――id:tasoiさんへ(社会性と共同性とか)


正論とはなんぞや――「どうかと思う」とのこと - 地を這う難破船


はてなブックマーク - 正論とはなんぞや――「どうかと思う」とのこと - 地を這う難破船



重ねて言及することも、またそうすべきでも、ないと思う。火曜日であったか、テレビ東京の『午後のロードショー』にてジョディ・フォスターとケリー・マクギリスの『告発の行方』を放送していた。ずいぶんと久方振りであったが、録画して見直した。


やはり。よくできている。エンターテインメント映画としても、よくできていることが、流石。かつ、26歳のジョディ・フォスターは、巧い。『タクシードライバー』から『ホテル・ニューハンプシャー』、そして『ハートに火をつけて』『羊たちの沈黙』へと至る、20代の頃までのジョディ・フォスターが、私は本当に好きであった。願わくは、今回のことに関心を持つ、未見の方においては『告発の行方』を一見していただきたく思う。娯楽映画を手掛けてきた男性監督の撮った、秀作です。


告発の行方 [DVD]

告発の行方 [DVD]


なので。id:andalusiaさん、奥村徹氏の指摘する点については存じ上げています。故意に割り切って書きました。むろん、公的な言論において指摘する方は在って然るべきです。是非は措きます。是非に言及したくなかったがゆえに、スルーしました。


私が、再度言及するのは。

2007年10月21日 tasoi  下着取られた〜ぐらいなら、「室内に干せw」って感じに軽く言えるんだけど…暴行事件に対して「不用心だ」は、ちょっと言えないです…。 /なんでわざわざ突き詰めるのかが解らないです…(´・ω・`) >kurotokageさん。

2007年10月22日 tasoi  自分の思う大事なこと。 →自他共に出来るだけそういう事が起こらないようにする。万一そうなった人が側に居たら、離れずに手を取って一緒に居る。傷つけないよう話す。  …何が正論かなんて、心底どうでもいい。


http://b.hatena.ne.jp/entry/http://b.hatena.ne.jp/entry/http://d.hatena.ne.jp/sk-44/20071021/1192998056

2007年10月25日 tasoi  短く書き残す。  「あなたは正しい」がどれだけ効率的に人を追い詰めるか。


http://d.hatena.ne.jp/terracao/20071024/1193229409


――id:tasoiさん。


余計なことかも知れませんけれども、私も、長々と書き残すことにします、メッセージとして。tasoiさん、率直に言って、貴方は誤解をしている。


「俺は生粋の日本人だけど」並みの言明を最初に書いておきますが、周知の通り、私は全然左派でもフェミニストでもありません。もっとも、そのようなことはtasoiさんには関係ない。bogusnewsは、読まない。理由は、ツマラナイから。もっとも、幾度も公言している通り、『痛いニュース(ノ∀`)』は楽しく読んでいる。かかる趣味嗜好と感性が、私の政治的なバイアスに拠るものかは知らない。否定はしないけれども。ゆえに。bogusnewsに対して云々する意思もない、読んでいないのに言挙げるのは失礼であるから。id:terracaoさんの当該記事とそのブクマについて。私自身は、はてブをほとんど使わないのですけれど。


terracaoさんも応答している以上、大きな御世話の横槍、ということになるのでしょうけれども。


あえて。ほぼ全文引用させていただきます。


http://d.hatena.ne.jp/terracao/20071022/1193059947

ネタには出来ない、
そのことをネタとして誰かへの嘲笑を行うために使うなんてことなんて出来ない、
ろくでもない目的のために用いることが出来ない、痛む心があれば普通はしないさせない、
そういう類のことが世の中にはあります。
これはそれだと思います。


このエントリーを見て、ニヤニヤしつつ「上手いこと言ってやった」とほくそ笑むterracaoさんの醜悪な姿がすぐに目に浮かびました。
そうでしょ?恥を知るなら正直に述べてください。このようなふざけたエントリーを、本当に真剣に真面目な気持ちで書かれたのなら全力で謝ります。ただ、そうじゃないだろうことを半ば確信してもいます。
とにかく、2chでスレを一読して一部のレスを見たときに湧き上がった強烈な不快感とほぼ同じ、同根の不快感を感じました。
だからムカつき、こんなものを許容する10数人のブックマークしてる人たちにもムカつきました。
(そして、その許容できる人の中にTezさんのみならず、yukiさんが居て個人的にはひどく落胆しました。
一番反発しそうな人なのに。勝手に期待して勝手に落胆してりゃ世話無いよね。ごめん。Marcoさんにもゴメンね、同じように。)


