることは結果的にも必然であってそのことをなぜ躊躇する必要があるだろう。まして「倫理的」に。人生は短く、私が泣いているときに誰かの願いが叶っているというのに。――そういう話です。事態は転回しました。誰かが言った通り、現代は乱世であって、だからこそ面白い。


思想的であることとは痩せ我慢をすること、と言ったのも先述の高名な、80年代の寵児たるフェミニストでしたが、むろんその人のことではありませんが、事実を敷衍して、私は思想的であったから痩せ我慢ができました、というのは「私はこれでタバコをやめました」と同じことで少なくともマルクス主義においては転倒です。世界同時革命が果たされないときマルクス主義は個人において知識人において倫理性の涵養に資する。むろんそれは素晴らしいことであり構わないと思いますが、倫理性を涵養するためにマルクス主義に傾倒する数寄者もさしていない現在です。


「男性の男性であるところの尊厳とそれが奪われること」その副作用反作用は戦後日本社会にとって今なお切実な課題です。北田暁大氏の説くリベラリズムをどれほど読んでもダメ出しは知らずその処方箋は出てきません。八百屋でイカを買い求める類なのでしょうけれども。むろん江藤淳の『成熟と喪失』に名解説を寄せた上野千鶴子氏においてはそうではありませんでしたが。


私が言っているのはマチズモの肯定ではありません。家父長はありえないのであって、そもそも私個人の人生や世界観とはほぼ関係のない話です。


信仰なき戦後日本社会は生活水準とライフスタイルと人生観において「人並み」を規定し公知し実存的努力目標とすることを社会全体の安全弁としてきました。見合いというのもそういうことです。自分が苦しかろうと辛かろうと泣いていようとそれは自分だけのことではない。そのような認識を多くの人々が持ちえたのです。戦後において日本人の一体感なるものは、単一民族神話よりもまた敗戦の記憶よりも、人並みの生活とそれに規定された人並みの尊厳において維持されていたのです。嫁を取らない男は変わり者でしたし筆卸は通過儀礼であり長じての童貞は良く言って同性指向の別名でした。そして性行為において女との関係において尊厳が必ずしも獲得されなくとも右肩上がりの社会は男の尊厳を公的に維持しました。ゆえに戦後の日本の男は男が構成する社会における顔と私的な女こどもとの関係における顔において分裂しました。伊丹十三橋本治が早々に指摘してきたように。女こどもとの関係において尊厳をメッタメタに破壊されようとも社会においてまともな男の顔を維持しそのことに尊厳も付随したのです。人並みであることの社会的な安全弁がそれを可能としたのです。江藤淳が指摘した通り、私的な女こどもとの、ひいては母との関係において男性の男性であるところの尊厳がメッタメタに破壊されようともその憂き目に遭っているのは自分だけではない、と。


そして現在、上述のような安全弁は、少なくとも日本社会全体においては、御破産しました。良き時代の後の話をしなければならないと思います。

ディベートの定石に従って、どうやったら増山氏の提案を肯定できるか考えてみよう。まず、需要があるとする。この人たちは、自らが性愛的に満たされていないことに対して鬱屈を抱えている。それは時に極端な形で暴発する可能性があるので、なんとか対策しないといけない。では、この人たちの需要はどのようにすれば満たせるか。本来ならば「あなたがどんな人でも愛してあげる」と言ってくれるパートナーと結ばれることが、最良の解決となる。だが、それは人の心の問題であるため、介入的に「あてがう」ことはほぼ不可能である(可能であるとしても、需要をすべて満たすだけの供給を期待できない)。


次善の策として「金銭による解決」がある。お金さえ払えば、一時的にせよパートナー関係を結んでくれるというサービスを購入することによって、極限まで不満が鬱積した状態に陥ることを回避できる。一発抜いてしまえば、賢者タイム突入でしょ、というわけだ。


(中略)


自発的な意志で働く女性と、需要を持った男性のマッチングに、国家が貢献するだけなのだから、たいした問題はない、と見えるかもしれない。しかし、倫理的な問題以前に、このアイディアは経済的な問題を抱えている。まず、3000円で本番行為ができる公営売春宿ができれば、確実にその他の性風俗産業は全滅する。本番ナシの前提でヘルスなどに勤務していた女性、および風俗の従業員男性は一斉に雇用を失う。それを避けようとすれば、国家はすべての性風俗産業を国営化し、現在の市場規模のほとんどを国費によってまかなわなければならなくなる。


