都筑てんがさんへ


長くなるので、新規エントリにて。


―→武士の一分を日本人のモラルと宣う記者様 - 地を這う難破船


都筑てんがさん、はじめまして。丁寧なコメント、ありがとうございます。失礼ながら都筑さんのハンドルネームにて検索して、この事件をめぐっての、都筑さん御自身のブログにて展開されている議論を、長大なコメント欄に至るまで拝読させていただきました。レスが遅れたのはそのためでもあります。申し訳ありません。


なお、目を通してくださっているのかも知れませんが、この事件については、追記的なエントリを翌日に掲示しています。


―→…………(これなんというチャールストン・ヘストン) - 地を這う難破船


あるいは、私的暴力と公共的なる社会との有り方については、長崎市長射殺事件をめぐる以下のエントリにて言及しています。


―→銃撃 - 地を這う難破船


―→銃撃――補記 - 地を這う難破船


最初に。仰っておられることの主旨について、私は大筋において原則同意します。

この事件は、

●日本人の多くが、自らの身を守る訓練を受けていないこと

●他人に注意して刺し殺された事件、女性に注意して痴漢の濡れ衣を着せられた事件、通報者が逆恨みで殺された事件…が現実に存在していること

●現在の日本が、被害者より加害者の人権が優先される「やられ損社会」であること

…これらの要素が、悪い意味での「抑止力(見て見ぬふり・泣き寝入り)」に繋がってしまったのではないか…と思います。

「義を見てせざるは勇なきなり」以前に「力なき正義は無力なり、正義なき力は暴力なり」という現実がある訳で…。


拝読させていただいた都築さんのブログエントリとコメ欄における議論から、都築さんの真摯な熱意を了解したので、以前のエントリに加えて、あえて、こちらも少し突っ込んだことを書くことにします。


私の立場は、4月26日/27日付エントリにて記した通りです。言い換えるなら。こうした事柄については、後付でならなんとでも言える。言説によって他人を煽ることは無意味である。自らが如何に対するか、言葉でなく現実の事態に際して行動によって示すしかない。そして。


現実の事態においては、後生や保身を考えるより反射的に身体の動く人のほうが機能しはするし、行動の結果が吉と出るか凶と出るかについても、まさに結果オーライとしか言えない。少なくとも、主体的に行動するということは、行動の結果が自己とその周囲に跳ね返るということではある。


そのうえにて反射的に行動する人はいます。リスクを秤に掛けるなどという思慮なくして。それを「浅慮」と形容することは可能です。反射的に行動する人が殊更な大過もなく現在生存しているということは日本ならあるいは当然で、行動の結果としての蓋然的なるリスクに直撃される人のほうがよほど少ない。ゼロでは決してありませんが。


ただ。「ゼロではないよ」ということを他に対して説いても仕方がない、まともな判断力のある人間は、そんなことは百も承知であるためです。百も承知のうえでそれでも見知らぬ他人のために反射的に身体が動くし声が出る。性別や腕力にかかわらず、そういう人間を私もまた知っています。それは、当人の腹を括った生き方であり、他人が云々することではない。(――記した通り、私自身はそうした体質ではありません。)


貴方ひとりのことではないのだから、とリスクを説いたとして、それが何か、とはなります。トラブルを引き寄せる友人知人恋人家族からは離れる、それは現実に幾らでも転がっている風景でしょう。それでも残る友人知人恋人家族もいる。


私とて自ら切り離したトラブルメーカーの友も恋人も、あるいはそれでもなお付き合うことを選択した友も恋人もいる。当方の選択ではどうにもならないのが男女の仲でしたが。過去に私から離れた友も恋人もそうではない人達もいる。


人間の関係とは、ひいては世間の情とは、そういうものです。見ず知らずの他人の痛みであれそれを自らの痛みと考え行動する人は、現実に幾らでもいます。ことに性暴力に際して女性は。


時に、人生の万事とは結果オーライです。結果オーライのうえでなお、人は「考え無く」身体を行動に移すことある。命を落とす人とていますよ。命を落とす人に対して「浅慮」と公言するべきとは私は思わない。人を救わんとする人の行動に対して人間社会は敬意を払うべきと私は考えるためです。


反射的に判断し行動した「運のよい」人に対して結果オーライを指摘したとて、そのようなことは本人がもっともよくわかっている。よくわかってなお人は判断し選択し行動する、あるいはいつか誰かに唐突に殺されるまで。身体を張ることの賭けに負けるまで。