遠慮すべき色々なスジをさしおいて話したいこと、が、とにかく傷つく人を減らすこと、それに繋がる…、そういう気持ちで話してる人なら自分は許せる。
どんだけ意見が違おうとも。大上段に話さない人の方が好きではあるけど。
それ以外のことを重視して語る人(よく居るクソみたいな女性蔑視主義者とか)は言語道断だと思う。
楽しむためにネタ化する者も論外だと思う。


最初の問いかけに答えずにページを閉じるところだった。答えます。


『この手の人』はあなたです。
『えげつない』とは、ネタにして嗤うあなた自身の形容です。その姿と行為と感性が。



こっちから書いておいて、しかも他人のブログにわざわざ書き込んでおいて何なのですが、
はてな的なぐだぐだしたレスならば、要りません。失礼な物言いであることは解っています。
失礼さを叩かれるのなら全く構いません。


先ず。terracaoさんやid:Tezさんが記していることは、百匹目の猿、ではありませんが、私も含めて、大勢の人間が即座に容易に思いつくことです。コンテクストの所在を認識している人にとっては、ということ。コンテクストの所在は、少なくとも、いわゆるはてな村においては、公知の事柄であったりします。


私自身は、そのうえで「正論とはなんぞや」と、それなりに正面から記したつもりです。ネタ師の才もないからですが。一方、「正面から」批判するのではなく、皮肉をもってコンテクストの所在を指し示すエントリに、目を通して、流石terracaoさん、とは思いました。


「不快感」や「ムカつき」は覚えません。もっとも、それは当該痛ニュの「一部レス」に目を通しても同様です。顔も知らない他人の身に起こったことには鈍感なのでしょう。なにしろ、自己のみならず他人の真摯な感情すら容易にメタ化し脱構築する、「痛む心」と赤い血を持ち合わせる他人が本気で「言語道断」「論外」と許し難く思うことに対してすら、それは貴方が「気持ち悪い」と思っているだけの主観の問題でしょ、「不快だ、なぜならわたしが不快だと思ったからだ」と言われてもね、と嘯く、「ある種の感性を持」ち合わせる「えげつない」はてな村の住人ですから――私は。tasoiさんがムカついた10数人のブックマーカーと同様に。ほかのことでは、往々に、意見が合わなかったりしますけれども。


「ふざけて」いないで、真面目に書きましょう。私は右翼なので、他人の「気持ち」はわからない、とか公式論に依存することなく、毎度のごとく勝手に代弁モードを駆使する方向で放言しますが。私も含めてみな、terracaoさんの「ふざけたエントリー」を「許容」しているのはどうしてなんだぜ?


――わかりきっているがゆえにですよ。tasoiさんの発想に即して述べるなら。terracaoさんが、「本当に真剣に真面目な気持ちで書」いていることを、みな承知しているからです。「そうじゃないだろうことを半ば確信」する理由がないのは、terracaoさんが、こうした事柄に対して一貫した問題意識を持ち合わせていること、それを表してもきたことを、みな知っているからです。私も含めて。


「このエントリーを見て、ニヤニヤしつつ「上手いこと言ってやった」とほくそ笑むterracaoさんの醜悪な姿がすぐに目に浮か」ぶことがないのは、terracaoさんというブロガーがそうではないことを、過去の言行からみな知っているためです。私が、tasoiさんが「ために」「失礼な物言い」を書き付けているのではないことを知っているように。tasoiさんが「こうした事柄に対して一貫した問題意識を持ち合わせていること」を、少なくとも私は、以前からよく知るゆえのことです。


少なくとも私は、tasoiさんが「そうでしょ?恥を知るなら正直に述べてください。」と突きつけるように問い質していることを、意外にも思いました。らしくもない。tasoiさんがやっていることは、詰問です。はっきりと言ってしまえば、思い込みに基づく糾弾の類です。「いいえ、私は真面目な気持ちで書きました。」というterracaoさんの言が「正直に述べて」いることを、私も含めてみな知っています。「真面目な気持ち」の定義と解釈が、相違はするのでしょう。


