id:Marco11さんのこと


前記。昼前に書き上げて推敲終えて、アップするのに少し躊躇して、所用が迫って慌てて出かけた。帰宅したら御本人のブログが怒涛の更新を重ねていた。もはや以下を掲示することに意味があるのかわからない。ただ――。本文に変更なくアップする。


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余計な話から。


公論と私的な述懐は明示的に分別するべきかも知れない、とは言える。むろん「明示的に分別」とか、簡単に言えることであるけれども容易には実行し得ない。私もたまにポエムを書く。それが公論ではありえないか、と自らに問うなら、そのように考えるなら最初から書かない。沈黙して胸に慈しむ。安い酒に独りで酔って気持ち悪く。


個人的なことは政治的である、とも私は考えるので、個人の私的な事情を開陳することに社会的な意味がないとは、思わない。ただ、公論としての構えの有無、といったことは外的に判断し得るし、自ら調整もし得る。そうした事項を前提してのブロゴスフィアと、少なくとも、はてなと、私は考えている。


たとえば、私が記事に記してきたことから、お前の女性観は歪んでいる、間違っている、と言われることは仕方がないし、そんなことは百も承知で書いている。親父のことを、誰だオマエ、な相手から腐されたところで私自身は構わない。親父を腐して軽蔑し続けることが私の私的な半生でもあったのだから。いずれ諦めた。最近いっそう面影と仕草と雰囲気が似てきたという、厭なことに。


ただ、人が人を値踏みするのは世の常なので、他人を公然において評する者は常に当人も他からジャッジされている。無問題、とするくらいの強靭な心臓の主が、多く黒木ルールにおける匿名であるはずがないのだけれども、そうでもなかったりする。


たとえばであるが、誰かが私を人でなしと思いそれを公然に書き付けるときには、またその程度には、私もまた当の誰かを見透かしている。私が自らを人でなしでないと認識するはずもない。他に対して言っているなら広報乙。


そういう人なのだな、と私は思う。行動は人を反映する。最も賢明な人間は、損得絡まない限り、決して公的に私的な行動をせず公的に私的な発言をしない人間である。ことに日本におかれては、それが最適解。そして。最適解を知りつつ、時に、あるいは始終それに反する馬鹿こそが人間であり、その尊厳の証。


人は、多く、自らが名も顔も知らぬ他にどう思われても構わないとは、容易に割り切ることのかなわない。人は、けっこう、単なる液晶画面の文字列によって、深く傷付きもする。それは、あるいは社会性を証す徴であるし、人の尊厳を知っているということでもある。


私は、相手を見て対応するべき、とはつとに思う。巡回先のことだけれども、管理人氏が常にあからさまに挑発的に書いているブログが、時にあまりにわかりすく炎上しネガティブなブクマコメントが大量に付随する、その指摘は本人にとっては全部、想定の範囲内。というか、露骨な挑発エントリにホッテントリ経由にて辿り着いたのか知らぬが、突っ込みを入れる前に過去ログを読んだほうがよい。他所の話、為念。


私は、べつだん自らの母親や親父や妹や過去の女のことを、名も顔も知らぬ相手から公然において云々されようが腐されようが、個人情報暴きのない限りにおいては、そのことについては何も思わない。名も顔も知らぬ相手であるなら。そういう人か、と思うだけだから。


ただ、私のようには考えない人もいる。「俺とお前は違う」というのは、自己正当化の言でも価値相対主義の提示でもなくて、人生の智慧。あるいはネットライフの。世の中には色々な人がいる。色々というのは実存の在り方において色々であり千差万別であるということ。その人にとっての許すべからざるものというのは、その人にしかわからない。「人」に直接に対するなら一義に了解するべきこととは思う。然るにネットにおけるそれは、間合いが難しい。