そのうえにてなお判断し選択し身体をもって行動すること、身体を張ることを賭け続けることが人間の尊厳を証しもするし、はっきりと言うなら、判断と選択と行動とは、賢しらな言論の外部に在る営為とも私は思っています。


言い換えるなら、単に威勢の良いことをWebにおいて「匿名」にて言うくらいリスクのないことはないし、そのような威勢の良い言説は、発言者の実際の判断と選択と行動とは何の関係もない。私見を述べるなら、こうした事柄について軽々しく語らない人間こそが、現場において実際に「動く」人間でしょう。わかるひとにはわかっていることです。


少なくとも私が、エントリを掲示したのは、任意の言説に対してうんこを投げつけるためであって、言論的な判断と現実の行動に際する判断とは、これは分岐すると考えてよいものです。


「自分なら行動する」との言を口舌としているのではなく、「自分なら行動する」という「言」と、現実に際する判断と選択と行動とは、個人において位相が相違するということです。


自らの生き方とその所信について、Webにおいて「匿名」のまま言葉によってあたかもプレゼンテーションのごとく裏書し提出してみせる行為には、穿つならおよそ意図と目的がある。その意図と目的を前提するところから言論のフィールドはキックオフします。


そして。結局のところ、自らの生き方とその所信については、百万言を費やすよりも、判断と選択と行動からしか規定されない、そう私は思っています。判断を留保するということは、判断を留保するという判断を下しているということであり、選択を留保するということは、選択を留保するということを選択しているのであり、行動を留保するということは、行動を留保するという行動を示しているということです。むろん自由です。


それを不作為と言うべきではない、いずれにせよ法的な責任の発生するようなことではない。私見を述べるなら、道義的な責任とて公的には問うべきでない。というよりも、任意の事項について道義的な責任を「公的に」問うようなこと自体が、あるべきではない。また、その事実に価値判断としての是非や上下が介在するわけではない、ただ、留保もまた判断であり選択であり行動であるということを、人は認識するべきとは思います。


なお。こうした事柄について自己を留保して展開される倫理的な言説は糞であると、これは再度述べておきます。だから、軽々しく語らない人のほうが多い。


都筑さんが心配しておられる諸々の事項について「考えすぎ」とは私はまったく思いません。というより、常識の範疇です。少なくとも、そうした諸々の事項を端からネグって示される言論もまたうんこと私は思います。


「自らは何もなかった」というのは「言論」としては意味を成しません。自らの通った学校における「いじめ」が苛烈でなかったことをもって「いじめによる関係の断絶は将来において修復し得る」と公言するようなもの。「言論」をもって応えるなら「君はラッキーだったんだね」となる。ただ。


「自らがラッキーだった」ことを百も承知でなお、判断と選択と行動を留保しないことを示す人は幾らもいます。もっとはっきりと言うなら、判断と選択と行動を留保しない人はおよそ「自らがラッキーであった」ことなど百も承知です。行為の帰趨を、行動の結果を、人は事後的に意識化し「学習」します。


そのうえにてなお判断し選択し行動し続ける人に対して人間社会は報いるべきとは、私は思います。対するに「君はラッキーだったんだね」と言うことの無意味を思います。「自らは何もなかった」と言うことが公共的な発言としては無意味であることと同様に。結局は――多く、個人の「生き方」をめぐる切断に帰し得ることであるから。議論にならない。


議論をするなら「個人の生き方」を他人のそれに押し付けるなり強制するなり敷衍させんとするなり、あるいは「個人の生き方」をもって他のそれに対して干渉したり抑圧的に云々したり批判したり断罪したり、そういった一切をするべきでない、という論点に尽きる。


個人の「生き方」についての所信表明は個人の範疇に全面的に帰属させるべきと私は考えるので、よって、面識すらなき個人の「生き方」に対して他が指図したり非難したり是非を問うたりすること自体を、私は否とする。口癖を示すなら「大きなお世話」ってもんです。


私は個人の「生き方」について云々するなら、最低でも現実における関係性の介在を前提すると考えるし、そして、現実の私的な人間関係においてもまた、個人の「生き方」を云々する野暮な付き合いは私の周囲には所在しない。


「生き方」など他人にとってはどうでもよろしい、問われるべきは発言/行動とその結果としてのアウトプットです。敷衍するなら、アウトプットにこそ個人の「生き方」が雄弁に表出する。