たとえば、の話ですが。「ニヤニヤしつつ「上手いこと言ってやった」」と「真面目な気持ち」は両立します。おそらくは、それをしてterracaoさんは「正義」と呼んでいるのでしょうけれども、筋としての正しさを求め指し示すことと、言論的なパフォーマンスに賭ける情熱は、両立する、ということです。かつ。パフォーマンスのスタイルそれ自体については、これはもう、好み、というか、趣味嗜好の域です。teraccaoさんが「ほっとけ」と言っているのは、そのことです。


初音ミクどころか、いまだにニコ動のアカウントすら持っていない(理由は音楽知らずと怠惰)私ですが、2ch的なパフォーマンスやコミュニケーションのスタイルは、好きです。書き込んだことはないのですけれどもね。で、かかる趣味嗜好については、他に対して「ほっとけ」と言いたくなる局面も、それはあります。そして。2ch的なパフォーマンスに「真面目な気持ち」が所在しないはずはない。


確かに。tasoiさんがムカついた10数人のブックマーカーには、筋としての正しさを求め指し示すことと同時に、言論的なパフォーマンスにも、情熱を傾け、長じている人があります。言論的なパフォーマンスにおいて「真面目な気持ち」が所在しないはずはありません。以降は、筋としての正しさの如何を措くなら、個人の好み、趣味嗜好の問題でしかありません。


少なくとも、匿名でやっているのではない。仮にも左翼がリベラルが、他に対するネガティブなパフォーマンスをかくも好むとは、という話では、ないのでしょう。tasoiさんの言う「この手の人たち」とは、左派やリベラルのことを、限定的に指し示しているのではないから。


terracaoさんの例示より。

(a)「この手の人たち」=「ふざけている人たち」説


この点については。少なくともterracaoさんは「真面目にふざけている」換言するなら「コンテクストを指示した批判を皮肉として例示している」のであって、私の見解を述べるなら、「コンテクストを指示した批判を皮肉として例示している」ことが明瞭である以上、すなわち筋論として妥当である以上、以降は趣味判断の問題です。そして、terracaoさんがいつだって「真面目にふざけている」ことは、すなわち「真面目」であることは、周知のことですよ。そして。

(b)「この手の人たち」=「社会正義の観点から好ましくない言動をする人たち」説


おそらく、tasoiさんはこちらの点で批判していると思うのですが(というか、そうと考えないと、なぜここまでの怒りのコメントがつくのか理解できない)、頂いたコメントからはよくわかりません。繰り返しますが、拙記事のどこが「正義にもとるのか」を教えて下さい。そして、なぜ「ふざけていなければ許されるのか」も、ついでに教えて下さい。


対するtasoiさんの応答。

tasoi 『
引用元であるレスで全てなので、特にこれ以上内容そのものに補足することはありませんが、
真剣さ、倫理観などについて、断絶がありすぎてなかなか伝わらないということは把握しました。


>(b)「この手の人たち」=「社会正義の観点から好ましくない言動をする人たち」説
>おそらく、tasoiさんはこちらの点で批判していると思うのですが


あと、少なくともこれはきっぱりと否定しておきます。
大体ブクマレスで何より否定しているのがこれです。』 (2007/10/25 04:03)


私は、tasoiさんの一貫した問題意識を自分なりに咀嚼して了解し、一方的にシンパシーを寄せてもきたので、僭越ながら、わかりはします。再度引用。

ネタには出来ない、
そのことをネタとして誰かへの嘲笑を行うために使うなんてことなんて出来ない、
ろくでもない目的のために用いることが出来ない、痛む心があれば普通はしないさせない、
そういう類のことが世の中にはあります。
これはそれだと思います。

遠慮すべき色々なスジをさしおいて話したいこと、が、とにかく傷つく人を減らすこと、それに繋がる…、そういう気持ちで話してる人なら自分は許せる。
どんだけ意見が違おうとも。大上段に話さない人の方が好きではあるけど。
それ以外のことを重視して語る人(よく居るクソみたいな女性蔑視主義者とか)は言語道断だと思う。
楽しむためにネタ化する者も論外だと思う。


tasoiさんがもっとも言わんとしていること、伝えたく思っていることは、このことですよね。すなわち。「そういう類のこと」を「楽しむためにネタ化する者も論外」であることと同時に。


「とにかく傷つく人を減らすこと、それに繋がる…」という「気持ち」のないままに、たとえば、「社会正義の観点から好ましくない言動をする人たち」を「嘲笑」することを「重視して語る人は言語道断」である、と。terracaoさんへの言葉としますが。