また、売春女性は自由意思による公募で集めるとはいえ、他の性風俗産業が壊滅した後、唯一の風俗産業となった公営売春宿に就職することは、間違いなく絶対につぶれることのない、超安定職の公務員になるということだ。結果として、民営の性風俗であれば働くことをためらったような女性が、「安定」目当てに参入してくる可能性が高まる。それを果たして純粋な「自己決定」と呼ぶことができるかどうかは、非常に微妙な問題だ。


(中略)


もうひとつ、これは意識の問題に関わるので反論もあると思うのだが、売買春を奨励することが、果たして本当にガス抜きに繋がるのか。「素人童貞」という言葉は、性風俗がこれほど一般的であるにもかかわらず、それが「真の愛情」とは何の関係もないという規範と一体になっているために生じた言葉なのではないか。彼らは、売春がいけないと思いこまされたから真の愛に向けて鬱屈したのではない。売春がありふれているからこそ、性欲の解消では満たされない「真の愛情」の存在を措定したのだ。


性愛からの疎外で鬱屈された人に対して性的サービスを提供する主体はあってもいいのかもしれないが、それは国営という形でなされるべきではないし、できるかぎりそういう人を減らすような努力が先行するべきだ。性的なパートナーとは何か、パートナーになるとはどういうことか、といった事柄を、「愛」とか抽象的な言葉ではなく、具体的な問題として伝えていく場所も必要だろう。それは教育だけでなく、親から子、兄貴分、姉貴分から年下の人々へ、という道だってあり得る。結婚するとどのくらいのお金がかかるのか、男性/女性は家庭を持ったらどう変わるのか、子供が生まれると睡眠時間はどのくらい減るのか、そして、それはどのくらい楽しいのか。その手のことを、抑圧ではない形で少しずつ伝えていく努力が失われていくと、「要はヤらせりゃいいんだよ」的な短絡しか出てこなくなる。


「まず、3000円で本番行為ができる公営売春宿ができれば、確実にその他の性風俗産業は全滅する。」全滅しませんよ。資本主義を舐めてはいけない。だからこそ、「要はヤらせりゃいい」んです、施策としては。人類が延々と「人並み」に繰り返してきた生殖に準じる性行為を。社会的諸関係において規定される尊厳とは愛の問題ではありません。加えて個人的な経験則を申し述べるなら、愛すること愛されることと尊厳とは関係がない。「人並み」であることにおいて自分が人間であることを他と比して確認できれば宜しいのであるから。「人並み」であることがくだらないならそもそも尊厳という概念がくだらない。そして。施策としての提言が前提する条件自体が既に御破産しているのがこの社会的現実です。なお性欲云々は的外れです。レイピストの抗弁を真に受けてはいけない。


「ガス抜き」とは、「人並み」という社会的な安全弁が今なお機能していることを前提しているのだと思いますが、先述の通り安全弁はとうに外れています。増山麗奈氏の提案は、安全弁の機能を前提するものであって、すなわちそれが増山氏の立脚する立場ということです――リベラルな。ちなみに経済的な価格問題については奴隷を規定し調達すれば一定は解決ですが、そして現実にそれはグローバルな経済格差を利用して日本におかれても国境を越えた民間組織が実施していることですが、流石にイースタンプロミスに国連加盟国としての法治国家が協力するわけにもいかないものです。人身売買に免状与えるわけにも。東欧を旅したその方面の趣味ある人が曰く、色々と安かった。たとえ奴隷であろうと日本ではまだまだ高くしか買えないし児童も簡単には買えない。増田から。