私は「規範」を個人において前提する人間ではまったくない。私は常にプロトコルの人なので、個々の多様な「生き方」を相互に尊重し担保する「礼儀」「節度」としての、最上部における「規範」をこそ個々の意識において共有さるべきと考えるのです。つか私とて公徳心の欠如した人でなしの利己的な変態です。他人より多く税金を納めているわけでもない。


そして、言い換えるなら。この事件について「議論」さるべきことは、個々の多様な「生き方」に是非や上下を付けることではなく、一方からもう一方に対して(かたや「卑劣」、かたや「浅慮」と)批判や非難や突っ込みや断罪を加えることでもなく、個々の多様な「生き方」を等しく尊重し担保し包摂するためにある私達の社会の、その在り方と、制度的な諸々をめぐる事柄ということになるはずです。


個々の多様な「生き方」を分け隔てなく保障する社会の払うコストは、あるいは個々の多様な「生き方」を分け隔てなく保障する社会のために、当該社会の意思的構成員が払うべきコストとは、決して小さいものではない。そして。私的暴力に対する個々人の払うコストを軽減するためには、別所に対して別なるコストを投下しなければならない。


長崎市長射殺事件について記したエントリにて「私は原則として、私的暴力の蓋然に対する個々人の私的に払うべきコストを能う限り低下させる社会の設計に、同意する。」と私は明言しています。都筑さんのスタンスと見解に対して、大筋において原則同意とするというのは、そういうことです。


個人の姿勢や判断やスタンスや「生き方」を云々するよりも、かかる事柄を事後的に云々することのない「社会の設計」をめぐって言葉を尽くそうよ、と。そして。言うまでもなく「社会の設計」について言葉を尽くすとは、制度論を云々することに尽きることでも、また、ない。


少なくとも私は、言論においては、いかなる類の自己責任論にも、容易に与することはありません。この事件について、第三者が「乗客の責任」を公的に言挙げるべきとは、私は思いません。ただ。


被害者には同乗者を声の限りに非難する権利がある。少なくとも、今となっては同乗者の特定はほぼ不可能であるのだから、法的にはむろんのこと、特定の個人を社会的に毀損するものとしては機能することのない。そして。


被害者が、あるいは被害者を思う誰かが、もはや何処の誰ともわからない同乗者に対して非難の声を上げたときに、社会はひいては公共はいかなる対応を示すか、ということなのです。問題を個人に還元して問うて得るところはあまりに少ない。ことに「今後同じような事件が起きないために」この一件をもって他山の石とするなら。


たとえば。かの「騒音おばさん」の一件の際に、(日本に限ることなく)前近代的なかつての社会であるなら、共同体の合意のもとに共謀して、当事者に対して、暴力的な警告の後には、最終的な手段として、殺害を含む私的な制裁を加えて、埋める等、秘密裡に処理したであろう、という指摘が複数の著名な論者からありました。「ゴミ屋敷」にせよ同様。


その通りと私は思うし、東京においてさえそうした共同体的な私的制裁の今なお機能していることを、私は体験から知っている。しかるに。建前としても事実上も、共同体による私的制裁やその類の価値観は禁じられ解体されています。結果「騒音おばさん」の一件は、行政の対応から警察による検挙に至るまでかくも長期化しました。


言うまでもなく、私は前近代的な社会の価値観に戻るべきとは思わない。法のもとにある近代社会は私的制裁ないし私的報復を許容しない。「騒音おばさん」「ゴミ屋敷」に対する対処の遅れとは、いわば近代社会の抱える必然的なコストとも言えます。その必然としてのコストを「呑む」ことなくして、近代社会の運営に同意することはできない。


あえて過激なことを書きますが――手っ取り早く「みんなの幸せのために」リンチのうえ吊るして埋めてしまうことはできないし、許されないのですよ、村落共同体や西部劇のようには。深沢七郎の諸作とは至高の文学です。少なくとも、近代社会を是とする私達はそれを文学ということにしています。私自身が実はそう思っていないことは内緒です。


対話の成立しないなら、法と制度の対応に委ねるしかない。なぜなら――「騒音おばさん」「ゴミ屋敷」を排除せんとすることと、たとえば「同性愛者」「HIV感染者」「ハンセン氏病患者」「精神障害者」を排除せんとすることの境目が、当事者において時に区別し難くなるためです。