繰り返しますが、拙記事のどこが「正義にもとるのか」を教えて下さい。そして、なぜ「ふざけていなければ許されるのか」も、ついでに教えて下さい。


tasoiさんが問題としているのは。人の「気持ち」を前提しないままに「正義にもとるのか」を前提する言行のことです。すれ違い、です。「社会正義の観点」を一義に問う言行をこそ問題としている。――ただ。


tasoiさん、繰り返しますが、貴方は「半ば確信して」いるがゆえに信じないかも知れないけれども、terracaoさんは「本当に真剣に真面目な気持ちで書かれた」のです。貴方は「全力で謝り」はしないだろうけれど。むろんそれは構わないけれども、私は。ただ。本当に、私がわからないのは。


tasoiさんは、いったい、誰のために怒っているのですか。誰のために憤っているのですか。誰のために、拳を振り上げているのですか。すべての「傷つく人」のため、「遠慮すべき色々なスジ」のため、ですか。――そして、terracaoさんのエントリに怒りと憤りをぶつけるのですか。tasoiさんは、私と同様に、またterracaoさんと同様に、被害者のことを、報道されている以上のことは何も知りませんよね。


それとも。単に、自分自身の「気持ち」のため、ですか。それでは「不快だ、なぜならわたしが不快だと思ったからだ」と同じことです。むろん、その個人的な不快には意味がある。でも。それは。「よく居るクソみたいな女性蔑視主義者」の覚える個人的な不快に意味があることと、同じことです。本件の報道に接して、女なんて糞と血液と精液まみれの肉便器なんだからブチ込まれて当然、何を騒いでいる、と個人的な不快を覚える人の、その個人的な不快にも、意味は所在します。tasoiさんが個人的に覚える不快と同様に。


両者の「個人的な不快」の是非あるいは理非ないし正誤ひいては軽重を、ヒヨコの雌雄ではありませんが、「社会」において腑分し分別するのが、terracaoさんが言うところの「正義」すなわち社会正義の役割であり、存在意義です。社会を前提するとき、決して、「正義」を「どうでもいい」とは言えません。tasoiさん個人にとって、またその個人的な生にとって、「どうでもいい」ことであっても。

ネタには出来ない、
そのことをネタとして誰かへの嘲笑を行うために使うなんてことなんて出来ない、
ろくでもない目的のために用いることが出来ない、痛む心があれば普通はしないさせない、
そういう類のことが世の中にはあります。
これはそれだと思います。


tasoiさんが記していることは、tasoiさんの私的な感覚/感情/意識の話であり、個人的な前提の話です。tasoiさん自身の線引きの話、ということです。tasoiさんは「そういう類のことが世の中にはあります。」「これはそれだと思います。」と断定を重ねているけれども、他人がその断定に同意するとは限らないし、そのいわれもない。


貴方はそのように思われるのですか私は違います、という返答があったとき、tasoiさんは、かく返答する人、かく考える人は「許せない」と思うのですか。それとも。自分とは、自分の生とは、縁のない人、という判断を下して、以後無視しますか。


むろん。私も含めて、誰もが私的にはそうしているように、tasoiさんの個人的な人生においては、それで構いません。ただ。自身の私的にして個人的な、限定された人生においては、あまり遭遇しない類の、人や言葉や価値観や世界観と、交通事故のように事象や言葉を介して遭遇することが、ネットというかWeb2.0のシステム的な特質であり、リスクであり、醍醐味でもあると、私は思います。さもなくば、ブログ運営を続けていない。


tasoiさんは「倫理観」という言葉を用いているけれども、本来、倫理とは、自他の彼我を、すなわち、自分と他人は共感し得ない別の人間である、ということを前提する概念です。知事は「被害者の気持ちを考えろ」として非難されたのではない。


一義に、儀礼の問題として問われ、儀礼とは、自己の有する内的な前提が、他なる内的な前提と一致し得ないがゆえに要請されるものです。知事の内的な前提をしてそのまま「正論」とするのは、それは月刊『正論』ですね、という突っ込みで妥当です。


tasoiさんの内的な前提が、他の内的な前提と合致しないとき、tasoiさんは他の内的な前提を、自己の内的な前提から断罪するのですか。tasoiさんのやっていることは、そういうことです。それをして「糾弾」と言います。「糾弾」とは「社会正義」の位相から任意の前提を社会的に批判することではない、任意の内的な前提において、他の内的な前提を断罪する行為です。