結局話してる人たちは自分達の手は何も汚れない立場の人たちだからさーそう好き勝手いえてるんだろうけど、こっちからしたらそんなんたまったもんじゃないよ。まず無いだろうけど、そんな国によって「非モテにも彼女あてがうように」なんてされたらこっちの人権は?!って話になる。こっちにだって選ぶ権利があるわけで。ってそんなんいちいち言うまでもなく当然のことを敢えて言わなきゃならんところに泣けるんですけど。なんでそんな、たとえ話に大袈裟かもしれないけど、女性側の人権丸ごと無視したような話を平然と皆してるのか呆れる。その口でチベット問題とか語ってる奴……時々いるけど、おめー説得力の欠片もないんだけど。


「彼女あてがう」というのがどういうことかわからないのだけれども(「彼女」を「あてがう」? 見合いですらなく?)、選ぶ権利と性行為の再配分は別の話。生殖を愛の行為と思っているわけでもあるまい。性行為の公正なる再配分において「人並み」という社会的な安全弁のもと男性の男性であるところの尊厳が維持されうるなら増山氏の提案も検討の余地なきところではないけれども、繰り返すが安全弁はとうに外れている。そのことを広く可視としたのが赤木氏の言説とその反響でもあった。つまり社会的公正に基づく再配分論ではない。


「俺の尊厳を奪い返すために貴方の尊厳を毀損するかも知れないが俺とあなたは違う人間であるし貴方もそのことはわかっているだろうから宜しく。奇麗事は自分の尊厳が奪われてなお言えるなら言ってください」という話。尊厳とは個人にのみ属するものでなく社会的諸関係の差別被差別において切断として存するものでありすなわち奪い奪われるものであり、「みんなの願いは同時には叶わない」がゆえに、自身の尊厳とは他人の尊厳を傷つけ貶めることによって維持される。小林よしのり氏がかつて差別の心理について喝破したその身もフタもない構造を「ロストジェネレーション」の世代に規定された議論は自明とした。


誰かの願いが叶うころ、あの子が泣いてる」というのは端的な事実である。私の幸福と貴方の幸福は、私の尊厳と貴方の尊厳は、相違する。時に相反する。では、誰かの願いが叶うこととあの子が泣いてることには、因果関係が存するか。その因果関係を捏造証明したのがマルクス主義であった。そしてマルクスの世紀であった20世紀を経て、現在、誰もが知っている。「みんなの願いは同時には叶わない」ことを。それは周知の事実である。コミュニズムはとうに終了したのだった。


「みんなの願いは同時には叶わない」ことを知りつつあたかも人類社会の普遍課題であるかのごとく繰り広げられる倫理的な議論とは何だろう。それでも私は自律した個人として美しくかつディーセントでありたい、ということだろうか。『ソトコト』誌上で繰り広げられている浅田彰田中康夫憂国呆談のように。むろん私は個人の個人性に即する限りそれに同意するし共感もする。


誰かの願いが叶うころ

誰かの願いが叶うころ


宇多田ヒカルの心揺さぶる歌は。古谷利裕氏が指摘する通りのものだろう。04/08/09(月)付日記


偽日記アーカイブ(2004/08)

この曲が「唄って」いるのは、どうしようもないことのどうしようもなさであろう。この世界において、どうしようもないことがどうしようもないのだということを、誤摩化しなくシビアに突き放し、かつ、それをやさしさにおいて唄うこと。(この「やさしさ」はもちろん、宇多田ヒカル個人やその内面に属するものではない。)このような「唄」によって誰も救われたり癒されたりなぐさめられたりはしないだろうし、なにかがかわってゆくための力ともならないだろうが、このような「やさしさ」がこの世界にあり得ることがひとつの希望であろう。この(超自我のような)「やさしさ」は、決して他者への共感や感情移入、思いやり等によって生ずるものではなく、おそらく世界についての醒めた認識によるある種の「諦め」から生まれるものなのではないか。どうしようもないことへの諦めの後にはじめて生まれるこのようなやさしさにこそ、なにがしかの超越性が、あるいはメタフィジカルなものが、ようやくわずかに孕まれる。この「唄」は、まさにそれが孕まれた瞬間が唄われているように感じる。