私は、いわゆるコモンセンスというものに、常識というものに、あるいは世間的な了解に、プロトコルとして儀礼として価値を置くし準拠するし、公論に際しても前提とする。ただ、そうではない人もいる。――私は、特定の信仰を持たないから。


個人としての確たる信仰ある人に対して、かつ、そのことを常に明示している人に対して、世俗的な世間の論理やコモンセンスを持ち出しても仕方がない。発端となったその人のエントリに目を通して、私が思ったことは、この記事に対してあのような言及をしたなら、少なくとも、ほかならぬ本人は激怒して仕方なかろうな、ということだった。


その人が信仰ある人であることについて、また、私とは女性観において大いに相違するものの、その人の一連の、女性について記したエントリについても、読み手にいかなる理解と了解がなされていたのか、とは思った。一般論として処理し得ない部分が存することは、瞭然、と考えていたのだけれども。是非なく。そのこと自体が問題とは思わない。触れてはならない、ということでもない。


人には内的な要所急所が存して、私には、あるいは多くの人には真似のできないことに、かの人は自らのそうした領域をオープンにしていることにおいて、稀有な人であるのだから、そのことを知り、かつ踏まえたうえにて、言及するべきとは、対人の礼儀としては、思う。


だから、私は、幾度かTBを頂いているのだけれども、直接に言及したことはない。その稀有なオープンさゆえに、あやうい人と、思っていたから。アブない人、という意味ではない。大丈夫かな、と、案じていたのかも知れない。かの人のことを、一方的に。あるいは、畏れたのかもしれない。恐れた、という意味ではない。私は、自らの心無きを、よく知るから。


ブロガーとは結局のところ、実存の在り方において固有な、内的な要所急所によって始原的な感情と感受性の構成された、ひとりの人間であり、かの人はことに強く、人間たらんと思っているのだから。そのことを信じて、明示的に行動しているのであるから。内的な要所急所の所在は、開放されているからこそ、他なる者が読み取るべきであるし踏まえるべき、とは私は思っている。勝手ながら。


時に、他なる人は、現在の私のように、世の良識を寿ぎ、面倒をスルーして済ませる鈍感な世俗主義者ではない。「俺とお前は違う」という認識は、こうしたときに使用する。正しくても妥当であっても、人によっては、直接に言ってはいけないことは、ある。むろん、それが権力的な抑圧として機能するべきではない。コモンセンスと常識ある側の人間が、良識の証として、そうした対応を示すべきではないか。私はそう思っている。


三島由紀夫の『天人五衰』に示される言葉。「天使殺し」。むろん、「天使」とは三島の概念によるそれである。そして、私は、かの作品に描かれた「天使殺し」を実際に知る者だからこそ――


信仰ある人への憧れが、私にはあるのだな、と改めて思う。内的には信仰ある人であったろう、私の母親から譲り受けた、彼女自身が20歳のときにひもといた聖書を寝しな幾度目かに手繰りつつ。


他人を説得ならぬ納得させることは肝要であるし、かの人は総和において納得させていると思う。私のような、礼儀だけ正しい、心の冷たい人でなしと異なって。


なお。むろん、公論については、つまりは社会的/政治的な主張を張るなら、まったく別。そして。私は、時折、大上段の公論に、辟易する。自身の所業も含めて。


今更であるけれども、記してしまった。何の話かわからない方は、申し訳ありませんが、スルーしてください。


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後記。――御本人のアンテナに、拙ブログが登録されていた。名指しとTBを避けるつもりだったけれども、やめた。エントリタイトルも掲示の前に変更。


id:Marco11さん。私は、結局、Marco11さんのことを、スルーできなかった。これは「大きな御世話」であるけれども。胸を、張り続けてほしい。調子に乗り続けていてほしい。そういう私が胸を張れ、なのだけれどもね。私は、たぶん、Marco11さんのことが、好きなのだ。自らと異なるがゆえに。「俺とお前は違う」――そのゆえに。


ようやく、気が付いた。