自他が彼我である、すなわち、自分と他人とが違う人間であるとき「共感」は「気持ち」は機能しません。そのときに、縁なき人として端からかかわりを断つことも、個人的な人生においては時に可能です。むろん、同様の理屈をもって殺し合いも成立します。そして。ネットというかWeb2.0は、以上の格好のシステムです。現実の事象が増幅されるためです。


自他が彼我であることを前提して、「共感」「気持ち」を必ずしも介さずに、他との接続と交流の、すなわちコミュニケーションの、回路を模索し構築する、功罪を含んだひとつの達成が、現在の社会です。つまり。現行の社会においては、任意の内的な前提をただちに正と是と理とすることはできない。任意の内的な前提をただちに「正論」と決定する見解は、すでに正でも是でも理でもありません。


tasoiさんは、自己の内的な前提を自明のものとして、それ「のみ」を理由に、他人の行為を批判している。激烈な言葉で。そして。自己の内的な前提「のみ」に依拠するから、自然、批判も、他人の内的な前提へと及ぶ。その「他人の内的な前提」は、tasoiさんが自己の内的な前提から、一方的に演繹して解と見なしたものです。ゆえに誤解へと至っている。


tasoiさんにおいては、他人の内心の忖度が、他の行為を評価する前提となっている。tasoiさんにおかれては、他人の行為をもって、その内心を忖度しそれを公然において批判することは、妥当な行為なのですか。私の認識においては、それをして糾弾と言い、近代人として難の所在することです。自身の発想とやっていることが、宗教裁判に等しい、ということを、了解しておられますが。私は、おまえがあの記事を書いたのは「どういうつもり」によるものか、とだけ公然において問われたとして一切無視しますが。


現行の世界において、個々人の内的な前提は、相対的なるものです。それをして社会の設計が要請される。任意の内的な前提を、その相対性を捨象したうえ「正論」とするなら、それは月刊『正論』ですよ。すなわち、任意の内的な前提の無批判な称揚と、正統の僭称。自身の内的な前提を相対的に検証する意思なき言論です。


tasoiさんの、個人的なる内的な前提に、共感する人は多いと思います。私も含めて。ただ。現在、いわゆる価値相対主義は批判にさらされています、然るに、共感主義は価値相対主義と通じる問題です。正直なところ、私は、tasoiさんが、なぜかくも、「気持ち」という自己の内的な前提に準拠し得るのか、それのみを自身の言行の、また他人に対する価値的な交渉の、賭金とし得るのか、わからないし、憧憬すら覚えます。実際、tasoiさんのそれは一定成功しているし、支持を得てもいる。ひねくれ者ばかりのはてな村においても。私も、支持しているのです。


ただ。「許容」という語彙の使用も含めて、私には、現在のtasoiさんのスタンスこそ、ドグマティックなものに思える。すなわち不寛容に。現在のtasoiさんは、他人の「人間性」を、自己の内的な前提「のみ」をもって演繹したうえ一方的にジャッジメントし、そのことを公言し、かつ聞く耳を持たない、ようにしか窺えない。すなわち、tasoiさんがおそらくは否とする性質の人間と、同様にしか。


私も言及されたことなので、はっきりとレスポンスさせていただきますけれども。

2007年10月25日  tasoi  短く書き残す。  「あなたは正しい」がどれだけ効率的に人を追い詰めるか。


「あなたは間違っている」がどれだけ効率的に人を以下略。「短く書き残す」なら以上で終了ですが、言葉遊びをしても仕方がないので続けます。tasoiさんは、言葉遊びのつもりで言っているのではない。私は、偶々、tasoiさんが書き換える以前のブクマコメントに目を通しています。「メモとしてまとめ」てほしかった、です。貴方が言う「「正しさ」がどれだけ効率的に人を追い詰めるか、について」。一定の文章を。


「正しい」とか「間違っている」とか、tasoiさんは「どうでもいい」のでしょう。そういった「教条的」なスタンスと議論は。そして。斯様な事柄を重視する人や立場や言論を、tasoiさんは否としている。「正しさを出していくと悲惨な事になる。」――と。