私も、そのように理解している。そして。斯様な超然とした浮世離れの人Hikkiの意は措き、「誰かの願いが叶うころ、俺が泣いている」「誰かの願いが叶うころ、私が泣いている」という歌を歌う人が現世にはあふれている。おおっぴらに歌わなくとも胸の内に抱く人は。繰り返すが「人並み」という社会の安全弁はとうに外れた。人並みの幸福も人並みの不幸もこの世にはない。ただ幸福があり不幸がある。あらゆる幸福において不幸において、そしてアンナカレーニナではないが個々の不幸において、その切断は絶対であり懸隔は無限である。「人並み」の幸福が不幸が概念の問題である以上概念が実感を伴って消えうせればそれだけのことだ。後にはただ絶対の幸福があり絶対の不幸がある。ただ幸福があり不幸がある。相対化の社会的契機はもうない、だからこそ人は気の持ちようと言う。ポジティブ教を説く。他に余地がない。


新自由主義の台頭がその理由であったかは知らんが、そのずっと以前からのことであったことを私は知っているが、少なくとも都市生活者の私たちは誰もブルジョワジーの規範を徒に一般化させて生きようとはしない。そんなことは無理であるしそもそも詮無いから。少なくともそれを美徳とは思わない。やれDQNだのモンスターペアレントだのペイシェントだのというのもそういうこと。日本型民主主義社会における尊厳とは公平感において規定され維持される。「誰かの願いが叶うころ、俺/私が泣いている」と社会の構成員の過半が思うなら、すなわち「社会は仕組まれて出来上がったアンフェアなババ抜きであり自分はババを引かされている」という認識が広範に共有されているなら、期は熟しているのであって後は優秀なる扇動者の登場を待つだけである。ババを引かされている者たちに再び尊厳を与え一体感を付与する者が。ムーブメントが。


希望とはそういうこと。尊厳とは銃を取って戦うことに由来する、男女を問うことなく、一切はそれにパラフレーズされる。尊厳のために銃を取って人並みに殺し人並みに殺されること、それが希望であり、生きること。だから「希望は、戦争」というのはあながち与太でないし煽りでもない。一朝事あるとき誰かのために銃を取ることは安定社会において奪われた尊厳を取り戻すひとつの模範解である。ことに「男性の男性であるところの尊厳」を取り戻すためには。ところが残念なことに日本は今なお一朝事なきため、ロストジェネレーションとして指し示される世代においてしか、仕組まれて出来上がったアンフェアなババ抜きにおいてババを引かされている者たちの尊厳回復のための一体感の旗が立たない。ところで言うまでもなく一朝事あったところで日本国民はことにブルジョワジーの規範を持ち合わせる善良な市民は誰かのために銃を取りなどしない。銃を取ることをアウトソーシングしてきた歴史ある民族にとって『七人の侍』の結末は真理である。あの侍たちはまったくガイジンである。


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私の幸福ないし不幸と貴方の幸福ないし不幸に、私の尊厳あるいはその欠如と貴方の尊厳あるいはその欠如に、因果関係は存在しない。マルクス主義を措き、むろんその通り。然るに。誰かの願いが叶うころあの子が泣いてる私が泣いてる私にとっての大事な存在が泣いてる、そしてみんなの願いは同時には叶わない。その認識を、文明化されインターネットを通して世界中が繋がり合い情報の往還する人類社会の誰もが持ち合わせている。


かつて西欧社会において自身の尊厳とは神の愛において付与されるものであった。神の愛なく主君への忠なき現代日本において他者の承認がそれに取って代わった。その他者が承認がイデアルな概念であることは言うまでもない。他人の尊厳を毀損したところで自身の尊厳は回復しない、他人の幸福を奪ったところで自身の幸福は盆に帰らない、他人を傷付けても自身の承認欲求は満たされない。そのように論理的不整合が公然と問われているとき、私は、何を言っているのだろうと思わないでもない。そうではなくて尊厳だの幸福だの承認だのという概念の一切を否定したくて加藤智大は秋葉原で刃物を振るったのだろうし、社会的諸関係のもと自身が尊厳に幸福に承認に縁なきとき、よろしいならば戦争だ、は普通に妥当解である。ひとりぼっちの戦争を繰り広げる人もあるだろう。尊厳とは幸福とは承認とは概念において「人並み」であることとして規定される単位である。私は『ニル・バイ・マウス』の暴力夫婦をよく了解するがそれは社会的な議論の問題ではない。愛と尊厳はかかわりあることではない。