近代社会の構成員の合意のもとに、境目の線を引くことを代行するのが、法であり法に規定された制度とその行政面における運用であり、法の上位概念たる憲法の条項です。近代を席巻した啓蒙思想における理性の意味と価値とは、一義にその点にあります。異常者も天刑病も狐憑も、ひいては差別を是とする価値観も、後期近代社会においては駆逐されました。地上から、とは到底言えませんが。


たとえば。柏駅前に設置された監視カメラをめぐる議論の応酬を見ていて私が思ったことは、だって柏でしょ「異常」という用語をめぐる、工学的な意味と人文的な議論における文脈との乖離と、工学的な技術の人文的な運用についての認識的な不備としての諸相でした――むろん運用する側の。


工学的な技術は価値中立ではあるが、工学的な技術を運用し行使する人間は価値中立ではない。むろん、ゆえに批判するにせよ工学的な技術自体に対する見識は問われる。工学の話をするか人間の話をするかという相違なのでしょう。


なぜ監視カメラという工学技術が公共の空間において要請されるのか、公共空間に対する人文的な合意とコミットメントの機能することのなくなったためです。公共空間の公共性を維持するための人的なリソースが枯渇しているためです。水谷修のような人物が「奇人」としか受け取られることのなくなり、本人が自らを「奇人」と自己規定する世相であるためです。歴史的な必然と、私は思っていますけれども。私とて、水谷氏を「奇人」と思う。では「奇」とは何であるのか。


監視カメラを否とするなら、それに代わる、公共空間の公共性を維持するための人的なリソースをいかに調達するのか、方向性だけでも指し示さなければならない。価値的なリソースが調達されていることは知っている。しかるに、実践においてこうしたことは言説の水準にはない、行動の水準にしかないし、現場において判断し選択し行動する人的なリソースにしか頼り得ない。


私は、水谷氏が「知的には」「価値的には」時に間違ったことを言っていることを知っているし批判にまったく耳を傾けないことを知っている(かつて江川昭子が面と向かって疑問を呈していた。水谷氏はまったく動じず、事実上、問い自体を退けていた)。ただ。私が一生、水谷氏のように行動することはないということを私は知っている。


ガーディアン・エンジェルスであれいわゆる「自警団」であれ、理想的な意味における「公共空間の公共性」を維持するために活動しているわけではないことを私は知っている。しかるに公然における集団暴行を掣肘するには最適化された「市民の主体的な活動」とは私は思っている。


私は、机上の言論と現場における行動とは、価値的な上下は措いても分岐すると考える。「知的には」間違ったことを言いまくっていたとしても、行動する市民的なボランティアに対して私は常に敬意を払う。


そして、人的なリソースの調達されることのないなら、街頭における監視カメラ導入の趨勢はやむを得ないことでしょう。女性専用車両の導入が(痴漢冤罪の蓋然ある以上、男性のためにも)やむを得ないことと同様に。監視カメラの存在を前提する社会が価値的には個々人間の相互信頼を解体することと同様に、女性専用車両の導入が男女間の相互信頼を結果的に解体したとしてもね。


ぶっちゃけ「公共空間」たる通勤列車内における「女性専用車両」の導入実施などという露骨にして権力的な制度的一律措置としての機械的切断など、近代社会の恥晒しとしか私には思えないわけですが、では導入に反対かと問われたなら、やむを得ない措置としか、痴漢被害の実数を鑑みても、かつての通勤者の個人的な実感としても言いようがない。


というか「「公共空間」たる通勤列車内」などという言い種に対して、( ゚Д゚)ハァ?と思わない人はあまりいないのではないかな。理屈ではそうなるわけです。むろん問われるべきは、通勤列車内を「公共空間」とは到底言い得ない壮絶な状況にしてしまっている鉄道会社と日本の企業社会と政府であって、男女を権力的かつ機械的に一律切断する対応なくして済むよう「公共空間」のためにも抜本的な是正を以下略。そういうこと。


で。趨勢としてそうなっていくことは仕方のないとしても、「義を見てせざるは勇なきなり」としての人的なリソースの能う限り調達されるべき、と私は考えるので、こうして机上の言論を開陳しています。「公共空間に対する人文的な合意とコミットメント」を幾許かでも現実に機能させんとするために。「公共空間の公共性を維持するための人的なリソース」を枯渇させないためにも。道義だの公徳心だのモラルだのと言挙げている。