2007年10月22日 tasoi  自分の思う大事なこと。 →自他共に出来るだけそういう事が起こらないようにする。万一そうなった人が側に居たら、離れずに手を取って一緒に居る。傷つけないよう話す。  …何が正論かなんて、心底どうでもいい。


tasoiさんは決定的に誤解している。以前も、他なる人の別なる誤解に対して思ったことだけれども。政治性や党派にかかわりない。言行をもって内心の忖度から人間性ジャッジメントへと一直線に及ぶから、そういうことになる。


terracaoさんについてはわかりかねますけれども。「何が正論かなんて、心底どうでもいい」ですよ、私自身は。「そもそも」。知事発言を取り上げた報道を取り上げた2chスレを取り上げた痛ニュを取り上げたはてブにおいて、当初、痛ニュの抽出レスに記されていた「正論」の言を、支持する人が窺えたゆえのことです。当初の、言及ダイアリについても多く同様でした。知事の当該発言は正論、という話になりかけていた。


知事の立場云々を措いても、事実性に単に準拠した言明がなぜ、道理の正しきを指し示すもの、と見なされるのか、そもそも、「正論」とは道理の正しきを指し示す言のことであり、単なるリアリズムとは一致しない、かつ、任意の内的前提に基づく価値観の表明を、正しき道理と、すなわち「正論」と決定することは、現行の社会においては無理筋、と、不可思議至極であったゆえ、態々正面から「正論とはなんぞや」と記し縷説しました。


痛ニュを見てはてブを見て言及ダイアリを見ない限り、私は端から言及しなかった、ということです。新聞記事の報道に目を通した限りにおいては。詳細については、何もわからないことであるのだから。「脊髄反射」を私はあまりしない質です。


私が本当にわからないのは。もし仮に、tasoiさんが、被害者のために怒り憤り、拳を振り上げているのであるなら、あるいは、すべての「傷つく人」のため、「遠慮すべき色々なスジ」のために、怒り憤り拳を振り上げているのであるなら、すなわち「傷つく人」「遠慮すべき色々なスジ」を慮っての怒りであり憤りであり拳であるなら、なぜそれを、terracaoさんや10数人のブックマーカーや、あるいは私に向けるのですか。


だから。それは単なるtasoiさんの個人的な不快感の話でしょう、ということになるのです。むろん、不快感の表明は「自由」ですし意味があることです、「言論の自由」において「ネタには出来ない」ことなど存在しない、してはならないことと、またそのことに意味があることと同様に。でも。tasoiさんはそういう話と発想をこそ、否としているのでしょう。


私自身が感慨を覚えたのは。「何が正論かなんて、心底どうでもいい」と私自身が思っていないと、「「あなたは正しい」がどれだけ効率的に人を追い詰めるか」私が知らないと、tasoiさんが判断しているらしいこと、を知ったことです。


「何が正論かなんて、心底どうでもいい。」と私の記事に書き付けるなら、本件について、最初に「正論」という言を、おそらくはレトリックとして用いた人があること、かつ、「知事の当該発言は正論」が一部でレトリックならずリテラルに述べられていたこと、について、どう考えるのか、伺いたく思います。つまり。いかなる認識から「何が正論かなんて、心底どうでもいい。」と言明しておられるのか、ということです。


「『何が正論か』にこだわる人」と、もし思っておられるなら、勝手に思われたうえ言明されても、困るのです。思うことは勝手ですが、言明されたなら「それは全然違う」とは書いておきます。以前にも、こってりとやったことですけれどもね。猫を被ってもいたので、仕方がないことではありました。たとえば。

自分の思う大事なこと。 →自他共に出来るだけそういう事が起こらないようにする。万一そうなった人が側に居たら、離れずに手を取って一緒に居る。傷つけないよう話す。


そのようなことは、前提です、そして、現実の個人的な人生においては、そんなふうに美しくはいかないことも含めてね。「万一そうなった人が側に居た」ことは、私はありましたけれども。当時未成年でしたね。世間においては、貞操観念に問題が所在すると判断されて仕方のない人ではあったでしょう。「だから」自由意志を人格を時に無視されてよいという理屈が、私は当時からわからなかったし、今もわからない。


「離れずに手を取って一緒に居る。」――恋人や家族ならね。そうでもないのに?先方が望むと?あるいは。恋人や家族であるなら、必ずしも先方がそれを望む、と。


「傷つけないよう話す。」――tasoiさんはそういうスタンスの方なので、私も個人的な経験に踏み込んで話しますが。性暴力やDVや家族間のそれや露骨な蔑視に限らず、深甚な直接的暴力によっていわゆる外傷を抱えた人と接したことが、tasoiさんにはないのですか。「傷つけないよう話す。」そのことが、どれほどに困難なことであるか。