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尊厳という幸福という承認という「人並み」から遺棄された者が「自分を大事にしない」からそれが何であるというのか、それは当たり前のことである。他人に対して「自分を大事にしない」と詰るだけの人を私は何だろうとも思う。遺棄された者が「自分を大事にしない」とき「他人を大事にする」か否かはまさしく倫理の問題である。そして遺棄された者において倫理性の発露を求めることはラクダが針の穴を通るより難しい。衣食住足りて云々という話ではない。尊厳だの幸福だの承認だのという「人並み」の概念において遺棄されているとき、そう感じているとき、信仰なく守る者さえ見出せない人は何だってやる。自棄になるという言葉ではまったく足りない。本当に何だってやるし、そういう人間は何だってやれるのだ。むろんそれを利用する者はある、国家にも民間にも、イースタンプロミスにも。


言うまでもなく、率先して誰かのため銃を取りたがる人は銃を取るべき誰かを自らが見出せない人である。だから「誰かのため」銃を取る行為において自身の幸福が尊厳が承認が概念的に不在証明として確認される。「誰かのため」という概念において。行為という不在証明において。そして言葉に憚るが、銃を取ることと身体を捧げることは同義だ。銃を取る男とそれを送り出す女は一対でありそこには尊厳があった、否、送り出すところにおいて男に対する女の女としての尊厳が証された。人間の尊厳を規定する資源としてある性行為とは、性行為において規定される人間の尊厳とは、そういうことでもある。だから人は単なる生殖活動を妊娠出産を愛の結実とも思うのだろう。人間の社会性とは、そして生殖さえ社会性において規定されたその尊厳とは何だろうと私は思わないでもない。


私と交際相手との関係について知った友人が「ま、大事にしてやれ」と言った。貴兄は何もわかっていないとはむろん言わなかった。繰り返すが尊厳だの幸福だの承認だのという「人並み」の概念において遺棄されているとき、そう感じているとき、信仰なく守る者さえ見出せない人は何だってやる。私がかろうじて覚えたことは「自分を大事にする」ことだけだろうかと時折思う。一般論として。10代とは尊厳だの幸福だの承認だのという概念をイデアルには知りながらしかしその一切を了解することもなくそこからの遺棄と脱落を誰しも実感する季節である。尊厳の剥奪感を最も覚えるのが現代の10代である。親は子に尊厳を幸福を承認を必ずしも付与しない。ただ因果を付与する。それはそういうものである。ジョージ秋山の『アシュラ』を私は思い出す。


人は尊厳のため自身を殺し他者を殺す存在である。というか、誰かの願いが叶うころあの子が泣いているうえみんなの願いは同時には叶わない人類社会における人間の尊厳とはそういうことであって、そういうことにおいてしか改めて社会的に証明できるものでもない。尊厳の証明に暴力が付随することは当然であって、まして「人並み」の尊厳から遺棄された者が、あるいは「人並み」の尊厳を剥奪された者が、暴力において自身の尊厳を証すことはあまりに当然のこと。自死も含めて。


そもそも「尊厳」という概念が暴力的であり社会的暴力であって、概念の暴力性ゆえに、侮辱されたら殴る、痛めつけられたらより徹底的に痛めつける、善良な市民から侮蔑的な視線を向けられ差別されたら徒党を組み暗黙かつ恒常的に威嚇する、自身の尊厳とは暴力において証すものであることは昔も今も自明のことであるがそのことをほっかむりすることがリベラリズムであるか私は知らない。『パラダイス・ナウ』ではないがテロルの心理とはそういうことでもある。


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希望とは、誰かの願いが叶うころあの子が泣いているうえみんなの願いは同時には叶わない人類社会において、自身に尊厳を付与するための福音であり、イデオロギーである。だから、その希望が戦争で、なんら問題はないし、間違いでもないし、逆説でさえない。昔も今も、自身の尊厳のための戦争こそ、自身の尊厳のための皆が一体となった戦いこそ、自身の尊厳のため自身を殺し他者を殺すことこそ、自身の死と他者の死という栄光において尊厳を勝ち取ることこそ、希望だ。他にいかなる希望があるだろうか。それが希望でないなら私たちは希望という言葉を捨てなければならない。社会的動物たる人類において諸関係のもと規定された自身の尊厳のために示される希望とは、常にそういうものだ。東浩紀氏が希望という概念に対してそれを語ることに対して警戒的であったのも、尊厳の配分再配分の困難と尊厳の強制の理不尽について発言していたのも、そういうことだろう、と私は理解している。


