市民社会の面子と市民社会における右翼


前々記エントリとその補足に、密度の濃いトラックバック記事を頂きました、言及していただいたことも含めて、感謝申し上げます。


何が問題だったのか、ようやく分かった。 - 23mmの銃口から飛び出す弾丸は

「民民関係」と排除の論理 - 過ぎ去ろうとしない過去


いずれも決定版というかFAというか、私は同意するところです。気に掛っていたことがいかなることか、エントリ書いた自分でも鮮明になりました。多謝。――で。折角なので、少し私が懸念するところについて、改めて書いてみます。ホテルの件とは直接にはかかわりなく、またあまりに個人的な視点かも知れませんが。


主権回復を目指す会」には、以前から関心があった。というのは。


右翼というのは市民社会に対する否定としてある。「市民」クソクラエ、と。これは、たとえば象徴的な三島由紀夫から、現在の福田和也まで、そう。で、その点は保守とは違う。だから。「右翼」というのは暴力肯定であるし、明示的な威嚇的行動は市民社会においては許されないことであるけれども、前提を共有しないがゆえに、彼らが無問題とすることも致し方なし。


もうちょっと言うと、この種の行動主義の肯定と情念の肯定は、すなわちロマン主義は、新左翼と相通ずるものがあって、ゆえに三島と東大全共闘は地平において通じ合いもしたし、吉本隆明村上一郎が通じ合ったのもその辺。で、それは丸山眞男的な市民主義においてはとんでもないこと、という話が前提としてある。


私は「プロ市民」という言辞を認めないし関心もないけれど。時折、斯様な言辞を弄ぶ発言者に対して、なら右翼団体についても「プロ市民」と呼べよ、という突込みがある。私は、いや右翼というのは「市民」であることを否定する思想なのでそのりくつはおかしい、と思っていた。


街宣活動は、右翼が右翼であるなら仕方がない、むろんロマン主義に裏打ちされている。市民社会を否定する者たちと市民社会がいかに向き合うか、ということは、けっこう難題。むろん犯罪は罰されて然るべき。そしてこれは思想的な事柄に限定した話。かつて鈴木邦男が主張したのは、右翼運動も「政治運動」であることにおいて市民社会との接点を模索すべし、ということだった。


――しかし。というのは以上が前置であるからして。


主権回復を目指す会」の公式サイト関連を走査して、新しい、と思い、また驚きもしたのは。市民運動であると自己規定している点だった。市民社会における市民主義的な愛国運動であると。この市民社会とはあくまで日本のことであり市民とは国民のことであるけれども。なら思想的には右翼ではない。市民主義的愛国者があっておかしいものではまったくない。が。


はてなブックマーク - 主權恢復を目指す會


公式サイト等において拝見しうる主張に目を通すと。ひと通り目を通させていただいたけれども。正直、系譜がわからない。どの筋の思想的系譜を汲むのだろう。日本において反共右翼は狭義の民族主義とは相性が悪い。近代以降の文脈においては極右と定義せざるをえない。なら思想の論理として丸山的な市民主義は否定されて然るべきであるが。というより。日本にも現れたか、という感想が。高島俊男先生はこういうことのために「支那」呼称問題を取り上げたのではない。


正直なところ。右翼は右翼であることにおいて市民社会と折り合えるものではない。それは街宣活動的なロマン主義の資源でもあり、またそのことが現行の市民社会において安全弁として機能してもいた、皮肉なことであるが。テロは犯罪であり許すべからざることであることはいうまでもない。


銃撃 - 地を這う難破船

銃撃――補記 - 地を這う難破船


市民運動として、すなわち市民社会を肯定する一個の市民による運動として、このような政治的言論活動が公に展開され支持もされる。かつて右翼運動は自らを「市民運動」とは名乗らなかった。鈴木氏も。個人的には異論もあるし必ずしも是としうる書物ではないのだが。


“癒し”のナショナリズム―草の根保守運動の実証研究

“癒し”のナショナリズム―草の根保守運動の実証研究


先駆的であったかも知れない。「つくる会」自体はあくまでマルクス主義という「大きな物語」とそれを前提した史観に対するアンチとして在った。そして結局は裏返しのマルクス主義であった。アンチもまたマルクス主義の、そして「大きな物語」の囚われ人であった。歴史の因果であるが、しかしそのゆえに、つまるところ「草の根」とは程遠かった。それでよかったと私は思っている。朝日新聞マルクス主義的であったことなどない。


新世代の、歴史と切断された、新しい右翼運動の姿とはこのようなものか、私はそう思った。たとえば石原慎太郎は、正しくロマン主義者であるがゆえに、自身を「市民」と規定したことなどないだろう。そういう人が都知事をやっているのだが。


「草の根保守運動」が「草の根極右運動」へと変容するとき。市民社会を肯定する一個の市民が、「私たちの市民社会」を守るために、と示して展開する民族主義的な愛国運動を目にして、私の脳裏に浮かんだ連想について詳述することはやめる。「一個の市民」としての思想的な極右に、市民運動としての極右思想に、市民社会はいかに対応しうるか、それは、あるいは難題どころではない。私のごく個人的な懸念が杞憂ならよい。が。


はてなブックマーク - 主権回復を目指す会>行動・活動


市民社会市民社会の面子にかけて、市民社会を否定する論理を容易に受容するべきではない。これは、所謂ウヨサヨ問題ではない。すなわち市民社会における政治的相違ないし紛糾の問題ではない。ルールが論理が違う。そして。市民社会を否定する論理が市民社会を肯定するかのごとく偽装し、市民による市民運動を自称するとき、「草の根」の社会がそれを受容するなら。世代改まろうとも切断されることなきよう、歴史の授業は肝要也。

自称中道主権回復を目指す会のような連中が活性化した先に何が待ち受けているのか想像力に欠ける近視眼な企業人なら、中学校から社会科教育をやり直すべきです。

http://d.hatena.ne.jp/arkanal/20080202


arkanalさんの示した怒りに触発されて、私は一連のエントリを書いたようなものです。多謝。