だから。腫れ物と思って離れていくのです。自らと先方の、両方の「リスク管理」の観点から、ね。平気で口にしますよ。重度の薬物中毒者やメンヘラとかかわると身が危ないから、とね。冷たいかも知れないが自分は賢明であるからと。それがリアリズムである、と。全然冷たくないし賢明でもないのですけれども。知りもしない人間がしたり顔で。リアルでもなんでもない。


かつて、私が惚れていた人をめぐって「一般論として」そう述べた人間を、私は張り倒そうと思いましたが。もっとも。あながち間違いでもなかったりします。「付き合い方」は難しいです。だから。せめて、多田由美のマンガでいいから読んでくれ、と。

2007年10月22日 tasoi  「深夜徘徊は犯罪ではない」とズレた理屈を語る人より、「危ないから誰かと一緒に居ろ」と言ってくれる人の方に、側に居てほしいな。 /潤滑油的な常識を足蹴にしてたら、代わりに規制が進んで息苦しくなるんだお。


tasoiさんが、最大に誤解している点ですけれども。「「深夜徘徊は犯罪ではない」とズレた理屈を語る人」と「「危ないから誰かと一緒に居ろ」と言ってくれる人」が、別の人であって、一致することはない、と、ひょっとして、思っているのですか。だとしたら、大間違いです。理論的にも現実にも。いちおう、私の当該記事は、そのことにも言及しようとしたのですけれどもね、うまくいかなかったけれども。


偶々、再読していた本に正鵠を射た一節があったので、引用します。夏目房之介『孫が読む漱石』(実業之日本社/2006年)p226.


孫が読む漱石

孫が読む漱石

社会で共有される言説、「公」的な場を想定した思想と、本人の人格が矛盾することは、むしろ自然である。その矛盾は、一人の人間の「私」と個としての「市民」が矛盾するのと同じだ。


そして、人が理念としてふるまうときには、一時的には理念の逃避が問われるべきで、人格との矛盾から攻撃されるべきではない。そうでないと、理念や論理の妥当性を検証する以前に、不必要な混乱をもたらすからだ。


そもそも人格の矛盾は、個々の私的生活場面で解決されるしかないものだ。同様に漱石の小説と講演とのあいだに表層的にみてとれる矛盾もまた、慎重にその問題のレベルを問うていかねばならないと思う。


私の言葉で述べるなら、「公的な言論」と「個人的かつ私的な認識と対応」とは「問題のレベル」が相違する、ということです。tasoiさんにとっては「ズレた理屈」に見えるのかも知れませんが、私に言わせりゃ「知事の当該発言は正論」こそ「ズレた理屈」です。どう「ズレ」ているかについて縷々述べたのが先の記事です。「被害者の前でそれを言えるのか」的な言い種は、「ズレ」てる以前に、無意味です。言う人はぶんなぐられるのでそれで終了でしょう。


まさかとは思いますが。tasoiさんは、「「深夜徘徊は犯罪ではない」とズレた理屈を語る人」は、「「危ないから誰かと一緒に居ろ」と言ってくれる人」ではありえない、とか考えているのですか。繰り返しますが、「問題のレベル」が違う。現実の被害者に対しても「深夜徘徊は犯罪ではない」としか言えない人である、とか、思っているなら。それは「あなたの想像上の存在にすぎないのではないでしょうか。」


「個人的かつ私的な認識と対応」を述べるなら。id:kurotokageさんではありませんけれども、私も未成年の時分から、夜を徹して「盛り場でうろうろして」いたものです。むろん危ないですよ。ことに。グレて、薬で頭が汚染されている危なっかしいガキにとってはね。


そして、みな、「盛り場」で、それなりに痛い目や怖い目に遭ったりもして、必要から、自分の身の守り方を覚えていく。先ず自分の身は自分で守るべく心がけることも、本当に怖い人や危ない人を見分ける術も、含めて。放言するなら。痛い目にも怖い目にも遭い、授業料を払いつつ、我が身の守り方を覚えていくべき、誰しもがそうしているように、と「個人的かつ私的」には、思うフシがあります。


そのようなことをインターネッツで、まして現実の事件に際して公言しても何の意味もないこと、取り返しのつかない痛い目や怖い目が世の中には在って、少なくとも自分は、その陥穽へと落ちることはなかった、当時は気が付かなかったけれども、現在、それは幸運以外の何物でもなかったと、背筋の冷汗と共に度々思い返し総括していることを、措くなら、ですよ。現在、居酒屋やカラオケすら滅多に行かない。薬が効き過ぎていたというのが、個人的な総括。むろん、言い訳以外の何物でもないけれども。