言うまでもなく絶望した人間が誰よりも希望を求める。尊厳を奪われた人間が誰よりも尊厳を求める。幸福から承認から遺棄されたと感じる者が誰よりもそれらを求める。だから世界中でテロと紛争が繰り返され一方的殺戮が頻発する。自身の屈辱感は他人の顔面を踏み付け土にこすりつけることによってしか贖われない。それは美しくもディーセントでもないかも知れないが正当な取引でもある。自尊心の。


自身に屈辱を与え続けてきた者に死を含めた屈辱を与えることに躊躇する必要がなぜあるだろう。加藤智大はそう思ってもいただろう。日曜の秋葉原を幸福そうに歩く人々に、彼ら彼女らの叶えられなかった願いを加藤智大は見なかったのだろう。叶えられた願いの姿は尊厳を得られない者に屈辱を与える。叶えられた願いとはその姿とは屏風の中にしかない画餅であることを私たちは知っているが、その画餅を矢鱈と美味そうに飾り立てて大々的に商売してきたのがこの素晴らしき資本主義社会である。私たちは肉を並んでは買わないし、生殖のためする性行為の国家配給を選択しない。画餅が屏風から飛び出して人の形を取って秋葉原の往来を歩いていると勘違いする者もあるのだろう。


自身に屈辱を与え続けてきた者に死を含めた屈辱を与えることに躊躇する必要がなぜあるだろう。むろん、ない。だから。「敵」を、自身に屈辱を与え続けてきた存在を、その叶えられた願いを、規定し指し示すことが希望への道標であり尊厳の獲得への第一歩である。「奴らがその叶えられた願いが我々にいわれなき屈辱を与え続けてきた」と。自分たちをゴミ扱いしてきた者を改めてゴミのように扱って何の問題があるだろう。


誰かの叶えられた願いが誰かに屈辱を与える、マルクス主義を引くまでもなく、それは当たり前のこと。その、誰かの叶えられた願いが、「奴ら」とその叶えられた願いが、屏風に描かれた画餅に過ぎないことは、その端的な事実は、さしたる問題ではない。なぜか。私たちのそして彼ら彼女らの抱える屈辱感と憤怒は、まごうかたなき現実であるから。


それを現実として画餅のままにすることなく人間の姿形において屏風から出すことが、言葉と行為をもってそれを為すことが、友の姿形において屏風から出された屈辱感と憤怒に寄り添い、一方、敵の叶えられた願いをもまた屏風から出して人の姿形において友の屈辱と憤怒の前に指し示し指し出すことが、希望を語るべき政治というものであり、その役割である。現在の人類社会において、そのほかにいかなる希望があろうか。尊厳をめぐる闘争は、誰かの顔面を踏み付け土にこすりつけることによってしか果たされない。少なくとも、尊厳が配分されることなく自助努力が尊ばれる社会の、それは来るべき未来である。まことに現代は乱世であって乱世は面白い。


前進することない人類は共食いにおいて自身の屈辱を果たし尊厳を獲得するのだろう。それを延々と繰り返すのだろう。ババ抜きが延々と繰り返されるように。ババ抜きは避け難いならフェアである方が宜しい。ババ抜きを延々と繰り返すことをエスタブリッシュメントは希望と言う。そのババ抜きがフェアであるかは知らんが、むろんそれは正しい。洞爺湖サミットに反対する気は私はまったくない。人は自尊心のために誰かを殺す。応報感情とはそういうことだ。自尊心ある人間は自尊心のため誰かを殺す。自尊心なき人間は誰かを殺すことによって自身の自尊心を証明しようとする。人間の自尊心とは尊厳とは因果なものではある。