(前略)「やられ損社会」「真面目に生きると馬鹿を見る社会」からの脱却を図らない限り、同じような事件は何度でも起きるのではないか…と思う自分がいます。


「個人のモラル」ではなく、「やられ損社会」が今まで放置されてきた事が一番の問題ではないか…と思います。


押さえておくべきことは。個々人の個人的な感情を法や制度がどこまで担保するか、その相対的な線引きは社会的な合意に基づいて形成される、ということです。言い換えるなら、原則的には「個人のモラル」に対して法や制度の側が無前提に干渉するべきではない。「個人のモラル」と「法や制度」を切り分けるべきということです。議論に際しても。


そして、近代社会は「個人のモラル」の個別的な多様性に対して法や制度に不干渉を貫かせるためにこそ、共同体や個人に所属する(あるいは自衛機制としての)暴力を、国家に所属する(現行の建前においては公共財としての)公的暴力へと簒奪し所属させることによって、個々人における私的な武装の解除を実施し、暴力機制をあくまで公共財として社会的な合意のもとに規定しました。運用の主体としてあるのが公共財としての国家です。


ま、どう考えても多く建前ですが。建前でしかないからこそ、個々人が自衛を前提してリーガルな武装を考えるのでしょうし、対して私が何を言うこともない。


ただ。私は警察が一介の「力なき」「弱者」たる市民のためには容易に動いてくれないことが事実であるなら、資源において警察が容易に動き得るような制度の是正を志向するべきと考えるのですけれども。市販の防犯グッズが行き過ぎた過激なものに至るまで売れる世相であるなら。


構成員が時に暴力的な「自衛」を前提するということは、近代社会のリスクヘッジにおける事実上の失効ないし機能不全を意味していると、私は考えるし、警察機構の歴史的な経緯を鑑みても、あるいは最初から無理筋の空論とはいえ、かく働き掛けるべく個人は発言し世論は要請するべきではないかな。警察機構は市民社会の公共財としての仕事を適正に果たせ、と。


そのうえにて。「個人のモラル」についての話ですけれども。私が公徳心の道義のと記したのは、以上の論旨における「人的なリソース」をいかに調達するかという話です。


建前だけで枠組だけでモデルだけで法や制度だけで、あるいはその言葉に拠る裏書だけでは、「私達の近代社会」は適正には回りません。法や制度に意思的にコミットする者に社会が報いんとする社会でないことには、法治は回らない。


遵法精神を涵養するためには「法律は守らないといけません罰せられます」と百万遍繰り返せばよいということではなく、遵法精神の尊ばれる社会が前提として存在しなければならない(余談ですけれども、現在の中国の諸状況とはそういうことでもある。ぶっちゃけて言うなら、きわめて頻繁に死刑を執行している社会において遵法精神が涵養されるとはまったく限らない、というか関係のない)。


なので。あえてこのように書きますが、性暴力が歴たる違法行為にして許し難い悪であるとするなら。公共空間において公然のもとに為されている違法行為にして悪を無前提に看過することない意識が社会において合意として形成されていることない限りは、明白にイリーガルな悪を法の執行のもとに公的に処罰する社会は維持されないし、事実上支えられることのない。そして。


都筑さんの仰る通りに、かかる合意と社会的な意思は、事実上、現行の社会においては瓦解し機能することなくなっているのでしょう。私も先のエントリにおいてそのことを指摘しましたが、そうした「事実」について個人的な感想を述べるなら「嘆かわしいこっちゃ」とは思います。アノミー現象在るなら、その犯人探しをしても仕方がないし恣意を逃れないので、改めて道義と公徳心などというこっぱずかしい言わぬが花の言葉を口にしているわけです。


たとえば。都筑さんは御存知ないことかも知れませんけれども。現在、はてな村の一部にて「留保の無い生の肯定を」という言が示され、これまたさらなるはてな村のごく一部にてそのありやなきやの「スローガン」が揶揄されていたりするのですけれども。


デカルトには不案内な私による解釈が正しいなら、「留保の無い生の肯定を」という言とその前提する価値観に対しては、リテラルになら私は全面的に同意するのですよ。現状を鑑みるに、それがまさしく机上の言説でしかないことを措くなら。とはいえ揶揄する気にはまったくなれない。