ということで。「危ないから誰かと一緒に居ろ」とは言わないけれども、それに準じたことは言うでしょうね、私は、個人的かつ私的には。「リスク管理」の話として、一般論ですらなく。


最大の問題は悲劇は。「危ないから誰かと一緒に居ろ」と言ってくれる人のない「未成年者」において、本人が自棄となり、かつサジェスチョンする人はなく、またその信頼関係が成り立つ人がなく、結果、取り返しのつかないこととなる。そのことです。


少なくとも、私には、その人がないわけではなかった。かつ、私は、薬で頭が汚染されていてなお、臆病でもあった。顔も知らない当該の被害者の「側に」、そうした存在があらんことを、無責任ながら願いはします。現実の事態に対して無責任であることにおいては、誰しも同じです。この件について、ネットで発言しているほとんどの人間が。むろん、tasoiさんも含めてね。知事は一等無責任であるとは思いますけれども。


tasoiさんが怒ることは、憤ることは、拳を振り上げることは、了解はします。けれども。繰り返しますが、私が思うことは、それは、誰のための怒りであり憤りであり拳であるのか、ということです。


怒ることは、憤ることは、拳を振り上げることは、むろん構わない。私は「義憤」は美しいと本気で思っているので。ただ。怒りが憤りが拳が、自分個人の不快感の表明に、少なくとも表出において留まることなく、怒りや憤りや拳の、その社会性を、方向として模索し志向することこそ肝要ではないかと、「一般論として」思う。さもなくば、いみじくもTezさんが指摘した通り、かの懲戒請求始末と同じことになる。もっとも。tasoiさんが志向するのは、怒りや憤りや拳の、その共同性であるのだろうけれども。


「怒りや憤りや拳の社会性」ならざる「怒りや憤りや拳の共同性」――まことに2ch的ではあるし、まさに懲戒請求始末において発生した事態ではあるけれども。むろん。私はterracaoさんとは相違して、共同性を全面的にではないけれども肯定するし、繰り返すけれども、2ch的な共同性の表出は好き。おそらくは。ニコ動にも現れているのでしょう。


ただ。かの懲戒請求始末がまさにそうであったように「怒りや憤りや拳の共同性」においては「個人」が捨象されてしまうことがある。その1点は、少なくとも私自身は、ついていけない。それこそ「感性」において。


私が。言及されたといえ、大きな御世話の横槍を承知で、かくも「はてな的なぐだぐだした」長文を記している理由。以前も書いた通り、Tezさんとの胸を打つやりとりを見て以来の、tasoiさんのファンであるからです。はてなにおけるtasoiさんのことが、好きであるからです。tasoiさんが私のことを、この記事をアップしたことも含めて、どのように思おうとも、tasoiさんに、はてな村に失望/絶望してほしくはないし、ブックマーカー/コメンターとしてであれ、はてなを去ってほしくないためです。ふだん言及しませんが、私は、けっこう居心地よく思っているのです、はてな村を。


私は、私自身の個人的な事情もあり、tasoiさんのようなスタンスには、結局のところ立てないし、tasoiさんのような文章は書けないし、tasoiさんのように他人に語りかけることは、少なくともネットにおいてはできない。


ネットにおけるtasoiさんが、心優しい人であることを、おそらくは、私も含めて多くの人が認知し認識している。ゆえに「こういう断絶は悲しいこと。」と、少なくとも私自身は、何をさしおいても思う。だから。こうして、栓無き行為かも知れないことを承知で、私なりに長文を書きました。「メモとしてまとめる」どころではありませんけれども。これでも、書くべきことをずいぶんとペンディングにしたのです。願わくは、この傍迷惑な超長文をtasoiさんが一読されることを。


最後に。「なんでわざわざ突き詰めるのか」改めて端的に記します。ことは構造問題であるからです。突き詰めないことには構造とその弊を提示するに難いためです。私は、「何が正論かなんて、心底どうでもいい」とは思うけれども、構造とそれに規定された個々の意識のありかたについては、どうでもいいとは思えないので。



付記。アップロード直前に目を通しました。取り急ぎ、リンク。


http://d.hatena.ne.jp/kaiN/20071025/1193308141