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映画「ぐるりのこと」


公開されて間もない頃のことだが、橋口亮輔の『ぐるりのこと』を観た。私は結構凹んだらしい、映画を観て自分の生き方を省みてしまったことは久方振りだった。取り返しの付くものでもない、私に他の生き方があったろうか。上映後同伴者の顔を見られなくなって一人で帰った。感想は色々とあるが、最後に登場する新井浩文演じる法廷での宅間守の言葉が定石と思いつつもまた監督の意図がミエミエと思いつつも、印象深かった。


関係性を了解しない者は他者に存する関係性を憎み呪詛する。他者に存する愛の紐帯を彼は不可解に思い結果憎み呪詛する。おそらくは、その自明を了解しないがゆえに自明性に対して屈辱感を覚え憤怒を抱いているがゆえに。「継母の癖に実の子が殺されたような顔してるんじゃねえ」――そう言いたくなる気持ちが、私はとてもよくわかってしまった。むろん、映画はそれをあからさまに断罪するわけではない。


継母の癖に実の子が殺されたような顔してる人間を自分は理解も了解できない。そのことが、彼の自尊心を刺激したのだろう。つまり、彼を傷付けたのだろう、深甚に。自身の尊厳が剥奪されたと感じている人間は、自身が尊厳から遺棄されたと感じている人間は、そしてフロイトラカンを知らない人間は、すなわち自分がひそやかにひとり泣いていると感じている人間は、誰かの叶えられた願いを、その持続可能性を、まして関係性において表れるそれを、希望なくとも淡々と生きうる未来を、叶えられなかった願いの内に秘められた絶望を、憎む。彼の彼女の願いは何ひとつとして叶えられなかったがゆえに、その叶えられた願いを憎むことにおいて、希望の糧とする。


叶えられなかった願いの内に秘められた絶望において希望なくとも人は関係性とその持続とそれを志向する意志において淡々と生きうる。それが映画の主題であり、橋口亮輔が伝えたかっただろうメッセージだった。だから、最後に新井浩文演じる宅間守は口にするのだ。関係性とその持続とそれを志向する意志など糞でしかないと。彼はそれを理解できないし了解したくもない。クスリにもしたくない。だから、彼にとって希望とは、他人の叶えられた願いを破壊することであり、時に死において破壊することであり、そしてそのような自身の死だった。


「継母の癖に実の子が殺されたような顔してる」傍聴席の遺族である母は、泣き崩れ慟哭する。彼女の夫がそれを抱きかかえる。リリー・フランキー演じる法廷画家はただ黙する。死刑を宣告された被告人席の彼は彼でありその人生であると。そして最後に往来を行き交う人々を眺めて呟く。人、人、人、と。


それが最大の断罪であることを、その橋口亮輔の意図を、宅間は知らず私は知っている。「彼は彼でありその人生である」ことが許せなかったから、宅間は他人の人生をその叶えられた願いを破壊した。おそらくは加藤智大も。自身の尊厳を証し立てするために、自分の自尊心に正直であるために、あらゆる願いの叶えられなかったがゆえの唯一の希望のために。愛の紐帯にそれが構成する社会にことごとく傷付けられてきたから、彼らは愛の紐帯に復讐した。


私が言えることはひとつ。宅間は加藤は間違えている。彼らは関係性を愛の紐帯を叶えられた願いを、自明と見なしている、否、自分以外の人間はそれを自明と見なして当たり前の顔をしてカマトトぶりくさって生きている、と見なしている。その自明をなぜ自分は了解することなくゆえに自明に報われることないのかと。違う、そうではない。関係性は愛の紐帯は叶えられた願いは、誰にとっても自明でない。誰しも苦闘し七転八倒している。


それが、人生を組み立てるということであり、叶えられなかった願いの内に秘められた絶望において、希望なくとも、関係性とその持続とそれを志向する意志において淡々と生きる、ということ。人、人、人、がぐだぐだした薄情な関係を切り結ぶあわいにおいて関係性を愛の紐帯を願いの幾許かでも叶えられるべく意志するということ。誰にとっても決して自明でないからこそ、それを欲するなら意志しなければならない。それは希望ではない、映画が描いたリリー・フランキー木村多江の夫婦に希望なく傍聴席で泣き崩れた年老いた夫婦に希望なきように。彼ら子を亡くした夫婦に。それでも人は淡々と生きうる。そのことこそ、橋口亮輔が伝えたかっただろう渾身のメッセージだった。そして私は幾らか凹んだ。