問題は、そっから先、なのです。「留保の無い生の肯定を」と改めて言葉にするよりも、留保されている現実の現在進行形の個々の生に対して、「留保の無い生の肯定を」と思う個人がいかに対応するか、ということなのです。まして「生の留保」が視界ないし眼前において繰り広げられていたなら。


Webという言論のフィールドにおいて1ブロガーにできることというのは、たとえばJ-CASTlivedoorニュースの当該記事がそうであったように、任意の生を留保する類の理不尽な抑圧的な発言/言説に対して言論のうんこを投げ付け掣肘することしかない。


けれどもそれは肝要なことでもあると私は思うし、方向性こそ違えど「留保の無い生の肯定を」という言が示す価値観に対して同意するブロガーもまた多くそうした営為を価値ある言論のアクションとして続けています。


しかるにそれは、Webという言論のフィールドにおける話。言うまでもなく「被害者の人権」と言うなら、性暴力被害というのは歴たる人権侵害です。そして「人権侵害」と言うなら、当該車両の同乗者の誰の人権が侵害されましたか。何処の誰かもわかりません。何処の誰であるか、暴かれるようなことがあってはならないとは厳に付しておきます。


都筑さんの言われるところの「「力なき正義」「弱者」であり「被害者予備軍」である弱者」の生が不見識にして他人事な発言/言説によって留保されているとは私は思ったので、先のエントリを掲示してJ-CASTの記事に対してうんこを投げました。


ただ。自らの眼前ないし視界において現在進行形にて為されている歴たる人権侵害を看過する人間が構成員の全員である社会において「人権」は担保されないとは私は思います。


言い換えるなら、自らの留保なき生のために、自らの所属する社会の他なる構成員の生を結果的にも留保することの「常識」である社会において、人権もへったくれもないだろう、ということです。そして、現在の先進国の19世紀は、あるいは現行における先進国ならざる社会の多くは、そのような「人権もへったくれもない」社会である、ということです。


「私」とその愛する者の「人権」をまず優先して担保することの何が問題か、と公的に主張することは、「人権」概念の利己的な濫用と言わざるを得ません。「人権思想」からはあまりに遠い。


この事件に限ることのないなら、私や都筑さんや他なる多くの人が「自らの眼前ないし視界において現在進行形にてなされている歴たる人権侵害を看過する人間である」ことは、現実としてどうしようもないことです。どうしようもない「現実」をそのまま言葉に拠って裏書するかということについては、私の選択は、現実のやりきれない事件について言及するなら、別なる話を加えよう、ということでした。


「義を見てせざるは勇なきなり」という価値観の公然と否定される社会において「義」とそれに基づく「勇」――言い換えるなら同胞愛とその実践――は維持されることなく全壊します。


私は、任意の社会におけるその構成員の「社会的紐帯」「同胞意識」「連帯精神」「友愛」の涵養されることを是とする立場です――価値的には。認識論的には――それは全壊しアノミーへと陥っているのでしょう、きっと。


「義と勇」とは絵に描いた餅ではなく実践と行動をともなうものです、というか実践と行動なき「義と勇」とは絵に描いた餅でしかない。「義と勇」の言挙げというのがどこまで行っても机上の言論に過ぎないというのは、そういうことです。


そして。「義と勇」と「法と制度」は別のものではないのです。意思を前提する実践と行動(それをしてコミットメントと言う)の個人的な正当と社会的な妥当とを、構成員の合意に基づいた判断のもと個別に線引きしたうえにて法と制度によって裏書して担保し得るのが法治社会です。


もし。現在進行形の歴たる人権侵害を個人が掣肘する「義と勇」を肯定するのが私達の社会における合意された意思であるなら、その「義と勇」を裏書して担保する「法と制度」であるべきであって、その意味における「法と制度」の不備について都築さんが指摘しておられることについては、繰り返しますが、細部は措いて、大筋においては私は原則同意です


ただ。任意の社会における構成員の「社会的紐帯」「同胞意識」「連帯精神」「友愛」を前提とした「義と勇」の、あるいはコモンセンスの機能しない社会を前提したうえにて法と制度に万事を全面的に委ねる国家主義的な立場には、私は与することはできません。


私は、やはり人が法や制度を無批判に内面化することに対しては否とせざるを得ません。法や制度と外延をまったく同じくする規範意識などクソクラエです。人のために社会があり人によって構成される社会のために法や制度がある。法や制度より社会は大きく社会より人は大きい。