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希望とは、あらゆる願いの叶えられなかった者がそのゆえに必要とする希望とは、誰かの、あるいは「奴ら」の、叶えられた願いに報いを与え返礼することである。すなわち奪うことであり殺すことであり破壊することである。希望とは死と殺戮の別名である。


誰かのあるいは「奴ら」の叶えられた願いと自身の叶えられなかった願いに因果関係がなかろうと誰かのあるいは「奴ら」の叶えられた願いを破壊し奪い去ることが自身の願いを叶えることには繋がらなかろうとそんなことはまったく問題ではない。要点は、人は願いを願ってしまう存在であるということ、そして願いの叶えられないことを認識する存在であること、加えて、誰もが願いを願ってしまうにもかかわらず、否、そのゆえにこそ、誰かの願いが叶うころあの子が泣いているうえみんなの願いは同時には叶わないこと、そのことを認識する存在であるということ。


不公平とはその感覚とは既にマルクス主義の問題でもなければリベラリズムの専売特許でもない。対する希望としてかつてファシズムが叫ばれたことも言うに及ばない。だから智慧ある私たちはババ抜きを肯定しそのフェアネスをこそ問う。人類社会を舞台にババ抜きを延々と繰り返すための未来をそのことの希望を。そのためにも子供たちに美しい地球を残さなければならない。むろんそれは世界資本主義に尽きる問題でもまして環境問題に尽きることでもない。


人はなぜ願いを願うのか。誰かがあるいは「奴ら」が願うから願うのか、そして叶えられなかった願いは反転してその破壊を希望とするのか。自他を問うことなく。絶望した者には唯一希望がある。彼は彼女はそれを賭金として自身の身体をもって博打を打つ。それをして社会的投企と言うか知らん。単なる犯罪かもね。偉大なる詐欺師は常に希望を嘯き吹き込む。博打を打たせるため希望という賭金を投げてやる。絶望した者が持ち合わせる希望が肯定的な中身で満たされているはずがない。叶えられなかった願いが持ち合わせる希望とは屈辱と憤怒の決済以外にない。ナイスコピーとしての「希望は、戦争」とは最初からネタばらしであり、その愚直な誠実がその結果するアイロニーが知識人において反響を呼んだのだった。


だから処方箋としては。むろん、人に絶望を徒に与えるべきではない。結局のところそれ以外の安全弁はない。しかしながら。


年齢的にはロストジェネレーションに該当しないでもないらしい私はあらゆる希望をそれを語る言葉を信じたことがない。政治的な希望の言葉が煽動の言葉であることは言うまでもない。加えて現在の日本社会は、希望をそれを説く言葉を必要としているか。小泉純一郎は希望を説かなかったから支持された。新自由主義とは日本において説かれた当初から端的に言って希望ではなく絶望だった。人は絶望を欲したし、絶望を認識することを欲した。絶望から出発することを。誰も願いは叶わないのであるから次行くぞ次、と。にもかかわらず自身の願いを叶えんとして希望を宣う者は分際を知らない傲慢な愚か者であった。それが小泉政権下から引き続く私たちの社会的合意であった。しかしながら希望をそれを説く言葉を必要としない社会は『ぐるりのこと』が受け容れられた社会でもあった。希望とは少なくとも持続する未来ではない。


「叶えられなかった願いの内に秘められた絶望において希望なくとも人は関係性とその持続とそれを志向する意志において淡々と生きうる」。昔から、外面は知らず、他人と同じ生き方が私はどうやってもできなかった。しかしながら私は、関係性の持続を強く意志したことがあったろうか。今更であるが恋愛に限らず愛を叶えられた願いであると私は考えたことがない。私は何において淡々と生きているのだろう。私の願いとは何であるだろう。私は何かを願っただろうか。橋口亮輔のメッセージを、私は未だに受け止めきれていない。皮肉と反語を延々連ねた挙句私事で〆る。


叶えられた祈り (新潮文庫)

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