個人の社会的な行動の是非を判断し裏書するのが法であり、個人や集団の社会的な暴力を是非なく一律代行したのが制度としての公的暴力であるなら、個人の社会的な行動なきところにおいて法の存在する意味はないし、制度としての公的暴力は個人の社会的なアクションを是非なく一律守るべきです。


そして。「公徳心を課題として問うというのは個々人の構えと気概と心掛けに問題を縮減させて回収して世を憂いてみせることではない」というのは――任意の社会における構成員の「社会的紐帯」「同胞意識」「連帯精神」「友愛」の前提として維持されていることない限り、道義や公徳心といった「義と勇」は機能することないし問われるものでもないので、第1に前提とその全壊ないし不成立について問い言挙げて議論することが「社会的な言論」というものであって、「個人のモラル」に万事を回収してその欠如を嘆いてみせたところで執筆者の自己満足にしかならない、ということです。


近代社会において「義と勇」は、あるいはコモンセンスは、「法と制度」とは分岐しますが、「法と制度」の維持とその適正な運用のために相互補完的に機能して「私達の社会」を構成している。


「義と勇」と「法と制度」を車の両輪として、近代社会は適正に回る。一方が一方に対して極度に逸脱したなら車は最後には事故るし、そのバランスを担保するためにこそ、社会的なる義や勇やコモンセンスは「法と制度」に先んじて形成されるべきであるし、それを道義や公徳心として私は示している。


むろん。行動として示される道義や公徳心を時に「法と制度」は裏書することはない。それが道義と公徳心の価値でもあるが、ゆえに道義と公徳心は時に法治と親和することはない。


道義と公徳心、言い換えるなら公共の公共性に意思的にコミットする人的なリソースとは、法治の外部において調達さるべきと私は考えるし、法治の外部においてその調達を企図することを、言い換えるなら道義と公徳心という「社会的なモラル」を言挙げることを、意味なき営為とは私自身は考えません。


御身大事というのは、反論の余地なくその通り、というか反論してはならない類の事柄ですが、しかるにそれは、言挙げたなら、社会やその構成員たる他人の存在を前提しない言論であるとも思います。社会や他の存在を前提しない言論であるからこそ反論してはならない類の事柄であるのです。すなわち議論と対話の余地がない。


むろん、そうした言論を示すことは、御身大事を言挙げることは、全面的に肯定さるべきです。そもそも(ことにこうした事件に直接に言及しての)発言者の「個人のモラル」の提示については、かく明示してあるなら他が言及するべきではないし、言及する余地のないものです。


そして。「個人のモラル」とは「法と制度」と対立することの幾らでもある。「個人のモラル」と言うなら、「個人のモラル」においては時に殺人すら辞することはない、ただし社会の構成員として法の処罰は受ける――そういうものです。


「もし私の愛する者が無残に殺されたなら」と仮定してそのように公言する人は幾らでもいます。俺の女が他の男に殴られたから俺がその男を殴った、という人も北野武を著名として幾らでも。


そして、そのことを問うとき「個人のモラル」と「社会のモラル」の接点と分岐についての検討が為される。つまり「貴方の義と勇の正当を現行の社会はどの地点まで妥当として担保し得るか」という議論へと行き着くし、そしてそれは方々において問われ続けています。死刑制度をめぐる議論から代理出産をめぐる議論に至るまで。


個々人の負うべき負担をシェアするためにこそ社会が在ってそのためにこそ社会は適正に機能するべきであり、社会がそのように適正に機能するためには、構成員において「社会的紐帯」「同胞意識」「連帯精神」「友愛」といった義や勇やコモンセンスの必要であるということ、価値的規範の要請以前に、テクニカルな条件として。


そして。個々人の負うべき負担をシェアするために在るからこそ、社会とは「公共財」であるのです。付記するなら、ゆえに、私は、なぜか「赤ちゃんポスト」と呼ばれるかのシステムについて、賛成する者であるし「私達の社会」における義と勇とコモンセンスの問われているとも、考えています。


私の見解を述べるなら、この通りです。都筑さんの仰っておられることに対するレスに、これにてなっていますでしょうか。悪癖が出て、おそろしく長くなってしまい、申し訳ありません。ただ、簡単に云々し得る話でないことは確かなので。


都筑さん御自身のブログにおける長大な議論を拝見して、その真摯な熱意に対して私なりに能う限り応えたく思いました。所用も在って、レスが遅くなってしまったことも含めて、誠に失礼しました。